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2:魔法使いの弟子
42.あるひとつの終焉 ⑨
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「愛されてる、か」
寮の食堂に向かうつもりだったのに、書庫のある旧学舎を出たところで、テオバルドの足は止まってしまった。寮の方向を見つめたまま、ぽつりとひとりごちる。
ベイリーはなにも問題のあることは言っていない。彼女が向けてくれたものは愛情からくる配慮と、祝福だ。わかっているのに、なぜ、こんなにも引っかかるのだろう。
愛されて育ったということについて言えば、そうである自信がテオバルドにはあった。
まだ七つであった自分の魔法の才を信じ、最も適切な相手に託すと決めたのは、父と母の愛であったのだろうし、その愛と信頼を受け取ったアシュレイも、父と母と変わらぬ愛で十五の年まで自分を教え育ててくれた。
父もアシュレイを信頼し愛していたのだろうし、アシュレイも父を信頼し愛していたのだろう。けれど、それは、どんな愛だったのだろう。そうして、母は――。
――しかたないのよ。
ふいに、随分と昔に聞いた母の声を思い出した。
あの森にいたころのことだ。月に一度、父の店に連れて行ってもらっていたころのこと。
その外出を楽しみにしていたことを、テオバルドはよく覚えている。父と母に会うことも楽しみであったが、アシュレイとふたりで町に行くことが、なによりもうれしかったのだ。
深く被ったローブの下で、緑の瞳を優しく笑ませ、常連客や母と話す自分を見守っていてくれた森の大魔法使い。
奥まった場所にあるふたりがけのテーブルが、彼の指定席だった。そうして、その正面にはよく父がいた。仕事はちょっと休憩だとばかりに笑って、けれど、テオバルドは知っていた。ほかのどの客にも、父はそんな対応はしないということを。
父がそうするのは、アシュレイにだけなのだ。
彼のことを親しげにアシュと呼ぶのも、子どもであるテオバルドに向けるものとも、妻であるエレノアに向けるものとも違う、甘やかすような視線を向けるのも。アシュレイに対してだけだ。
しかたないという台詞に、幼かったテオバルドは母を見上げた。常連客が席を立ち、自分とふたりになったタイミングだった。父と師匠が話しているところを羨ましく見つめていた自分の髪を撫でて、そう言ったのだ。
――あの人は永遠の子どもだし、それに、私、あの人には一生かけても返せない大恩があるのよ。
今になって、思う。母のそれは、幼い息子を宥めるものとしてはまったく正しくなかった。あれは、自分を宥めるためのものだ。
――薬草による魔力の安定と増幅の研究。とても素晴らしいことだと思うわ。
一生かけても返せない大恩とは、いったいなんだというのか。あのときのテオバルドは、なにも深く考えなかった。偉大な魔法使いの師匠だからそんなこともあるのだろうと無邪気な納得をしたくらいだ。でも。
十八のときに死にかけて魔力が枯渇したという父。十八のときに、おそらくは深淵に触れ、成長の時を止めたアシュレイ。アシュレイに大恩があるのだという母。魔力の安定と増幅の研究。
導かれそうになった答えに、血の気が引いたことをテオバルドは自覚した。
――人の生死に関わる事象には、踏み入ってはならない。
禁術についても正しい知識は必要だという理屈で、アシュレイはテオバルドにすべてを示してくれた。
正当なる理由で使用を禁じられている魔法術。そもそもとして、並大抵の魔力では扱えないが、とアシュレイは言って。もし使えばどうなるのかと尋ねた自分に、こう答えたのだ。
――人ではなくなるということだ、テオバルド。だから決して歪めてはならない。
――神の領域に触れる対価は、とてつもなく巨大なものになる。おまえはそんな業を負ってはならない。
あなたは。問えるはずのない問いが、ぐるぐると身体の中を渦巻いているみたいだった。
なら、あなたは。そこまでわかっていながら、誰のためにその業を負ったのだ。今の自分は、姿かたちだけであれば、おそらく師匠であるアシュレイと同じになっている。そうして、近いうちに追い越していく。追い越してしまう。
