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回ってきた決裁書に目を通していると、「あ、それ」と通りがかった後輩が声を上げた。視線を向けると、こそりと話しかけてくる。
「桧山さんめっちゃビビってたらしいですよ」
「へ?」
面白がっていることが透けたそれに、離れたところで主任と話をしていた桧山の様子を思わず暎は確認した。そうしてから、後輩に向き直る。
「ふだんにこにこしてる堂野さんが怒ったから、茶化しすぎたかもしらんって」
「……それ、反省したでええんやない?」
ビビらせた覚えはいっさいないし、そもそもとして怒った覚えもないのだが。
「でも、このあいだの夏休も、桧山さんが主任に言ってたんですよ。休まんから苛々するんやいうて訴えてはりましたけど。あの強引さすごいですよね」
「あぁ」
なにが「でも」なんやろなぁ、と思いつつ、苦笑いで相槌を打つ。結託していたということらしいが、気を使ってもらったのだと思うほかない。
思惑はどうあれ、そのおかげで、春海と向き合う時間を取ることができたのだろうし。
「まぁ、でも、苛々しとったわけではほんまにないけど、リフレッシュにはなったで。ありがたい思っとくわ」
「そうしてあげてください。それで、たまには、素のところも出してあげないと」
また休み取らされますよ、と笑った彼女が、あ、とカウンターに向かっていく。窓口で応対を始めた後ろ姿を見とめて、暎は手元の決裁書へ視線を戻した。
いろいろな人がいるのだなということを改めて実感したのは、働き始めてからのことだ。
昔は自分と自分の周囲だけが世界だったけれど、そうではない。十人いれば十通りの事情があって、考え方があって、人生がある。
どれだけ近しい相手でも、なにも言わないままにすべてを理解し合うことなんて、不可能だ。もちろん、話してからと言って、百パーセントを理解できるとは限らない。でも、百パーセントの共感はできなくても、考えを知ることはできる。
大学を卒業するとき、春海がどんな選択をするのかはわからないけれど、戻ってこいと言うつもりはない。
それは、まぁ、近くにいてくれたら、すごく、すごくうれしいけれど。でも、場所がどこであっても、同じ方向を見て進んで行くことが、今ならきっとできると思うから。
一ヶ月前と同じ、駅前のターミナル。あの日と違うのは、今が夜だということと、少しでも名残を惜しみたくて、わざわざ駅裏の駐車場を選んだこと。そうして、助手席に座る疎遠になっていたはずの幼馴染が「恋人」になったことだろうか。
お金もないで、帰りは夜行バスにするわ、という報告を聞いたのが二日前なのだから、本当に来るのも帰るのも唐突だ。
……なんか、あっというまやったな、ほんま。
春海が帰ってきた当初、長いと気鬱になっていた夏は、あっというまに過ぎ去ってしまった。空いていた駐車場に車を止めて、シートベルトを外す。同じように外しながら、「七海ちゃん、元気そうでよかったなぁ」と春海が言う。
「まぁ、……せやな」
「今日もわざわざ見送りに来てくれたし。あのまま梨花ちゃんのとこに泊まるんやろ? あいかわらず仲良しやねぇ」
「まぁ」
「そんな嫌そうな声出さんでも。帰ってきたら、あき兄ちゃんもヤケ酒付き合って~って言うてたやん。……あれ、そういや、あの子、まだ二十歳になってないんやなかった?」
「ヤケ酒言うてるだけで、ジュースとお菓子しか入っとらんで、あの袋」
たしかに、パンパンに膨らんだコンビニのビニール袋を抱えていたけれど。根負けしておざなりな相槌をやめた暎に、春海が笑った。
「気にしぃやねぇ、あきちゃんは」
自分が気にしすぎているという問題なのだろうか、これは。黙ったまま深く座り直す。
「だって、あきちゃんが気にしとるん、『めっちゃ嫌な態度取ってもうてんけど』って言ってたことのほうやろ。せやったら、もうしゃあないやん」
「そら、まぁ、……そうやけど」
「まぁ、でも、俺はちゃんと断ったよ」
「は?」
予想していなかった台詞に、暎は身体ごと振り向いた。その勢いにか、春海は苦笑いを浮かべている。
「なんなん、その反応。せやなかったら、なんのヤケ酒なんよ。あぁ、ジュースなんやったっけ? まぁ、なんでもええけど」
