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【5】


「なんや、珍しいね。あきちゃんがそこまで苛々しとるんは」
「え」

 電話の子機を置いた途端、はす向かいの席から主任にそう気遣われて、戸惑いを隠せない声がもれた。
 たしかに、ひさしぶりに長いクレームを引いたな、と思ってはいた。三十分近くかかってしまったし、疲れもした。けれど、間々あることである。
 それに、こちらにまったく非のないことで怒鳴られ続けることを思えば、いくらかマシな案件だった。捨て台詞はついてきたものの、最終的には支払うと言ってもらうこともできたので。だから、苛々しているつもりはなかったのだ。

「すみません、そんなふうでしたか?」
「いや、ええんやよ。向こうさんも納得しはったみたいやし。ただ、クレーム受けても、あきちゃんあんまり表情に出さんから、珍しいなぁって」
「……えぇと」
「思うただけよ。おつかれさま」

 にこりとした笑みに、ぎこちなく愛想笑いを返す。たぶん、できていたと思う。

「ちょっと面倒な人やったんは、まぁ、そうなんですけど。でも、大丈夫です。あとは納付書だけ送る予定で」
「それやったらええの。納付書も午後の発送に間に合うようにだけしてくれたらええで、ちょっと休憩しておいでな。もう昼休みやよ」
「あ、……はい。じゃあ」

 そうします、と頷いて、暎は素直に席を立った。そんなつもりはなかったものの、苛立っている雰囲気の人間がいたら、周囲が気を使うと思ったからだ。電話の相手への郵送の準備も戻ってきてからすればいい。

 ――でも、まぁ、つもりはない、つもりはないって、自覚ないんが一番性質悪いよなぁ、ほんま。

 建物の外にある喫煙所に向かいつつ、うんざりと暎は溜息を呑み込んだ。自覚がないままに苛々しているだなんて、一番か二番に苦手な手合いである。
 午後からは気をつけようとおのれを戒めつつ喫煙所に入れば、見知った顔と目が合った。トタン屋根が設置されているだけの簡易な喫煙所は、夏は暑く、冬は寒い。それでも一定数集う人間がいるのだから、春海が言うとおりの「さすがの田舎のケムニケーション」というやつなのかもしれない。暎にはあたりまえでよくわからないけれど。

「うちのとこまで声聞こえとったで。おつかれさま」
「ええよ、もう終わったで」

 苦笑いで首を振る。同期でもある磯山の配属先はすぐ隣の福祉介護課なので、きっと筒抜けだったのだろう。
 バツは悪いが、お互いさまだということにしておくほかない。なにせ、課と課のあいだの間仕切りはただのキャビネットだ。

「あぁ、まぁ、一回で終わらんやつも多いでなぁ」

 それでよかったと思わんとしゃあないよな、と笑って、磯山が煙を吐く。

「このあいだ、俺もめっちゃ長い窓口に当たってん。お盆の時期って、たしかに暇にはなんねんけど、面倒な人も増えるんよなぁ」
「ほんまに」

 苦笑を張りつけたまま応じて、暎も煙草に火をつけた。
 自分の感情を持て余したとき。気分を切り替えたいとき。自分が煙草に手を伸ばすのは、だいたいそんなときだった。就業時間中に煙草休憩で抜けることはないものの、こんなふうに昼休みに吸うことはある。そのときに、世間話をすることもべつに嫌ではない。でも。

 ――春海はきっと好かんのやろな。

 さすがやな、と笑っていた横顔。会話の流れでこぼれだけで、嫌味ではなかったのだろう。けれど、「俺には無理や」という意志がにじんでいたことも事実だった。

「そうや、あきちゃん」
「ん?」

 同期と言っても、大学を卒業してから市役所に入っている磯山とは、年が四つ離れている。高卒の枠で採用されている同期は自分のほかにはひとりだけで、そのせいか、年齢が上の同期は、課の先輩と同じように「あきちゃん」と愛称で呼ぶ。
 これも、間違いなく、田舎特有の距離の近さなのだろう。

「月末の同期の納涼会どうするん? 野辺、返事ないって気にしとったよ」
「あ」

 物の見事に頭から抜け落ちていた。いつも取りまとめを買って出てくれている同期の名前に、ごめん、と暎は謝った。

「すっかり忘れとった。席戻ったらすぐ返します」
「うん。そうしたって。でも、珍しいよな。あきちゃん、いっつも早めに返事しとるのに」

 そうなのかもしれなかった。曖昧な笑みを返して、煙草を吹かす。春海が帰ってきてから、自分の調子は狂いっぱなしだ。
 なんでなんやろな、ほんま。世間話に相槌を打ちながら、何度目になるのかわからないことを、ぼんやりと考える。
 昔はこんなふうではなかったのに。ふたりでいたら楽しくて、それだけでよかったのに。

 ――あきちゃんの考えてることなんて、俺がわかるわけないやん。 違う人間なんやから。

 呆れたような、あるいは、突き放したような調子だった。けれど、あたりまえのことだった。春海も自分も違う人間だ。もう子どもでもない。それなのに、どうして傷ついてしまったのだろう。

 ――ぜんぶ否定されたような気ぃしたんやろな、たぶん。

 どうしてもなにもあったものではない。言葉にすると、本当に馬鹿みたいだった。我ながら幼稚で嫌になる。でも、そう思っていたかったのだ。
 馬鹿みたいで、幼稚で。けれど、それでも許されていたころ。
 あのころの暎は、春海と一緒にいたらそれだけで楽しくて、安心することができて、だから、春海もそうなのだと信じていた。
 怖い無意味な信頼感だと春海は笑ったけれど、そうだったのだろう。だって、春海がこの町をそれほど嫌っているなんて、暎は知らなかった。
 自分に相談のひとつもすることなく出て行くなんて、夢にも思っていなかった。
 でも、それでも、自分たちは変わらず深いところで繋がっているのだ、と。どこかで信じ続けていたかったのだと思う。
 あのころのように。



「あー……、間に合わんかったな」

 誰もいない無人駅のホームで、暎はがくりと肩を落とした。家から走り通しだったせいで、すっかり息が上がっている。九月も後半になっても、まだまだ涼しいには程遠い気候だった。

「まぁ、しゃあない」

 言葉どおりの気にしていない調子で春海が言う。市街地に向かう電車は、一時間に一本程度しか運行していないのだ。
 乗り過ごした時点で遅刻は確定で、ほかの代行手段もないのだから、ここで待つしかない。
 そうやね、と笑って暎は木製のベンチに腰かけた。中学校までは自転車で通学できる範囲に学校があったけれど、高校は市街地まで出ないことにはどうにもならないのだ。
 とは言っても、暎たちの市にある高校は公立、私立を合わせても三つしかないのだけれど。
 そのうちのひとつの公立高校に、春海も暎も通っていた。クラス替えのない進学科を選んだから、三年間クラスも同じ。結局、保育園から高校三年生になった今日に至るまで、自分たちはずっとクラスメイトだった。
 すぐ隣に座った春海が、鞄から参考書を取り出した。そうして、ぱらぱらと静かに捲り始める。暎と違って春海は大学に進学するから、受験勉強が大変なのだろう。
 塩からい海の風がホームに吹き込んでくる。その風を感じながら、暎は背もたれに体重を預けた。
 同じ電車で同じ学校に通う日々も今年で最後だと思うと、なんだか名残惜しい。この町から通うことのできる距離に、大学はない。だから、みんな出て行ってしまう。
 この町に残ることを自分は選んだけれど、春海にそれを強要することはできない。わかっていても、やはり寂しかった。

 ――まぁ、でも、京都でも大阪でも、会おうと思たらすぐに行けるんやし。

 半ば自分に言い聞かせる調子で、そう思い切る。車であれば、京都までは一時間半、大阪だって二時間あれば行くことができる。それに、春海だって、暎の兄がたびたび帰省していたことと同じように、長期休みには変わらない顔で帰ってくるはずだ。
 だから、きっと、来年も自分たちは変わらない。あたりまえにそう思っていた。
 隣にふと視線を向けると、太陽の光を受けて色素の薄い髪がきらきらときらめいていた。染めているのか、とよく教師から確認されていたけれど、春海のこれは地毛だ。
 肌の色も白いし、冬海さん――年の離れた春海の姉も白い肌に茶色いきれいな髪を持っていたので、そういう遺伝子なのだろう。
 真っ黒いばかりの自分の髪と違って、光に当たるとすごくきれいだ、と。幼いころから暎は思っていた。
 そうして、その髪の色と同じくらい、紙面を静かに見つめる横顔はきれいに整っている。
 物心がつく前からすぐ近くで見ていたおかげで、他人からも好き勝手に騒がれるほどかっこよかったのだと知ったのは、高校に入ってからではあるのだけれど。
 中学校までは一学年二十人にも満たない小規模校で、同級生はみな幼馴染のようなものだったから、誰も顔のことでそこまで騒がなかったのだ。
 市街地にある高校に入学して、暎の交友関係は劇的に広がった。同級生は中学校までの十倍以上の人数で、今までになかった規模に最初は戸惑った。けれど、みんないいやつだった。
 暎の一番は、変わらず春海だったけれど、でも、それはしかたのないことだと思う。それで、これからも変わることのないこと。

