57 / 88
七章
58. サディナーレの輿入れ
しおりを挟む
サディナーレが火が燃えるにおいが出目を覚ました時、そこは斎王として仕えていた神殿ではなく、見たこともない粗末な小屋だった。部屋の中にぼんやりと影のような背中が見えた。
若い影だ。
ええっ、なぜ。
その若い男が土間で焚火《たきび》に薪をくべていた。
サディナーレは血の気の引いた顔をして、服の胸のところを合わせてがたがたと震えた。身につけていたはずの衣装は、焚火の周囲にかけられていた。
別の服を着せられていると気づいた時、サディナーレはこの世から消えてしまいたいと思った。
「起きた?」
とその青年が言った。
やさしい声だったが、サディナーレは震えながら、彼を睨みつけた。
「心配しなくていいよ。きみがずぶ濡れだったから、服を着替えさせようとしたんだけど、女性みたいだったから、何も見ていない。おれは国境を守る兵士で、悪い者じゃないから、そんなに怯《おび》えないで。きみは女性なのかい」
その青年が悪そうな人には思えなかったから、サディナーレは貯めていた息を吐きだして頷いた。
あれからグレトタリム王との縁談は父王と兄の執拗な干渉のためなかなか進まなかった。しかし、サディナーレが二十一歳になってしまったこと、J国からの結納金が増えたこと、それにサディナーレの揺るぎない意志で、ようやく婚礼が決まったのだった。
サディナーレはグレトタリム王に嫁ぐために、三百人のお供を従えて、一ヵ月前にH国を発ったのだ。
旅も、野宿も、サディナーレにとっては初めてのことで、不便なことは多少あったけれど、日々は発見に満ちていた。夜には天にあいた小さな穴かと思われるような星々を眺めては 女官に古い詩を読ませながら、この先に待っている生活に思いを馳せた。
他国の年老いた国王と結婚して、その宮廷で暮らすこと。また自分が子供を産み、その子が次の国王になるという日があるのだろうか。そのことを考えると不安が押し寄せてきて胸がつぶれそうになったが、自分が赤ん坊を焚いている場面を想像するのは幸せだった。
ところが、J国に近づくにつれ、乳母のオキオキンはおかしな気配を感じるよいになった。しかし、それはいよいよJ国にはいるのだという焦りや、姫の結婚生活への危惧《きぐ》からくるものなのだろうと考えていた。
その夜、オキオキンはこれまでにない恐怖感と緊張を覚えて、自分の腰を強く叩いて気合をいれ、行動に出ることに決めた。これがもし、取越し苦労なら、それでよいではないか。
オキオキンはサディナーレに小姓の姿をさせ、若い女官に姫の衣装を着せて輿《こし》に乗せた。午前中は何事もなく過ぎたのだが、夜になってもなかなか野宿に適した場所が見つからず、一行が疲れてきた時にことが起きた。どこからか三十人ほどの黒頭巾の徒党が馬に乗って現れ、姫の輿を襲撃してきたのだった。
彼らは弓に長けていて、鋭い鉄の矢を雨のように放った、オキオキンの予感は的中した。
姫の輿は火をつけられ、傾いて地面に落ちて、赤く燃え上がった。家来たちは慌てふためき、悲鳴を上げながら東の方向に逃げていった。そんな中、オキオキンは姫の手を引いて、家来たちとは反対の方向に走った。
オキオキンの目は殺気立っていた。今がこの人生最大の危機の時、何としてでも、姫を守らねばならない。それが私の役目。生きてきた意味。
今、目の前には、ふたつの道があった。
オキオキンはサディナーレに言った。
「私はここで、敵を食い止めます。姫はそちらの道を走って、助けを求めてください」
そんなこと、できない、とサディナーレは怯えた目をしながら、首を横に振った。これまで、ひとりで行動したことなどないのだから。
「姫、よく聞いてください。あなた様は生きなくてはなりません。どうにかして、J国の王のところに行くのです」
サディナーレはできない、できないと涙を流した。すると、オキオキンが鬼の形相をして、平手でその頬を打った。姫の身体を冷たい電流が走った。こんな恐ろしいオキオキンの顔を見たことがなかった。
「姫、あなた様はまだ一度も自分の人生を生きたことがない。そんな一生で、よいわけがありません。さあ、走って、走って生きるのです。オキオキンのためにも、生きるのです」
