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第一部
パーフェクト・ワールド・ハルxx ①
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xx
遠い、と言ってしまったのは、正に「言ってしまった」で、つまりどういうことかというと、言うつもりなど全くなかったということで、言うべきことでもない、ということだった。
櫻寮の食堂に寮生が会した慰労会は、笑い声が絶えず祝賀会の雰囲気に満ち満ちていた。
同級生たちの輪の隅で、行人は曖昧な笑みを浮かべたまま、場内をそっと見渡した。中等部のころに比べれば、真面な受け答えが出来るようになったのではないかと自負している。けれど、それとは別問題で、やはり肩は凝るし、気を張っている分、疲れもする。
――でも、だからって、さすがにここで一人寮室には戻れないしなぁ。
そう思えるだけの分別があって何よりだ、と苦笑いを浮かべてくれただろう同室者の姿は同じ輪の中にはない。
少し離れたところで、茅野や柏木たちと話し込んでいることは分かっていたが、なんとなくそちらに近づくことは出来なかった。
――べつに、誰とでも喋れるでしょ、榛名は。
良かったじゃん、というように。けれど、その声は、どこか遠かった。
投げやり、とでもいえばいいのだろうか。いや、突き放された、のほうが近いかもしれない。
少しずつ詰めていたはずの距離を不意に一挙に離されたような、そんな気がして。
――そんなこと、気にするようなことじゃないのに。
むしろ、距離があることが、安心であるはずなのに。
和やかな場にそぐわない顔になっているように思えて、行人は吐きたくなった溜息を呑み込んだ。
少し外そうと中庭に抜け出すことに決めて、ひっそりと輪から外れる。食堂から直結しているガラス戸を閉めると、はしゃぐ声が遠のいて、夜の風が耳朶を擦っていった。
昼間は暑いくらいだったのに、今はほのかに肌寒いくらいだ。
中抜けしたことに気が付かれない程度には早く戻ろう、と。中庭をぐるりと見回した先で、木の近くに誰かが立っていたことに気が付いた。
同じようなことを考えていたのは、自分だけではなかったらしい。
先客の邪魔をしないようにと、来たばかりの足を返そうとした瞬間。意外な声で名前を呼ばれた。
「行人」
「成瀬さん?」
つい先ほどまで茅野たちと一緒に場の中心にいたと思ったのに。
「良いんですか、中にいなくて」
「そう言う行人こそ」
笑顔に誘われるまま近づいた先で、そう切り返されて、行人は言葉に詰まった。そして誤魔化すように口を開く。
「俺はいてもいなくても、……でも、成瀬さんは、その」
みんな、話しかけたいだろうし。思いがけず二人きりになれて嬉しかったのは事実だけれど。
「今日だけだよ。それに、ちょっと疲れたかな。茅野は元気が有り余ってるみたいだけど」
あいつの元気はどこから出てくるんだろうなぁと苦笑いの成瀬に、行人も笑った。櫻寮の優勝だ、と高笑いが止まらない様子だった寮長の姿が自然と脳裏に浮かぶ。
「だから、ちょっと休憩。行人と一緒」
「……ですね」
優しい微笑に、肩からふっと力が抜けた。
「楽しいけどな、こういうのも。たまにのことだし」
「成瀬さん」
「ん?」
「高藤、怒ってると思います?」
柔らかな声に押されるように、つい、そんなことを聞いてしまった。
怒っている、のだろうか。それともそうですらないのだろうか。言葉にした瞬間から、また曖昧になっていく。
「怒ってるって、皓太が? だとして、誰に? ……行人?」
意外そうに彼が眉を上げる。それから行人の不安を取り除くようにいつもの顔で微笑んだ。
「うーん、どうだろうな。良くも悪くも皓太は感情を制御するのが上手いから、昔からあんまり怒らなかったよ、俺に対しても」
「それは成瀬さんに怒るようなことがないからじゃ」
「まさか。皓太は俺の駄目なところも嫌なところも十分知ってると思うけどなぁ。どちらかというと、怒るを通り越して呆れてるところもあるんじゃないかな」
「まさか」
図らずしも同じ言葉を返した行人に、成瀬が小さく笑った。
「まぁ、でも。そのある意味で分かりにくい皓太を、怒ってると思うということは、行人はちゃんと皓太を見てるんだろうな」
微笑ましいものを見るような瞳に、行人は飛び出しかけた言葉を呑み込んだ。
でも、だって。
俺がそれを分かったところで。高藤は望んでいないのかもしれない。あるいは、俺がいつのまにか甘えて踏み込み過ぎたのかもしれない。そして、高藤はそれに嫌気が差したのかもしれない、なんて。言えるわけがなかった。
「気になるんだったら、聞いておいで。行人には怒ってないと思うよ。あれはどちらかというと、……、いや、俺が言うことでもないな。ほら」
成瀬の視線を辿ると、明るい窓の先だった。
「こっちを気にしてるから」
遠い、と言ってしまったのは、正に「言ってしまった」で、つまりどういうことかというと、言うつもりなど全くなかったということで、言うべきことでもない、ということだった。
櫻寮の食堂に寮生が会した慰労会は、笑い声が絶えず祝賀会の雰囲気に満ち満ちていた。
同級生たちの輪の隅で、行人は曖昧な笑みを浮かべたまま、場内をそっと見渡した。中等部のころに比べれば、真面な受け答えが出来るようになったのではないかと自負している。けれど、それとは別問題で、やはり肩は凝るし、気を張っている分、疲れもする。
――でも、だからって、さすがにここで一人寮室には戻れないしなぁ。
そう思えるだけの分別があって何よりだ、と苦笑いを浮かべてくれただろう同室者の姿は同じ輪の中にはない。
少し離れたところで、茅野や柏木たちと話し込んでいることは分かっていたが、なんとなくそちらに近づくことは出来なかった。
――べつに、誰とでも喋れるでしょ、榛名は。
良かったじゃん、というように。けれど、その声は、どこか遠かった。
投げやり、とでもいえばいいのだろうか。いや、突き放された、のほうが近いかもしれない。
少しずつ詰めていたはずの距離を不意に一挙に離されたような、そんな気がして。
――そんなこと、気にするようなことじゃないのに。
むしろ、距離があることが、安心であるはずなのに。
和やかな場にそぐわない顔になっているように思えて、行人は吐きたくなった溜息を呑み込んだ。
少し外そうと中庭に抜け出すことに決めて、ひっそりと輪から外れる。食堂から直結しているガラス戸を閉めると、はしゃぐ声が遠のいて、夜の風が耳朶を擦っていった。
昼間は暑いくらいだったのに、今はほのかに肌寒いくらいだ。
中抜けしたことに気が付かれない程度には早く戻ろう、と。中庭をぐるりと見回した先で、木の近くに誰かが立っていたことに気が付いた。
同じようなことを考えていたのは、自分だけではなかったらしい。
先客の邪魔をしないようにと、来たばかりの足を返そうとした瞬間。意外な声で名前を呼ばれた。
「行人」
「成瀬さん?」
つい先ほどまで茅野たちと一緒に場の中心にいたと思ったのに。
「良いんですか、中にいなくて」
「そう言う行人こそ」
笑顔に誘われるまま近づいた先で、そう切り返されて、行人は言葉に詰まった。そして誤魔化すように口を開く。
「俺はいてもいなくても、……でも、成瀬さんは、その」
みんな、話しかけたいだろうし。思いがけず二人きりになれて嬉しかったのは事実だけれど。
「今日だけだよ。それに、ちょっと疲れたかな。茅野は元気が有り余ってるみたいだけど」
あいつの元気はどこから出てくるんだろうなぁと苦笑いの成瀬に、行人も笑った。櫻寮の優勝だ、と高笑いが止まらない様子だった寮長の姿が自然と脳裏に浮かぶ。
「だから、ちょっと休憩。行人と一緒」
「……ですね」
優しい微笑に、肩からふっと力が抜けた。
「楽しいけどな、こういうのも。たまにのことだし」
「成瀬さん」
「ん?」
「高藤、怒ってると思います?」
柔らかな声に押されるように、つい、そんなことを聞いてしまった。
怒っている、のだろうか。それともそうですらないのだろうか。言葉にした瞬間から、また曖昧になっていく。
「怒ってるって、皓太が? だとして、誰に? ……行人?」
意外そうに彼が眉を上げる。それから行人の不安を取り除くようにいつもの顔で微笑んだ。
「うーん、どうだろうな。良くも悪くも皓太は感情を制御するのが上手いから、昔からあんまり怒らなかったよ、俺に対しても」
「それは成瀬さんに怒るようなことがないからじゃ」
「まさか。皓太は俺の駄目なところも嫌なところも十分知ってると思うけどなぁ。どちらかというと、怒るを通り越して呆れてるところもあるんじゃないかな」
「まさか」
図らずしも同じ言葉を返した行人に、成瀬が小さく笑った。
「まぁ、でも。そのある意味で分かりにくい皓太を、怒ってると思うということは、行人はちゃんと皓太を見てるんだろうな」
微笑ましいものを見るような瞳に、行人は飛び出しかけた言葉を呑み込んだ。
でも、だって。
俺がそれを分かったところで。高藤は望んでいないのかもしれない。あるいは、俺がいつのまにか甘えて踏み込み過ぎたのかもしれない。そして、高藤はそれに嫌気が差したのかもしれない、なんて。言えるわけがなかった。
「気になるんだったら、聞いておいで。行人には怒ってないと思うよ。あれはどちらかというと、……、いや、俺が言うことでもないな。ほら」
成瀬の視線を辿ると、明るい窓の先だった。
「こっちを気にしてるから」
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