やさしいひと

木原あざみ

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 おまえは、本当にあいつにそっくりだな。
 酒に焼けた声で、そう嘲ってくる父親が苦手だった。気にせずにいたいのに、毎回なにかが底に溜まっていく。
 かつてはそうではなかったのに、という意識が、しつこく頭に残っているせいなのかもしれない、とも思う。
 はるか昔、まだ自分が小さな子どもだったころ、同じ言葉をまったく違うニュアンスで、優しく囁いてもらっていたはずなのに、と。


 ――気にしなくていいって言っても、本当によかったのかな。

 脱衣所で風呂上がりの髪を乾かしながら、浅海はしつこく思い悩んでいた。
 先に風呂も入らせてもらった挙句に、着替えもぜんぶ借りている現状は、甘えすぎているとしか思えない。

 ――ちょっと落ち着かないっていうか……。

 そう、申し訳ないというか、なんというか。
 悶々としたままドライヤーを切って、落ち着かない原因の一端であるシャツに視線を落とす。身の丈に余るというほどではないけれど、普段自分が着ているものに比べるとワンサイズほど大きい。
 身長は十センチも変わらないはずだから、純粋に身体の厚みの差なのだろうと思う。大人だなと思うし、かっこいいなとも思う。
 つらつらとそこまで考えたところで、ふと思考が止まった。シャツに触れていた指先に気がついて、ぎこちなく外す。

「かっこいいはおかしいだろ……」

 いや、おかしくはないのかもしれないけど。でも。また悶々としてしまいそうで、浅海は小さく息を吐いた。そうして、鏡に視線を向ける。
 大嫌いな母親にそっくりの、人目を惹くらしい顔。その顔がいつもと同じように取り繕われているのを確認して、浅海はその場を後にした。

「お風呂ありがとうございました」

 居間に戻って声をかけると、テーブルでパソコンを広げていた八瀬の顔が上がった。

「すっきりした?」
「はい。ありがとうございました」
「そう」

 ならよかった、と向けられたほほえみに、浅海も小さく笑み返した。彼が使っているパソコンは、もともとこの部屋にはなかったものだ。仕事用だといつだったか言っていた覚えもある。
 自分がいるから、こうして居間に持ち込んでくれているのだ。
 本当に敵わないと思うのは、こういった言葉にしない――この人がさも当然と示してくれるぬくもりに触れた瞬間だった。
 自分にとっては、はじめて会ったときから八瀬はずっとそうだ。だから、昂輝になにをどう言われても、優しい人だとしか思えなかった。

「じゃあ、俺も入ってこようかな」

 その一言でパソコンを閉じると、八瀬は立ち上がった。

「あ……」
「気にしなくていいから、適当に休んでな」

 反射で引き留めようとした浅海の頭を自然なしぐさで一撫でして、そのまま通り過ぎていく。

「俺も今日は早く休もうかなって思って。それだけ」
「……はい」

 自分のせいで生活サイクルを崩してほしくない、だとか。そう気を使わないでほしい、だとか。
 言いたいことはいくらでもあったのに、頷くことしかできなかった。こういった物言いが本当にうまくて、そうしてそれが気遣いから出ているものだとわかるから、妙な意地も張れないし、反論もできない。
 本当に、敵わない。

 ――って、あたりまえか。

 勝てる要素なんて、ひとつもないのだから。小さく溜息を吐いて、ソファの端に腰を下ろしたところで、妹にメッセージを送って以来スマートフォンに触っていなかったことを思い出した。
 連絡を返さずに放置していると、気にする人間がいるのだ。今日連絡が来ているかは五分五分といったところだろうけれど。
 連絡を返さずに放置していると、気にする人間がいるのだ。連絡が来ているかは五分五分といったところだけれど。
 自分の不在は向かいの家に住んでいる幼馴染には筒抜けで、今夜に限って言えば親子喧嘩まで聞かれていた可能性がある。

「……やっぱり」

 届いていたメッセージに、思わずそんな声がもれてしまった。
 家にいたくないなら、俺の家に来たらいいだろ。いつも、なんでもないように侑平はそう言ってくれる。侑平の両親も小さいころからよく知っている浅海のことを快く受け入れてくれる。
 知っているからこそ迷惑をかけたくなくて、逃げ場所に選べなくなった。

 ――そんなこと言ったところで、一基さんにこうして迷惑かけてるんだから、なんの意味もないんだけどな。

 どこにいるのかと尋ねてくるメッセージに、大丈夫と返信を打ち込む。けれど、そこで指が止まってしまった。
 八瀬の家にいると知れば、勘ぐられるにちがいない。今まで自分の言動に原因があるとわかっているが、幼馴染みは案外と心配性なのだ。
 友達のところ。たまたま出会って泊めてもらった。突っ込みどころ満載の文面だが、そうとしか記しようがない。
 名前を出せない時点で嘘だと見破られると、わかってはいるのだが。適当な名前を出したところで、確認を向こうに取られてしまったら、それで終わりだ。
 良くも悪くも、自分たちの交友関係は昔から重なり続けている。
 
 ――ま、いいか。

 明後日には会う予定があるのだから、そのときに謝ればいい。半ば投げやりに思い切って、送信する。ついでに電源も落とした。今夜だけでいいから、干渉されずにいたかったのだ。
 スマートフォンを伏せて、浅海はそっと息を吐いた。
 気にかけてもらえていることは、ありがたいと思っている。それは本当だ。けれど同時に、気遣われるような感情を表に出したくないとも思っていた。自分の感情は、常に自分でコントロールしていたい。憐れまれたくなんてない。
 結局、自分でも呆れてしまうくらい、プライドが高いのだ。だから、取り繕えないと判断すると、ひとりになりたくなって、逃げてしまう。
 そうやって、今までずっとやり過ごしていた。

 ――それなのに、なんであんなこと言ったんだろうな。

 八瀬の声が優しかったから、だとか、深入りしてこないあっさりとした態度が心地よかったから、だとか。上げようと思えば、理由はいくつでも思いつく。
 けれど、認めたくない理由がひとつだけ胸の奥に残っていた。もしかすると、無意識に甘えていたのではないだろうかという疑念。
 甘えると言っても、あの人が提示してくれたようなかわいげのあるものではなく、もっと打算的で、人の心を試すようなものだ。
 そういうふうなことを言ったときに、どういった反応をするのかと、そう。

「性格悪……」

 まぁ、自分の性格がいいだなんて、思ったこともないけれど。
 ただ外面がいいというだけなのだ。その上っ面で「いい子」と評されることはあっても、中身はなにも伴っていない。そのことは、自分が一番よくわかっている。
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