敵の一団がやってくる音が聞こえた時、オキオキンはサディナーレの背中を強く推し、太刀を構えた。サディナーレは走り始めた。
これまで全速力で走ったことなどなかったのですぐに息が切れ、何度も転んだが、それでも走った。長い髪を振り乱して、走った。
途中で、オキオキンの叫びが聞こえたように思ったが、それが人なのか、狼なのか、それもわからなかった。
姫は息を切らしながら、オキオキンに言われたように、転んでは走り、走っては転び、それでも走り続けた。意識は朦朧《もうろう》して、何がなんだかわからなくなったが、ただオキオキンに言われた言葉にしたがって、ひたすら走り続けた。
すると、突然、ごうごうという地が裂けるような音が聞こえた。自分の息よりも、はるかに大きな音。木々の間から、大蛇のような流れが見えた。この凄まじい音をたてているものが、川というものなのだろうと思った。どうすればよい。どうすればよい。
水の流れは恐ろしい。追手も恐ろしい。どうすればよい。しかし、いつも答えをくれるオキオキンはもういないのだ。追手がそばまで迫っている気配がして、身体が凍って動かなくなった。
サディナーレは自分に与えられた人生はここまでだと思った。幸せだったのか、不幸だったのか、わからない。何か味気がなかった気がする。
この川に、目を閉じて飛び込めば、目を開いた時には、あの世というところのはず。
オキオキン、ごめんなさい。
そう思って、サティナーレは飛び込んだはずなのだが、目が覚めてみると、そこは天国ではなかった。また苦しみが続くのかと思うとサディナーレはがっかりしたけれど、でも、まだ生きていたからよかったとも思った。オキオキンの「生きるのです」という言葉がよみがえり、涙があふれた。
若い影だ。
ええっ、なぜ。
その若い男が土間で焚火《たきび》に薪をくべていた。
サディナーレは血の気の引いた顔をして、服の胸のところを合わせてがたがたと震えた。身につけていたはずの衣装は、焚火の周囲にかけられていた。
別の服を着せられていると気づいた時、サディナーレはこの世から消えてしまいたいと思った。
「起きた?」
とその青年が言った。
やさしい声だったが、サディナーレは震えながら、彼を睨みつけた。
「心配しなくていいよ。きみがずぶ濡れだったから、服を着替えさせようとしたんだけど、女性みたいだったから、何も見ていない。おれは国境を守る兵士で、悪い者じゃないから、そんなに怯《おび》えないで。きみは女性なのかい」
その青年が悪そうな人には思えなかったから、サディナーレは貯めていた息を吐きだして頷いた。
あれからグレトタリム王との縁談は父王と兄の執拗な干渉のためなかなか進まなかった。しかし、サディナーレが二十一歳になってしまったこと、J国からの結納金が増えたこと、それにサディナーレの揺るぎない意志で、ようやく婚礼が決まったのだった。
サディナーレはグレトタリム王に嫁ぐために、三百人のお供を従えて、一ヵ月前にH国を発ったのだ。
旅も、野宿も、サディナーレにとっては初めてのことで、不便なことは多少あったけれど、日々は発見に満ちていた。夜には天にあいた小さな穴かと思われるような星々を眺めては 女官に古い詩を読ませながら、この先に待っている生活に思いを馳せた。
他国の年老いた国王と結婚して、その宮廷で暮らすこと。また自分が子供を産み、その子が次の国王になるという日があるのだろうか。そのことを考えると不安が押し寄せてきて胸がつぶれそうになったが、自分が赤ん坊を焚いている場面を想像するのは幸せだった。
ところが、J国に近づくにつれ、乳母のオキオキンはおかしな気配を感じるよいになった。しかし、それはいよいよJ国にはいるのだという焦りや、姫の結婚生活への危惧《きぐ》からくるものなのだろうと考えていた。
その夜、オキオキンはこれまでにない恐怖感と緊張を覚えて、自分の腰を強く叩いて気合をいれ、行動に出ることに決めた。これがもし、取越し苦労なら、それでよいではないか。
オキオキンはサディナーレに小姓の姿をさせ、若い女官に姫の衣装を着せて輿《こし》に乗せた。午前中は何事もなく過ぎたのだが、夜になってもなかなか野宿に適した場所が見つからず、一行が疲れてきた時にことが起きた。どこからか三十人ほどの黒頭巾の徒党が馬に乗って現れ、姫の輿を襲撃してきたのだった。