「……おまえが帰るから?」
「ちゃいます。ちゃんと時間取ったん。はっきり言えんままバイバイいうんもきついやろなぁ思ったから。七海ちゃんが話したいって言うてくれてたんは、ほら、あきちゃんから聞いとったし」
「…………」
「ん? あぁ、あきちゃんのことはなんも言うてへんよ」
大丈夫とばかりにほほえまれて、暎は頭を振った。そういう問題ではない。
「やなくて。……その、そんなやつやったっけ、おまえ」
たしかに、高校生だったころも、告白をされたら、きっちり断っていた気はするけれど。告白をされる機会をつくらない立ち回りに注力していた記憶のほうが強烈に残っている。
だから、七海のことも、気づかないふりを決め込んで東京に戻ると思い込んでいたのだ。
――はっきり言えんまま、バイバイもきつい、なぁ。
正論ではあるものの、なぁなぁを好む傾向のある春海にしては珍しい台詞だったな、と思う。疑惑をぶつけた暎に、嫌やなぁ、と春海がへらりと笑った。
「経験談やって。そら、俺もちょっとはまともになるよ」
「べつに、まともやなかったって思ってたわけやないけど」
「えぇ、ほんまに?」
「ほんまに」
バツの悪さを覚えつつ、ぼそぼそと続ける。
「七海も、そら、そのほうがよかったと思うし」
「それやったら、よかった」
ちゃんとした甲斐があったわ、とあっさりと春海が請け負ったところで、会話が途切れた。時間が気になって、スマートフォンで確認する。九時二十五分。
夜行バスの発車時間は五十分だから、まだ少し時間はある。それで、向こうに着くのが、明日の朝、六時三十分。
行こうと思えば、行くことはできる。でも、遠いな、と思う。スマートフォンをしまって、「二十五分」と暎は春海に告げた。
「そっか。ちょっと早く出すぎたかもしれんね。ごめんな、付き合わせて」
「べつに」
ぽつりと応じて、もやりとしたものに一度蓋をする。好きで付き合っているだけだし、早目に出発を決めたのは自分だ。
実家にいると家族の存在が気になってしまうから、帰る前にふたりで過ごす時間が取れたらいいな、と。らしくもなくそんなことを思って。それなのに、春海はそういうふうに思わないのだろうか。じっと見つめていると、春海が首を傾げた。
「なに?」
もう一度、べつに、と言いかけたところで口を噤む。
あの日のように完全にふたりになる時間がなかったから、というだけの理由かもしれないが、それにしても、この三日、あまりにもなにもしていないな、と思ったからだ。
なにって、つまり、付き合った人間らしいことを、ということ。
「あきちゃん?」
他意もなにもなさそうな、不思議そうな顔。自分のことを本当に好きなのか、と拗ねてみせるほどの幼さは持ち合わせていないし、そもそも、春海が好いてくれていることは、誰よりも自分が知っている。
だから、なんでもない、と答えずに、問いかけることを選んだのは、ちょっとした時間稼ぎのつもりだった。
「はるって、俺のどこが好きなん?」
「梨花ちゃんみたいなこと言うやん」
ほんのわずか、きょとんとした表情を見せたあとに、思いきりよく吹き出したものだから、暎は完全に不貞腐れた。名残惜しさもなにもあったものではないし、らしくないことなどするものではなかった。おざなりに前言を撤回する。
「もうええわ」
「嘘、嘘。ちょっとびっくりしただけ。でも、そうやなぁ」
「ええ言うてるやろ」
「ええやん、言わせてぇな」
宥めるようにそんなことを言って、そうやなぁ、と繰り返していた春海が、ふっとした笑みをこぼした。
「なんやろ。要領良いつもりで、ぜんぜんそんなことないとことか?」
「え」
まったく意外だった返答に、ついふつうに反応してしまった。その暎を見て、またくすくすと春海が笑う。
「いや、悪いわけやないと思うけど、『要領良い』って、適当に良い感じに手ぇ抜ける人のことやと思うで? あきちゃん、目配りも気配りもきくけど、貧乏くじ引いてる感じのほうが強いんやもん。過労死せんとってや」
「せんわ、そんなもん」
「それやったらええけど。せやで、お人好し言うねんで、俺。頼まれたら、自分でできることやったら基本断らんし、おまけに押しつけられても嫌な顔せんし、実際、そこまで嫌やとも思っとらんし」
ぶっきらぼうな一言さえも、今度は返すことができなかった。黙り込んだ暎に、とどめのように春海が言う。
「でも、そうやって、めちゃくちゃいい子のくせに、俺の前でだけ妙にわがままなんよなぁ、昔から」
「……悪かったな」
「ううん」
なんで、こんな評を聞かされとるんやろうな、と思いつつも謝れば、衒いなく春海が首を振った。
「うれしかってん」
「うれしかったって……」
「あきちゃんの特別みたいで、俺、うれしかったよ」
ここでそんな顔をするのは、反則だろう。言葉どおりのうれしそうな、見ているこちらが気恥ずかしくなりそうな、愛おしそうな瞳。どうにもたまらなくて、暎は手元に視線を落とした。エアコンの音が静かな車内に響く。
「聞かんかったらよかった」
「なんでよ」
「帰らんかったらええのにって思ってまうやん」
「帰らんかったら引きこもりのニートになるで、俺」
「わかっとるよ」
笑って、暎は繰り返した。
「わかっとる」
「あきちゃん」
昔から変わらない調子で名前を呼ばれて、隣に視線を向ける。目が合った途端に、柔らかな色の瞳がにこりと笑んで、やっぱり、好きやな、と知った。
「キスしてもいい?」
「いちいち聞かんでええやろ」
それは、まぁ、急にそれか、だとか、利用者がいないとは言え駐車場だ、とか。思うことがないとは言わないけれど、どれひとつ断る理由にならなかった。
呆れたふうに呟けば、だって、と吐息混じりに春海が笑う。
「間違えたぁないもん、俺」
間違うもなにも、本当にいまさらなにもないだろう。絆された心地で応じる。残り少ない時間も惜しかった。
「はるにされたことで、嫌やったことなんてほとんどないよ」
「勝手に東京行ったことくらい?」
「……せやな」
それくらいやわ、と笑った唇に唇が重なる。触れるだけのキスを繰り返すうちに、ごく自然とキスは深くなった。
確かめるように頬をなぞる指先の動きが優しくて、思わず春海を引き寄せる。忘れるはずもないけれど、それでも少しでも覚えていたくて、体温を感じたまま、暎は息を継いだ。
首筋に鼻先を埋めると、春海のにおいでいっぱいになって胸が詰まった。そっと目を閉じる。はっきり寂しいと言わないのは、いったいなんの意地なのだろうか。いや、本当は、わかっている。春海をここに縛りたいわけではないのだ。
小さく息を吐いて、顔を上げる。間近で絡んだ視線が柔らかく解けて、またふわりと抱きしめられた。離れがたく感じているのは同じなのだとわかると、心底ほっとした。
ふっと笑う気配がする。
「心臓の音がする」
「そんな動いとる?」
「うん」
そう言えば、随分と昔にも、似た台詞を聞いたような。くすぐったさに笑うと、吐息がこぼれた。
「好き」
なんだかどうにも幼い調子だった。
「はる」
「もっと呼んで」
「……はる?」
乞われたとおりに繰り返すと、ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなる。
「あきちゃんの声も好きなんよな、俺」
ひとりごとのように呟いて、春海は吐き出した。
「安心する」
「うん」
自分も同じなのだと伝えたくて、同じだけ抱き返す。
「電話していい?」
尋ねる声が、耳のすぐそばで響く。
「あたりまえやろ」
「ラインも?」
「あたりまえや」
当然と背中を叩いて、なんでもないふうに暎は言った。
「それで、たまには帰っておいでな。絶対、待っとるで」
うん、と頷いて、春海が腕を解く。まっすぐに暎の瞳を見つめたまま、春海はほほえんだ。
「ありがとう」
そろそろ行くわ、と照れくさそうに笑って、春海がドアを開ける。後部座席から取り出した鞄は、来たときよりもひとつ多い。春海の母親があれやこれやと持たせたがったからだ。
荷物多いと面倒くさいんやけどなぁ、と苦笑していたけれど、春海も断らなかった。素直に受け取る姿を見て、保護者のような安堵感を覚えてしまったことは、拗ねるだろうから内緒だ。
エンジンを切って、暎も外に出る。多分な湿度をはらんだ、蒸し暑い夜の風。東京の夜は、もう少し涼しいのだろうか。
春海にとって、少しでも息がしやすい場所であればいい、と心から思う。
高速バスの乗り場までは、どれほどゆっくり歩いても五分もかからない。バス停の近くで立ち止まって、暎は呼びかけた。
「はる」
「ん、なに?」
「待っとるな、電話」
「うん」
「俺もするけど。あんまり無理はせんでな」
「うん」
そうする、と請け負った春海が、でも、と笑った。軽く冗談めかすように。
「大丈夫やよ。だって、あきちゃん、いつでも来てくれるんやろ?」
「行ったるよ」
きっと、そんなふうに呼び出されることはないのだろうけれど、この約束がお守りになればいい。そんな思いで、努めて軽く、笑って請け負う。
「俺のことも呼んでな、いつでも」
あきちゃんのためやったら、新幹線代も惜しまんわ、なんて言って笑うので、暎も思わず笑ってしまった。
待合所から出てくる人の姿に、春海が時間を確認する。せめて時間がわかるものくらい持っていけ、と父親に腕時計を押しつけられたらしい。
その気持ちはものすごくよくわかったし、安心もしたので、次におじさんと顔を合わせたときは、五割増しで愛想を良くしておこうと決めている。
「ほな、そろそろ、俺、行くな」
「うん」
ロータリーに東京に向かう高速バスが入ってくるのが見えた。
ここから九時間弱。それだけの距離を離れていくのだと思うとどうしたって寂しいけれど、二年半前とは違い、どこかすっきりとした心地だった。
「はる」
ひとり歩き出した背中を、最後にもう一度呼び止める。振り返った優しい瞳に、暎も笑って手を振った。
「またな」
それは、明日もすぐに会うことができると信じて疑ってもいなかった、幼いころと同じ別れ際の台詞だった。
「桧山さんめっちゃビビってたらしいですよ」
「へ?」
面白がっていることが透けたそれに、離れたところで主任と話をしていた桧山の様子を思わず暎は確認した。そうしてから、後輩に向き直る。
「ふだんにこにこしてる堂野さんが怒ったから、茶化しすぎたかもしらんって」
「……それ、反省したでええんやない?」
ビビらせた覚えはいっさいないし、そもそもとして怒った覚えもないのだが。
「でも、このあいだの夏休も、桧山さんが主任に言ってたんですよ。休まんから苛々するんやいうて訴えてはりましたけど。あの強引さすごいですよね」
「あぁ」
なにが「でも」なんやろなぁ、と思いつつ、苦笑いで相槌を打つ。結託していたということらしいが、気を使ってもらったのだと思うほかない。
思惑はどうあれ、そのおかげで、春海と向き合う時間を取ることができたのだろうし。
「まぁ、でも、苛々しとったわけではほんまにないけど、リフレッシュにはなったで。ありがたい思っとくわ」
「そうしてあげてください。それで、たまには、素のところも出してあげないと」
また休み取らされますよ、と笑った彼女が、あ、とカウンターに向かっていく。窓口で応対を始めた後ろ姿を見とめて、暎は手元の決裁書へ視線を戻した。
いろいろな人がいるのだなということを改めて実感したのは、働き始めてからのことだ。
昔は自分と自分の周囲だけが世界だったけれど、そうではない。十人いれば十通りの事情があって、考え方があって、人生がある。
どれだけ近しい相手でも、なにも言わないままにすべてを理解し合うことなんて、不可能だ。もちろん、話してからと言って、百パーセントを理解できるとは限らない。でも、百パーセントの共感はできなくても、考えを知ることはできる。
大学を卒業するとき、春海がどんな選択をするのかはわからないけれど、戻ってこいと言うつもりはない。
それは、まぁ、近くにいてくれたら、すごく、すごくうれしいけれど。でも、場所がどこであっても、同じ方向を見て進んで行くことが、今ならきっとできると思うから。
一ヶ月前と同じ、駅前のターミナル。あの日と違うのは、今が夜だということと、少しでも名残を惜しみたくて、わざわざ駅裏の駐車場を選んだこと。そうして、助手席に座る疎遠になっていたはずの幼馴染が「恋人」になったことだろうか。
お金もないで、帰りは夜行バスにするわ、という報告を聞いたのが二日前なのだから、本当に来るのも帰るのも唐突だ。
……なんか、あっというまやったな、ほんま。
春海が帰ってきた当初、長いと気鬱になっていた夏は、あっというまに過ぎ去ってしまった。空いていた駐車場に車を止めて、シートベルトを外す。同じように外しながら、「七海ちゃん、元気そうでよかったなぁ」と春海が言う。
「まぁ、……せやな」
「今日もわざわざ見送りに来てくれたし。あのまま梨花ちゃんのとこに泊まるんやろ? あいかわらず仲良しやねぇ」
「まぁ」
「そんな嫌そうな声出さんでも。帰ってきたら、あき兄ちゃんもヤケ酒付き合って~って言うてたやん。……あれ、そういや、あの子、まだ二十歳になってないんやなかった?」
「ヤケ酒言うてるだけで、ジュースとお菓子しか入っとらんで、あの袋」
たしかに、パンパンに膨らんだコンビニのビニール袋を抱えていたけれど。根負けしておざなりな相槌をやめた暎に、春海が笑った。
「気にしぃやねぇ、あきちゃんは」
自分が気にしすぎているという問題なのだろうか、これは。黙ったまま深く座り直す。
「だって、あきちゃんが気にしとるん、『めっちゃ嫌な態度取ってもうてんけど』って言ってたことのほうやろ。せやったら、もうしゃあないやん」
「そら、まぁ、……そうやけど」
「まぁ、でも、俺はちゃんと断ったよ」
「は?」
予想していなかった台詞に、暎は身体ごと振り向いた。その勢いにか、春海は苦笑いを浮かべている。
「なんなん、その反応。せやなかったら、なんのヤケ酒なんよ。あぁ、ジュースなんやったっけ? まぁ、なんでもええけど」
「……おまえが帰るから?」
「ちゃいます。ちゃんと時間取ったん。はっきり言えんままバイバイいうんもきついやろなぁ思ったから。七海ちゃんが話したいって言うてくれてたんは、ほら、あきちゃんから聞いとったし」
「…………」
「ん? あぁ、あきちゃんのことはなんも言うてへんよ」
大丈夫とばかりにほほえまれて、暎は頭を振った。そういう問題ではない。
「やなくて。……その、そんなやつやったっけ、おまえ」
たしかに、高校生だったころも、告白をされたら、きっちり断っていた気はするけれど。告白をされる機会をつくらない立ち回りに注力していた記憶のほうが強烈に残っている。
だから、七海のことも、気づかないふりを決め込んで東京に戻ると思い込んでいたのだ。
――はっきり言えんまま、バイバイもきつい、なぁ。
正論ではあるものの、なぁなぁを好む傾向のある春海にしては珍しい台詞だったな、と思う。疑惑をぶつけた暎に、嫌やなぁ、と春海がへらりと笑った。
「経験談やって。そら、俺もちょっとはまともになるよ」
「べつに、まともやなかったって思ってたわけやないけど」
「えぇ、ほんまに?」
「ほんまに」
バツの悪さを覚えつつ、ぼそぼそと続ける。
「七海も、そら、そのほうがよかったと思うし」
「それやったら、よかった」
ちゃんとした甲斐があったわ、とあっさりと春海が請け負ったところで、会話が途切れた。時間が気になって、スマートフォンで確認する。九時二十五分。
夜行バスの発車時間は五十分だから、まだ少し時間はある。それで、向こうに着くのが、明日の朝、六時三十分。
行こうと思えば、行くことはできる。でも、遠いな、と思う。スマートフォンをしまって、「二十五分」と暎は春海に告げた。
「そっか。ちょっと早く出すぎたかもしれんね。ごめんな、付き合わせて」
「べつに」
ぽつりと応じて、もやりとしたものに一度蓋をする。好きで付き合っているだけだし、早目に出発を決めたのは自分だ。
実家にいると家族の存在が気になってしまうから、帰る前にふたりで過ごす時間が取れたらいいな、と。らしくもなくそんなことを思って。それなのに、春海はそういうふうに思わないのだろうか。じっと見つめていると、春海が首を傾げた。
「なに?」
もう一度、べつに、と言いかけたところで口を噤む。
あの日のように完全にふたりになる時間がなかったから、というだけの理由かもしれないが、それにしても、この三日、あまりにもなにもしていないな、と思ったからだ。
なにって、つまり、付き合った人間らしいことを、ということ。
「あきちゃん?」
他意もなにもなさそうな、不思議そうな顔。自分のことを本当に好きなのか、と拗ねてみせるほどの幼さは持ち合わせていないし、そもそも、春海が好いてくれていることは、誰よりも自分が知っている。
だから、なんでもない、と答えずに、問いかけることを選んだのは、ちょっとした時間稼ぎのつもりだった。
「はるって、俺のどこが好きなん?」
「梨花ちゃんみたいなこと言うやん」
ほんのわずか、きょとんとした表情を見せたあとに、思いきりよく吹き出したものだから、暎は完全に不貞腐れた。名残惜しさもなにもあったものではないし、らしくないことなどするものではなかった。おざなりに前言を撤回する。
「もうええわ」
「嘘、嘘。ちょっとびっくりしただけ。でも、そうやなぁ」
「ええ言うてるやろ」
「ええやん、言わせてぇな」
宥めるようにそんなことを言って、そうやなぁ、と繰り返していた春海が、ふっとした笑みをこぼした。
「なんやろ。要領良いつもりで、ぜんぜんそんなことないとことか?」
「え」
まったく意外だった返答に、ついふつうに反応してしまった。その暎を見て、またくすくすと春海が笑う。
「いや、悪いわけやないと思うけど、『要領良い』って、適当に良い感じに手ぇ抜ける人のことやと思うで? あきちゃん、目配りも気配りもきくけど、貧乏くじ引いてる感じのほうが強いんやもん。過労死せんとってや」
「せんわ、そんなもん」
「それやったらええけど。せやで、お人好し言うねんで、俺。頼まれたら、自分でできることやったら基本断らんし、おまけに押しつけられても嫌な顔せんし、実際、そこまで嫌やとも思っとらんし」
ぶっきらぼうな一言さえも、今度は返すことができなかった。黙り込んだ暎に、とどめのように春海が言う。
「でも、そうやって、めちゃくちゃいい子のくせに、俺の前でだけ妙にわがままなんよなぁ、昔から」
「……悪かったな」
「ううん」
なんで、こんな評を聞かされとるんやろうな、と思いつつも謝れば、衒いなく春海が首を振った。
「うれしかってん」
「うれしかったって……」
「あきちゃんの特別みたいで、俺、うれしかったよ」
ここでそんな顔をするのは、反則だろう。言葉どおりのうれしそうな、見ているこちらが気恥ずかしくなりそうな、愛おしそうな瞳。どうにもたまらなくて、暎は手元に視線を落とした。エアコンの音が静かな車内に響く。
「聞かんかったらよかった」
「なんでよ」
「帰らんかったらええのにって思ってまうやん」
「帰らんかったら引きこもりのニートになるで、俺」
「わかっとるよ」
笑って、暎は繰り返した。
「わかっとる」
「あきちゃん」
昔から変わらない調子で名前を呼ばれて、隣に視線を向ける。目が合った途端に、柔らかな色の瞳がにこりと笑んで、やっぱり、好きやな、と知った。
「キスしてもいい?」
「いちいち聞かんでええやろ」
それは、まぁ、急にそれか、だとか、利用者がいないとは言え駐車場だ、とか。思うことがないとは言わないけれど、どれひとつ断る理由にならなかった。
呆れたふうに呟けば、だって、と吐息混じりに春海が笑う。
「間違えたぁないもん、俺」
間違うもなにも、本当にいまさらなにもないだろう。絆された心地で応じる。残り少ない時間も惜しかった。
「はるにされたことで、嫌やったことなんてほとんどないよ」
「勝手に東京行ったことくらい?」
「……せやな」
それくらいやわ、と笑った唇に唇が重なる。触れるだけのキスを繰り返すうちに、ごく自然とキスは深くなった。
確かめるように頬をなぞる指先の動きが優しくて、思わず春海を引き寄せる。忘れるはずもないけれど、それでも少しでも覚えていたくて、体温を感じたまま、暎は息を継いだ。
首筋に鼻先を埋めると、春海のにおいでいっぱいになって胸が詰まった。そっと目を閉じる。はっきり寂しいと言わないのは、いったいなんの意地なのだろうか。いや、本当は、わかっている。春海をここに縛りたいわけではないのだ。
小さく息を吐いて、顔を上げる。間近で絡んだ視線が柔らかく解けて、またふわりと抱きしめられた。離れがたく感じているのは同じなのだとわかると、心底ほっとした。
ふっと笑う気配がする。
「心臓の音がする」
「そんな動いとる?」
「うん」
そう言えば、随分と昔にも、似た台詞を聞いたような。くすぐったさに笑うと、吐息がこぼれた。
「好き」
なんだかどうにも幼い調子だった。
「はる」
「もっと呼んで」
「……はる?」
乞われたとおりに繰り返すと、ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなる。
「あきちゃんの声も好きなんよな、俺」
ひとりごとのように呟いて、春海は吐き出した。
「安心する」
「うん」
自分も同じなのだと伝えたくて、同じだけ抱き返す。
