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森の民・ガティネ(8)

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――……あぁ……。これはヤバい。
 ミランヌは、朦朧とした意識の中、思った。
 足元の地面が一瞬で無くなった様な、浮遊感にも似た妙な感覚。
 嘗て、本格的な武術の師である人物相手に何度も味わった代物。
 だからこそ、ほんの僅かな緩みで千切れ飛びそうなそれを無理矢理繋ぎ止める。
「っ、つぁー。…………っ」
 踏鞴を踏みながらもどうにか、と言った体だが、両膝を付く事だけは避けられた。
 視界も思考も継ぎ接ぎではあるが、相手からの追撃は無い。
――多少は気圧されてくれてると有り難いんだけど。
 期待したい考えではあるが、此方が視線を逸らさなかったのもあり、反撃を嫌ったのだろう。
 すり足気味の一歩で侵攻を止めた彼女、ルツ・ナミルは目を見開いたまま、ただ立っているのみ。
 少なくとも、先の三連撃から勝利を確信して油断する様な人物ではないらしい。
――んなろー……。やっぱとんでもなく強いわ。
 顎先を摩るが、その左手が最早機能しているか怪しい程の損傷である。
 まだ手首から先も無事であり、指も折れてはいないが、正直、痛みと痺れで存在を知覚している位だ。
「握るのも難しい、か……」
 呟くも、それすら顔や態度には出さない。
 本能、偶然、と言って過言ではない反応で、連撃は防いだ。
 様には見えるだろう。
 結果は見ての通り、主として受けた左手が使い物にならなくなってしまった程。
 捨て鉢気味であったとはいえ、安易に喰らったツケである。
 ミランヌは、ふと口の中の違和感に、
「ふっ」
 濯いだ水を吐き出す様にして、口内から血を追い出した。
 何やら音に違和感もあったが、無視。
 ついでに袖口で口元を拭けば、多少は格好も付く。
――全く、心配そうな顔してくれちゃって……。
 闘技場の外で、大将にして義理の姉が、見た事も無い様な表情を浮かべていた。
 ついでに言えば、隣で体育座りしている巨体は両手をしっかりと握り、祈っている様にも見える。
「そういうのは好きじゃないってのに……」
 思わず呟いた。
 紀宝家自体は、割合普通の、一般日本家庭だ。
 正月には初詣へ行く上に立派な門松も並ぶし、十二月の生誕祭を特にこれと言った理由もなく祝ったりもする。そんな家だ。
 しかし、である。
 環境が唯一、他と多少異なっていた。
 父親側の親類に仏教徒、寺の住職が。
 母親側の親類に熱心な旧教徒が居る。
 犬猿、とまでは言わないものの、宗教的な部分以上に性格的に合わないらしく、会えば色々と牽制し合う者達だった。
 だと言うのに、お互い共に両親が好きな為、良くその場面を目にする紀宝家の三人姉弟達は、揃って無神論者である。
「結婚式も和か洋かで揉めに揉めたなぁ。……うん。外野がね」
 と、達観した表情で語っていた父が今でも思い浮かぶ。
 そんな事もあり、神頼み、と言うのは一切信じていないのが紀宝・香苗ことミランヌ・カドゥ・ディーであった。
 ため息一つ。
――でもちょっと気が楽になったかも。
 両者が先程と同じ構えを取った瞬間。
「「っ!!」」
 何度目かも分からない激突。
 拳と脚が交差する。
 数瞬、脚が先手を取ったが、
「ぐっ」
 ナミルのくぐもった声。
 しかし、今回はミランヌの勝ちだ。
 放った右は、正確に彼女の左脇腹へ到達。
「……っ、っ!」
 とはいえ、ミランヌも顔を歪める。
 向こうの狙い澄ました上段蹴りを、当然の様に左腕で受けたからだ。
――左はもう使い物にならない打撃出来ないっ!
 思案。
 だからこそ、反応は早かった。
 左腕が攻勢に使えないなら、いっそ専守防衛に切り替えた方が良い判断だ。
――……っ!
 右脚を左手ではたき落とし、追撃の脇腹。
「もういっぱ、がぁっ」
 三発目の前に、衝撃が来た。
――っ、こっのっ!
 引き際に飛んできたのは、脇腹を抉る様なナミルの
 不安定な体勢からの、そうとは思えない重い一撃。
 痛みで身体が折れる。
「ぐっ! ラァッ!」
 そこから身体を捻りつつ、返す様な右の蹴りを頭部へ見舞う。
 咄嗟の両腕防御の上から、構う事無く叩き込み、ナミルの身体が浮いた。
 確かな手応えはあるが、彼女の表情からは倒したとは到底言えない。
「「っ」」
 お互いにしっかりと両足を地に着ける。
「っ、……しっ!」
 直後、当然の様に先に動いたのはナミルだ。
 即座に一歩踏み込んでから此方の顔面へ右正拳。
 腰を落として回避。
 した所へ飛んできた左膝の一撃。
 これを半歩進む事であえて脇腹で受けつつ、相手の顔面へ引っ掛ける様に横合いから右を一発。
 直撃した筈が全く動じない為、続け様に追撃を入れたが腕で防御されると共に、嫌がる様に膝で押し出された。
 両者にとっての長い一合が終わり、同時に一歩を後ろへ。
「……ふぅー」
 浅い一息。
 対する相手は、横目で一瞬、二人を見た。
 釣られて見れば、内の一人であるアプラ・イディと目が合い、笑みを浮かべられる。
――調子狂う。
 努めて無視する一方、赤髪の美丈夫は悠然と、或いは憮然としていた。
 傍目には、非常に感情が読み辛い。
――ああいう手合いはやりづらいって決まってるのよね。
 そんな相手と戦う事が確定している人物を少々不憫にも思う。
「ヴァロワに、貴女の様な強者が居た事。本当に驚き」
 あまりにも唐突な言葉に、ミランヌは思わず、自分の表情が想定以上に崩れた事を知覚する。
 それを咳払い一つで修正。
 合わせて来た全身の痛みに若干眉根を詰めつつ、
「……。私も。私がこれまで会ってきた中で間違い無く一番強い人です」
 掛け値なしの褒め言葉。
 それに対して、彼女の視線が今度は逆側。
 ジャンヌ達の方をちらりと見た。
「アプラと戦った人とはまるで違う」
 直球。
「彼が弱かったと言う事?」
 鋭利な刃物そのものである。
 が、ミランヌとしては返す言葉もない。
――事実だしねぇ。
 彼とて、方向性は違えども身体を動かすのは得意分野だ。ジャンヌはおろか、何ならミランヌよりも遙かに芸達者である。
 何もしていない訳ではないのだが、結果は御覧の有様だった。
 良く通り、相変わらず中性的とも取れる彼女の声で、明らかに項垂れてしまった友人を横目に大きく頷き、
「アレは私達の中でも最弱。一緒にされたら困るわね」
 追い打ちを掛ける。
 予想だにしなかった言葉に、彼女、ルツ・ナミルは眉根を詰めた。
――思ったより感情表現豊かかも。
 思案するが、それも一瞬。
 頭の片隅に追いやってから、徐に人差し指を立てた。
「最後に一つ聞きたいんだけれど」
「構わない」
 応えに頷き、
? 
