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「いい子だね」
沈黙を選んだ浅海に、八瀬はもう一度ほほえんだ。
「賢い子は嫌いじゃない」
優しい声が、だから、と続きを紡ぐ。
「ここから先は、俺のためじゃない」
「え……」
「どうされたい?」
ひどくずるい誘い文句だと思った。どこまでも優しい声が誘う。墜ちてこいと笑いながら。
――本当は。
本当は、と心の中に厳重に仕舞ったはずの欠片が囁く。本当は、あなたの手に触れられて、――愛されてみたかった。自分の勝手でしかないとわかっていたから、言葉にするつもりはなかった。なかったのに。
「俺」
「うん。なに?」
先を促す声音の柔らかさに、抗うことはできなかった。誰にも話したことのなかった本音が、ぽろぽろとこぼれていく。
「俺、今まで、誰も好きになったことがなかったんです。もちろん、昂輝たちのことは好きですけど、その、性愛的な意味で」
優しいような態度を取り繕っているだけで、自分はなにか大切なものが欠落しているのだろうと浅海は思っていた。
でも、それでいいと思っていたのだ、本当に。自分が誰かを愛することができるとも思えないし、愛した誰かに去られることはつらい。だから。
「これからも誰も好きになれないと思っていて、誰かに触れたいと思うことも、触られたいと思うこともないと思ってました」
「うん」
「あなたに逢うまでは」
「――うん。それで?」
この声を、ずっと優しいと思っていた。そして、今も思ってしまっている。この人は優しい。この優しい人に、触れられてみたかった。自分の汚い欲望ごと。
「あなたに」
「うん」
「あなたに、触れられたい」
言い切った喉が熱い。こんなことを誰かに言う日が来るなんて、想像さえしなかった。
答えを待つ沈黙の中、とんでもないことを言ったのではないかという恐怖がじわじわと疼き始める。それでも、目を逸らすこともできなかった。
「いいよ」
浅海を見つめていた瞳が、愛おしむみたいにゆるむ。
「おいで、浅海くん」
その声を聴いた瞬間。一度も流れなかった涙がにじみそうになって、慌てて唇を噛んだ。
この人に同情されたいわけではない。優しさに付け込みたいわけでもない。
「いいから」
優しいとしか思うことのできない声が苦く笑って、伸びてきた指先が唇を柔く押し開いていく。
「泣けるときに泣かないと、泣けなくなるよ」
「……一基さんのことですか」
ほとんど無意識にこぼれた台詞に、目の前の瞳に静かな揺らぎが広がった気がした。
「どうだろうね」
「あの、俺……」
「まぁ、でも、俺みたいにならないに越したことはないよ」
ふっと、その顔が笑う。どこか自嘲じみたそれで。
「浅海くんは、ならないだろうけど」
「一基さん?」
「きみは、俺みたいにならないでいい」
なれないの間違いだろう、と思った。俺はこの人みたいになんて、なることはできない。優しくも、強くもない。
「そのままでいてくれたら、それでいい」
「……一基さん」
「俺は、きみに変わらないでいてほしい」
今まで誰も触れたことのない深いところに、静かに声が落ちてくる。こんな自分を好きになってくれる人なんて、いないと思っていた。
顔を好きになって寄ってくる人間がいても、中身を知れば幻滅すると思っていた。
だって、自分はこんなふうだから。自分には、なにもないから。
それなのに、このままでいいと言う。ほかの誰でもなく、この人が。
「一基さん」
好きだと言うことはできなかった。言葉にしたら、きっと、この人は、俺に引け目を覚えてしまう。そんな必要はないのに、あんなことがあったから。
どれもすべて、一基さんの所為じゃないのに。
「一基さん」
ふたりきりの世界に、祈るような声が響く。こんな感情は知らなかった。知らないままで、生きていた。人はこれを、恋と呼ぶのだろうか。
家族を捨ててもいいと思うような、あるいは、友人の忠告をないがしろにしてもいいと思ってしまうような、暴力的で短絡的な感情。それに溺れてしまいたかった。
今だけでいいから。
距離がゼロになる。触れた肌は思っていたよりもずっとあたたかくて、いくつ年上だろうとも、自分には想像のできない世界を彼が生きていようとも、同じ人間なのだということを如実に伝えてくる。
好きだった。理由なんてわからない。けれど、好きだった。
「もし、後悔したくなったら」
いつもより低く感じる声が、耳元で囁く。顔は見えなかった。
「坊ちゃんを頼ったらいい。俺から上手に、逃がしてくれる」
この人から逃げたいと思ったことは一度もない。ずっと会いたいと願っていた。そう答える代わりに、動く片腕ですがりつく。この人が、好きだった。