彼らは弓に長けていて、鋭い鉄の矢を雨のように放った、オキオキンの予感は的中した。
姫の輿は火をつけられ、傾いて地面に落ちて、赤く燃え上がった。家来たちは慌てふためき、悲鳴を上げながら東の方向に逃げていった。そんな中、オキオキンは姫の手を引いて、家来たちとは反対の方向に走った。
オキオキンの目は殺気立っていた。今がこの人生最大の危機の時、何としてでも、姫を守らねばならない。それが私の役目。生きてきた意味。
今、目の前には、ふたつの道があった。
オキオキンはサディナーレに言った。
「私はここで、敵を食い止めます。姫はそちらの道を走って、助けを求めてください」
そんなこと、できない、とサディナーレは怯えた目をしながら、首を横に振った。これまで、ひとりで行動したことなどないのだから。
「姫、よく聞いてください。あなた様は生きなくてはなりません。どうにかして、J国の王のところに行くのです」
サディナーレはできない、できないと涙を流した。すると、オキオキンが鬼の形相をして、平手でその頬を打った。姫の身体を冷たい電流が走った。こんな恐ろしいオキオキンの顔を見たことがなかった。
「姫、あなた様はまだ一度も自分の人生を生きたことがない。そんな一生で、よいわけがありません。さあ、走って、走って生きるのです。オキオキンのためにも、生きるのです」
敵の一団がやってくる音が聞こえた時、オキオキンはサディナーレの背中を強く推し、太刀を構えた。サディナーレは走り始めた。
これまで全速力で走ったことなどなかったのですぐに息が切れ、何度も転んだが、それでも走った。長い髪を振り乱して、走った。
途中で、オキオキンの叫びが聞こえたように思ったが、それが人なのか、狼なのか、それもわからなかった。
姫は息を切らしながら、オキオキンに言われたように、転んでは走り、走っては転び、それでも走り続けた。意識は朦朧《もうろう》して、何がなんだかわからなくなったが、ただオキオキンに言われた言葉にしたがって、ひたすら走り続けた。
すると、突然、ごうごうという地が裂けるような音が聞こえた。自分の息よりも、はるかに大きな音。木々の間から、大蛇のような流れが見えた。この凄まじい音をたてているものが、川というものなのだろうと思った。どうすればよい。どうすればよい。
水の流れは恐ろしい。追手も恐ろしい。どうすればよい。しかし、いつも答えをくれるオキオキンはもういないのだ。追手がそばまで迫っている気配がして、身体が凍って動かなくなった。
サディナーレは自分に与えられた人生はここまでだと思った。幸せだったのか、不幸だったのか、わからない。何か味気がなかった気がする。
この川に、目を閉じて飛び込めば、目を開いた時には、あの世というところのはず。
オキオキン、ごめんなさい。
そう思って、サティナーレは飛び込んだはずなのだが、目が覚めてみると、そこは天国ではなかった。また苦しみが続くのかと思うとサディナーレはがっかりしたけれど、でも、まだ生きていたからよかったとも思った。オキオキンの「生きるのです」という言葉がよみがえり、涙があふれた。
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
いらないと言ったのはあなたの方なのに
水谷繭
恋愛
精霊師の名門に生まれたにも関わらず、精霊を操ることが出来ずに冷遇されていたセラフィーナ。
セラフィーナは、生家から救い出して王宮に連れてきてくれた婚約者のエリオット王子に深く感謝していた。
エリオットに尽くすセラフィーナだが、関係は歪つなままで、セラよりも能力の高いアメリアが現れると完全に捨て置かれるようになる。
ある日、エリオットにお前がいるせいでアメリアと婚約できないと言われたセラは、二人のために自分は死んだことにして隣国へ逃げようと思いつく。
しかし、セラがいなくなればいいと言っていたはずのエリオットは、実際にセラが消えると血相を変えて探しに来て……。
◆表紙画像はGirly drop様からお借りしました🍬
◇いいね、エールありがとうございます!
私は何も知らなかった
まるまる⭐️
恋愛
「ディアーナ、お前との婚約を解消する。恨むんならお前の存在を最後まで認めなかったお前の祖父シナールを恨むんだな」 母を失ったばかりの私は、突然王太子殿下から婚約の解消を告げられた。
失意の中屋敷に戻ると其処には、見知らぬ女性と父によく似た男の子…。「今日からお前の母親となるバーバラと弟のエクメットだ」父は女性の肩を抱きながら、嬉しそうに2人を紹介した。え?まだお母様が亡くなったばかりなのに?お父様とお母様は深く愛し合っていたんじゃ無かったの?だからこそお母様は家族も地位も全てを捨ててお父様と駆け落ちまでしたのに…。
弟の存在から、父が母の存命中から不貞を働いていたのは明らかだ。
生まれて初めて父に反抗し、屋敷を追い出された私は街を彷徨い、そこで見知らぬ男達に攫われる。部屋に閉じ込められ絶望した私の前に現れたのは、私に婚約解消を告げたはずの王太子殿下だった…。
よくある婚約破棄なので
おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。
その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。
言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。
「よくある婚約破棄なので」
・すれ違う二人をめぐる短い話
・前編は各自の証言になります
・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド
・全25話完結
愛され妻と嫌われ夫 〜「君を愛することはない」をサクッとお断りした件について〜
榊どら
恋愛
長年片思いしていた幼馴染のレイモンドに大失恋したアデレード・バルモア。
自暴自棄になった末、自分が不幸な結婚をすればレイモンドが罪悪感を抱くかもしれない、と非常に歪んだ認識のもと、女嫌いで有名なペイトン・フォワードと白い結婚をする。
しかし、初顔合わせにて「君を愛することはない」と言われてしまい、イラッときたアデレードは「嫌です。私は愛されて大切にされたい」と返した。
あまりにナチュラルに自分の宣言を否定されたペイトンが「え?」と呆けている間に、アデレードは「この結婚は政略結婚で私達は対等な関係なのだから、私だけが我慢するのはおかしい」と説き伏せ「私は貴方を愛さないので、貴方は私を愛することでお互い妥協することにしましょう」と提案する。ペイトンは、断ればよいのに何故かこの申し出を承諾してしまう。
かくして、愛され妻と嫌われ夫契約が締結された。
出鼻を挫かれたことでアデレードが気になって気になって仕方ないペイトンと、ペイトンに全く興味がないアデレード。温度差の激しい二人だったが、その関係は少しずつ変化していく。
そんな中アデレードを散々蔑ろにして傷つけたレイモンドが復縁を要請してきて……!?
*小説家になろう様にも掲載しています。
グラティールの公爵令嬢
てるゆーぬ(旧名:てるゆ)
ファンタジー
ファンタジーランキング1位を達成しました!女主人公のゲーム異世界転生(主人公は恋愛しません)
ゲーム知識でレアアイテムをゲットしてチート無双、ざまぁ要素、島でスローライフなど、やりたい放題の異世界ライフを楽しむ。
苦戦展開ナシ。ほのぼのストーリーでストレスフリー。
錬金術要素アリ。クラフトチートで、ものづくりを楽しみます。
グルメ要素アリ。お酒、魔物肉、サバイバル飯など充実。
上述の通り、主人公は恋愛しません。途中、婚約されるシーンがありますが婚約破棄に持ち込みます。主人公のルチルは生涯にわたって独身を貫くストーリーです。
広大な異世界ワールドを旅する物語です。冒険にも出ますし、海を渡ったりもします。
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
【完結】私の婚約者は、親友の婚約者に恋してる。
山葵
恋愛
私の婚約者のグリード様には好きな人がいる。
その方は、グリード様の親友、ギルス様の婚約者のナリーシャ様。
2人を見詰め辛そうな顔をするグリード様を私は見ていた。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる