やさしいひと

木原あざみ

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エピローグ

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[ 終 ]


 優しさというものは、やはり麻薬とよく似ている。
 虚実のものだとわかっていても、一度味わってしまえば手放すことができなくなるのだから。人間とは、そういう弱い生き物だ。

 その弱さを当然と利用することこそあれ、愛おしいと感じたことはない。いや、――だが、この場合、「なかった」と自認しておくべきなのかもしれない。少なくとも、この瞬間においては。
 彼の自宅を所用で訪れた自分を呼び止めた、いくつも年下の少年の不審に満ちた瞳に、八瀬はそう思い直した。
 努めて、にこりとほほえみかける。もちろん、彼がこの笑顔を嫌っていると承知してのことだ。

「なんですか、坊ちゃん。こんなところで急に」
「……浅海さんに聞きました」

 なにを、ということは言葉にもしたくないらしい。この子どもらしい素直さに、八瀬はもう一度笑った。

「そうですか」
「ずっと、考えてたんです」

 ほかに人気のないふたりきりの廊下で、神妙に子どもが切り出す。

「あれは、あまりにもあなたらしくない失策だった」

 いったい、なんのことですか、と。問い返すことは選ばず、八瀬はただ笑みを深くした。ここまで来て迷うように子どもの瞳が揺れ、だが、子どもははっきりと問い質した。

「ぜんぶ知ってて泳がせていたんじゃないですか」
「まさか」

 あっさりと八瀬は笑い飛ばした。

「そんなことをして、俺にどんな得があるっていうんです?」
「あるじゃないですか」
「へぇ」

 自分を睨む視線の強さに、軽く肩をすくめる。まったく、あいかわらず、奇妙なところでまっすぐだ。

「どんなことですか」
「あの人が、あんたのところに落ちてきて、這い出せなくなる」
「それはまた、おもしろいことを言いますね」

 予想通りの推察をさらりといなし、取り成すようにほほえむ。奇妙なところでまっすぐな子どもをからかうことはそれなりに好きであるものの、本気の軋轢を生むつもりはないのだった。
 これまでも、これからも。お互いにちょうどいい関係を築くことができたらいいと思っている。

「まぁ、坊ちゃんくらいの年の子は想像力も豊かなんでしょうけど」
「……あんたのどこがいいのか、俺にはまったくわかりません」
「でしょうね」

 それは、まぁ、そうだろうな、と。本心で八瀬は認めた。自分も同意見だと言ってもいいくらいだ。

 爆発しそうな苛立ちを必死で押し殺した調子で、子どもが続ける。

「それでも、本当に意味はわからないですけど、浅海さんはあんたがいいって言うんです」
「そうですか」

 八瀬が選んだ淡々とした相槌に、ぎゅっと握りしめられた子どものこぶしに血管が浮かんだ。いっそのこと、年相応に爆発してみせたらいいだろうに。
 それができないところが、自分の感情を内に込めがちな、面倒見の良い彼の感情をくすぐったのだろうな、と想像する。あれはそういう子どもだった。
 自己肯定感が低く、だから、他人に求められる自分でいることを自分に課していた。

「だから、……せめて、あんたが飽きたときも、ちゃんときれいに終わりにしてやってくださいよ」

 きれいに終わりにする。軽く首を傾げた八瀬に、子どもはとうとう吐き捨てた。

「あんたがいつもしてるみたいに、あの人の感情をいいかげんに扱うことだけは、俺は絶対に許しませんから」

 ――絶対に許しません、か。

 いかにも子どもらしい台詞に、八瀬はほほえんで応えた。

「肝に銘じておきますよ」

 なにせ、と子どもの瞳を見据えたまま、嘯く。

「大事な、大事な、坊ちゃんのお願いですからね」 


**

 自分の家から、いわゆる家庭のにおいがするというのは、多少の回数を重ねたところでやはり慣れることはないな、と思う。
 もうひとつ、そもそもを言うのであれば、「家事代行を頼んでいるわけではないのだから、なにもしなくていい」と告げているのだが、あの子どもはなにもしないことが落ち着かないらしい。
 学校帰りに週に一、二度やってきて、訪ねる理由を捻出するように家事をこなし、半分ほどの割合で、勉強をしながら自分の帰りを待っている。
 そうして、「おかえりなさい」と心底うれしそうにほほえむのだ。


「ただいま。勉強してたの?」

 彼が参考書を広げていたダイニングのテーブルに近づくと、「もうすぐ試験なので」と言う。その返答に、八瀬は苦笑をこぼした。
 犯罪だなんだと気にするような人生は歩んでいないが、高校生である事実を明確に突き付けられると、さすがに少し来るものがある。

「坊ちゃんと違って、進学科なんだっけ?」
「あ、はい。一応。でも、だからがんばらないと内申上がらないんですよ」

 内申点か。気にかけたことのない世界だなと思っていると、そのままのことを浅海が尋ねた。

「一基さんは、大学、受験だったんですか?」
「推薦みたいなものだったかな。浅海くんほど勉強はしてなかったよ、きっと」
「そっか、推薦か」

 考えるようにペンを揺らしていた浅海が、こちらを見上げて、ふっと瞳をゆるめる。

「妹は今年受験なんですよ。高校なんですけど」
「へぇ、がんばってるの? 勉強」
「最近は。知らないあいだに志望校もちゃんと決めてて、ちょっとびっくりしました。一基さんの言ったとおり、俺が甘やかしすぎてたんだろうなって」

 そういえば、そんな話をしたことがあったな、と。八瀬は頷いた。浅海の話を聞く限り、彼の妹は随分と精神的に幼い印象が強かった。もともとの性格もあっただろうが、なんでもできるタイプの兄が不必要に甘やかした弊害も大きかったに違いない。
 まぁ、もっとも、いまさら、そんなことを指摘するつもりはないのだが。だから、八瀬は「そっか」とほほえんだ。

「自立ってやつだ。よかったね。浅海くんも安心したでしょ」
「はい。あと、そばにいるとどうしても手を出しそうになっちゃうんで、このくらいの距離が良いのかなって」

 週に一、二度はこの家で夜を過ごすという距離。「そっか」ともう一度頷くと、こちらを見上げていた瞳の色が揺れた。少しためらうような、それ。

「あの、嘘です」
「嘘?」
「いや、嘘ではないんですけど、その、建前というか」

 気恥ずかしそうに伏せられた瞳が、またゆっくりと持ち上がる。

「俺がここに来たかったので」

 あいかわらず、健気なことを言う。迷惑ではないと示すように、八瀬は瞳を笑ませた。優しいように見せることは得意だ。求められている言動を察することも得意だ。それを優しさと受け取ることは、相手の自由。
 裏社会の人間と繋がることで生じる不自由は説いた。大学に進学し、社会に出て、世界が広がる過程で新しい出会いが待っているだろうことも事実だ。
 だが、それでも、自分が与える優しさに依存しているうちは、離れていかないと知っていた。まったく本当に、かわいくてどうしようもない生き物だ。

 安心したようにほほえむ浅海の髪を梳くように撫で、八瀬はそっと笑みを返した。

「おいで」 

 離れる気なんて起きないくらい、優しくしてあげるから。


[ 完 ]
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