28 / 46
7-3
しおりを挟む
「おまえね、自分でシフト増やしてもらえたらありがたいって、あれだけ言っといて、なんでいざ入ったら、そう辛気くさい顔なんだよ」
「あ、いや……」
そういうわけじゃなかったんですけど、と続けようとした言い訳の代わりに、すみません、と浅海は頭を下げた。
表に出していたつもりはないのだが、溜息を何度も呑み込んだ記憶はしっかりとあったので。とはいえ、自分のシフトはもう終わっていて、バックヤードにひとりというタイミングだったのだから、少しくらい達昭の言うところの「辛気くさい顔」をしていても許されるのではないだろうか、と思わなくもないけれど。
バックヤードの扉を開けるなり文句をつけてきた達昭は、「まぁ、いいけどな」と予想していたよりもあっさりと矛を収めた。そうしてから、ゆっくりと煙草に火をつける。煙草休憩だったらしい。
「もう仕舞いだし。それとも、なに。おまえ、やっぱり表のほうがやりたくなった? 兄貴に言っといてやろうか」
「いいです、いいです」
大丈夫です、とはっきりと否定する。この人にかかったら、なにをどう都合よく伝えられるかわかったものじゃない。こういった手合いに適当に流すは通用しないのだということを、この一ヶ月で思い知った。
まぁ、そうは言っても、悪い人だとまでは思わないけれど。
あまり休憩の邪魔をしても悪いだろう、と学校の制服に着替えて、ロッカーを閉める。
「それじゃ、すみません。お先に失礼します」
「浅海」
「はい?」
ドアを開けようとしたところで呼び止められて振り返る。呼び止められたことも意外だったのだが、さらに意外なことに、達昭は妙にもの言いたげな顔をしていた。良くも悪くも腹に溜め込まないタイプのくせに、珍しいこともあるものだと驚く。
そもそもで言えば、機嫌がいいときで「浅海ちゃん」、そうでなければ「おまえ」呼ばわりが基本の人に、しっかりと名前で呼ばれたこと自体が不気味ではあったのだけれど。
「あの、どうかしました?」
「あー……、気をつけてな」
風見さんならともかく、この人に言われると裏がありそうで気持ち悪いな、と思ったものの、ぺこりと頭を下げる。
帰りが遅くなったことを、もしかしたら純粋に気にしてくれたのかもしれない。達昭に限って、そうないとは思うのだが。
――まぁ、でも達昭さんがいるのも、あと二、三日だもんなぁ。
風見が戻ってきたら、精神的にだいぶ楽になるような気はする。八瀬が来てからというもの、ちょっと腫物になった気分でもあったのだ。
九月に入っても、真夏の気配が色濃く残っている。夜が深くなっても、蒸し暑さは少しも緩んでいない。そういえば、一基さんにはじめて拾ってもらったのは、暑くなり始めたころだったな。
その夜から、もう二ヶ月は経っている。あっというまだったようにも思うし、長かったようにも思う。わかっているのは、アルバイトという枠を越えて、その時間を楽しいと感じるようになっている、ということだけ。
この人と過ごす時間が好きだと思うようになってしまった。
ひとりで夜道を歩きながら、浅海は小さく溜息をこぼした。
一番はじめのころに、思っていたことだ。この人は、きっと自分にとって不要だと思えば、少しでも迷惑だと感じたら、勝手にきれいに距離を取ってくれる、そういう人。
だから、それまでのあいだは、必要だと思ってもらえているあいだはがんばろう、と、そう。
――でも。
「いらないって言われるの、こんなにきつかったんだな」
幼馴染みや自分に特別に懐いてくれている後輩。そういった特例を除いてしまえば、意図的に特別をつくらないようにしていた自覚が浅海にはある。だって、特別だと心を許したあとに捨てられることはつらい。
そのはずだったのに、自分はいつのまにか、勝手に彼を特別視していたのかもしれない。
もう、誤魔化せないくらいに。
――だから、どうにかしないとまずいよな、本当。
改めて、浅海は自身に言い聞かせた。あるいは、八瀬がやんわりと示してくれたように距離と時間を置けば、もとに戻ることもできるのだろうか。
そんなことばかりを考えていたから、そのときの浅海は後ろから近づく誰かにまったく気がついていなかった。
「ねぇ、きみ。ちょっと」
すぐ近くで響いた声と、肩に置かれた手。そのどちらにも驚いて振り向いた瞬間、脇腹に走ったのは鋭い痛みだった。バチバチと鳴る音と暗がりに光る青い電流に、突然の痛みの理由を悟る。スタンガン。
……まずい。
襲われた理由に見当はつかないが、これはまずい。逃げるべきだと警鐘が鳴り響いているのに、膝が折れる。力が入らないのだ。夜にぼーっとひとりで歩いてると危ないよ、と笑っていた八瀬の声。本気にしなかったのは自分だ。
夜の闇に紛れ、相手の顔は見えない。動けないままスタンガンを首に押し当てられ、浅海の意識はそこで途切れた。
「あ、いや……」
そういうわけじゃなかったんですけど、と続けようとした言い訳の代わりに、すみません、と浅海は頭を下げた。
表に出していたつもりはないのだが、溜息を何度も呑み込んだ記憶はしっかりとあったので。とはいえ、自分のシフトはもう終わっていて、バックヤードにひとりというタイミングだったのだから、少しくらい達昭の言うところの「辛気くさい顔」をしていても許されるのではないだろうか、と思わなくもないけれど。
バックヤードの扉を開けるなり文句をつけてきた達昭は、「まぁ、いいけどな」と予想していたよりもあっさりと矛を収めた。そうしてから、ゆっくりと煙草に火をつける。煙草休憩だったらしい。
「もう仕舞いだし。それとも、なに。おまえ、やっぱり表のほうがやりたくなった? 兄貴に言っといてやろうか」
「いいです、いいです」
大丈夫です、とはっきりと否定する。この人にかかったら、なにをどう都合よく伝えられるかわかったものじゃない。こういった手合いに適当に流すは通用しないのだということを、この一ヶ月で思い知った。
まぁ、そうは言っても、悪い人だとまでは思わないけれど。
あまり休憩の邪魔をしても悪いだろう、と学校の制服に着替えて、ロッカーを閉める。
「それじゃ、すみません。お先に失礼します」
「浅海」
「はい?」
ドアを開けようとしたところで呼び止められて振り返る。呼び止められたことも意外だったのだが、さらに意外なことに、達昭は妙にもの言いたげな顔をしていた。良くも悪くも腹に溜め込まないタイプのくせに、珍しいこともあるものだと驚く。
そもそもで言えば、機嫌がいいときで「浅海ちゃん」、そうでなければ「おまえ」呼ばわりが基本の人に、しっかりと名前で呼ばれたこと自体が不気味ではあったのだけれど。
「あの、どうかしました?」
「あー……、気をつけてな」
風見さんならともかく、この人に言われると裏がありそうで気持ち悪いな、と思ったものの、ぺこりと頭を下げる。
帰りが遅くなったことを、もしかしたら純粋に気にしてくれたのかもしれない。達昭に限って、そうないとは思うのだが。
――まぁ、でも達昭さんがいるのも、あと二、三日だもんなぁ。
風見が戻ってきたら、精神的にだいぶ楽になるような気はする。八瀬が来てからというもの、ちょっと腫物になった気分でもあったのだ。
九月に入っても、真夏の気配が色濃く残っている。夜が深くなっても、蒸し暑さは少しも緩んでいない。そういえば、一基さんにはじめて拾ってもらったのは、暑くなり始めたころだったな。
その夜から、もう二ヶ月は経っている。あっというまだったようにも思うし、長かったようにも思う。わかっているのは、アルバイトという枠を越えて、その時間を楽しいと感じるようになっている、ということだけ。
この人と過ごす時間が好きだと思うようになってしまった。
ひとりで夜道を歩きながら、浅海は小さく溜息をこぼした。
一番はじめのころに、思っていたことだ。この人は、きっと自分にとって不要だと思えば、少しでも迷惑だと感じたら、勝手にきれいに距離を取ってくれる、そういう人。
だから、それまでのあいだは、必要だと思ってもらえているあいだはがんばろう、と、そう。
――でも。
「いらないって言われるの、こんなにきつかったんだな」
幼馴染みや自分に特別に懐いてくれている後輩。そういった特例を除いてしまえば、意図的に特別をつくらないようにしていた自覚が浅海にはある。だって、特別だと心を許したあとに捨てられることはつらい。
そのはずだったのに、自分はいつのまにか、勝手に彼を特別視していたのかもしれない。
もう、誤魔化せないくらいに。
――だから、どうにかしないとまずいよな、本当。
改めて、浅海は自身に言い聞かせた。あるいは、八瀬がやんわりと示してくれたように距離と時間を置けば、もとに戻ることもできるのだろうか。
そんなことばかりを考えていたから、そのときの浅海は後ろから近づく誰かにまったく気がついていなかった。
「ねぇ、きみ。ちょっと」
すぐ近くで響いた声と、肩に置かれた手。そのどちらにも驚いて振り向いた瞬間、脇腹に走ったのは鋭い痛みだった。バチバチと鳴る音と暗がりに光る青い電流に、突然の痛みの理由を悟る。スタンガン。
……まずい。
襲われた理由に見当はつかないが、これはまずい。逃げるべきだと警鐘が鳴り響いているのに、膝が折れる。力が入らないのだ。夜にぼーっとひとりで歩いてると危ないよ、と笑っていた八瀬の声。本気にしなかったのは自分だ。
夜の闇に紛れ、相手の顔は見えない。動けないままスタンガンを首に押し当てられ、浅海の意識はそこで途切れた。
11
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
学園と夜の街での鬼ごっこ――標的は白の皇帝――
天海みつき
BL
族の総長と副総長の恋の話。
アルビノの主人公――聖月はかつて黒いキャップを被って目元を隠しつつ、夜の街を駆け喧嘩に明け暮れ、いつしか"皇帝"と呼ばれるように。しかし、ある日突然、姿を晦ました。
その後、街では聖月は死んだという噂が蔓延していた。しかし、彼の族――Nukesは実際に遺体を見ていないと、その捜索を止めていなかった。
「どうしようかなぁ。……そぉだ。俺を見つけて御覧。そしたら捕まってあげる。これはゲームだよ。俺と君たちとの、ね」
学園と夜の街を巻き込んだ、追いかけっこが始まった。
族、学園、などと言っていますが全く知識がないため完全に想像です。何でも許せる方のみご覧下さい。
何とか完結までこぎつけました……!番外編を投稿完了しました。楽しんでいただけたら幸いです。
イケメン俳優は万年モブ役者の鬼門です
はねビト
BL
演技力には自信があるけれど、地味な役者の羽月眞也は、2年前に共演して以来、大人気イケメン俳優になった東城湊斗に懐かれていた。
自分にはない『華』のある東城に対するコンプレックスを抱えるものの、どうにも東城からのお願いには弱くて……。
ワンコ系年下イケメン俳優×地味顔モブ俳優の芸能人BL。
外伝完結、続編連載中です。
日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが
五右衛門
BL
月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。
しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる