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6:番外編
2.ひとたびの幸福
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「テオバルドとのことは聞いたわ。よかったわね、アシュレイ。ぜひ、おめでとうと言わせてちょうだい。それを言うために今日はやってきたのよ」
森の家に訪れた酔狂な客人に、開口一番にそんなことを言われてしまって、アシュレイは思わず苦い声を出した。
頑なに秘密にしたつもりはないが、公にしたつもりはいっさいないことである。
「……誰に聞いたんだ」
「ルカに決まってるじゃない。あなたには偉そうな顔をしていたかもしれないけれど、私には随分とうれしそうに話していたのよ、あの人」
しかたない人よねぇ、といかにも楽しげにザラが笑うので、それ以上の文句は呑み込まざるを得なくなった。幼い時分に面倒を看てもらっていた恩もあり、この女性に強く出ることができたためしはないのだ。
師匠の最愛の人と知っていたから、という理由もあったかもしれない。適当に座ってくれ、とザラを居間に招いて、茶のひとつでも淹れるか、と棚の前に立つ。
テオバルドやエレノアであれば、人の家を人の家とも思わぬそぶりで――まぁ、テオバルドは構わないのだが――勝手に淹れるだろうが、相手はザラだ。
準備をしながら、アシュレイは問いかけた。
「そんなことを言いに、ここまで来たのか。言ってくれたら、あなたのところまで出向いたのに」
「いいのよ。私に気を使わないで。それに、イーサンとエレノアのところには、たびたび顔を出しているの。ここまで来たのは、そのついで」
「ついでがすぎるだろう」
「年寄り扱いしないでちょうだい。これでもまだ現役で働いているのよ。さすがに教壇に立つことはもうできないけれど、書庫の守り人はまだやることができているの。ありがたい話だと思わない?」
「そうだな」
覚えた懐かしさに笑みがこぼれる。
「おかげで、俺の弟子もあなたに学ぶことができた」
学院に通っていたころ、テオバルドはよく手紙を送ってきていたが、ザラの名前は頻繁に登場していた。テオバルドにとっても良き師であったのだろう。
「イーサンとエレノアも喜んでいた。……まぁ、俺たちは、あなたに迷惑しかかけなかったと思うが」
にこりと笑う気配がした。それ以上の肯定も否定もしないまま、からかうように、それより、とザラが言う。
「テオバルドは、あなたが上手にお茶を淹れることを知っているの?」
「知らないかもしれないな」
苦笑ひとつで、アシュレイは不精を認めた。
「ここに来たばかりのころから、俺がなにかを言う前に動く弟子だったんだ。おかげですっかり甘え癖がついた」
「あら」
目を細めたザラの前に紅茶を置いて、向かいの椅子を引く。ありがとう、とカップに口をつけた彼女がにこりとほほえんだ。
「今日もおいしいわ。たまには淹れてあげたらいいのに」
「教えてくれたのはあなただ。おかけで多少まともに育った」
「身につけたのはあなた自身の力よ。アシュレイ」
教えても学ばない子には身につかないもの、とくすくすとザラが笑みをこぼす。
「でも、安心したわ」
「安心?」
「ええ。テオバルドはいい子だもの。それに、なによりも、今日のあなたが幸せそうだったから」
安心したのよ、とザラは繰り返した。据わりの悪さを誤魔化すように、自分用に淹れた紅茶を口にする。
対外向けに善人の皮を被っている節のある師匠と違い、彼女の善性は根っからのものと承知しているが、それはそれとして。この年になってまで、慈愛たっぷりの笑みを向けられると、どうにも落ち着かない。その自分を見て、彼女がほほえんだ。
「あの人も、安心したのじゃないかしら」
「……さんざんにからかわれたが」
「照れ隠しよ。あの人にたっぷり愛情をもらっていたことは知っているでしょう」
決め込んだ沈黙に、ザラが、ふふ、と目元を笑ませる。
「この家であの人とあなたを育てた日々が懐かしいわ。あの人ったらね、自分であなたを拾ったくせに、『きみは女性なんだから、赤子の世話くらいできるだろう』って、私を呼び出したのよ」
いいかげんな話よね、と続いた台詞に、アシュレイは苦笑を返した。何度か聞いた覚えのある話で、愚痴ではなく一種の惚気だと知っている。
「女に生まれたというだけで世話なんてできるわけないでしょうって言ったら、必死に専門書を読み始めたものだから、付き合ってあげることにしたの」
「ルカらしい」
「ねぇ、本当にしかたのない人なのよ」
そっとカップを持ち上げて、でもね、と秘密を打ち明ける調子でザラは言った。
「私の年頃の町の女の子たちは、みんな、あの人に夢中だった」
こちらはあまり聞いた覚えのない話だった。わずかに瞳を瞬かせたアシュレイに、彼女がにこりと笑みを浮かべる。
「だって、あんなにきれいで優しい人なのよ。おまけに将来有望な魔力持ち。夢中にならないほうがおかしいわ。緑の瞳なんて気にならないくらいの魅力があったの」
「優しい、か」
「ええ。想像できるでしょう。あの人、抜群に人の当たりが良いじゃない」
当時を懐かしむような、柔らかい声音だった。
「もう何十年も前の話よ。夢中だった女の子たちは、みんな私と同じおばあさんね。孫のひとりもいないのは、私くらいかもしれないわ」
「それは……」
「初恋だったのよ」
なんでもないそぶりで、ザラが笑う。
「憧れていたの。優しくて美しい、隣の家のお兄さんに」
優しくて美しい、隣の家のお兄さん。幼いころのザラを想像して、アシュレイもどうにか笑った。
「そうか」
「あの人もね、町にいる強い魔力持ちが自分のほかには私しかいなかったからか、妹みたいにかわいがってくれていたの。私が学院に入ることも楽しみにしていてくれた」
そこで一度、言葉が途切れた。静かな沈黙の中で、ゆっくりと彼女は室内を見渡した。その視線が、窓のところで止まる。先にあるのは薬草園だ。
目じりに浮かんだ優しい皺に、そういえば、とアシュレイは古い記憶を思い出した。
――昔は、あの薬草園でよく相手をしてもらったものだったな。
幼い自分に、遊びながら薬草のことを教えてくれた。自分の知識の根本は師匠と彼女によってつくられている。そうしてそれがテオバルドへと繋がっているのだ。
視線を戻したザラは、紅茶を一口飲むとまた穏やかに話し始めた。
「そのはずだったのに、いつしか町に帰ってこなくなったの。手紙も返ってこなくなった。寂しくて、随分泣いたわ」
どう応じていいのかわからず、そうか、と同じ相槌をアシュレイは繰り返した。
ルカの考えていることのすべてをわかるわけもない。けれど、故郷に帰らなくなった理由は想像することができる気がした。
「だから、魔法使いになって会いに行こうと思ったのよ。あの人が魔法使いとして王都で活躍していることは風の噂で聞いていたから」
「優秀な学院生だったのだろうな、あなたは」
「どうかしら。あなたたちのような問題児ではなかったでしょうけれど」
くすくすと笑うザラに、アシュレイも小さく笑った。少しの間を置いて、それでね、と彼女は言葉を継いだ。
「あの人とは、卒業して、わりとすぐに再会したの。でも、驚いた。だって、あの人、なにも変わってないんだもの」
そうして、聡い魔法使いであった彼女は、きっとすべてを察したのだ。そのときに彼女がなにを思ったのかまでは、アシュレイはわからない。
知っているのは、師匠の最愛の人間が彼女であるということと、時間の流れが変わった師匠のそばを彼女が離れなかったということだけだ。
「それは町に帰ってくることができなくなったわけよね」
「そうだな」
認めたアシュレイに、ザラはほほえんだ。
「あの人、まったくそんな時代の話をしないでしょう。きっと、大魔法使いになったときに、それまでのすべてを捨てたのね。大魔法使いとなってからのあの人は、怖いくらいに正しかったもの」
「そうかもしれないな」
「あなたの養い親としては、至らない面はいくつもあったと思うわ。でも、表向きは、ずっと正しかった。誰の手も届かない、善良な大魔法使いさまになってしまうくらい」
手にしていたカップを机に戻して、ふっとザラが息を吐いた。
「ザラ?」
アシュレイの呼びかけに、ザラが顔を上げる。
「あなたがあの人と同じになったとき、あの人は本気であなたを怒っていたけれど、私はどこかでほっとしていたの。あぁ、これで、あの人はひとりではなくなるって」
「ザラ」
「それで、同時に、あなたに嫉妬もしたのよ。私にはどうしたってできないことだったから」
ほほえんでいるはずの顔が泣いているように見えて、アシュレイはもう一度「ザラ」と呼びかけた。そんなことは、まったく気に病む必要のないことだ。
その呼びかけには応じないまま、ザラは続けた。
「だから、私、必要以上にテオバルドに肩入れして優しくしたのかもしれないわ。駄目な先生ね」
そんなことを言い出せば、弟子に過剰な肩入れをし続けている自分のほうが、よほど駄目な師であるに違いない。アシュレイは自嘲を噛み殺した。
それに、彼女には本当に感謝しているのだ。
「テオバルドは、書庫であなたと過ごした時間を喜んでいた。教壇に立つあなたにも会いたかったと残念がってはいたが」
「あら」
纏う空気をゆるませて、ザラが瞳を細める。
「お世辞でも、うれしいわ。教えてあげることはできなかったけれど、私もあの子と書庫で過ごす時間が大好きだったの」
なにせ、と懐かしく幸福そうな声が続く。
「とても心の優しいいい子だったし、イーサンとエレノアと、あなたが育てた子どもだもの。会えて本当にうれしかった」
「それならよかった」
「ええ。勝手だけれど、孫のような存在でもあったのかもしれないわ」
「ぜひ、そう思っていてやってくれ」
きっと喜ぶ、と小さく笑みを返して、アシュレイは改めて呼びかけた。
「ザラ。あなたのおかげで、イーサンも、俺も、エレノアも、学院を卒業することができた。本当に感謝している。感謝という言葉では足りないくらいに」
彼女の言うところの罪悪感、あるいは、罪滅ぼしのようなものだったかもしれない。
けれど、当時、副学長という立場にあった彼女が、イーサンに卒業という資格だけでも与えようと奔走してくれていたことを、アシュレイは知っている。上層部が承認した理由が、大魔法使いとなった自分への貸しだったとしても構わなかった。
罪悪感から必要以上の肩入れをしてくれたのだとしても、イーサンの未来を案じてくれた彼女の心は本物だっただろうから。それだけで、十分だったのだ。
「ねぇ、アシュレイ」
穏やかな沈黙のあとで、ザラはこう切り出した。
「私はね、まだまだ学院で働いて、子どもたちを見守っていこうと思っているけれど、最大の夢はべつにあるの。知っていた?」
その問いに、緑の瞳を瞬かせる。知っているもなにもはじめて聞く話だったからだ。その仕草をくすくすと笑って、ザラが打ち明ける。
「いくつになっても、健康を維持して、働いて。うんとうんと長生きするのよ。それで、ルカを看取るの。それが私の夢」
にこにことほほえむ顔を、アシュレイはただ見つめ返した。優雅な手つきでカップを取って、しらっとした調子でザラは続ける。
「そのあとは、できるだけ早く追いかけてあげるつもりでいるのだけれど。だって、あの人、寂しがり屋なのよ」
これは知っていたかしら、と問われて、苦笑まじりに頷く。この人の心は、本当に愛にあふれている。そのことを思い知った気分だった。
「ザラ」
優しい瞳に、真正面から告げる。
「しかたのない人だが、大事な師匠なんだ。よろしく頼む」
「任せてちょうだい。愛しているのよ。私に独り身を貫かせた、しかたのない人だけれどね」
ふふ、と笑ったあとに、ほんの少しだけテオバルドが羨ましいわ、とザラが言った。
森の家が沈黙に浸る。その中で、窓から差し込む光が、彼女の髪をただ静かに照らしていた。随分と白くなったそれをそっと見つめる。
この家で、アシュレイはテオバルドを育てた。けれど、それよりも、はるか昔。この家で、自分が育てられた時代もあったのだ。
ルカとザラは師匠であり恩師だったが、たしかに父と母の代わりだった。ザラ、とアシュレイは彼女を呼んだ。
「その代わり、あなたのことは任せてくれ」
せめてもの恩返しだ、と言えば、その気持ちだけで十分うれしいわ、とザラがほほえむ。慈愛に満ちた笑顔は、年を重ねても変わることなく美しかった。
「あなたのおかげで、素敵な昼下がりだったわ。ありがとう」
添えられた謝意に、次は俺が会いに行こう、と告げる。会いたいと思う誰かがいることは、とてつもない幸福なのだ、と。今のアシュレイは、もう知っている。
森の家に訪れた酔狂な客人に、開口一番にそんなことを言われてしまって、アシュレイは思わず苦い声を出した。
頑なに秘密にしたつもりはないが、公にしたつもりはいっさいないことである。
「……誰に聞いたんだ」
「ルカに決まってるじゃない。あなたには偉そうな顔をしていたかもしれないけれど、私には随分とうれしそうに話していたのよ、あの人」
しかたない人よねぇ、といかにも楽しげにザラが笑うので、それ以上の文句は呑み込まざるを得なくなった。幼い時分に面倒を看てもらっていた恩もあり、この女性に強く出ることができたためしはないのだ。
師匠の最愛の人と知っていたから、という理由もあったかもしれない。適当に座ってくれ、とザラを居間に招いて、茶のひとつでも淹れるか、と棚の前に立つ。
テオバルドやエレノアであれば、人の家を人の家とも思わぬそぶりで――まぁ、テオバルドは構わないのだが――勝手に淹れるだろうが、相手はザラだ。
準備をしながら、アシュレイは問いかけた。
「そんなことを言いに、ここまで来たのか。言ってくれたら、あなたのところまで出向いたのに」
「いいのよ。私に気を使わないで。それに、イーサンとエレノアのところには、たびたび顔を出しているの。ここまで来たのは、そのついで」
「ついでがすぎるだろう」
「年寄り扱いしないでちょうだい。これでもまだ現役で働いているのよ。さすがに教壇に立つことはもうできないけれど、書庫の守り人はまだやることができているの。ありがたい話だと思わない?」
「そうだな」
覚えた懐かしさに笑みがこぼれる。
「おかげで、俺の弟子もあなたに学ぶことができた」
学院に通っていたころ、テオバルドはよく手紙を送ってきていたが、ザラの名前は頻繁に登場していた。テオバルドにとっても良き師であったのだろう。
「イーサンとエレノアも喜んでいた。……まぁ、俺たちは、あなたに迷惑しかかけなかったと思うが」
にこりと笑う気配がした。それ以上の肯定も否定もしないまま、からかうように、それより、とザラが言う。
「テオバルドは、あなたが上手にお茶を淹れることを知っているの?」
「知らないかもしれないな」
苦笑ひとつで、アシュレイは不精を認めた。
「ここに来たばかりのころから、俺がなにかを言う前に動く弟子だったんだ。おかげですっかり甘え癖がついた」
「あら」
目を細めたザラの前に紅茶を置いて、向かいの椅子を引く。ありがとう、とカップに口をつけた彼女がにこりとほほえんだ。
「今日もおいしいわ。たまには淹れてあげたらいいのに」
「教えてくれたのはあなただ。おかけで多少まともに育った」
「身につけたのはあなた自身の力よ。アシュレイ」
教えても学ばない子には身につかないもの、とくすくすとザラが笑みをこぼす。
「でも、安心したわ」
「安心?」
「ええ。テオバルドはいい子だもの。それに、なによりも、今日のあなたが幸せそうだったから」
安心したのよ、とザラは繰り返した。据わりの悪さを誤魔化すように、自分用に淹れた紅茶を口にする。
対外向けに善人の皮を被っている節のある師匠と違い、彼女の善性は根っからのものと承知しているが、それはそれとして。この年になってまで、慈愛たっぷりの笑みを向けられると、どうにも落ち着かない。その自分を見て、彼女がほほえんだ。
「あの人も、安心したのじゃないかしら」
「……さんざんにからかわれたが」
「照れ隠しよ。あの人にたっぷり愛情をもらっていたことは知っているでしょう」
決め込んだ沈黙に、ザラが、ふふ、と目元を笑ませる。
「この家であの人とあなたを育てた日々が懐かしいわ。あの人ったらね、自分であなたを拾ったくせに、『きみは女性なんだから、赤子の世話くらいできるだろう』って、私を呼び出したのよ」
いいかげんな話よね、と続いた台詞に、アシュレイは苦笑を返した。何度か聞いた覚えのある話で、愚痴ではなく一種の惚気だと知っている。
「女に生まれたというだけで世話なんてできるわけないでしょうって言ったら、必死に専門書を読み始めたものだから、付き合ってあげることにしたの」
「ルカらしい」
「ねぇ、本当にしかたのない人なのよ」
そっとカップを持ち上げて、でもね、と秘密を打ち明ける調子でザラは言った。
「私の年頃の町の女の子たちは、みんな、あの人に夢中だった」
こちらはあまり聞いた覚えのない話だった。わずかに瞳を瞬かせたアシュレイに、彼女がにこりと笑みを浮かべる。
「だって、あんなにきれいで優しい人なのよ。おまけに将来有望な魔力持ち。夢中にならないほうがおかしいわ。緑の瞳なんて気にならないくらいの魅力があったの」
「優しい、か」
「ええ。想像できるでしょう。あの人、抜群に人の当たりが良いじゃない」
当時を懐かしむような、柔らかい声音だった。
「もう何十年も前の話よ。夢中だった女の子たちは、みんな私と同じおばあさんね。孫のひとりもいないのは、私くらいかもしれないわ」
「それは……」
「初恋だったのよ」
なんでもないそぶりで、ザラが笑う。
「憧れていたの。優しくて美しい、隣の家のお兄さんに」
優しくて美しい、隣の家のお兄さん。幼いころのザラを想像して、アシュレイもどうにか笑った。
「そうか」
「あの人もね、町にいる強い魔力持ちが自分のほかには私しかいなかったからか、妹みたいにかわいがってくれていたの。私が学院に入ることも楽しみにしていてくれた」
そこで一度、言葉が途切れた。静かな沈黙の中で、ゆっくりと彼女は室内を見渡した。その視線が、窓のところで止まる。先にあるのは薬草園だ。
目じりに浮かんだ優しい皺に、そういえば、とアシュレイは古い記憶を思い出した。
――昔は、あの薬草園でよく相手をしてもらったものだったな。
幼い自分に、遊びながら薬草のことを教えてくれた。自分の知識の根本は師匠と彼女によってつくられている。そうしてそれがテオバルドへと繋がっているのだ。
視線を戻したザラは、紅茶を一口飲むとまた穏やかに話し始めた。
「そのはずだったのに、いつしか町に帰ってこなくなったの。手紙も返ってこなくなった。寂しくて、随分泣いたわ」
どう応じていいのかわからず、そうか、と同じ相槌をアシュレイは繰り返した。
ルカの考えていることのすべてをわかるわけもない。けれど、故郷に帰らなくなった理由は想像することができる気がした。
「だから、魔法使いになって会いに行こうと思ったのよ。あの人が魔法使いとして王都で活躍していることは風の噂で聞いていたから」
「優秀な学院生だったのだろうな、あなたは」
「どうかしら。あなたたちのような問題児ではなかったでしょうけれど」
くすくすと笑うザラに、アシュレイも小さく笑った。少しの間を置いて、それでね、と彼女は言葉を継いだ。
「あの人とは、卒業して、わりとすぐに再会したの。でも、驚いた。だって、あの人、なにも変わってないんだもの」
そうして、聡い魔法使いであった彼女は、きっとすべてを察したのだ。そのときに彼女がなにを思ったのかまでは、アシュレイはわからない。
知っているのは、師匠の最愛の人間が彼女であるということと、時間の流れが変わった師匠のそばを彼女が離れなかったということだけだ。
「それは町に帰ってくることができなくなったわけよね」
「そうだな」
認めたアシュレイに、ザラはほほえんだ。
「あの人、まったくそんな時代の話をしないでしょう。きっと、大魔法使いになったときに、それまでのすべてを捨てたのね。大魔法使いとなってからのあの人は、怖いくらいに正しかったもの」
「そうかもしれないな」
「あなたの養い親としては、至らない面はいくつもあったと思うわ。でも、表向きは、ずっと正しかった。誰の手も届かない、善良な大魔法使いさまになってしまうくらい」
手にしていたカップを机に戻して、ふっとザラが息を吐いた。
「ザラ?」
アシュレイの呼びかけに、ザラが顔を上げる。
「あなたがあの人と同じになったとき、あの人は本気であなたを怒っていたけれど、私はどこかでほっとしていたの。あぁ、これで、あの人はひとりではなくなるって」
「ザラ」
「それで、同時に、あなたに嫉妬もしたのよ。私にはどうしたってできないことだったから」