「なに? あきちゃん」

 視線が気になったのか、春海が参考書から目を上げた。

「なんも」
「暇なん?」
「べつに」

 べつに、なにをしていなくても、話していなくても、春海のそばにいて暇だと感じることもなければ、気づまりになることも、暎にはなかった。

「せやったらええけど」

 柔らかな苦笑を残して、春海がまた手元に視線を落とす。どこを受けるつもりなのだろう。志望校を春海の口から聞いたことがないことに、いまさらながら思い当たった。
 夏休みのあいだにオープンキャンパスなども行ったりしていたのだろうか。
 暎が受験をしないから気を使っているのか、春海はあまり大学受験の話をしなかった。

 ――まぁ、でも、されても「がんばれ」としか言えんしなぁ。

 そうして、春海がそういった励ましを求めていないことも承知していた。だから、自分から聞くこともしなかったし、公務員試験のことも話さなかった。
 たいしたことではないと思っていたからだ。四年間、ほんの少し距離が開く。ただそれだけのこと。そう思っていた。

「はる」

 幼いころからの愛称で呼びかける。

「だから、なにって」
「なんも」

 邪魔をしているとわかっていても、呼びかけると、春海は必ずこちらを向いてくれた。

「呼んだだけ」

 それが楽しくて、暎はよくこうして邪魔をして遊んでいた。
 昨日の夜が遅かったせいか、あるいは、隣に春海がいるからか。なんだか眠くなってきてしまった。電車が来るまでにはまだ時間がある。だから、いいか、と暎は春海の肩にもたれかかった。

「あきちゃん」

 どこか困ったように、春海が言う。

「あんまりくっついとると変に思われるよ」
「誰によ」
「誰にって……、まぁ、見た人に?」
「べつにええやん」

 誰にどう思われようと、べつに。

「というか、暑くないん?」

 それは、まぁ、たしかに暑くないわけではなかったけれど。でも、不快さよりも、慣れたぬくもりから生じる安心感のほうがずっと大きかったのだ。
 答えないまま目を閉じると、諦めたように春海が力を抜いたのがわかった。いつもそうだ。いつも春海は許して受け入れてくれる。
 春海は暎は自分の前でだけわがままだと言うけれど、春海がこうやってどんな自分でも受け入れてしまうからだと思う。
 だから、つい甘えてしまう。春海の隣が、一番楽だった。

「まぁ、あきちゃんがええならええけど」

 呆れと受容が入り混じった声だった。

「うん」

 いいに決まっている。目を閉じていると、響く海の音が大きくなった気がした。ぱらりと参考書を繰る音が断続的に響く。やっぱり、落ち着く。
 春海の隣が一番落ち着く。睡魔に身を任せながら、肩に頭を押しつける。懐かしい匂いがする。好きだった。

「好きやな、ここ」

 ぽつりとした春海の声に、またや、と思った。また、自分たちは同じようなタイミングで同じことを考えている。

「うん」

 なんだかまた眠くなってきてしまった。そんなのんきなことを考えながら、暎は頷いた。

「爆睡せんとってよ」

 起こすん大変になるで、という台詞が続いたけれど、春海が自分を置いていくわけがないと知っていた。

「なに?」

 肩が揺れて響いた振動に、小さく問いかける。

「ん?」
「なんか、笑っとったやろ」
「うん」

 自分だけが知る、柔らかな声だった。ぱら、と一枚ページを繰る音がする。

「あきちゃんの心臓の音がするなぁと思って。それだけ」
「なんなん、それ」

 それは、波の音よりも大きく感じるものなのだろうか。よくわからなかったのに、なんだか妙にくすぐったくて、誤魔化すようにぐっと額を押しつける。そうするとたしかに心臓の音が聞こえる気がした。甘えるように小さく呟く。

「なぁ」
「ん?」
「時間なったら、起こして」
「……しゃあないなぁ」

 その了承を最後に、春海も黙り込んだ。参考書を捲る音が鼓動の振動と混ざって、耳のすぐ近くで聞こえる。やっぱり、心地がいい。
 これほど安全な場所はほかにないことを、きっと本能で知っていたのだと思う。
 ためらいがいちに「あきちゃん」と自分を呼ぶ、学校で聞くものとは少し違う、昔の幼さの残った声。深くなっていく睡魔の中で、暎はそれを聞いた。
 こめかみになにか柔らかいものが触れた気がしたけれど、それがなにかかはわからなかった。

 ――まぁ、ええか。なんでも。

 自分が嫌がることを、春海がするわけがないのだから、べつに。でも。だから。
 このまま夏が終わらなかったらいいのに。
 駅の裏側で、海が鳴いていた。
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