48 / 484
第一部
パーフェクト・ワールド・ハルⅧ ④
しおりを挟む「成瀬さん」と初めて呼んだのは、この学園の中等部に入学した日のことだった。
敵わないと思ったのは、あの人が榛名を抱えて戻ってきた日のことだった。
「祥平、おまえ、何やった」
珍しく焦燥の滲んだ顔で飛び込んできた向原も、騒然としていた寮内の空気も。何も分からなかったが、その渦中に、同室者の小さな身体があるということだけは分かった。
つられるようにして、あぁ、そう言えばと思い出した。あのころは、向原さんは名前で呼んでいた、あの人のことを。
「でも!」
「見たのか」
続きを察したのか、諦めたのか。何を、とも言わずその一言を向原は叩きつけた。糾弾するように成瀬の肩に伸びた手は、寸で握り込まれた。そして、ダン、と壁が鳴って、寮部屋が揺れた。
視線が絡んでいたのは、数瞬だったと思う。もう一度、壁が鳴った。そして、向原が身を翻した。
誰も何も言わなかった。咽返るような、甘い、甘い香り。いつも同室者が人工的な甘い香りを身に付けているのは周知の事実だ。付け過ぎたのだろう、あるいは、瓶が割れたのかもしれない。
そう思うことにして、皓太は窓を開けた。寮のざわめきが入り込んでくる。いつもの空気ではない。孕んでいるのは、緊張か興奮か。どこからか、悲鳴のような泣き声が聞こえて、――そして、翌日。
三人の退学者が出た。それだけが事実だ。
憶測は憶測を呼んだが、真実は曖昧なまま、日常は日常に戻っていった。寮のトップには茅野がいて、生徒会には成瀬が、向原が、篠原がいた。図らずしも今と同じだった。
けれど、俺は、何も知らない。知らないままのほうが、良いと思ったからだ。何も知らない。
あいつは、顔は……まぁ、確かに可愛いとは思うけれど、それ以上に性格が可愛くなくて、生意気で、口が悪くて、扱いづらくて、けれど不器用なだけで真面目で、まっすぐな、同室者。
その認識のままでいることが互いの為だと、分かっていた。けれど、もしかすると、その判断は間違いだったのだろうか。
そこだけは安全なのだと必死で訴えかけるかのように、成瀬の腕を掴んだまま、蹲っている榛名を見ながら、そう思った。
そして、今になって、ふと思う。あれは「見られたのか」ではなかっただろうか、と。何をかは分からないのだけれど。
自室の扉をそっと開けると、まだ電気が点いていた。おそらく自分のため、だ。榛名は上手く行っているかどうかはさて置いて、案外、気を使っている。
「悪い、遅くなった」
声をかければ、曖昧な応えが榛名のベッドから聞こえた。目元を掌で押さえたまま、仰向けに転がっている。
「また頭痛?」
「偏頭痛持ちじゃないおまえには、絶対にこの辛さは分からない」
呪詛のごとく鬱々としたそれに、皓太は気がつかれないように笑った。昔みたいに理由も言わないで難しい顔で黙り込まれるよりは遥かにマシだ。
なんで俺、こんなに嫌われているのだろう、と。気を揉んでいた日々が懐かしい。
「薬、飲んだら良いのに。ちょっとはマシになるんじゃないの?」
「どんな薬でも、飲み続けるのは良いことじゃねぇよ」
わずかな沈黙のあとで返ってきた答えに、そんなものなのだろうか、と皓太は首をひねった。昔から身体は丈夫だったから、服薬の経験はほとんどないのだ。
「最近、忙しかったもんな。明日でそれも終わるし、ゆっくりしろよ」
光量を絞りながら労わると、「おまえもだろ」と、どこか拗ねたような声が飛んできて。
――こいつ、ここまで来て、まだ本番を見るのが嫌なのか?
