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第三部
パーフェクト・ワールド・ゼロⅣ ④
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「そんなつもりはなかったですよ」
振り向くことなく、そう告げて、ドアノブに手をかける。できることなら戻ってきたくなかったことは事実ではあるけれど。
「今度は高藤さんのところ? まぁ、構わないけれど。――あぁ、そういえば、このあいだあなたの言うところの『うち』にお邪魔したときね、皓太くんにも会ったのよ」
飛び出した名前に、堪えきれず振り返る。嫌な感じしかしなかったのだ。
「大きくなっていて驚いたわ。いつまでも小さな子どもじゃないのね。だから、皓太くんでもいいのよ」
「……は?」
「私としては、鼎くんをおすすめしたいけれど。皓太くんも立派なアルファだもの。昔からあなたに懐いていたわけだしちょうど――」
気がついたときには、がん、と壁が大きな音を立てていた。
「冗談でも」
拳を下ろして、成瀬は努めて静かな声を出した。いくら母親とは言え、力で勝ててしまう相手に誇示してしまったような罪悪感がひしひしと湧いてくる。
「言っていいことと悪いことがあるでしょう」
「あなたもそんな顔をするのね」
「……あなたがさせたんでしょう」
「そうね。でも、少し前までのあなたなら、そんな突発的な行動に出なかったのではないかしら」
そうだとも違うとも言えなかったのは、思い当たる節がいくつもあったからだ。
ここ最近、なにかおかしいのではないかと問われたことは、一度や二度ではない。そのたびに、なんでもないで誤魔化し続けていたけれど。
認められるわけのない「限界」という言葉が、ぐわりと脳内に反響し始めている気がした。
「私はね、オメガが嫌いなの。嫌いな理由はいくつもあるけれど、そのうちのひとつが、そういった情緒不安定さなの」
勝ち誇った笑みを浮かべて、母がすっと指を掲げた。その爪先はまっすぐにこちらを射抜いている。
「随分と、みっともない顔をしてるわよ」
なにひとつ反論できなかった。
「感情に呑まれるな。そう私が言い続けてあげたことも、もう忘れてしまったのかしら」
*
――みっともない顔、か。
していたのだろうなという自覚は、辛うじてあった。つい先ほどというだけの話ではなく、この一、二ヶ月の話だ。
自分で自分をコントロールできない状況が、成瀬は一番嫌いだ。それなのに、あの日――みっともなくバランスを崩した日からずっと、自分の中のなにかはどこか不安定で、それを許せないでいる。
夏真っ盛りの外は、ひどく暑く蒸していた。家のあたりを意味もなくふらりと出歩くことは、随分とひさしぶりだった。
もうずっと用事以外で戻ってきてはいなかったし、長居しようともしていなかったからだ。無意識に、あの学園の寮を「うち」と表現してしまったくらいには、自分にとって実家は遠い場所になっていた。
――まぁ、だからって、皓太の家に行こうとはいまさら思わないけど。
あの家をある種の逃げ場にしていたのは、もっとずっと幼いころの話だ。
皓太にしても、自分のあとを無条件についてきていた子どもではない。こちらに戻ってきてまで顔を合わせたくはないだろう。
そう決めて、適当に駅のほうに向かおうとしていた足が、近づいてきた車の気配で止まる。
歩道脇に停車した車の運転席の窓が下りる。見覚えのない高級車だったが、覗いた顔は、見覚えのあるものだった。
「ひさしぶりだな、祥平」
近所に住んでいる大学生だ。見覚えがないから、きっとまた親に買ってもらった車なのだろう。大学生、というのも、自分が知らないうちに退学になっていなければ、という前提ではあるのだが。
面倒な人に絡まれたな、という内心には蓋をして、にこりと愛想よくほほえむ。人当たりの良い人間を演じるのは、半ば条件反射に近かった。
振り向くことなく、そう告げて、ドアノブに手をかける。できることなら戻ってきたくなかったことは事実ではあるけれど。
「今度は高藤さんのところ? まぁ、構わないけれど。――あぁ、そういえば、このあいだあなたの言うところの『うち』にお邪魔したときね、皓太くんにも会ったのよ」
飛び出した名前に、堪えきれず振り返る。嫌な感じしかしなかったのだ。
「大きくなっていて驚いたわ。いつまでも小さな子どもじゃないのね。だから、皓太くんでもいいのよ」
「……は?」
「私としては、鼎くんをおすすめしたいけれど。皓太くんも立派なアルファだもの。昔からあなたに懐いていたわけだしちょうど――」
気がついたときには、がん、と壁が大きな音を立てていた。
「冗談でも」
拳を下ろして、成瀬は努めて静かな声を出した。いくら母親とは言え、力で勝ててしまう相手に誇示してしまったような罪悪感がひしひしと湧いてくる。
「言っていいことと悪いことがあるでしょう」
「あなたもそんな顔をするのね」
「……あなたがさせたんでしょう」
「そうね。でも、少し前までのあなたなら、そんな突発的な行動に出なかったのではないかしら」
そうだとも違うとも言えなかったのは、思い当たる節がいくつもあったからだ。
ここ最近、なにかおかしいのではないかと問われたことは、一度や二度ではない。そのたびに、なんでもないで誤魔化し続けていたけれど。
認められるわけのない「限界」という言葉が、ぐわりと脳内に反響し始めている気がした。
「私はね、オメガが嫌いなの。嫌いな理由はいくつもあるけれど、そのうちのひとつが、そういった情緒不安定さなの」
勝ち誇った笑みを浮かべて、母がすっと指を掲げた。その爪先はまっすぐにこちらを射抜いている。
「随分と、みっともない顔をしてるわよ」
なにひとつ反論できなかった。
「感情に呑まれるな。そう私が言い続けてあげたことも、もう忘れてしまったのかしら」
*
――みっともない顔、か。
していたのだろうなという自覚は、辛うじてあった。つい先ほどというだけの話ではなく、この一、二ヶ月の話だ。
自分で自分をコントロールできない状況が、成瀬は一番嫌いだ。それなのに、あの日――みっともなくバランスを崩した日からずっと、自分の中のなにかはどこか不安定で、それを許せないでいる。
夏真っ盛りの外は、ひどく暑く蒸していた。家のあたりを意味もなくふらりと出歩くことは、随分とひさしぶりだった。
もうずっと用事以外で戻ってきてはいなかったし、長居しようともしていなかったからだ。無意識に、あの学園の寮を「うち」と表現してしまったくらいには、自分にとって実家は遠い場所になっていた。
――まぁ、だからって、皓太の家に行こうとはいまさら思わないけど。
あの家をある種の逃げ場にしていたのは、もっとずっと幼いころの話だ。
皓太にしても、自分のあとを無条件についてきていた子どもではない。こちらに戻ってきてまで顔を合わせたくはないだろう。
そう決めて、適当に駅のほうに向かおうとしていた足が、近づいてきた車の気配で止まる。
歩道脇に停車した車の運転席の窓が下りる。見覚えのない高級車だったが、覗いた顔は、見覚えのあるものだった。
「ひさしぶりだな、祥平」
近所に住んでいる大学生だ。見覚えがないから、きっとまた親に買ってもらった車なのだろう。大学生、というのも、自分が知らないうちに退学になっていなければ、という前提ではあるのだが。
面倒な人に絡まれたな、という内心には蓋をして、にこりと愛想よくほほえむ。人当たりの良い人間を演じるのは、半ば条件反射に近かった。
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