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第五章
酒は飲んでも飲まれるな!
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ふわりと、意識が浮上して、薄ぼんやりと目を開けた。
開け放たれた窓から、心地よい風が吹き込んで来ていて、ここのところの夏の暑さの割には、快適だ。
サラリとした、洗い立ての石鹸の香りがするシーツと、肌触りの柔らかいコットンガーゼを重ねて作られたケットに包まれて、心地よさに再び目を閉じる。
あぁ。
凄く気持ちいいな。
ずっとこのまま、眠っていたい。
ところで、ここは、何処だったか……?
そこで、唐突に覚醒した。
ここは何処だ⁈
再び目を開け、見える範囲に首を巡らせるが、『清潔に整えられた一室』以外の情報が無い。
見た感じ、貴族の邸宅の一室というほど華美ではなく、庶民の生活スペースにしては、上等な部類。
王宮の寮に近い感じもするが、明らかに自分の部屋の景色とは違うし、場合によっては、少し値の張る宿屋だろうか?
宿屋?
何故、宿にいる?
ええと……今日は、確か公爵家のサロンに行って……。
それで、そうだ。
ローズのお守りを早々に罷免され、その後、ジェファーソン様とお話を。
そこで、女性たちに紹介されて、緊張のあまり、勧められた飲み物を飲んで……。
そこまで思い出して、一気に青ざめた。
あの時、喉が熱かった。
あれは、酒だったのか?
その後から、ここまでの記憶が、一切無いことに震撼する。
震える手で、そっとケットをめくり、小さく安堵のため息を落とした。
良かった。
服は着ている。
ベストは脱いでいるが、シャツやトラウザーズは自分の物だから、ただ寝ていただけ、と言うことで間違いないだろう。
間違い無いよね?
……お願い。
誰か、間違い無いって言ってくれ。
いや。
誰かが、一見無人のこの部屋の中にいたら、それはそれで、怖いわけだが。
まずは、ここが何処か探る必要がある。
起きあがるべく体を横にして、シーツについた左手が、柔らかいものに触れた。
瞬間的に、背筋に震えが奔り、その場で硬直する。
僅かな体温を伝えるそれは、おそらく人間の髪と思われる手触り。
冷や汗が、コメカミ付近から流れ落ちた。
まずい……。
サロンとは言え、かなり大きな社交の場で、酒に酔って前後不覚になるという醜態を晒しただけでも不味いのに、その上、誰かを持ち帰って来てしまった?
いや、逆か。
ここが何処かわからない時点で、持ち帰られてしまった、の方に近い気がする。
今まで、真面目な部類で通っていたのに、何てことだ。
いや、それより何より、聖女様やその候補ほど厳格では無いものの、聖槍の使い手や、その候補にも『無闇やたらに手を出してはならない』という決まりがある。
付き合う相手や、結婚相手は、王宮の調査をクリアした人間でなければならないのだ。
それを……なんてことだ。
いや。
思考停止していても始まらない。
スルーして、立ち去るわけにもいかないだろう。
行為を持ってしまったかもしれない相手を放置するなど、人として最低以下の行いだ。
覚悟を決めて、髪が触れている手に、恐る恐る視線を下げ、別の意味で固まった。
ええと。
何がどうしてこうなった?
今まさに視界に入った事実を、叙事的に表現すると、こうなる。
絹糸のような光沢のある黒髪が、真っ白なシーツに散らばる様は美しく、伏せられた睫毛は、思っていた以上に長く目元に濃い影を作り、薄く口を開いて眠っている表情は、起きている時に比べて、かなりあどけない。
だが、男だ!
女の子ですらなかった……。
が……ガッカリなんて、してないんだからね?
感じているのは、もちろん安堵だ。
多分……。
そもそも、彼は、一緒のベッドで寝ていたわけでもない。
彼、レン君は、床に腰を下ろし、ベッドにもたれて寝ているだけだ。
彼の手元や周囲の床には、数冊の魔導書らしい本が置かれている。
すると、ここは聖堂か?
場合によっては、レン君の部屋なのか?
考えているうちに、レン君の睫毛が震えた。
一瞬で覚醒し、こちらに首を巡らせ、自分と目が合うと、急ぎ頭を下げた。
目元が若干赤らむのを見て、珍しいなと驚いていると、彼は申し訳なさそうに告げた。
「すみません。起きるまで待つつもりが、うっかり寝てしまいました」
「あ、いや。こちらこそ?」
「お加減は、如何ですか?」
「ああ。ちょっと状況が掴めなくて……」
起きあがろうとして、鳴り響くような激しい頭痛に見舞われ、その場に沈んだ。
なんだ?これは……。
動くこともできず、枕に顔を沈めていると、レン君は立ち上がり、水差しの水をカップに注いで、手渡してくれた。
「ジェファーソン様が、ご兄妹のお二人を送って下さる途中、体調を崩されたそうです。丁度聖堂前でしたので、こちらで御身をお預かりしました」
「……ぅぅ。成程。すると、ここは、聖堂の救護室……?」
なわけ、無いよな。
ベッドも一台しか無いし、救護用の備品も、資材も置かれていない。
「それが……。当初は、救護室にお連れしたのですが、予期せぬ人の出入りが予想されまして。生憎、寮に空き部屋もなく、私室で申し訳ありません。寝具は洗った物ですが、不快でしたらローズさんに相談して……」
「いやいや。とても快適だった。有難う。それより、君のベッドを奪ってしまって、こちらこそ申し訳ない。直ぐに帰るから……」
再び起きあがろうと試みるが、鳴り響くような頭痛に若干の吐き気も混じり、結局その場に蹲らざるをえなかった。
「その状態では、お泊まりになられた方が、宜しいかと。私の部屋で非常に申し訳なく思いますが、もう日没ですし、王宮には聖堂の業務報告と合わせて連絡致しますので」
「だが、君は?」
「お気になさらず。私は、何処でも寝られますので……」
「いやいやっ‼︎ そういうわけには……っ!っう゛ぅぅぅ」
自分の大声で、頭が痛くなるって、どういう状況だ……情けない!
「とりあえず、今は横になっていた方が。目が覚めたことを、補佐とローズさんにお知らせしてきます。……何か、召し上がれますか?」
腹は……減っている。
減っているが、なんとなく気分が悪く、食べられるかどうか、怪しい感じだ。
悩んでいると、レン君は僅かに目元を和らげる。
「……消化に良さそうな物を、お持ちします。ベッドサイドに桶を用意しておきましたので、吐き気がしたら、そちらに」
優しい声音で、そう告げると、彼は部屋を出て行った。
それって、つまり、そういうことか。
まずい。
不味すぎる。
ジェファーソン様や聖堂、更には、レン君にまで、何て迷惑を掛けてしまったのだろうか。
大失態にも程がある。
自己嫌悪で潰されそうだ。
痛む頭を抱えながら、情けなくも ベッドに突っ伏し、誰かが言っていた教訓を思い出した。
酒は飲んでも飲まれるな。
◆
しばらくの間、大人しく横になったお陰か、頭痛や吐き気は大分落ち着いた。
レン君が部屋を出て行ってから、しばらく経つが、直ぐに戻って来る気配は無い。
それは、広い聖堂内を、あちこち伝令に行ってくれているわけだから、時間もかかるのだろう。
先程彼は、自分の様子見がてら、部屋で休んでいたようだった。しかも私服で。
ということは、レン君は、今日の午後は休みだったのだろう。
思い返してみれば、彼は午前中、王都外の勤務から戻って来たわけで。
疲れていただろう彼のベッドを占領してしまった事を考えると、その罪悪感たるや!
でも、動くと再発しそうで、起き上がる気には、とてもなれない。
何とも情けない話である。
しかし、落ち着いて考えてみると、自分の部屋に、身動きが取れないとは言え、知り合い程度の他人を、一人で置いて行って、不安は無いのだろうか?
無防備すぎて、些か心配になる。
信用してくれているのだろうから、それを裏切るようなことは出来ないし、するつもりも無いが、頭痛が治まって来れば、自然と周囲に視線が行くわけで。
ホテルと見間違えるほど、整えられた部屋ではあるが、ここで生活しているのだから、よく見渡してみれば、それなりに私物は有る。
……でも、決してベッド下を覗くなんてマネはしないから、安心してくれ!レン君!
などと、心の中で詫びつつ、暇潰しがてら、周囲を眺める。
まず、目がいったのは、枕元の棚に置かれた護身用の短剣。
装飾のない、シンプルな黒塗りの鞘に納められたそれは、その形状からして片刃だろうか?
ダガーナイフの一種だろうが、あまり見たことのない造りだ。
年代物らしく、金属部分に多少の錆は出ているが、綺麗に磨かれ、手入れが行き届いているのが見てとれる。
物を大切にするところとか、いかにもレン君らしい。
孤児院出身との事だから、武器屋で中古品を買ったのかもしれないが、もし仮に、家族の形見とかだったとしたら、胸が痛むな。
…………。
勝手にしんみりしてしまったから、次に行こう。
先程から、床に数冊置かれたままの本。
本棚らしき物はデスクの上にあるが、中は空っぽ。
ということは、彼が持っている本は、これで全部だろうか?
どうやら、読書家ではなさそうだ。
長年使い込まれた感のある本たちは、表紙を見る限り、魔導関連の専門書のようだが、一冊だけ新しい物がある。
興味をひかれて表紙を見ると、なんと!『筋力強化トレーニング』についての専門書だ。
…………。
あれだけ重い剣を持って、あそこまで動けるのに、まだ筋力を強化する気なのか⁈
負けていられない……‼︎
そう思って、上体を起こしてみたが、頭痛が再開したので、今は諦めた。
帰ったら、早速筋トレだな。
それにしても、持っている本が戦闘に役立つ物ばかりとなると、いかにも脳筋っぽくて、更に親近感が湧く。
あと他には……。
何だ?アレ。
デスクの横に、あからさまに場違いな、愛らしい印象の紙袋。
贈り物を受け取った、若しくは、渡す前ってところだろうけど、相手、絶対女性だろう?
へぇ~。
レン君も隅に置けないなぁ。
今度、話のネタに出してみたら、少しはあの無表情も崩れるだろうか?
恩を受けた相手に失礼ではあるが、自分との勝負の時ですら、殆ど表情を変えなかった彼の『焦った顔』は、正直ちょっと見てみたい。
などと、不届きなことを考えていると、扉がノックされた。
「オレガノ様!ラルフです。ミゲル補佐とローズさんをお連れしましたけど、入っていいすか?」
「ああ。待ってくれ。今、鍵を」
「あ、鍵預かってるんで、寝てて貰って大丈夫っすよ?」
言いながら鍵を開けて、ラルフ君が扉から顔を出す。
「気分は如何です?」
「まずまずだ。迷惑をかけて済まなかったね」
「オレは全然」
手を振りながら、にこにこ笑顔でそう言うと、ラルフ君は扉を大きく開けて、後ろにいた二人を通した。
ミゲル補佐は、柔和な微笑を浮かべ、会釈する。
「失礼します。少しは休めましたかな?」
挨拶を返すために、慌てて起きあがろうとしたが、補佐が両手で『そのままで良い』とジェスチャーして下さったので、お言葉に甘えた。
「ミゲル神官長補佐。この度は、とんだご迷惑を……」
「いえいえ。若い時の多少の失敗は、あとで良い笑い話になりましょう。気に病む必要は有りません。本来は、身内の部屋に宿泊できるのが良いのですが、女子寮は男子禁制ですので、本日はこちらで、ご容赦下さい」
「いえ。泊めて頂けるだけでも有り難く、ただ、レン君には申し訳なくて……」
「本人の申し出ですので、お気遣い無く」
「最初、二階のオレの部屋だったんですけど、扉開けた瞬間、先輩が『私の部屋を使って下さい』って。ちょーっとだけ散らかって見えたみたいで?」
「ラルフ君も、気遣い有難う」
「いえいえ~」
二人の会話が目に浮かぶようで、笑みが漏れた。
補佐が一歩下がると、今度は、ローズがベッドサイドまで歩み寄ってくる。
眉を下げて、心配そうに覗き込んでくる顔は、我が妹ながら可愛い。
「お兄様!心配したんですよ?」
「すまなかった」
「飲み過ぎはダメです!お体にも悪いですよ?」
「分かった。以後気をつける」
注意してきても全く迫力は無いが、可愛いから言うことを聞くとしよう。
飲み過ぎってほど、飲んでいない気もするが。
ローズは、小さくため息を落とすと、ベッドサイドにしゃがみ込み、小声で言った。
「本当は、救護室で泊まれる筈だったのですけど、今日はスティーブン様がいらしていて。その……冗談で仰っているだけかもですが、念の為。レンさんによくお礼を言って下さいね?」
「そうする!」
そちらの脅威からも、守ってくれたわけだ。
聖堂に足を向けて眠れないな!
「それでは、オレガノ様。本日は気兼ねなく、ゆっくりお休み下さいね。ローズマリーさん。そろそろ」
「はい!」
ローズは、パタパタとミゲル補佐の元へ戻った。
兄の様子を見に来ただけとはいえ、聖女候補が長時間男子寮にいるのは、まずいんだろうな。
そういえば、ラルフ君は扉についていて、ドアを開けっぱなしにしている。
聖堂職員が、ローズを大切にしてくれているのが伝わって、心から安心した。
「心よりお礼申し上げます」
礼を言うと、ミゲル補佐とラルフ君は、微笑んでくれる。
三人が部屋を出ようとした時、レン君が静かに入室して来た。
手には、湯気が立ったスープ皿が!
急に食欲が唆られて、堪えきれずに腹が鳴り、赤面した。
「召し上がれそうですか?」
「腹の虫が、先に返事をしたようだ」
「何よりです」
手渡されたのは、ミルクパン粥。
一口食べると、想像以上に旨い!
食べ進めていると、レン君は三人を見送るようだ。
「クルス君。落ち着いたら事務局へ頼む」
「はい」
レン君が頷くと、補佐は部屋の外へ。
ローズも続き、戸口で振り返った。
「レンさん。兄がご迷惑をおかけします」
「いえ。……ローズさん。少しお待ち頂けますか?」
「?はい」
レン君は、デスク横の紙袋、例の無駄に愛らしいアレから、包みを取り出して、ローズに手渡した。
思わず粥を吹きそうになったのは、無理からぬことだと思う。
待って?
兄の目の前で、大胆すぎないか?
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