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第4章 奈落の果て
第88話 もう戻らない
しおりを挟む茶髪の長髪で黒いコートのようなものをきた男が急ぎ足で走ってきた。
――女王より大切なことって、男?
そう考えるとゲルダは歯をギリギリと食いしばる。
あんなどこの誰とも解らない男のために女王の座を捨てて失踪したのかと思うと、怒りすらも湧いてくる。
「タージェン、どうしたの?」
「いやぁ、困ったよ。質問攻めにされるんだが、質問してくる内容が難しくてな」
「私が答えられるかしら」
「しかし今日はいい天気だな。少し広げてもいいか?」
「んー、少しだけよ」
茶髪の男はコートを脱ぎ捨てると、背中の空いているおかしな服を着ている様子が見えた。しかし、ゲルダはそのおかしな服を気にすることよりも更におかしなものを見ることになる。
――……翼!?
六枚の大きな翼がはためくと、数枚の白い羽が舞った。
――翼を形成する魔術……?
ゲルダは小さな水を複数空中に浮かべ、光の屈折を利用して翼の付け根の部分や実際の翼を確認するが、魔術で作られた痕跡はない。
「やっぱりこっちの方が楽だな」
「私もその大きな翼があるほうがあなたらしいと思う」
「人の目も、魔女の目もないところというのは難しいな」
「そうね……ごめんなさい。窮屈な思いをさせてしまって……」
「いいんだ。私は幸せだ」
ゲルダには良く聞こえなかったが、ゲルダとその翼の生えた何かは口づけを交わしたのが見えた。
――なに……あれ……
何とも形容しがたい感情がゲルダを支配する。
嫉妬、怨嗟、屈辱、裏切り、憤怒、悲哀、憂鬱、傲慢、強欲……醜い人間が抱くその感情に嗚咽さえしそうになった。
「先に戻ってまた質問攻めにされていてくれる? 私は切らしていた薬草を摘んでから行くわ」
「あぁ、すぐにきてくれよ」
再度口づけを交わし、翼を生えたソレはきた方向へ消えていった。
ゲルダはどうしたらいいか解らなかったけれど、話せばきっと解ってくれると思い、ルナの方へ一歩一歩近づいた。
ルナは草を摘んでいるようで、ゲルダには気づかない。
――ルナ……
あと数メートル。
声を出そうとした瞬間、さっきの男の声とは違う別の声が聞こえた。幼い子供のような声だ。
「母さーん!」
――母さん……?
ゲルダは咄嗟にルナに背を向けて逃げた。フードを深くかぶり、手で押さえながら必死に走った。子供の姿は見えなかったが、その姿を見たくはなかった。
――母さんって、何?
その言葉を口に出す勇気はなかった。
その後姿をルナが見ていたことをゲルダは気づかなかった。
◆◆◆
【数日後】
覚悟は決まらなくても、事実を確認せずにはいられない。
ゲルダは離れた地、辺境の魔女の町にいた。宿をとり、独りうずくまっていた。頭の中では幼い子供の「母さん」と呼ぶ声が何度も何度も反響する。
何度も涙を流した。
――なんで……ルナ……
せめて、親友の自分にくらい何か事情を説明してくれてもいいのに。
どうしてなにも話してくれないのかと、どうして私を裏切ったのかと、どうして自分がいないのにあんなに楽しそうにしているのかと気が狂いそうだった。
――約束したのに……
そこでゲルダはハタと気づいた。
――そうだ。あの男と子供を殺したらルナは帰ってくるかもしれない……
そうでなくても、ルナは話を聞いてくれる。説得したらきっと戻ってきてくれる。
そう願ってゲルダは再びルナの元へと向かった。向かっている道中、ゲルダはどんどん前向きになって言った。
――会ったら、きっとルナは喜んでくれる。そうだ、あの時みたいな花冠を作って行こう
見渡して目についた花に触れた。
その花は紫色で小ぶりな花だ。鳥の頭のような花が沢山咲いていたので、これで花の冠を作ろうと思った。
ルナの髪の毛が赤いから、きっとこの青紫の花は似合うはずだなどとゲルダは手を動かして冠を作った。
