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天狗の住む森<1>
しおりを挟む凛が指差していた写真。
それは、保育園の運動会の写真だった。
母さんは高校を卒業して、すぐに父さんと結婚した。俺は、母さんが10代のうちに生んだ子だ。
若かったから、きっと子育てには苦労も多かったと思う。だけど、子供の俺から見た母さんは、優しくて、なんでも受け止めてくれる女神のような存在だった。
保育園で母さんのお迎えをまって、一緒に買い物して。お菓子をひとつ買ってもらって家に帰る。お風呂にも一緒に入って、夜は一緒に寝てくれる。
そんな毎日が永遠に続いて。
当然、ずっと俺を見守ってくれると思ってた。
母さんは俺が風邪をひいたら、ずっとそばにいてくれたし、俺が辛い時には、さっき凛がしてくれたように抱きしめてくれた。
「凛。それは保育園の運動会の写真だよ。俺、競争で転んでビリになっちゃってさ。母さんに絆創膏貼ってもらったんだ」
「へぇ。お母さん優しそうな人だねぇ。お母さんのこと好きだった?」
「あぁ。好きだったよ」
大好きだった母さん。子供の頃の俺はちゃんと気持ちを伝えられてたのかな?
あの時はビリだったけれど。たしか、母さんは俺の頭を撫でてくれて、折り紙で作ったメダルをくれたんだっけ。
不思議だな。
母さんのこと、ずっと全然思い出せなかったのに。凛といると、思い出せる。
凛は続ける。
「じゃあ、柱の傷は?」
「それは、俺の背が伸びると、母さんが印をつけてくれたんだ」
そう。毎年、母さんが印をつけてくれた柱。その印は、俺が小1のときの傷で止まっている。
母さんは俺が小1の時に亡くなった。
病気だった。
子供の俺は、母さんはすぐに退院して帰ってくると思ってた。だけれど、母さんが家に帰ってくることはなかった。
ある暑い日。
セミがみんみんと鳴いていたっけ。
母さんは俺の手を握って、俺を見つめて言った。
「蓮、あなたは優しい子。一緒に居れて、わたしは幸せだよ。だから、君には君……」
その言葉の続きは思い出せない。こんな大切なことを忘れてしまうなんて……。
母さんは俺の頭を撫でてくれた。
「これ誕生日のプレゼント。少し早いけれど、早く蓮くんが喜ぶ顔を見たいから、渡しておくね」
そして、キーホルダーを渡してくれた。
あれが最後の会話だった。
子供ながらに思ったんだ。
俺……、僕がもっと良い子にしていたら、お母さんは病気にならなかったのかなって。お母さんが死んじゃったのは僕のせいなのかなって。
そして、つらい気持ちが、わーっと押し寄せてきて、あんなに優しかったお母さんのこと思い出せなくなった。思い出せない僕は、きっと薄情で悪い子なのかなって。
俺は、気づいたら涙がポロポロと出て、子供の時に戻ったみたいな気持ちになって。凛のスカートを汚してた。
「りん、ごめ……」
すると、凛は両手で俺を包み込むように、ぎゅーって力いっぱいに抱きしめてくれる。
そして、頭を撫でながら、その粒の整った綺麗な声で囁いた。それは凛が知るはずのない言葉だった。
「れん。君は優しい人。わたしは君といると、いつも幸せな気持ちになるんだ。今日、もしわたしが死んでしまっても、その幸せな気持ちは変わらない。君は何も悪くない。だから、君には君自身を好きでいてほしいな」
……凛。
見上げると凛と目が合った。
下から見上げた凛は、さらにまつ毛が長く見える。少し目を細めて、あの日の母さんのような顔で俺を見つめている。
きっと、あの日の母さんも同じことを言ったのだろう。
今日もあの日と同じだ。
すごく暑くて、セミがみんみん鳴いている。
涙が堰を切ったように溢れ出て止まらない。悔しかった気持ちも、悲しかった気持ちも、自分を嫌いだった気持ちも。
全部、その涙に溶け出して、身体の外に流れ出ていくようだった。
凛は、母さんがしてくれたように、俺が落ち着くまでずっと一緒にいてくれた。なんだか自分の中につっかえていたものが、少しだけ取れた気がした。
その日を境に、母さんとの記憶が、少しずつ思い出せるようになった。
凛とまた目が合った。
真っ直ぐに俺の顔を見つめるその瞳は、涙で潤んでいる。
俺は凛の濡れた頬を拭う。
「なんでお前が泣いてるんだよ」
「だって……」
凛は続ける。
「ねぇ。れんくん。わたしにできることとか、なにか欲しいものとかない?」
……もう十分もらってるんだけどな。
でも、やはり健全な男子高校生なら、アレしかないだろう。いまなら無茶なお願いもいけるかも知れない。
俺は情に流されて、このチャンスを逃したりはしない。
「……パンツ」
凛はすっとんきょうな声をあげた。
「は?」
「だから、凛が脱いだパンツ欲しい」
「……」
凛は、「はぁ……」とため息をつく。
俺は殴られるのかと思い、身構えた。
しかし、凛は予想に反して穏やかな声でいった。
「仕方ないなぁ。れんくんが、わたしのもっと大切な人になったら。いつかあげてもいいよ」
「ボク。いま、ほしいの」
どうやら調子に乗りすぎてしまったらしい。
凛は、がるるーと俺を睨む。
「ばかっ。変態!! しね……とまでは言わないけれど、もう知らない!!」
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