沈黙を選んだ浅海に、八瀬はもう一度ほほえんだ。
「賢い子は嫌いじゃない」
優しい声が、だから、と続きを紡ぐ。
「ここから先は、俺のためじゃない」
「え……」
「どうされたい?」
ひどくずるい誘い文句だと思った。どこまでも優しい声が誘う。墜ちてこいと笑いながら。
――本当は。
本当は、と心の中に厳重に仕舞ったはずの欠片が囁く。本当は、あなたの手に触れられて、――愛されてみたかった。自分の勝手でしかないとわかっていたから、言葉にするつもりはなかった。なかったのに。
「俺」
「うん。なに?」
先を促す声音の柔らかさに、抗うことはできなかった。誰にも話したことのなかった本音が、ぽろぽろとこぼれていく。
「俺、今まで、誰も好きになったことがなかったんです。もちろん、昂輝たちのことは好きですけど、その、性愛的な意味で」
優しいような態度を取り繕っているだけで、自分はなにか大切なものが欠落しているのだろうと浅海は思っていた。
でも、それでいいと思っていたのだ、本当に。自分が誰かを愛することができるとも思えないし、愛した誰かに去られることはつらい。だから。
「これからも誰も好きになれないと思っていて、誰かに触れたいと思うことも、触られたいと思うこともないと思ってました」
「うん」
「あなたに逢うまでは」
「――うん。それで?」
この声を、ずっと優しいと思っていた。そして、今も思ってしまっている。この人は優しい。この優しい人に、触れられてみたかった。自分の汚い欲望ごと。
「あなたに」
「うん」
「あなたに、触れられたい」
言い切った喉が熱い。こんなことを誰かに言う日が来るなんて、想像さえしなかった。
答えを待つ沈黙の中、とんでもないことを言ったのではないかという恐怖がじわじわと疼き始める。それでも、目を逸らすこともできなかった。
「いいよ」
浅海を見つめていた瞳が、愛おしむみたいにゆるむ。
「おいで、浅海くん」
その声を聴いた瞬間。一度も流れなかった涙がにじみそうになって、慌てて唇を噛んだ。
この人に同情されたいわけではない。優しさに付け込みたいわけでもない。
「いいから」
優しいとしか思うことのできない声が苦く笑って、伸びてきた指先が唇を柔く押し開いていく。
「泣けるときに泣かないと、泣けなくなるよ」
「……一基さんのことですか」
ほとんど無意識にこぼれた台詞に、目の前の瞳に静かな揺らぎが広がった気がした。
「どうだろうね」
「あの、俺……」
「まぁ、でも、俺みたいにならないに越したことはないよ」
ふっと、その顔が笑う。どこか自嘲じみたそれで。
「浅海くんは、ならないだろうけど」
「一基さん?」
「きみは、俺みたいにならないでいい」
なれないの間違いだろう、と思った。俺はこの人みたいになんて、なることはできない。優しくも、強くもない。
「そのままでいてくれたら、それでいい」
「……一基さん」
「俺は、きみに変わらないでいてほしい」
今まで誰も触れたことのない深いところに、静かに声が落ちてくる。こんな自分を好きになってくれる人なんて、いないと思っていた。
顔を好きになって寄ってくる人間がいても、中身を知れば幻滅すると思っていた。
だって、自分はこんなふうだから。自分には、なにもないから。
それなのに、このままでいいと言う。ほかの誰でもなく、この人が。
「一基さん」
好きだと言うことはできなかった。言葉にしたら、きっと、この人は、俺に引け目を覚えてしまう。そんな必要はないのに、あんなことがあったから。
どれもすべて、一基さんの所為じゃないのに。
「一基さん」
ふたりきりの世界に、祈るような声が響く。こんな感情は知らなかった。知らないままで、生きていた。人はこれを、恋と呼ぶのだろうか。
家族を捨ててもいいと思うような、あるいは、友人の忠告をないがしろにしてもいいと思ってしまうような、暴力的で短絡的な感情。それに溺れてしまいたかった。
今だけでいいから。
距離がゼロになる。触れた肌は思っていたよりもずっとあたたかくて、いくつ年上だろうとも、自分には想像のできない世界を彼が生きていようとも、同じ人間なのだということを如実に伝えてくる。
好きだった。理由なんてわからない。けれど、好きだった。
「もし、後悔したくなったら」
いつもより低く感じる声が、耳元で囁く。顔は見えなかった。
「坊ちゃんを頼ったらいい。俺から上手に、逃がしてくれる」
この人から逃げたいと思ったことは一度もない。ずっと会いたいと願っていた。そう答える代わりに、動く片腕ですがりつく。この人が、好きだった。
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