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第六章 パリ

59. キリルの失踪

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 いつも新聞はコーヒーを飲みながらじっくりと読むのだけれど、その日の朝にかぎっては、ちらりと見ただけだった。

 あるフランス人女性がアメリカから逃げてきたが、警察に捕まったという見出しだったが、記事は読まなかった。振付のアイデアが浮かんだので、何を食べたのかわからないほど急いで朝食を終えて、オペラ座に行ったのだった。

 翌日が公演の最後日、ぼくは踊ってはおらず振付だけだったが、一部の振付を手直しして、リハーサルをした。
 その調整を何度か繰り返していると、予想以上にうまくいきそうで熱がこもり、そんなことで半日が過ぎた。あとは一休みをして、今夜の本番を待つばかりになった。ぼくはほっとして事務所に戻り、改めて新聞を読んだ。

 あのフランス人女性は協議離婚中で、夫は著名な実業家、この夫一族はアメリカでは指折りの資産家なのだった。夫が弁護士を何人も雇って、子供の親権や監督権を取り、母親には会わせないようにしようと画策していた。それを感じた取ったフランス人妻が子供を連れて米国から逃亡したのだ。
 
 ぼくはその時、似たような話があったとキリルのことを思い出していたが、彼と結びつけはしなかった。ただそういうケースは多いのかもしれないと思った。
 キリルはもうここにはいない。
 作家になると言って、1ヵ月前にオペラ座を辞めていた。ぼくはこれまですでに十冊以上の本を出したけれど、それはキリルの協力があってできたことだった。だから、彼がいなくては困ると説得したのだけれど、彼はどうしてもスウェーデンに帰り、執筆に没頭したいのだと言って譲らなかった。
 私生活ではクララともうまくいかず、しばらくパリから離れたいのだろうと思った。彼をこれ以上引き留めるのはぼくのエゴというものかもしれない。彼はひとりになって、自分を見つめ直したいのだろう。
「帰ってきたくなったら、いつでも、戻ってきてほしい。待っている」
 ぼくはそう言って、彼を送り出した。
 キリアンはただの助手ではなく、ぼくの一番の友人だった。

 新聞のフランス人妻は、まず夫の目をくらませるためにカナダに行き、そこから英国に飛び、フランスまでは船を使った。ようやくパリに着いたものの、すでに夫の手が伸びていたので、妻は友達の運転する車で逃げたが、ベルギーの国境近くで逮捕され、子供は夫のほうに引き渡されたのだという。
 ぼくは母と子の別れの辛さを思い、たとえ法がそうだとしてもなにか手があるはずだから、ふたりが早く再会できることを願った。
  
 その時、キリアンから電話があった。事務所にかかってくるなんて、めったにない。キリアンはいつものキリアンではなかった。悲鳴にも近い声で、すぐに帰ってきてほしいと叫んでいた。
 ぼくがアパートに駆け付けると、キリアンは「キリル、キリル」と泣き崩れていた。
 キリルがどうかしたのか。

「アンリエットが死んだのよ」
 とキリアンが言った。 
 アンリエットは米国人の夫から逃れて、娘を連れてニューヨークからパリに来た。しかし追手がかかったので、今度はベルギーに逃げようとしたが、国境でつかまり、娘は夫側の弁護士に渡された。新聞は匿名で書かれていたが、あそこに書かれていたフランス女性はアンリエットだったのだ。
 そして、車を運転した友達というのが、キリルなのだった。

「キリルから電話があって、彼女が死んだってそう言ったの。ああ、キリルが死んでしまう」
 とキリアンが泣き崩れた。

 新聞には、アンリネットが死んだとは書かれてはいなかった。しかし、アンリエットは午前中に釈放され後、娘と二度と会えないことを悲嘆して、川に飛び込んだのだという。

「キリルが死ぬって、どういうことですか。彼が死ぬって、そう言ったのですか」
「死ぬとは言ってはいないけれど、私にはわかるの。一緒に育ったのですもの、弟ですもの。あれはお別れの電話だわ」
「キリルがどこにいるか、わかりますか」
「わからないけど、新聞にはベルギー近くの村と書いてあるわ」 
「キリアン、落ち着こう。どんな情報でもいいから、手にいれてください。ぼくはこれからオペラ座に行って、明日、もし時刻に戻れなかった場合の指示を残してきます。できるだけ早く、出発しましょう」
 
 オペラ座から戻ると、日が暮れかけていた。
「今から行くの?」
 とキリアンが訊いた。瞼がはれていた。

「腕の確かな運転手をふたり手配しています。交代で運転していけば、朝方までには、国境には着けるでしょう。キリアン、しっかりしなさい。キリルを死なせるわけにはいかないでしょう」
「ありがとう」

 ぼくの人生経験からすると、不運が起きた時には、その他のことがスムーズに進むというのはまずなくて、さらなるパンチを食らわされる。だから、慎重を期したつもりだったが、運転手が寝坊をしたり、タイヤがパンクをしたり、普通ではめったに起きないことが起きた。車の事故で一部の道路がふさがり、長い列ができていた。
 世の中から見離されてしまったように感じた時、交通規制をしていた警官がぼくのことを知っていて、事情を手短に話すと特別に通してくれた。ぼくはその時、神を見たと思った。

 ぼく達がその村に着いたのは明け方だった。キリルが泊まっていた部屋に行くと、そこには誰もいなかった。ベッドには寝たような跡はなかった。灯をつけると、机の上に、白い封筒がひとつ載っており、その上には、見慣れた文字で、
「セルジュ・リファールへ」、と書かれていた。

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