 聞いておくべき質問一つ。
「居ない」
 答えは、簡潔を極めた。
 数瞬の間。
「……。私は。私の家はシーフェ狩る者だ。だから、普段は弓を使う。私達の中でも一番の使い手だと思っている。しかし、他の者達の様に剣や槍は上手くならなかった」
 一息。
「だから、いっそ、使わない方法を取った。身体を動かす事は慣れていたし、これは、やればやるだけ自由に動けた」
 表情自体はクタルナと同様、あまり変わらないのだが、
「他に付いてこれた者は一人も居なかった。常に一人だったけど、それは弓を扱う時と同じで、それ程、辛いと思った事はない。いや、楽しかった、と思う」
 案外と良く喋る人物ではあるらしい。
「……
 両の拳が、握られた。
 震えているのは、武者震いか、蓄積した疲労の現れか。
「……そ」
 短い応え。
 改めて構えを取る。
「分かったわ。負けられない理由も増えた」
 お互いに口の端を上げた。
「ルツ・ナッツィン・ナミル」
 ナミルが、再び簡潔な自己紹介。
 だが、前回とは微妙な差異がある。
 その事を不思議に思いながらも、告げた。
「ミランヌ・カドゥ・ディー」
 深呼吸一つ。
「……
 挑発する様に、痛む左手で手招く。
「っ!」
 来た。
 力強いのに滑らかな足捌き。
 数歩の距離が瞬き以下で縮まり、再開される殴り合い。
 ミランヌは、致命傷のみを取捨して受け流し、はたき落としていく。
 反撃も叩き込んで行くが、まるで怯まない。
「くっ!」
「っ、のっ!」
 胴体への打撃は同時。
 飛んできた左拳を下からの右で合わせ、弾いた。
 追撃はそのまま、右の抜き手による喉への一撃。
 普通なら悶絶物であるが、
「がぁっ!」
 反撃は右の蹴り。
「つあっ、っ!?」
 死に体の左腕で防いだつもりが、上方へ跳ねたには、対応が間に合わない。
 振り下ろされた踵がぶち当たる。
 辛うじて頭部への直撃は避けたが、左肩にこれまで感じた事の無い痛みを得た。
 まるで、左腕がごっそりと抉られた様な強烈な物。
 崩れる。
「ミラっ!!」
――うるさいっ。
 飛びそうな意識を呼び戻された事に対しての悪態だ。
 次いで、勝ちを確信した様なナミルの表情に対しても似た思いを得る。
――絶対に、負けらんないのよっ!
 踏み留まり、彼女の胸へ押し当てる形の、弱々しい右。
――
 五指を開いた。
「しっ!」
 閉じると同時、ミランヌの拳がナミルの肉体を捉える。
「かっ……!?」
 至近距離にて、最小動作による最大火力を叩き込んだ。
 開始以後も幾度か与えていた威力の拳。ではあるが、今回は違う。
 身構えていない所への、不意の一撃と言うのは、受ける側としては想像以上に衝撃が大きい。
 所謂、寸勁、と言う技だ。
 知識としては中国拳法を習ったミランヌも当然、周知である。
 以前にも何度か試し撃ちの段階では成功してみせていたが、いざや実戦でとなると、話は別だ。
 自身、初めての成功、であった。
 だがその成果に驕らず、ミランヌは動く。
「あああぁっ!」
 裂帛の気合。
 身体を時計回りに振り回し、勢いを付けた上での、
「ラァッ!!」
 背面による体当たりだ。
 元々、受け身すら出来てない様なナミルだが、連撃で完全に体勢は崩れた。
 まともに喰らい、宙を飛んで行く。
「す、寸勁からの、鉄山靠っ!?」
――解説どうもっ!
 最弱認定した友人の声に心中で答えつつも、ミランヌは激痛を押して地を蹴った。
 無論、決着をつける為だ。
 その先で、目標が柱の一本に背から激突する。
 支えにして、息も絶え絶えの状態だろうが、まだ倒れない。
 視線がかち合う。
――
 ミランヌ自身、そんな者達と比して、上に立っているとは到底考えていない。
 彼女よりも遙か高みに居る人物はそれこそ、星の数程居る。そんな者達よりも、目の前の長命種は強いのだろう。
 それでも、一歩を進む事に生涯を費やして、次代へ連綿と繋いできた研鑽の歴史。その厚みに関しては、間違い無く引けは取らない。
 今この場においてミランヌは、少なくともその長い歴史、その重みの一端位は担っていると言う自負はあった。
 だからこそ、
「だからっ!」
 叫んだ。
!!」
 言い終わると同時に、辛うじて防御に回ろうとした腕を掻い潜り、ナミルの顎を、掌底で下から打ち抜いた。
 打撃と、それに続く、物が打ち付けられる小気味良い旋律。
 二重の衝撃音。
 その威力は、程なく前のめりに倒れ込んだ彼女の姿が証明している。
 少々不格好ではあるが、赤掌少林拳師範考案にして直伝、必殺の三連撃。
 実戦はおろか、訓練ですら上手く出来なかったのがこうして繋がった、その事実にこそ、寧ろ思う所がある。
 そんな余韻に浸りつつも、右腕を突き上げ、
「……はっ。どんなもんよ……。て、ね」
 ミランヌの意識は、今度こそ完全に途切れた。
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