「張り切って応援してあげれば良いじゃん。拗ねてないで。どうせ明日なんだし、そのほうが喜ぶと思うけど」
「なんの話……って、あぁ、それか。そういや茅野さんにも似たようなこと、言われた」
違ったのだろうかと榛名の方に視線を向ける。薄暗がりの中でも、口元が微笑んでいるのが分かった。
「成瀬さん、か」
「どうかした?」
「なんでも……というか、うん、そうだな」
珍しく柔らかな声で、榛名が言う。まるで夢の中の幸せを反芻するように。
「三年経っても、あの人はヒーローだなって思ってた。ヒーローと言うか、神様と言うか、よく分からないけど」
はにかんだそれに、ずしりと重いものが胃に落ちてきたような気がした。あんな話を聞いたせいだろうか。
ただの刷り込みじゃないのか、あのとき助けてもらったという、それだけの。そんな言葉を飲み込んで、なんでもない声で皓太は応じた。
「おまえは本当に好きだね、あの人のこと」
でも、だからといってどうにもならない。成瀬はアルファで榛名はベータだ。
成瀬が選ぶのは、オメガだ。あるいはアルファの女性かも知れないけれど。どちらにせよ、彼が榛名を選ぶことはあり得ない。
「うん、そうだな」
榛名は素直に肯定した。
「でも、だからどうってわけじゃないんだけど。幸せになってほしいとは思うよ。それこそ俺が言うようなことじゃないんだろうけど」
幸せ。なぜかその単語が脳内をゆっくりと巡っていた。幸せ。楽園。理想。だったらばここは誰のための世界なのだろう。
「おやすみ」
逃げるように口にして、皓太も布団に潜り込んだ。
そして今度脳裏によぎったのは、先ほどの邂逅の続きだった。
中等部に入学してすぐの頃、わざわざ成瀬が皓太たちの寮室に顔を見せたことがあった。そして、榛名のいないところでふとこんなことを言われたのだ。
「気を付けてあげても良いかもな。もちろん、皓太の負担にならない範囲で、だけど」
俺は、――俺は、その本意を、分かっていなかった。あの瞬間まで。
だから、思ったのだ。俺は、この人を超えられない。それがどこまでのものかは分からないけれど、ただ一つはっきりと分かった境界線がある。
榛名の中では、俺は絶対に、この人を超えられないのだ、と。
11
お気に入りに追加
139
あなたにおすすめの小説
嫌われものの僕について…
相沢京
BL
平穏な学校生活を送っていたはずなのに、ある日突然全てが壊れていった。何が原因なのかわからなくて気がつけば存在しない扱いになっていた。
だか、ある日事態は急変する
主人公が暗いです
チャラ男会計目指しました
岬ゆづ
BL
編入試験の時に出会った、あの人のタイプの人になれるように…………
――――――それを目指して1年3ヶ月
英華学園に高等部から編入した齋木 葵《サイキ アオイ 》は念願のチャラ男会計になれた
意中の相手に好きになってもらうためにチャラ男会計を目指した素は真面目で素直な主人公が王道学園でがんばる話です。
※この小説はBL小説です。
苦手な方は見ないようにお願いします。
※コメントでの誹謗中傷はお控えください。
初執筆初投稿のため、至らない点が多いと思いますが、よろしくお願いします。
他サイトにも掲載しています。
【完結】私立秀麗学園高校ホスト科⭐︎
亜沙美多郎
BL
本編完結!番外編も無事完結しました♡
「私立秀麗学園高校ホスト科」とは、通常の必須科目に加え、顔面偏差値やスタイルまでもが受験合格の要因となる。芸能界を目指す(もしくは既に芸能活動をしている)人が多く在籍している男子校。
そんな煌びやかな高校に、中学生まで虐められっ子だった僕が何故か合格!