寮の食堂に向かうつもりだったのに、書庫のある旧学舎を出たところで、テオバルドの足は止まってしまった。寮の方向を見つめたまま、ぽつりとひとりごちる。
ベイリーはなにも問題のあることは言っていない。彼女が向けてくれたものは愛情からくる配慮と、祝福だ。わかっているのに、なぜ、こんなにも引っかかるのだろう。
愛されて育ったということについて言えば、そうである自信がテオバルドにはあった。
まだ七つであった自分の魔法の才を信じ、最も適切な相手に託すと決めたのは、父と母の愛であったのだろうし、その愛と信頼を受け取ったアシュレイも、父と母と変わらぬ愛で十五の年まで自分を教え育ててくれた。
父もアシュレイを信頼し愛していたのだろうし、アシュレイも父を信頼し愛していたのだろう。けれど、それは、どんな愛だったのだろう。そうして、母は――。
――しかたないのよ。
ふいに、随分と昔に聞いた母の声を思い出した。
あの森にいたころのことだ。月に一度、父の店に連れて行ってもらっていたころのこと。
その外出を楽しみにしていたことを、テオバルドはよく覚えている。父と母に会うことも楽しみであったが、アシュレイとふたりで町に行くことが、なによりもうれしかったのだ。
深く被ったローブの下で、緑の瞳を優しく笑ませ、常連客や母と話す自分を見守っていてくれた森の大魔法使い。
奥まった場所にあるふたりがけのテーブルが、彼の指定席だった。そうして、その正面にはよく父がいた。仕事はちょっと休憩だとばかりに笑って、けれど、テオバルドは知っていた。ほかのどの客にも、父はそんな対応はしないということを。
父がそうするのは、アシュレイにだけなのだ。
彼のことを親しげにアシュと呼ぶのも、子どもであるテオバルドに向けるものとも、妻であるエレノアに向けるものとも違う、甘やかすような視線を向けるのも。アシュレイに対してだけだ。
しかたないという台詞に、幼かったテオバルドは母を見上げた。常連客が席を立ち、自分とふたりになったタイミングだった。父と師匠が話しているところを羨ましく見つめていた自分の髪を撫でて、そう言ったのだ。
――あの人は永遠の子どもだし、それに、私、あの人には一生かけても返せない大恩があるのよ。
今になって、思う。母のそれは、幼い息子を宥めるものとしてはまったく正しくなかった。あれは、自分を宥めるためのものだ。
――薬草による魔力の安定と増幅の研究。とても素晴らしいことだと思うわ。
一生かけても返せない大恩とは、いったいなんだというのか。あのときのテオバルドは、なにも深く考えなかった。偉大な魔法使いの師匠だからそんなこともあるのだろうと無邪気な納得をしたくらいだ。でも。
十八のときに死にかけて魔力が枯渇したという父。十八のときに、おそらくは深淵に触れ、成長の時を止めたアシュレイ。アシュレイに大恩があるのだという母。魔力の安定と増幅の研究。
導かれそうになった答えに、血の気が引いたことをテオバルドは自覚した。
――人の生死に関わる事象には、踏み入ってはならない。
禁術についても正しい知識は必要だという理屈で、アシュレイはテオバルドにすべてを示してくれた。
正当なる理由で使用を禁じられている魔法術。そもそもとして、並大抵の魔力では扱えないが、とアシュレイは言って。もし使えばどうなるのかと尋ねた自分に、こう答えたのだ。
――人ではなくなるということだ、テオバルド。だから決して歪めてはならない。
――神の領域に触れる対価は、とてつもなく巨大なものになる。おまえはそんな業を負ってはならない。
あなたは。問えるはずのない問いが、ぐるぐると身体の中を渦巻いているみたいだった。
なら、あなたは。そこまでわかっていながら、誰のためにその業を負ったのだ。今の自分は、姿かたちだけであれば、おそらく師匠であるアシュレイと同じになっている。そうして、近いうちに追い越していく。追い越してしまう。
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