夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第一話

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 サッカーが、好きだった。

 飛び抜けて才能があったわけではないけれど、全くなかったわけでもきっとなかった。
 なけなしのそれを育てて、伸ばして、信じて、縋り続けていた。
 サッカーの名門、中高一貫である深山学園に背伸びをして入学したのも、全国区でプレーをしてみたかったからだった。
 そこで本物の化け物に出逢って、自分の世界の小ささを思い知ることにはなったのだけれど。
 
 ――でもそれでも、俺はサッカーが好きだった。

 俺が努力して努力して、それでも手が届かない世界に、いとも簡単に立ってしまえる人間がいると知ってからも、俺はどうしようもないくらいサッカーが好きだった。

 必死で踏ん張って、中学3年の夏に念願だった名門の背番号10番と、司令塔の座を手に入れた。全国大会にも出場することが叶った。
 けれど、高等部にそのまま進学するかどうかは、実を言えば迷ってもいた。
 中等部よりも遙かに有望な人材を集められるそこは、中等部時代一軍だったからと言って、レギュラーの座が確保されているわけではない。
 でもそれでもと、思ったのは――。


【むかしみた、ゆめのはなし】


「先輩」

 かたんと小さな音がして、部屋のドアが開いた。その音に意識が現実に引き戻される。
 重たい頭を持ち上げた先に立っていたのは、想像していた通りの後輩の姿で。
 いつもの不遜なまでの自信満々な姿をどこに置いてきたのだと思うくらい頼りない表情で、小さく笑ってしまった。

「折原、部活は?」

 今はまだ部活動中のはずだった。現にサッカー部専用のグラウンドに近いこの寮の部屋には、監督の怒鳴る声がしっかりと届いている。
 だからそう尋ねただけなのに、よく女子に騒がれている整った顔を、折原は泣きそうに歪めた。

「ちゃんと許可もらってきましたよ、俺」
「なんの許可だよ」
「先輩の退寮の手伝い」

 だからなんでそこでおまえがそんな泣きそうな顔すんのかな。

 俺より一年遅れて深山学園中等部に入学してきた折原は、そのころからアンダー14の代表に名を連ねていた。俺たちの世代では、頭一つ飛び抜けている存在。
 不動のエースストライカー。
 飛び抜けすぎていた実力のせいか、その人好きのするあっけらかんとした性格の賜物か、あっという間に深山のレギュラーになっても、陰湿ないじめなどに遭うこともなく、伸びやかなままだった。

 それなのになぜか、折原は昔から不思議なほど、俺に懐いていた。
 高校も深山にしようと決めたのは、折原が「一年待っててくださいね」と何の疑いもなく笑ったからだった。
 自分が高等部でレギュラーを獲るのも、俺が高等部でレギュラーを獲るのも、当たり前だと確信しているその顔で。
 また一緒に全国でサッカーしましょうねと、そう。


「泣くなよ、折原」
「泣いてないっすよ」
「嘘付け、泣いてんだろが」
「これはあんたが泣かないから、俺が代わりに泣いてあげてるだけなんです」

 俺は、泣きたかったんだろうか。自問してみたけれど、やっぱりよく分からなかった。
 折原だけじゃない。中等部のころから一緒だったチームメイトは、みんな残念がってくれた。
 がんばれよと発破をかけてくれた奴もいたし、ただ慰めてくれた手を握ってくれた奴もいた。「できないことは、ないですよ」と医者は判じた。
 君はまだ若い。治療を続けてリハビリをして、そしていつか。
 ただプロを目指せるかと言われると、どうでしょうね、少し難しいかもしれない。でも君の頑張り次第では可能性はあると思う。

 なんて曖昧な言葉。
 今だって、プロになれるかどうかの確証なんてない。
 それが更に可能性が狭まって、治療をしたからといって今以上になれるかなんて分からなくて、どうやってそこにすべてを賭けられると言うのか。
 全国大会優勝、それで十分じゃない。立派な思い出よ、と母親が取りなした。

 今までずっとあなたはサッカーをやっていたけれど、大学に進学したら、世界はもっと開けるわ。

 サッカーから離れる。
 世界が開ける。
 そうなのかもしれないとも確かに思った。
 けれどそれ以上に、俺の思考には世界の終わりみたいに映ったのだ。
 続けたいと思うのと、プロにもなれないのに今からリハビリをして何になると思うのが、これまた半々で。

 そうして俺は結局、深山から逃げ出した。
 この場所にいるのは、苦しかった。


「じゃあな、折原」
「……先輩、また俺、連絡しても良いですか」

 連絡しますからね、先輩も絶対してくださいよ。いつもの折原なら、絶対そう言ったと思う。
 こいつに気遣われたんじゃ、どうしようもないなと自嘲する反面、「いいよ」だとか「当たり前だろ、なに言ってんだよ」だとか。そんな風に言ってやるだけの余裕なんてなくて。
 俺は「そうだな」と曖昧に笑って、目を伏せた。
 折原の顔を、見たくなかった。

「しばらくサッカーから離れたい、かな。おまえのことは応援してやりたいと思うし、いつかおまえは世界で活躍していくんだろうって信じてる。でも、それと違う次元で、俺はおまえに触れたくない」

 折原と、サッカーが結びつかないわけがない。
 それが整理できるようになるのがいつかだなんて、俺にだって分からなかったけれど。

「サッカーじゃなくても、俺、」

 折原の声は、微かに震えていた。
 どんな試合の前でも、どんなぎりぎりの状況でも、そんな声ださなかったくせに、なんでこんなところで出してんだよ。
 その先を塞ぎ切る為に、バカじゃねぇのと努めて軽く応じてみせた。

「おまえからサッカーとったら、なにが残るんだよ」
「残りますよ」
「そうだな、顔は良いもんな」

 残るもんはあるよなと続けた俺に、「先輩」と苦しそうに折原が呼んだ。
 似合わない。全然似合わないと思う、おまえには。
 そんな葛藤も、切ないようなその声も。

「先輩」

 折原の手がそっと肩に伸びてきた。大きな手。まだ身長伸びんじゃねぇのかなんて、わざとどうでもいいことを考えた。

「先輩」
「なんだよ、俺、もう迎え来るんだけど」
「キスしていいですか」

 駄目だと思った。見てしまった折原の瞳はどこまでも真剣で、あぁおまえは本当に馬鹿じゃないのかと、そう念じた。

「最後に、しますから」
「だめ」
「なんで、ですか」
「なんでも」
「……最後にできなくなるからですか」

 その言いぐさが不安そうなくせに、なぜか自信満々で、ああ折原だなと思った。
 折原だ。

「駄目なもんは、駄目なんだって」

 それでもいつか、こんな記憶を忘れて、俺はテレビ画面の中で折原を見る日が来るのだろうと夢想する。
 青い日本代表のユニフォームを着て動く折原を想像するのは簡単すぎた。
 こいつにはそれが当たり前の未来なんだろう。
 そんな未来に、俺はいらない。
 折原が決断しない代わりに、俺が決めても良いと思う。
 それくらいには、俺は折原の未来が大事だったし、必要だった。

「……なぁ折原」

 肩にかかっていた折原の手は、懸念していたよりもずっと簡単に振り払えた。

「俺には未来が見えるんだ」

 なにを言っているんだ、と一瞬思ったけれど、俺はこのとき間違いなく本気だった。生きてきた中でこれだけ頭を使ったのは初めてかもしれないと思うくらい、必死で考えていた。
 折原の、未来を。守るべき先を。

「おまえは、このまま高等部にいる間ずっとレギュラーだよ。もしかしたら怪我することもあるかもしれないけど、大丈夫、ちゃんと治るよ」
「せんぱ……」
「それで、プロからもいくつも誘いがある」

 先輩、と遮るように折原が呼んだ。そして、「でも」と苦しそうに言い募る。

「でもそこには、あんたがいないじゃないですか」
「そりゃしょうがないだろ」

 今、俺たちは、ここでたまたま一緒にサッカーをやっていたけど。
 持っている能力が違う。才能が違う。
 言葉にしたら馬鹿みたいだけど、けれど真実だ。
 やればやるほど、のめり込めばのめり込むほど分かる。分かってしまう。

 折原は、サッカーそのものに愛されてる。

 サッカーが好きで、たぶんサッカーも同じくらいに折原が好きなんだ。
 俺とは違う、どこまでも折原はたどり着ける。

「佐野先輩がいないのは、いやだ」
「なに我儘言ってんだよ、おまえは何にでもなれる。どこにでも行ける」

 俺が折れないと思ったのか、折原がふっと目を伏せた。

「俺は、自分に才能がないとは思わないけど」
「当たり前だ。おまえがそんなこといったら、殺されるぞ」
「でも、俺は先輩とやるサッカーが一番楽しかった。ユースでやるより、どこの代表でやるよりずっと」
「……そりゃ光栄だ」

 未来の日本のストライカーにそこまで言われたら、良い思い出になるわ。
 笑ったのに、「茶化さないでくださいよ」と折原が伏せていた顔を持ち上げた。

 茶化さなかったら、どうしろって言うんだよ。
 俺は、ここで、終わりたい。おまえだって、そうだろ。
 これ以上の何を求めたいんだ。
 それはこれから先の重荷でしかないって、おまえも知っているだろう。

「先輩」
「なに」
「先輩、俺は―――――」

 それ以上を、聞きたくなんてなかった。
 これできっと、離れられる。
 サッカーからも、折原からも。
 折原が俺のことをどう思っているのか、まったく気づいていなかったかと言えば嘘になると思う。
 けれどそれは一過性のものだと思っていたし、すぐに無くなってしまうものだと思っていた。

 俺は、どうなんだろう。
 ずっと、ずっと分からなかった。
 惹かれるのと同時に、ずっと悔しかった。
 俺にはないものをいくつも持っている折原が。
 先輩、と笑顔で寄って来られるたびに、俺がそんなことを考えていたなんて、折原は知らないだろうけれど。

 これで、終わる。
 ここにいるのは、もう苦しかった。
 どうにもならないくらいに。

 俺にとって、サッカーというのは、折原そのものだったのかもしれない。



【むかしみたゆめの終わり】
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