ほほえんでいるはずの顔が泣いているように見えて、アシュレイはもう一度「ザラ」と呼びかけた。そんなことは、まったく気に病む必要のないことだ。
その呼びかけには応じないまま、ザラは続けた。
「だから、私、必要以上にテオバルドに肩入れして優しくしたのかもしれないわ。駄目な先生ね」
そんなことを言い出せば、弟子に過剰な肩入れをし続けている自分のほうが、よほど駄目な師であるに違いない。アシュレイは自嘲を噛み殺した。
それに、彼女には本当に感謝しているのだ。
「テオバルドは、書庫であなたと過ごした時間を喜んでいた。教壇に立つあなたにも会いたかったと残念がってはいたが」
「あら」
纏う空気をゆるませて、ザラが瞳を細める。
「お世辞でも、うれしいわ。教えてあげることはできなかったけれど、私もあの子と書庫で過ごす時間が大好きだったの」
なにせ、と懐かしく幸福そうな声が続く。
「とても心の優しいいい子だったし、イーサンとエレノアと、あなたが育てた子どもだもの。会えて本当にうれしかった」
「それならよかった」
「ええ。勝手だけれど、孫のような存在でもあったのかもしれないわ」
「ぜひ、そう思っていてやってくれ」
きっと喜ぶ、と小さく笑みを返して、アシュレイは改めて呼びかけた。
「ザラ。あなたのおかげで、イーサンも、俺も、エレノアも、学院を卒業することができた。本当に感謝している。感謝という言葉では足りないくらいに」
彼女の言うところの罪悪感、あるいは、罪滅ぼしのようなものだったかもしれない。
けれど、当時、副学長という立場にあった彼女が、イーサンに卒業という資格だけでも与えようと奔走してくれていたことを、アシュレイは知っている。上層部が承認した理由が、大魔法使いとなった自分への貸しだったとしても構わなかった。
罪悪感から必要以上の肩入れをしてくれたのだとしても、イーサンの未来を案じてくれた彼女の心は本物だっただろうから。それだけで、十分だったのだ。
「ねぇ、アシュレイ」
穏やかな沈黙のあとで、ザラはこう切り出した。
「私はね、まだまだ学院で働いて、子どもたちを見守っていこうと思っているけれど、最大の夢はべつにあるの。知っていた?」
その問いに、緑の瞳を瞬かせる。知っているもなにもはじめて聞く話だったからだ。その仕草をくすくすと笑って、ザラが打ち明ける。
「いくつになっても、健康を維持して、働いて。うんとうんと長生きするのよ。それで、ルカを看取るの。それが私の夢」
にこにことほほえむ顔を、アシュレイはただ見つめ返した。優雅な手つきでカップを取って、しらっとした調子でザラは続ける。
「そのあとは、できるだけ早く追いかけてあげるつもりでいるのだけれど。だって、あの人、寂しがり屋なのよ」
これは知っていたかしら、と問われて、苦笑まじりに頷く。この人の心は、本当に愛にあふれている。そのことを思い知った気分だった。
「ザラ」
優しい瞳に、真正面から告げる。
「しかたのない人だが、大事な師匠なんだ。よろしく頼む」
「任せてちょうだい。愛しているのよ。私に独り身を貫かせた、しかたのない人だけれどね」
ふふ、と笑ったあとに、ほんの少しだけテオバルドが羨ましいわ、とザラが言った。
森の家が沈黙に浸る。その中で、窓から差し込む光が、彼女の髪をただ静かに照らしていた。随分と白くなったそれをそっと見つめる。
この家で、アシュレイはテオバルドを育てた。けれど、それよりも、はるか昔。この家で、自分が育てられた時代もあったのだ。
ルカとザラは師匠であり恩師だったが、たしかに父と母の代わりだった。ザラ、とアシュレイは彼女を呼んだ。
「その代わり、あなたのことは任せてくれ」
せめてもの恩返しだ、と言えば、その気持ちだけで十分うれしいわ、とザラがほほえむ。慈愛に満ちた笑顔は、年を重ねても変わることなく美しかった。
「あなたのおかげで、素敵な昼下がりだったわ。ありがとう」
添えられた謝意に、次は俺が会いに行こう、と告げる。会いたいと思う誰かがいることは、とてつもない幸福なのだ、と。今のアシュレイは、もう知っている。
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