やさしいひと

木原あざみ

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「おまえね、自分でシフト増やしてもらえたらありがたいって、あれだけ言っといて、なんでいざ入ったら、そう辛気くさい顔なんだよ」
「あ、いや……」

 そういうわけじゃなかったんですけど、と続けようとした言い訳の代わりに、すみません、と浅海は頭を下げた。
 表に出していたつもりはないのだが、溜息を何度も呑み込んだ記憶はしっかりとあったので。とはいえ、自分のシフトはもう終わっていて、バックヤードにひとりというタイミングだったのだから、少しくらい達昭の言うところの「辛気くさい顔」をしていても許されるのではないだろうか、と思わなくもないけれど。
 バックヤードの扉を開けるなり文句をつけてきた達昭は、「まぁ、いいけどな」と予想していたよりもあっさりと矛を収めた。そうしてから、ゆっくりと煙草に火をつける。煙草休憩だったらしい。

「もう仕舞いだし。それとも、なに。おまえ、やっぱり表のほうがやりたくなった? 兄貴に言っといてやろうか」
「いいです、いいです」

 大丈夫です、とはっきりと否定する。この人にかかったら、なにをどう都合よく伝えられるかわかったものじゃない。こういった手合いに適当に流すは通用しないのだということを、この一ヶ月で思い知った。
 まぁ、そうは言っても、悪い人だとまでは思わないけれど。
 あまり休憩の邪魔をしても悪いだろう、と学校の制服に着替えて、ロッカーを閉める。

「それじゃ、すみません。お先に失礼します」
「浅海」
「はい?」

 ドアを開けようとしたところで呼び止められて振り返る。呼び止められたことも意外だったのだが、さらに意外なことに、達昭は妙にもの言いたげな顔をしていた。良くも悪くも腹に溜め込まないタイプのくせに、珍しいこともあるものだと驚く。
 そもそもで言えば、機嫌がいいときで「浅海ちゃん」、そうでなければ「おまえ」呼ばわりが基本の人に、しっかりと名前で呼ばれたこと自体が不気味ではあったのだけれど。

「あの、どうかしました?」
「あー……、気をつけてな」

 風見さんならともかく、この人に言われると裏がありそうで気持ち悪いな、と思ったものの、ぺこりと頭を下げる。
 帰りが遅くなったことを、もしかしたら純粋に気にしてくれたのかもしれない。達昭に限って、そうないとは思うのだが。

 ――まぁ、でも達昭さんがいるのも、あと二、三日だもんなぁ。

 風見が戻ってきたら、精神的にだいぶ楽になるような気はする。八瀬が来てからというもの、ちょっと腫物になった気分でもあったのだ。
 九月に入っても、真夏の気配が色濃く残っている。夜が深くなっても、蒸し暑さは少しも緩んでいない。そういえば、一基さんにはじめて拾ってもらったのは、暑くなり始めたころだったな。
 その夜から、もう二ヶ月は経っている。あっというまだったようにも思うし、長かったようにも思う。わかっているのは、アルバイトという枠を越えて、その時間を楽しいと感じるようになっている、ということだけ。
 この人と過ごす時間が好きだと思うようになってしまった。
 ひとりで夜道を歩きながら、浅海は小さく溜息をこぼした。
 一番はじめのころに、思っていたことだ。この人は、きっと自分にとって不要だと思えば、少しでも迷惑だと感じたら、勝手にきれいに距離を取ってくれる、そういう人。
 だから、それまでのあいだは、必要だと思ってもらえているあいだはがんばろう、と、そう。

 ――でも。

「いらないって言われるの、こんなにきつかったんだな」

 幼馴染みや自分に特別に懐いてくれている後輩。そういった特例を除いてしまえば、意図的に特別をつくらないようにしていた自覚が浅海にはある。だって、特別だと心を許したあとに捨てられることはつらい。
 そのはずだったのに、自分はいつのまにか、勝手に彼を特別視していたのかもしれない。
 もう、誤魔化せないくらいに。

 ――だから、どうにかしないとまずいよな、本当。

 改めて、浅海は自身に言い聞かせた。あるいは、八瀬がやんわりと示してくれたように距離と時間を置けば、もとに戻ることもできるのだろうか。
 そんなことばかりを考えていたから、そのときの浅海は後ろから近づく誰かにまったく気がついていなかった。

「ねぇ、きみ。ちょっと」

 すぐ近くで響いた声と、肩に置かれた手。そのどちらにも驚いて振り向いた瞬間、脇腹に走ったのは鋭い痛みだった。バチバチと鳴る音と暗がりに光る青い電流に、突然の痛みの理由を悟る。スタンガン。

 ……まずい。

 襲われた理由に見当はつかないが、これはまずい。逃げるべきだと警鐘が鳴り響いているのに、膝が折れる。力が入らないのだ。夜にぼーっとひとりで歩いてると危ないよ、と笑っていた八瀬の声。本気にしなかったのは自分だ。
 夜の闇に紛れ、相手の顔は見えない。動けないままスタンガンを首に押し当てられ、浅海の意識はそこで途切れた。
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