更にいきなり生徒会に入るわ、両思いになるわ……一体何が起こってるんでしょう……。
これまでとは真逆の生活を送る事に戸惑いながらも、好きな人の為、自分の為に強くなろうと奮闘する毎日。
友達や恋人に守られながらも、無自覚に周りをキュンキュンさせる二階堂椿に周りもどんどん魅力されていき……
椿の恋と友情の1年間を追ったストーリーです。
.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇
※R-18バージョンはムーンライトノベルズさんに投稿しています。アルファポリスは全年齢対象となっております。
※お気に入り登録、しおり、ありがとうございます!投稿の励みになります。
楽しんで頂けると幸いです(^^)
今後ともどうぞ宜しくお願いします♪
※誤字脱字、見つけ次第コッソリ直しております。すみません(T ^ T)
【doll】僕らの記念日に本命と浮気なんてしないでよ
月夜の晩に
BL
平凡な主人公には、不釣り合いなカッコいい彼氏がいた。
しかしある時、彼氏が過去に付き合えなかった地元の本命の身代わりとして、自分は選ばれただけだったと知る。
それでも良いと言い聞かせていたのに、本命の子が浪人を経て上京・彼氏を頼る様になって…
主人公は俺狙い?!
suzu
BL
生まれた時から前世の記憶が朧げにある公爵令息、アイオライト=オブシディアン。
容姿は美麗、頭脳も完璧、気遣いもできる、ただ人への態度が冷たい冷血なイメージだったため彼は「細雪な貴公子」そう呼ばれた。氷のように硬いイメージはないが水のように優しいイメージもない。
だが、アイオライトはそんなイメージとは反対に単純で鈍かったり焦ってきつい言葉を言ってしまう。
朧げであるがために時間が経つと記憶はほとんど無くなっていた。
15歳になると学園に通うのがこの世界の義務。
学園で「インカローズ」を見た時、主人公(?!)と直感で感じた。
彼は、白銀の髪に淡いピンク色の瞳を持つ愛らしい容姿をしており、BLゲームとかの主人公みたいだと、そう考える他なかった。
そして自分も攻略対象や悪役なのではないかと考えた。地位も高いし、色々凄いところがあるし、見た目も黒髪と青紫の瞳を持っていて整っているし、
面倒事、それもBL(多分)とか無理!!
そう考え近づかないようにしていた。
そんなアイオライトだったがインカローズや絶対攻略対象だろっ、という人と嫌でも鉢合わせしてしまう。
ハプニングだらけの学園生活!
BL作品中の可愛い主人公×ハチャメチャ悪役令息
※文章うるさいです
※背後注意
元会計には首輪がついている
笹坂寧
BL
【帝華学園】の生徒会会計を務め、無事卒業した俺。
こんな恐ろしい学園とっとと離れてやる、とばかりに一般入試を受けて遠く遠くの公立高校に入学し、無事、魔の学園から逃げ果すことが出来た。
卒業式から入学式前日まで、誘拐やらなんやらされて無理くり連れ戻されでもしないか戦々恐々としながら前後左右全ての気配を探って生き抜いた毎日が今では懐かしい。
俺は無事高校に入学を果たし、無事毎日登学して講義を受け、無事部活に入って友人を作り、無事彼女まで手に入れることが出来たのだ。
なのに。
「逃げられると思ったか?颯夏」
「ーーな、んで」
目の前に立つ恐ろしい男を前にして、こうも身体が動かないなんて。
台風の目はどこだ
あこ
BL
とある学園で生徒会会長を務める本多政輝は、数年に一度起きる原因不明の体調不良により入院をする事に。
政輝の恋人が入院先に居座るのもいつものこと。
そんな入院生活中、二人がいない学園では嵐が吹き荒れていた。
✔︎ いわゆる全寮制王道学園が舞台
✔︎ 私の見果てぬ夢である『王道脇』を書こうとしたら、こうなりました(2019/05/11に書きました)
✔︎ 風紀委員会委員長×生徒会会長様
✔︎ 恋人がいないと充電切れする委員長様
✔︎ 時々原因不明の体調不良で入院する会長様
✔︎ 会長様を見守るオカン気味な副会長様
✔︎ アンチくんや他の役員はかけらほども出てきません。
✔︎ ギャクになるといいなと思って書きました(目標にしましたが、叶いませんでした)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる