210 / 484
第三部
パーフェクト・ワールド・エンド19 ①
しおりを挟む
[19]
甘い、匂いがする。大嫌いなオメガの、甘い香り。
鼻についたその匂いに、向原は目を眇めた。無作為にアルファを誘うフェロモンは、着色料まみれの菓子に似ている。
胸やけを起こしそうな甘ったるい香りが、昔から好きではなかった。その匂いを利用して近づいてくるオメガも嫌いで、いつしか警戒することを覚えた。
だから、なのだろうか。それとも持って生まれた特性だったのだろうか。どちらかは知れないが、自分はオメガを嗅ぎ分ける能力が高かったらしい。……ということを、向原はこの学園に入ってから知った。
アルファのくせに、オメガをすぐに判別できない人間が馬鹿みたいにいたからだ。
ベータならまだしも、アルファが、オメガの男を「あいつはアルファだ」と言う。
馬鹿だろう、と心底呆れた。もう五年以上前のことだ。けれど、それだけで、それ以上のなにかをする気は少しもなかったのだ。
自分に害がないのなら、どうでもよかったから。
――どうでもいいままでいたほうが、よかったんだろうけどな。
そうしたら、変わらず楽なままだっただろうに。自分自身にうんざりとしながらも、向原は足を止めた。
こちらに近づいてきているのは、よく知る匂いだった。
不自然に一度途切れた足音に、向原は唇をゆがめた。この距離になるまでこちらの気配に気づいていなかったことに、単純に呆れたからだ。
――どこに敵がいてもおかしくないって考えないから、そうなるんだろうが。
苛立ちを抱えたまま、胸中で吐き捨てる。
激しい劣等感の裏返しのように、並みのアルファに負けないと思い込んでいる。だから自分は大丈夫なのだという主張は、こちらがなにを諭そうとも覆らなかった。
問題はないと繰り返すばかりの頑なな笑顔を前に、そんなわけはないだろうと思っていたけれど。
たしかに、通常であれば問題はないかもしれない。けれど、そうでない場合もあるはずだ。たとえば、――フェロモンのコントロールを失ったときだとか。
だから、気をつけろと言っていたのだ。その忠告をまともに受け取ろうともしなかった男に向かって、向原は静かに呼びかけた。
「成瀬」
半ば呆然とこちらを凝視していた視線が、そこでようやく足元に逸れる。
「っ、なんで、こう……会いたくないやつばっかり」
心底いやそうに呟いて踵を返そうとした成瀬に手を伸ばす。掴んだ腕は異常に熱かった。その腕が手の中でかすかに震える。
らしくなさに驚いたのは、本人も同じだったらしい。落ち着けるように小さく息を吐く。続いたのは感情を押し殺した低い声だった。
「離せ」
「それでおまえはどこに行くって?」
「おまえが……」
呆れたように言ってやっても、視線は一度も合わなかった。
「おまえがいないところだったら、どこでもいい」
掴んでいた指先に、ぐっと力が入る。けれど、前髪の隙間からのぞいた表情は、なにひとつ変わっていなかった。
最後の意地だと言わんばかりの、抑えた声音が要求を繰り返す。
「だから、離せって」
「成瀬」
「関係ねぇだろ、おまえには」
この状況で、よくそういうこと言えるよな。呆れ切ったまま、向原はもう一度呼びかけた。
「……だから、なんなんだよ」
少しの間のあとで、成瀬が顔を上げる。いかにも億劫そうであった以外は、いつもと同じだった。同じ、アルファの生徒会長の顔。見分するように視線を滑らせて、「来い」と言い放つ。
もううんざりだった。
あからさまな命令口調に、不快そうに成瀬が眉を寄せる。口を開こうとしたのを遮って、向原は言葉を重ねた。
「担ぎ上げられたくなかったら、着いてこいって言ってんだよ」
それとも、と脅すように周囲を見渡す。授業中だといっても、完全に人がいないわけではない。
「ここで揉めたいのか」
馬鹿みたいにプライドの高いこの男が、そんな状況を望むわけがないと知っていた。
甘い、匂いがする。大嫌いなオメガの、甘い香り。
鼻についたその匂いに、向原は目を眇めた。無作為にアルファを誘うフェロモンは、着色料まみれの菓子に似ている。
胸やけを起こしそうな甘ったるい香りが、昔から好きではなかった。その匂いを利用して近づいてくるオメガも嫌いで、いつしか警戒することを覚えた。
だから、なのだろうか。それとも持って生まれた特性だったのだろうか。どちらかは知れないが、自分はオメガを嗅ぎ分ける能力が高かったらしい。……ということを、向原はこの学園に入ってから知った。
アルファのくせに、オメガをすぐに判別できない人間が馬鹿みたいにいたからだ。
ベータならまだしも、アルファが、オメガの男を「あいつはアルファだ」と言う。
馬鹿だろう、と心底呆れた。もう五年以上前のことだ。けれど、それだけで、それ以上のなにかをする気は少しもなかったのだ。
自分に害がないのなら、どうでもよかったから。
――どうでもいいままでいたほうが、よかったんだろうけどな。
そうしたら、変わらず楽なままだっただろうに。自分自身にうんざりとしながらも、向原は足を止めた。
こちらに近づいてきているのは、よく知る匂いだった。
不自然に一度途切れた足音に、向原は唇をゆがめた。この距離になるまでこちらの気配に気づいていなかったことに、単純に呆れたからだ。
――どこに敵がいてもおかしくないって考えないから、そうなるんだろうが。
苛立ちを抱えたまま、胸中で吐き捨てる。
激しい劣等感の裏返しのように、並みのアルファに負けないと思い込んでいる。だから自分は大丈夫なのだという主張は、こちらがなにを諭そうとも覆らなかった。
問題はないと繰り返すばかりの頑なな笑顔を前に、そんなわけはないだろうと思っていたけれど。
たしかに、通常であれば問題はないかもしれない。けれど、そうでない場合もあるはずだ。たとえば、――フェロモンのコントロールを失ったときだとか。
だから、気をつけろと言っていたのだ。その忠告をまともに受け取ろうともしなかった男に向かって、向原は静かに呼びかけた。
「成瀬」
半ば呆然とこちらを凝視していた視線が、そこでようやく足元に逸れる。
「っ、なんで、こう……会いたくないやつばっかり」
心底いやそうに呟いて踵を返そうとした成瀬に手を伸ばす。掴んだ腕は異常に熱かった。その腕が手の中でかすかに震える。
らしくなさに驚いたのは、本人も同じだったらしい。落ち着けるように小さく息を吐く。続いたのは感情を押し殺した低い声だった。
「離せ」
「それでおまえはどこに行くって?」
「おまえが……」
呆れたように言ってやっても、視線は一度も合わなかった。
「おまえがいないところだったら、どこでもいい」
掴んでいた指先に、ぐっと力が入る。けれど、前髪の隙間からのぞいた表情は、なにひとつ変わっていなかった。
最後の意地だと言わんばかりの、抑えた声音が要求を繰り返す。
「だから、離せって」
「成瀬」
「関係ねぇだろ、おまえには」
この状況で、よくそういうこと言えるよな。呆れ切ったまま、向原はもう一度呼びかけた。
「……だから、なんなんだよ」
少しの間のあとで、成瀬が顔を上げる。いかにも億劫そうであった以外は、いつもと同じだった。同じ、アルファの生徒会長の顔。見分するように視線を滑らせて、「来い」と言い放つ。
もううんざりだった。
あからさまな命令口調に、不快そうに成瀬が眉を寄せる。口を開こうとしたのを遮って、向原は言葉を重ねた。
「担ぎ上げられたくなかったら、着いてこいって言ってんだよ」
それとも、と脅すように周囲を見渡す。授業中だといっても、完全に人がいないわけではない。
「ここで揉めたいのか」
馬鹿みたいにプライドの高いこの男が、そんな状況を望むわけがないと知っていた。
11
お気に入りに追加
141
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
花婿候補は冴えないαでした
いち
BL
バース性がわからないまま育った凪咲は、20歳の年に待ちに待った判定を受けた。会社を経営する父の一人息子として育てられるなか結果はΩ。 父親を困らせることになってしまう。このまま親に従って、政略結婚を進めて行こうとするが、それでいいのかと自分の今後を考え始める。そして、偶然同じ部署にいた25歳の秘書の孝景と出会った。
本番なしなのもたまにはと思って書いてみました!
※pixivに同様の作品を掲載しています
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
金の野獣と薔薇の番
むー
BL
結季には記憶と共に失った大切な約束があった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
止むを得ない事情で全寮制の学園の高等部に編入した結季。
彼は事故により7歳より以前の記憶がない。
高校進学時の検査でオメガ因子が見つかるまでベータとして養父母に育てられた。
オメガと判明したがフェロモンが出ることも発情期が来ることはなかった。
ある日、編入先の学園で金髪金眼の皇貴と出逢う。
彼の纒う薔薇の香りに発情し、結季の中のオメガが開花する。
その薔薇の香りのフェロモンを纏う皇貴は、全ての性を魅了し学園の頂点に立つアルファだ。
来るもの拒まずで性に奔放だが、番は持つつもりはないと公言していた。
皇貴との出会いが、少しずつ結季のオメガとしての運命が動き出す……?
4/20 本編開始。
『至高のオメガとガラスの靴』と同じ世界の話です。
(『至高の〜』完結から4ヶ月後の設定です。)
※シリーズものになっていますが、どの物語から読んでも大丈夫です。
【至高のオメガとガラスの靴】
↓
【金の野獣と薔薇の番】←今ココ
↓
【魔法使いと眠れるオメガ】
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
サンタからの贈り物
未瑠
BL
ずっと片思いをしていた冴木光流(さえきひかる)に想いを告げた橘唯人(たちばなゆいと)。でも、彼は出来るビジネスエリートで仕事第一。なかなか会うこともできない日々に、唯人は不安が募る。付き合って初めてのクリスマスも冴木は出張でいない。一人寂しくイブを過ごしていると、玄関チャイムが鳴る。
※別小説のセルフリメイクです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる