パーフェクトワールド

木原あざみ

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第一部

パーフェクト・ワールド・ハルΦ ⑥

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 肌に触れる夜風は、まだ冷たい。蒸し暑いと感じるようになれば、卒業までもあっというまなのかもしれない。

――どちらにしても、あと、一年か。

「向原さん」

 近づいてくる砂利を踏む足音に視線を持ち上げた。高藤皓太。この学園に入学する前から向原のことを知っているからか、自分に対して必要以上に物怖じしない変わり者で、成瀬の可愛がっている子どもだ。

「向原さん、こういうのに姿現さないって思ってた」
「あいつらが煩いからな、顔だけ」
「それだって、どうとだって出来るじゃないですか。その気があれば」

 ある意味で、それは正しい。否定も肯定もせず、成瀬の方を見やる。輪の中で笑っている姿に、嫉妬するというよりは、ほっとした。
 この空間でなら、ある程度は肩の力を抜いていると分かるから。

「ところで、また機嫌悪いんですか?」
「篠原か」

 どこか笑いを含んだ言い様に、向原も小さく笑った。

「まさか。そんな面倒なこと続けるわけねぇだろ。まぁ、――多少は気にするかとも思ったが、あの通りだしな」
「……でしょうね」

 諦めを含んだ応えに、なんとはなしに向原は言葉を継いだ。

「面倒なことになるから止めとけば良いのに、と思ったのも事実だけどな。あいつ、言うこと聞かねぇから」
「仕方ないと思うしかないですもんね」
「あいつの、母親」
「え?」
「絶対、良い顏しねぇぞ。知ったら」

 また電話なりなんなりで猛抗議を受けて、頭を抱えるだろう未来は簡単に予見できるのに。アルファであれ。有能なアルファであれ。アルファの中でも飛びぬけた一握りであれ。あいつにその呪いをかけた張本人。

「上手く立ち回れるつもりなんでしょう、本人は」

 その家庭環境を、――根本的なところは知らないだろうが――、知っている察しの良い子どもは、困ったように息を吐いた。

「本人は、な」

 答えを求めていたわけでもなかったが、子どもは何も言わない。つまり、そういうことだ。
 二つの輪が出来上がっている中庭はいかにも長閑な風情だった。手持ち花火の煙と、火薬の匂い。

 ――箱庭の、楽園。

 そんなことを言っていたのは、まだ中等部に在籍していたころの成瀬だ。

「なんか、甘い匂いがする」

 不意に声が耳に届いたのは、懐かしいことを思い出していた折だった。

「たぶん、榛名ちゃんですよ。あの子、いつも甘い香水付けてるから」
「どうりで。確かにあっちからだわ。嫌な臭いでは全然ないけど」
「よく分かりますね。この火薬の匂いの中で」

 驚きの混じった皓太の声に、風上だからな、と短く答えて、向原はゆっくりと足を中庭へと向けた。

「あ、向原」

 近づいてきたのを見とめて、成瀬が顔を上げる。

「花火する? まだ選べるくらいあるらしいけど」
「しない」
「なんだ、向原。やっと出てきたと思ったらやる気のない。確かにねずみ花火の類は危険だからないけどな、それ以外なら揃っているぞ」
「誰が投げつけたいって言ったよ、おまえに」
「そもそもとして、なんで投げつけられないといけないんだ。ねずみ花火の楽しみ方はそれではないからな。というか、なんだ。おまえ、まだ俺に対して思うところでもあるわけか」

 ちらちらとこちらを窺う小動物に、溜息を吐きかけて、止めた。「分かりやすく優しくしてやれ」と煩い手合いがもう一人いる。
 ある意味で、おまえよりずっと俺のほうがそいつに対して優しいだろうと思うのだが。
 甘やかしすぎだろう、どいつもこいつも。との本音も呑み込んで、「成瀬」と当初の目的を呼ぶ。

「上着」

 羽織っていたそれを突き出すと、瞳が瞬いた。

「いらないけど」
「成瀬ー。おまえが今ここで不精して風邪でも引いてみろ、卒業するまで恨むからな」
「長ぇよ、分かった、分かった」

 伸びてきた白い手が攫って、肩から羽織る。ふわり、と匂いが変わったような気がした。

 おまえのそれって、マーキングのつもりなの。呆れたふうに一度、昔、篠原に言われたことがある。そうやって、あいつの部屋にやたら入り浸っているのとか、あいつの服とおまえの服がよく入れ替わっているのとか。
 意識していたつもりはなかったが、そうだったのかもしれないとは思った。相変わらず、野生の勘のようなものかもしれないが、よく見ている。
 花のような、甘い香り。引き寄せられるのは、アルファとしての本能なのだろうか。この男の運命は、どこにいるのだろう。ずっと遠いところにいればいい。そうすれば、出逢うこともないだろうから。あるいは、ずっと近くにいればいい。そうすれば、出逢えなくさせてやれるから。
 向原のつがいは幸せだろうな。いつか何の他意もなさそうに成瀬が言っていた言葉を思い出した。俺は、おまえに現れるかもしれない運命を握りつぶしたいと思っている。そんなことを知ろうともしないで、信頼していますと言わんばかりの顔で笑う。
 本当は、誰も信じてなどいないくせに。
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