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【1】


 雨が降ると、市役所を訪れる市民の出足は格段に鈍くなる。
 窓口が混雑するのは、なんらかの通知を出した翌日か、週初めの月曜日。そういった日は当番に関係なく昼休憩どころではないのだが、今日はフロア全体がひっそりとしていた。
 窓の向こうで降り続く雨を確認して、デスクに積んでいた書類に手を伸ばす。

 ――午後もこの調子やったら、残業せんでも今日明日で終わりそうやな。

 窓口が多いと、どうしても書類の処理が後回しになってしまうので、わかりやすく終わりが見えてほっとする。主任から、今月の残業はあと五時間まで、と笑顔で念を押されていたのだ。
 ぬるくなった珈琲を一口飲んで、パソコン入力を始めようとした瞬間。カウンター越しに「堂野さん!」と自分を呼ぶやたらと明るい声が響いた。
 視線を向ければ、こちらの都合などお構いなしの笑顔で、窓口カウンターから七海が手を振っている。今春に採用されたばかりの彼女は、暎の二期下の後輩にあたるのだが、それ以前に同じ地元の昔馴染みでもあった。とは言え、あまり目立つ絡み方はしないでほしい。その悶々を呑み込んで、がらんとした窓口に向かう。

「なに?」

 わざわざ話に来んでもラインでええやろ、との思いがにじんだそっけない声に、七海が唇を尖らせる。

「そこまで嫌そうな声出さんでも。昼休みやし、ちゃんと堂野さんって呼んだやんか」
「あたりまえやろ。というか、やめてや。絶対に、ここであき兄ちゃんとか呼ばんといてや」
「はい、はい。固いなぁ、堂野さんは」
「そういう問題でもないやろ……」

 本当に、そういう問題ではない。この半年のあいだに、自分が何度「付き合っているのか」という問いかけを否定したと思っているのか。
 溜息ひとつで、暎は七海を見下ろした。自分にとってはいくつになっても小さい妹でしかないのだが、男の先輩たちからすると、なかなかの美少女であるらしい。
 市民課に配属が決まった当初から「かわいい子が来る」と噂になっていたし、今も羨ましそうな視線が背中に突き刺さっているので事実なのだろう。
 しつこいアプローチから庇ってやるつもりはあるが、勝手に恋敵に認定されたくないな、とは思う。

「それで、なんなん?」
「あのな、はるくん」
「は?」
「はるくん、帰ってきてるんやろ?」
「……なんで知ってんの」

 たしかに帰ってきているものの、昨日の今日の話だ。いくらなんでも、情報が出回るのが早すぎる。思わずこぼれた問いかけに、にんまりとした笑みが浮かぶ。

「梨花から聞いてん」
「あいかわらず、仲ええなぁ」

 学年としては七海がひとつ上なのだが、昔から双子のように仲が良いのだ。昨夜もずっとスマートフォンを触っていたが、七海とやりとりをしていたのかもしれない。

「お兄ちゃんめっちゃ機嫌悪いとも言うてたけど。悪いん? 機嫌」
「悪ないよ、べつに。今日も高校まで送ったったわ」
「あぁ、朝から雨やったもんな。大変やなぁ、高校生も」

 半年前まで自分も高校生だったくせに大人びた顔で頷いてみせるので、つい笑ってしまった。同じ調子で笑った七海が、「でも、そうやんな」と続ける。

「ん?」
「だって、はるくんとあき兄ちゃん、めっちゃ仲良かったもんな。ひさびさにはるくん帰ってきて、うれしいやろ」
「堂野さん」

 質問には答えないまま指摘をすると、七海が「あ」と顔をしかめた。

「あかん、混ざる。でも、しゃあなくない? 十年以上この呼び方やったんやし、簡単に切り替えられへんよ。それに、なんか、馴染まんし」
「そんなことないと思うけど」

 いまひとつ共感できなくて、首を傾げる。春海も似たようなことを言っていたが、そういうものなのだろうか。
 春海なんて呼ぶから誰かと思ったわ、なんて。こちらの戸惑いも、ぶっきらぼうな態度も、なにもかもお構いなしというふうに、昔と同じ顔で笑っていた。春海お得意の愛想笑い。
 昔からあいつはそうだった。笑っていれば、嫌なことはいつかなくなると思っている。

「まぁ、それはべつにどうでもええんやけどな。お願いしたいことがあんねん」
「お願い?」
「はるくんに、せっかく帰ってきたんやで一緒に遊ぼって言うといてくれへん?」
「一緒に遊ぼって何才やの、おまえ」

 狙っているのか、いないのか。幼い誘い文句に絆されかけたものの、あまり期待させるわけにもいかない。わくわくとした表情を隠さない妹分に、暎は釘を刺した。
 まったく、妹といい、七海といい、なぜ自分に伝えさせようとするのだろう、と内心で呆れながら。

「言うてもええけど。たぶん、顔出さんで、あいつ」
「わかっとる。わかっとるよ。せやで、あき兄ちゃんに頼みに来たんやんか」
「なんでよ」
「だって、はるくん、あき兄ちゃんの誘いやったら乗ってくれるやろ」

 昔からそうやんか、とごく当然と七海が言う。
 せやから、何年前の話をしとんねん。そう返そうとした台詞を引っ込めて、お客さん、と暎は囁いた。こちらに向かってくる人影が見えたからだ。
 カウンターに乗り出していた姿勢を正した七海が、さっと澄まし顔になる。場を離れる直前に「頼んだでな」と念を押されたが、知ったことではない。
 窓口応対用の笑顔で受け流して、周囲を見渡していた女性に声をかける。

「どこかお探しですか?」
「すみません、あの、子どもの医療証の手続きで来たんですけど。こちらでよかったですか?」
「こちらになります。どうぞ」

 席を勧めて保険証と身分証の確認を済ませたところで、うしろから声がかかった。昼休みの窓口を担当する当番の職員だ。
 交代の申し出に確認した内容を引き継いで、自分の席に戻る。昼休みの終了まで、あと十分ほど。少しでも書類の処理を進めておきたかったのに、今度は隣から声がかかった。手を止めて振り向くと、興味津々という顔が囁いてくる。

「あきちゃん、今の市民課の新卒の子やろ? 七海ちゃんやったっけ」
「そうですけど。付き合おうてるとかやないですよ。幼馴染みなんです」
「なんや、つまらん」

 あけすけな桧山の反応に、「すみません」と苦笑で応じる。一期上の先輩なのだが、なんというかはっきりとした人なのだ。

「そういや言うてたなぁ。ということは、あの子も出身あそこなんか。あの、めっちゃ田舎の、海沿いの」
「そうです。そんなとこやで、みんな顔見知りというか」

 家族みたいなもの、というか。本当だったら、素直に再会を喜べていたはずだった、というか。

 ――なぁ、あきちゃん。

 数日前に聞いた春海の母親の声が、脳内で巻き起こった。

 ――あきちゃんは、もう学生さんやないんやし、迷惑や思うんやけど。うちの子、今年の夏はずっとこっちにおるって言うてるんよ。時間空いとるときだけでもええで、また遊んでやってくれへんかな。

 言葉どおりの申し訳なさそうな顔を前にして、断る度胸はなかった。
 だから、仲違いなんてしていませんよ、というていで請け負うことを暎は選んだのだ。「もちろん、ええよ」と笑って、ついでに「会えるん楽しみやわ」なんて、調子のいい嘘まで吐いて。

 ――でも、一ヶ月くらいやろ。大学の夏休みなんて。

 今日が七月の二十六日。八月の末に東京に戻ると仮定して、一ヶ月強。その程度であれば、適当にやりすごすこともできる。
 罪悪感を打ち消すように、暎は自分に言い聞かせた。どうせ、夏が終われば、なにもなかった顔で、またここを出ていくのだ。

 ――あのな、あきちゃん。実は春海――……。

「家族みたいなもんやって言うんやろ? ほんまにあのあたりの関係は濃いな。らしいっちゃ、らしいけど」

 自分には無理だというような桧山の声に、愛想笑いで暎は頷いた。
 自分にとってのふつうが、案外とふつうではなかったらしいと知ったのは、高校生になってからのことだった。
 集落外の同級生と交流するようになって、はじめて実感した。同じ市に住んでいても、自分たちの地区は、飛び抜けて旧態依然とした田舎であるらしいということを。
 そうして、それを窮屈と感じる人間も相応にいるということも。

「まぁ、合わん人は合わんでしょうね。――あ、僕が出ます」

 近くの電話が鳴ったことをいいことに会話を打ち切って、暎は子機に手を伸ばした。
 医療機関からの問い合わせだったので、子機を持ったまま端末の前に移動する。
 患者の保険証の確認であれば、すぐに終わるだろうし、窓口業務を終えたばかりの職員に代わってもらうほどのことでもない。大丈夫と身振りで伝えて、そのまま検索画面を開く。

「あぁ、はい。被保険者証の番号、ありがとうございます。資格あるか確認しますね。……あ」

 ヒットした被保険者名に、小さな声がもれた。

「ちょっとその方、その時期は無保険ですね」
「えぇ!? そんなぁ。入っとるって言い張ってはったのに」
「とりあえず、一度こちらに相談に来るように勧めてみてください」

 落胆した声を気の毒に思いつつ、そう提案を返す。
 もうずっと保険料金を滞納している、ちょっと面倒な人なのだ。保険診療の給付対象にできる可能性はあるが、相談に来てくれないことにはどうにもならない。
 おそらく、今も病院の窓口でごね倒しているのだろう。相談に来てくれたとしても、その相手で小一時間拘束されることは間違いない。残業なしに書類終わらせるんは無理やな。早々に暎は諦めた。嫌は嫌だが、仕事の内だ。
 通話を切って席に戻ると、「また、あの人来るんか」と嫌な顔を隠しもせず桧山が問いかけてくる。聞こえていたらしい。
 気持ちはわかるが、カウンターから見えるところで、その顔はしないほうがいいと思う。

「まぁ、僕が出ますから」

 指摘する代わりにやんわりと宥めて、暎はパソコンに向き直った。

「あいかわらず、ええ子やねぇ。あきちゃんは」

 嫌味なのか、褒められているのか、どっちなんやろうな。口元に笑みを浮かべることで交わして、入力を開始する。残業時間を減らすためには、少しでも進めておくしかない。

 ――でも、忙しいほうがよかったかもしれんな。

 やることがあれば、余計なことを考えなくてすむ。溜息を呑み込んで、暎は入力を終えた書類を捲った。
 空気が読めて愛想も良い。年長者からそう褒められることが、暎は昔から多かった。そういう性なのだろうと思うし、生まれつき要領が良い自覚もある。
 けれど、それ以上に、人と人の関係が密な場所で育つ中で身についた処世術でもあったのだろうなと思う。衝突を回避する立ち回りを覚えて、協力し合って地域で生きていく。
 そういうものだと思っていたから苦痛を感じたことはなかったし、違和感を覚えたこともなかった。だから、その生き方が唯一の正解ではなかったと知ったのは、村社会を出てからだ。
 窓口での応対を通じて、いろいろな生き方があることを実感として理解するようになった。
 会う人の数だけ、人生がある。価値観も異なる。本音で向き合っても、わかり合えないこともある。これも、思い知ったことのひとつだったかもしれない。
 話さなくてもなんでもわかる。小さな世界でそう信じていた自分は、やはりどうしようもなく子どもだったのだろう。
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