それを持って再びルナを見かけた湖につくと、ルナはかがみこんで何かしていた。湖の水で洗濯をしているようだった。人間に紛れて生活しているのだろうか。でもあの翼のあった男は誰なのかという疑問はぬぐえない。
色々思うところはあるけれど、暴れる心臓を鎮めながら勇気を振り絞ってゲルダはルナに話しかけた。
その後、激しい後悔と、絶望を味わうとも知らずに。
「ルナ」
「はーい」
ルナは明るい声で答えてくれた。緊張していたけれどその明るい声でゲルダはホッとした。
振り返ったルナは笑顔を消してゲルダを凝視する。
それは昔の親友を見る目ではなかった。恐怖で引きつっている顔。
しかしゲルダは久々に会いに来た親友を見て驚いているだけだと思った。
「ルナ。私よ」
「ゲルダ……?」
「ルナ……」
ゲルダはルナが自分の名前を呼んでくれた事が嬉しかった。目頭が熱くなり、涙が一筋流れる。やっぱり変っていない。
自分の親友のルナだとゲルダは感じた。
「探したわ……一緒に帰りましょう。ほら、花冠を作ったの。あなたが戻るお祝いよ。懐かしいでしょう? あなたにあげるわ」
ゲルダがそう言いながら冠をルナにかけようとすると、ルナはそれを後ずさって拒絶した。
「ゲルダ、私はもう戻らない。冠もいらないわ」
「ど……どうして……?」
戸惑った。
ゲルダは拒絶されたことが理解できない。
「私はもう……魔女をやめたの」
「な……何を言っているの……魔女をやめる? やめるとか、やめないとかじゃないわ……それにどうしてやめる必要があるの?」
「魔術は必要ないの」
次々に理解のできないことを言うルナにゲルダは混乱してきた。
ルナがそんなことを言うわけがない。そう思うと、全身から暑くもないのに汗がじっとりと出てくるように感じる。
「あぁ、解った……あの翼の生えた人間に唆されたんでしょう?」
「!」
体のいい自分に都合のいい言い訳を、言葉の山から言葉を煩雑につなぎ合わせて納得しようと……ルナは悪くないんだと自分の中の真実を守り切ろうとする。
「見ていたのね……あのとき走り去った魔女は……あなただったの」
「人間なんか捨てて私のところに戻ってきて……2人なら魔女を統一できるわ。今は私……私、実はうまくいってなくて……ルナが戻ってきてくれたら――――」
「ゲルダ」
ゲルダの思惑とは裏腹に、ルナは次々とゲルダの願いを砕く言葉を発し続ける。
「私は戻らない」
「え……」
「探さないでほしいの。あなたなら立派にやれるわ」
「……そんな…………」
――違う。これはきっとルナの偽物だ。ルナがそんなこと言うわけない……違う。違う違う違う違う違う……!!
なんだろう。この感情は。
怒り? 悲しみ? 苦しみ?
絶望的な感情は波打つように引いては押し寄せる。しかし、表層に出るその感情は無だ。言葉を失い、縋る言葉すら喉に詰まって出てこない。
「その冠を作った花、毒の花よ。高位の魔女なら平気だろうけれど……一応手を洗ったほうがいい」
手に持った紫の花冠は、弱い風にゆれて微かな香りをどこへ届けるともなく、死にゆく定めを受け入れている。
「……さようなら」
背を向ける彼女を追いかけることは出来なかった。
暫く呆然とその場に立ちすくした。膝から崩れ落ちると、涙が一気に流れ出る。心臓が握られているような感覚がして、苦しくなり、嗚咽しながら泣く自分の声が聞こえる。
――寒い……
気候はけして寒くないのに、やけに寒く感じる。
自分を抱きしめるように腕を回すと、ゲルダは自分が震えていることが解った。蹲るように自分を抱えながらひたすら涙を流した。
「待ってよ……ルナ……置いていかないで……」
その消えるような声は、誰にも届くことはなかった。
手に持っていた青紫の花はいつの間にか燃え尽きてなくなってしまっていた。
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