「電話していい?」
尋ねる声が、耳のすぐそばで響く。
「あたりまえやろ」
「ラインも?」
「あたりまえや」
当然と背中を叩いて、なんでもないふうに暎は言った。
「それで、たまには帰っておいでな。絶対、待っとるで」
うん、と頷いて、春海が腕を解く。まっすぐに暎の瞳を見つめたまま、春海はほほえんだ。
「ありがとう」
そろそろ行くわ、と照れくさそうに笑って、春海がドアを開ける。後部座席から取り出した鞄は、来たときよりもひとつ多い。春海の母親があれやこれやと持たせたがったからだ。
荷物多いと面倒くさいんやけどなぁ、と苦笑していたけれど、春海も断らなかった。素直に受け取る姿を見て、保護者のような安堵感を覚えてしまったことは、拗ねるだろうから内緒だ。
エンジンを切って、暎も外に出る。多分な湿度をはらんだ、蒸し暑い夜の風。東京の夜は、もう少し涼しいのだろうか。
春海にとって、少しでも息がしやすい場所であればいい、と心から思う。
高速バスの乗り場までは、どれほどゆっくり歩いても五分もかからない。バス停の近くで立ち止まって、暎は呼びかけた。
「はる」
「ん、なに?」
「待っとるな、電話」
「うん」
「俺もするけど。あんまり無理はせんでな」
「うん」
そうする、と請け負った春海が、でも、と笑った。軽く冗談めかすように。
「大丈夫やよ。だって、あきちゃん、いつでも来てくれるんやろ?」
「行ったるよ」
きっと、そんなふうに呼び出されることはないのだろうけれど、この約束がお守りになればいい。そんな思いで、努めて軽く、笑って請け負う。
「俺のことも呼んでな、いつでも」
あきちゃんのためやったら、新幹線代も惜しまんわ、なんて言って笑うので、暎も思わず笑ってしまった。
待合所から出てくる人の姿に、春海が時間を確認する。せめて時間がわかるものくらい持っていけ、と父親に腕時計を押しつけられたらしい。
その気持ちはものすごくよくわかったし、安心もしたので、次におじさんと顔を合わせたときは、五割増しで愛想を良くしておこうと決めている。
「ほな、そろそろ、俺、行くな」
「うん」
ロータリーに東京に向かう高速バスが入ってくるのが見えた。
ここから九時間弱。それだけの距離を離れていくのだと思うとどうしたって寂しいけれど、二年半前とは違い、どこかすっきりとした心地だった。
「はる」
ひとり歩き出した背中を、最後にもう一度呼び止める。振り返った優しい瞳に、暎も笑って手を振った。
「またな」
それは、明日もすぐに会うことができると信じて疑ってもいなかった、幼いころと同じ別れ際の台詞だった。
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4/14
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9/11
大幅な加筆修正の為、一話以外を全て削除しました。
一話も修正しております。
しおりを挟んでくださった方やエールをくださった方にはご迷惑をおかけ致します!
9/21
まだ思い付かないので一旦完結としますが、思い付いたらあげるかもしれません!
ありがとうございました!
グッバイシンデレラ
かかし
BL
毎週水曜日に二次創作でワンドロライ主催してるんですが、その時間になるまでどこまで書けるかと挑戦したかった+自分が読みたい浮気攻めを書きたくてムラムラしたのでお菓子ムシャムシャしながら書いた作品です。
美形×平凡意識
浮気攻めというよりヤンデレめいてしまった
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
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暎くん視点でお話が進んでいき、いったい春海くんに東京で何があったのか?高校3年の時には?と色々想像しながら拝読させて頂きました🥹🤔
とてもほのぼのとした地域で生まれ育ち、その中での
葛藤や春海くんと暎くんの其々の想い等など…
これからのお話もとっても楽しみです💕💕💕
感想ありがとうございます😊
近日中に完結予定で更新しているので、引き続き楽しんでいただければとてもうれしいです❤