85 / 145
南部都市リンダール(14)
しおりを挟む
「うーん。今日にでも出てくれると、こっちとしては非常に助かるんだけど……」
「でも釣りってそういうもんじゃない?」
「えぇ? ……あぁ、でも、そうだよなぁ。アタシ、釣りは向いてないかも」
「それは私も同意見だけど」
意見の一致を見て、一條は内心で安堵した。
一息吐いてから、まだ日が恐怖山脈の向こう側にあるのを視認。
まだ夜明け前なのは、これまでの襲撃頻度等からの推測だ。
何より、この時間帯であれば人の気配もほぼ無い。
その巨体を考えれば、然程の被害も出ないだろうと言う考えもあっての事だった。
「ねーむ。終わったら昼まではがっつり寝るわ」
「アタシもそうしよっかな……」
欠伸を噛み殺しながら、賛成する。
「あの、ジャンヌさん? ミラさんもですけど。何でそんなに余裕なんでしょうか……?」
一條は、隣に立つテリアの言葉に、首を傾げた。
確かに、釣り糸と言うにはかなり太さのある、最早、縄と呼んで差し支えないものを握ってはいるが、心は平穏そのものだ。
そもそも、釣りとは平常心でなければ務まらない物であるらしい。
親友の言である。
「まぁ、テリアさんも含めて、こっちは戦力十分だからね。バララムートってのがどういうのかは知らないけど、負ける気は全然ないよ」
言いつつ、傍に置かれたヴァルグを軽く叩く。
ほぼ最強戦力がこの場に集結していた。
負ける道理があるとすれば、それは敵が竜にでも匹敵する様な、強大な存在であればである。
――とはいえ、実際の竜の強さはピンと来ないけど。
嘗ての折り、この地で暴れていたらしい事は知っているが、果たして、どの程度かまでは判然としない。
霧掛かった記憶や、遙か昔の絵画一枚。曖昧なそれらを以て、そのまま額面通りに受け取るべきかは不明瞭であった。
「いえ、あの……。その先の心配はしていないのかな、と」
「先……?」
再び首を傾げた。
「バララムートの他に何か居たっけ?」
紀宝も同じく首を傾げている。
「ジャンヌ殿、ミランヌ殿。彼女が言っているのは、持っている物の先に居る人物の事ですよ」
苦笑しながら、アランが説明してくれた。
「「あー……ね」」
二人して同じ言葉を呟く。
次いで、二人同時にヘッズロー大河の方へと視線を送る。
「まぁ」
「気にしないで、としか」
続けた台詞に、今度はスフィがこれ見よがしのため息を吐いた。
遙か沖合まで延びる釣り縄。
リギャルドの命により、超特急で誂えられた代物。総全長は大体三百メートルかそこらと言った所だ。
二日でこれだけの長さを用意してくれた点は、感謝すると共に、大いに評価して良いだろう。
兎も角、その先端は今此処には居ない、一行の盾役と繋がっている。
一人用の筏で広大な川を漂っている彼にとっては、正しく命綱だった。
勿論、そんな親友と胴体に巻き付けられた一本のみで繋がっている一條もまた、危険度は高い。
が、そんな役目を他の誰に引き受けさせるのかと言えば、愚問である。
「疑似餌なんだけど、これが最適解よね」
と自信満々に笑みで提示した彼女に、高井坂は二つ返事で答えて元気に大河を渡って行った。
とはいえ、その表情はほんの僅か引き攣っていた事もあり、流石に同情を禁じ得ない。
――でも、最適解と言われれば、納得する様な……そうでもない様な……。
思う。
しかし、リギャルドの提案を叶えつつ、迅速に事が進む可能性がある上、総合的な労力も加味した場合、現状の判断は悪くは無いのだろう。
約一名の心的外傷を考慮しなければ、だが。
「最悪泳いで帰ってこれるし……まぁ、平気だと思う、よ?」
「そこは言い切って下さい、ジャンヌ姉様」
「平気平気」
「ディノワ殿の命ってそんな軽いものなんでしょうか……」
「命の重さ、か。哲学ね」
紀宝の言葉に苦笑しつつ、一條は改めて両足を水底に沈めた。
人口的に作られた浅瀬。靴は既にその役目の大半を果たしていないが、まさか素足で踏ん張る訳にもいかない。
また、着慣れた隊服も、足回りは最早ずぶ濡れである。
――半ズボンの生足タイプも考えるべきでは。
等とそんな事を思案するが、果たして、そんな服を着ようと思う女性が居るかどうか。
「……何?」
「や、別に」
紀宝ならあまり気にはしないだろう。
「暇だな、って」
別の答えを返した。
釣り縄からは、時折引かれる様な反応を見せるが、大きなものは感じない。
恐らくは、疑似餌が位置を微調整している為だろう。
「しかし、大きさがかなり違います。果たして、引っ掛かるでしょうか」
「んー。そこは大丈夫かな、って思うよ」
不思議そうな表情のアランを見て、再びの苦笑。
「大きさが違うのは確かにそうなんだけど。つい先日もこの近くに顔を出したって事は、それなりに腹を減らしてる証拠だと思うよ。今だったら、大抵の物にはすぐに食いついて来るんじゃないかな?」
最も、此方側としては、餌が餌である以上、食われたら一巻の終わりでもある。
釣り縄はそれなりの強度を持っているとは思うが、千切られないとも限らないからだ。
「頑丈な男でも消化はされるのかしら」
「多分ねぇ。されなかったらホントの化け物なんだが」
そうなると糞と一緒に排泄されるだけであるが、もしそうなった場合は暫く距離を置いておこう。
――物理的に。
深く頷いた時だった。
「ジャンヌ殿っ」
アランの声と同時、縄が勢い良く大河へと流されて行く。
腕に緩く巻かれていた部分も、一瞬で締められた。
「来たかっ!」
高井坂からの合図である。
異変があった場合、出来うる限りの力で縄を引く。
それが今、現実となったのだ。
「ごめん! 準備するから、少しの間頼む!」
「はいさ! 付かず離れずの距離、でしょ!」
紀宝の言葉に続き、アラン達も釣り縄を確保しに動く。
ここからが勝負である。
腰掛けていた陸地から、一息に川の中へ立つ。
完全に水浸しとなった靴を踏む、何とも言えない感触に若干の気持ち悪さを足裏に感じながら、一條は深呼吸一つ。
「『我が力を今こそ示す。無双の力をその身に宿せ』」
肉体強化の詠唱。
ある程度の型が出来、それを暗唱しさえすれば、誰しもが制限無く使用出来る時が来るだろう。
その後は、この内に力を溜めると言う感覚的な事を上手く制御出来れば、だ。
今は其方へ思考を割く余裕はない。
それでも、何時かは叶えられれば良いと思う。
「『肉体に剛力を、強靱なりし我が身体、無敵なりし鋼の精神、最強とはまさに自身を示す言葉なり』」
告げる。
「『剛力無双。解放せよ、我が力』」
繋ぐ、
「『その目は全てを見るに不足なく。その耳は全てを聴くに不足なく』」
紡いでいく。
「『眼前で起こる悉くに反応し、対応し、対処するに足るだけの力を我が身へ。解放、神位合一っ』」
終わりと同時、ふっ、と身体が軽くなる感覚。
今まで以上に、知覚自体も精度が上がっている。
「……よし」
視線の先、先程までとは違い、明確に高井坂の姿を捉えられた。
――やっぱり、敵は水中か。他には何も見えない。鰐、とかじゃ無さそうだ。
向こうから此方の視認は難しいだろうが、必死に釣り縄を引いては、頻りに後ろを気にしている。
残念ながら、その後方には何も見えないが、確かにそこに居るのだろう。
「……いや、何か喋れや」
そんな余裕も無さそうではある。
微かに聞こえてくるのは、言葉にならない叫び声が大半で、一言二言はあっても、意味を理解するまでには至らない。
「あいつもパニックになる事はあるんだな……っ。釣り縄がアタシが! 出来る限り引き付けて、バララムートを釣り上げてやろうじゃない!」
言うが早いか、右手にヴァルグを、左手一本で釣り縄を掴み、その先端までを確認。
一歩ずつ慎重に大河へ向かいながら、無理矢理に左右へと振って行き、或いは縄を緩め、引き寄せて、制御下に置いていく。
「相手が海竜、なんてのは勘弁願いたいんだけど……っ!」
とはいえ、此処は海ではない為、もし居た場合は川竜になるのだろうか。
それはそれで何とも間の抜けた名称にはなるが。
「あん? 来る、来るって。何がだ。呪いの類いか? ……え、下? ……あっ、なーるほろ、ねっ!!」
同時、身体全体を使って勢いを付けた。
縄が上へと引っ張られていき、疑似餌が空へと放り投げられた瞬間、川面が下から押し上げられた。
それを割る様にして、口と思われる一部が筏を粉砕。
「っ!?」
高井坂を目掛けての一撃はどうにか回避。
そして、ヘッズロー大河の現在の主バララムートが、一條を始めとした者達へと、その全身を現した。
一人、その姿を見る余裕はなさそうだが、
「さ、か、な、だぁぁぁぁっ!!」
代わりとでも言う様に、一條は叫んだ。
後方からも、紀宝と思しき声が聞こえてくる。
バララムートは、誰がどう見ても、紛うこと無く、魚、であった。
但し、その大きさは通常のそれとは文字通り桁が違う。
その全長は、目測でも十メートルは下らない。
――いや、まだ全身が出てる訳じゃない。どんだけ……っ。
「デカっ、いっ!? マズいっ!」
更に全長が伸びてきた。最早、鯨と同等、いや、それ以上の大きさだ。
舌打ち。
完全に疑似餌の逃がし方を間違ったからである。
巨体に見合う、大口。
あれでは、釣り針を模して持たせている片手用の直剣等、無意味に等しい。
引っ掛けるどころの話ではない。
一歩が煩わしく、軽い跳躍を以て相対的に近付くと共に、釣り縄を下へ引き、急降下させる。
「よいっしょおぉ!」
合わせて疑似餌も急降下した為、難を逃れた。
口が閉じ、巨大魚も追い掛ける様な形でその身を水面へと豪快に叩き付けて行く。
派手な音と共に立ち上るのは、水飛沫、と言うより、これでは水の柱と表現出来る代物だ。
「ジャンヌ姉!!」
「分かってる! アレは無理だ!! 疑似餌で誘導していくっ!」
一息。
「アタシが此処でぶった切るしかない!!」
右手に力を込めつつ、叫んだ。
と同時、更に前進。
既に白旗を越え、水域は腰程に達している。
当然、下半身までもが水中であり、川の流れ自体は緩やかとはいえ、些か心元なくはあった。
其方にまで気を回す余裕は無いのだが。
「っの!」
力任せに左右へ振りつつ釣り縄の長さを調整していく。
今や隠れる事もしなくなったバララムートが、時折疑似餌目掛けて顔を出してくる。
寸前で引き寄せて回避。
――なんて、格好付けてみたけど、詠唱する余裕があるかなぁっ!? これっ!
思案。
本来であれば、すぐにでも手繰り寄せてばっさりと行きたい所だが、そうでなくとも、あの巨体だ。
万が一にでも、止めを刺し損なう、等と言う事態だけは避けなければならない。
「確実な、それでいて、致命的な一撃を……っ」
それを為すには、やはり、ゼルフの力を利用しない手はなかった。
――あぁ、一か八かばっかりだなぁ、全くもうっ。
愚痴るが状況は変わらない。
流石に振り回されている方の身も心配になってきたのもあり、一條は深呼吸を二回。
「よしっ」
覚悟を決めた。
集中していく。その間も、左手は忙しない。
今まで以上に深い集中。
「『世界を包む遙かな力の欠片よ。我が声に応え、我が剣に宿りて顕現せよ』」
今度こそ、ヴァルグの剣身が淡い光を灯す。
身体が、熱を持っていくのを感じた。
しかし、頭は逆に冴えてくる。
「『概念創造。光は質量を持つ』」
ヴァルグの、淡い光が強くなった。
先日から、紀宝と二人で試していた事だ。
「火とか水とか出せるなら、別の物も出せたりするんじゃない?」
かくして、様々な実験を経て今回の詠唱と言う訳である。
「『照らすは日ではなく我が剣身。照らせ照らせ、全てを照らせ。白く染めろ我が大剣』」
剣身が、白く染まった。
同時、慣れてきた左手の操作で疑似餌を大跳躍させる。
これまでの記録を大幅に塗り替える勢いでの最高地点到達だ。
釣り縄に括られていなければ、ではあるが。
それを目標に、バララムートが飛び上がった。
構う事無く、先を続ける。
「『光は力を帯びる。質量ある光の暴威。全てを切り裂け、輝く剣』」
釣り縄を引き寄せた。
疑似餌が空から一條の方目掛けて飛んでくる。
次いで、水面を叩いたバララムートも追って来た。
狙いは既に、空中の疑似餌から、目立つ光を灯す此方だろう。
「『日より輝く光量を持て。此処に放つは大質量の一撃。ただの一振り、全てを斬り捨てろ』」
飛んでいた囮が、後方に落着。
それを確認するかの様に、巨大魚が、その全身を以て飛んだ。
怯むどころの話ではなく、それを気にする事すらない。
「『延伸するは極光の剣身っ。抜剣っ!』」
今こそ、両手でヴァルグを保持。
切っ先を天へと向けた。
瞬間。
「っ!?」
剣身から、光が現出。
伸びた、と言うより、元からそうであったかの様に、バララムートの巨体を凌ぐ白い剣が、あった。
「――!」
誰かの声。
一條の視界全てが、バララムートに塗り潰されていく。
叫んだ。
「『一閃! 極光剣、ヴァルグ!!』」
大上段からの真っ向、唐竹割り。
それで、決着した。
眼前にまで迫っていた生物の壁が、縦二つに分かれ、しかし、勢いそのままに通っていく。
浅い事もあり、すぐさま水底に激突。
派手な衝撃音を奏でた。
広がった津波の如き水波紋は一條を洩れなく包み、まだ無事であった上半身すら完全に水を浴びる事となる。
「……。……っ、はぁっ……」
一息吐いてから、残心とも言える状態から姿勢を戻した。
ヴァルグは、もう光を放っていない。
振り下ろした時には、既にこの状態である。
「……真っ二つにすれば、流石に生きてないでしょ……」
事実、バララムートはぴくりともしていない。
「ジャンヌぅぅ。死ぬかと思ったよ俺ぇぇ……」
情けない声に振り向けば、情けない格好で疑似餌改め親友が居た。
「どっから声出してんだお前は……」
苦笑しつつ近寄って行けば、お互い視認出来る距離で、相手が石化する。
――おや?
と思ったのも束の間。
自動車の様な勢いで走ってくる人物を視界に納める。
「あ」
と声を出した瞬間、親友が撥ねられた。
「ほらもうっ、やっぱりっ! 幾ら隊服だからってそんだけ濡れてれば透けてるでしょ! 少しは恥じらえっ」
指摘に見れば、確かに諸々危険である。
成程、どこぞの神話生物の様な能力にでも目覚めた訳ではない事は理解した。
――錆びないかなぁ。
等と暢気しつつ横にヴァルグを突き立ててから、一條は胸を両手で隠し、身体を捩って見せる。
「い、いやーん……なんちゃってー……」
精一杯の格好で告げたものの、言い終わる時には、一條の身体は空中にあった。
山脈から顔を覗かせた朝日を背に、猫の様な声と共に水面へと頭から飛び込んだ。
「でも釣りってそういうもんじゃない?」
「えぇ? ……あぁ、でも、そうだよなぁ。アタシ、釣りは向いてないかも」
「それは私も同意見だけど」
意見の一致を見て、一條は内心で安堵した。
一息吐いてから、まだ日が恐怖山脈の向こう側にあるのを視認。
まだ夜明け前なのは、これまでの襲撃頻度等からの推測だ。
何より、この時間帯であれば人の気配もほぼ無い。
その巨体を考えれば、然程の被害も出ないだろうと言う考えもあっての事だった。
「ねーむ。終わったら昼まではがっつり寝るわ」
「アタシもそうしよっかな……」
欠伸を噛み殺しながら、賛成する。
「あの、ジャンヌさん? ミラさんもですけど。何でそんなに余裕なんでしょうか……?」
一條は、隣に立つテリアの言葉に、首を傾げた。
確かに、釣り糸と言うにはかなり太さのある、最早、縄と呼んで差し支えないものを握ってはいるが、心は平穏そのものだ。
そもそも、釣りとは平常心でなければ務まらない物であるらしい。
親友の言である。
「まぁ、テリアさんも含めて、こっちは戦力十分だからね。バララムートってのがどういうのかは知らないけど、負ける気は全然ないよ」
言いつつ、傍に置かれたヴァルグを軽く叩く。
ほぼ最強戦力がこの場に集結していた。
負ける道理があるとすれば、それは敵が竜にでも匹敵する様な、強大な存在であればである。
――とはいえ、実際の竜の強さはピンと来ないけど。
嘗ての折り、この地で暴れていたらしい事は知っているが、果たして、どの程度かまでは判然としない。
霧掛かった記憶や、遙か昔の絵画一枚。曖昧なそれらを以て、そのまま額面通りに受け取るべきかは不明瞭であった。
「いえ、あの……。その先の心配はしていないのかな、と」
「先……?」
再び首を傾げた。
「バララムートの他に何か居たっけ?」
紀宝も同じく首を傾げている。
「ジャンヌ殿、ミランヌ殿。彼女が言っているのは、持っている物の先に居る人物の事ですよ」
苦笑しながら、アランが説明してくれた。
「「あー……ね」」
二人して同じ言葉を呟く。
次いで、二人同時にヘッズロー大河の方へと視線を送る。
「まぁ」
「気にしないで、としか」
続けた台詞に、今度はスフィがこれ見よがしのため息を吐いた。
遙か沖合まで延びる釣り縄。
リギャルドの命により、超特急で誂えられた代物。総全長は大体三百メートルかそこらと言った所だ。
二日でこれだけの長さを用意してくれた点は、感謝すると共に、大いに評価して良いだろう。
兎も角、その先端は今此処には居ない、一行の盾役と繋がっている。
一人用の筏で広大な川を漂っている彼にとっては、正しく命綱だった。
勿論、そんな親友と胴体に巻き付けられた一本のみで繋がっている一條もまた、危険度は高い。
が、そんな役目を他の誰に引き受けさせるのかと言えば、愚問である。
「疑似餌なんだけど、これが最適解よね」
と自信満々に笑みで提示した彼女に、高井坂は二つ返事で答えて元気に大河を渡って行った。
とはいえ、その表情はほんの僅か引き攣っていた事もあり、流石に同情を禁じ得ない。
――でも、最適解と言われれば、納得する様な……そうでもない様な……。
思う。
しかし、リギャルドの提案を叶えつつ、迅速に事が進む可能性がある上、総合的な労力も加味した場合、現状の判断は悪くは無いのだろう。
約一名の心的外傷を考慮しなければ、だが。
「最悪泳いで帰ってこれるし……まぁ、平気だと思う、よ?」
「そこは言い切って下さい、ジャンヌ姉様」
「平気平気」
「ディノワ殿の命ってそんな軽いものなんでしょうか……」
「命の重さ、か。哲学ね」
紀宝の言葉に苦笑しつつ、一條は改めて両足を水底に沈めた。
人口的に作られた浅瀬。靴は既にその役目の大半を果たしていないが、まさか素足で踏ん張る訳にもいかない。
また、着慣れた隊服も、足回りは最早ずぶ濡れである。
――半ズボンの生足タイプも考えるべきでは。
等とそんな事を思案するが、果たして、そんな服を着ようと思う女性が居るかどうか。
「……何?」
「や、別に」
紀宝ならあまり気にはしないだろう。
「暇だな、って」
別の答えを返した。
釣り縄からは、時折引かれる様な反応を見せるが、大きなものは感じない。
恐らくは、疑似餌が位置を微調整している為だろう。
「しかし、大きさがかなり違います。果たして、引っ掛かるでしょうか」
「んー。そこは大丈夫かな、って思うよ」
不思議そうな表情のアランを見て、再びの苦笑。
「大きさが違うのは確かにそうなんだけど。つい先日もこの近くに顔を出したって事は、それなりに腹を減らしてる証拠だと思うよ。今だったら、大抵の物にはすぐに食いついて来るんじゃないかな?」
最も、此方側としては、餌が餌である以上、食われたら一巻の終わりでもある。
釣り縄はそれなりの強度を持っているとは思うが、千切られないとも限らないからだ。
「頑丈な男でも消化はされるのかしら」
「多分ねぇ。されなかったらホントの化け物なんだが」
そうなると糞と一緒に排泄されるだけであるが、もしそうなった場合は暫く距離を置いておこう。
――物理的に。
深く頷いた時だった。
「ジャンヌ殿っ」
アランの声と同時、縄が勢い良く大河へと流されて行く。
腕に緩く巻かれていた部分も、一瞬で締められた。
「来たかっ!」
高井坂からの合図である。
異変があった場合、出来うる限りの力で縄を引く。
それが今、現実となったのだ。
「ごめん! 準備するから、少しの間頼む!」
「はいさ! 付かず離れずの距離、でしょ!」
紀宝の言葉に続き、アラン達も釣り縄を確保しに動く。
ここからが勝負である。
腰掛けていた陸地から、一息に川の中へ立つ。
完全に水浸しとなった靴を踏む、何とも言えない感触に若干の気持ち悪さを足裏に感じながら、一條は深呼吸一つ。
「『我が力を今こそ示す。無双の力をその身に宿せ』」
肉体強化の詠唱。
ある程度の型が出来、それを暗唱しさえすれば、誰しもが制限無く使用出来る時が来るだろう。
その後は、この内に力を溜めると言う感覚的な事を上手く制御出来れば、だ。
今は其方へ思考を割く余裕はない。
それでも、何時かは叶えられれば良いと思う。
「『肉体に剛力を、強靱なりし我が身体、無敵なりし鋼の精神、最強とはまさに自身を示す言葉なり』」
告げる。
「『剛力無双。解放せよ、我が力』」
繋ぐ、
「『その目は全てを見るに不足なく。その耳は全てを聴くに不足なく』」
紡いでいく。
「『眼前で起こる悉くに反応し、対応し、対処するに足るだけの力を我が身へ。解放、神位合一っ』」
終わりと同時、ふっ、と身体が軽くなる感覚。
今まで以上に、知覚自体も精度が上がっている。
「……よし」
視線の先、先程までとは違い、明確に高井坂の姿を捉えられた。
――やっぱり、敵は水中か。他には何も見えない。鰐、とかじゃ無さそうだ。
向こうから此方の視認は難しいだろうが、必死に釣り縄を引いては、頻りに後ろを気にしている。
残念ながら、その後方には何も見えないが、確かにそこに居るのだろう。
「……いや、何か喋れや」
そんな余裕も無さそうではある。
微かに聞こえてくるのは、言葉にならない叫び声が大半で、一言二言はあっても、意味を理解するまでには至らない。
「あいつもパニックになる事はあるんだな……っ。釣り縄がアタシが! 出来る限り引き付けて、バララムートを釣り上げてやろうじゃない!」
言うが早いか、右手にヴァルグを、左手一本で釣り縄を掴み、その先端までを確認。
一歩ずつ慎重に大河へ向かいながら、無理矢理に左右へと振って行き、或いは縄を緩め、引き寄せて、制御下に置いていく。
「相手が海竜、なんてのは勘弁願いたいんだけど……っ!」
とはいえ、此処は海ではない為、もし居た場合は川竜になるのだろうか。
それはそれで何とも間の抜けた名称にはなるが。
「あん? 来る、来るって。何がだ。呪いの類いか? ……え、下? ……あっ、なーるほろ、ねっ!!」
同時、身体全体を使って勢いを付けた。
縄が上へと引っ張られていき、疑似餌が空へと放り投げられた瞬間、川面が下から押し上げられた。
それを割る様にして、口と思われる一部が筏を粉砕。
「っ!?」
高井坂を目掛けての一撃はどうにか回避。
そして、ヘッズロー大河の現在の主バララムートが、一條を始めとした者達へと、その全身を現した。
一人、その姿を見る余裕はなさそうだが、
「さ、か、な、だぁぁぁぁっ!!」
代わりとでも言う様に、一條は叫んだ。
後方からも、紀宝と思しき声が聞こえてくる。
バララムートは、誰がどう見ても、紛うこと無く、魚、であった。
但し、その大きさは通常のそれとは文字通り桁が違う。
その全長は、目測でも十メートルは下らない。
――いや、まだ全身が出てる訳じゃない。どんだけ……っ。
「デカっ、いっ!? マズいっ!」
更に全長が伸びてきた。最早、鯨と同等、いや、それ以上の大きさだ。
舌打ち。
完全に疑似餌の逃がし方を間違ったからである。
巨体に見合う、大口。
あれでは、釣り針を模して持たせている片手用の直剣等、無意味に等しい。
引っ掛けるどころの話ではない。
一歩が煩わしく、軽い跳躍を以て相対的に近付くと共に、釣り縄を下へ引き、急降下させる。
「よいっしょおぉ!」
合わせて疑似餌も急降下した為、難を逃れた。
口が閉じ、巨大魚も追い掛ける様な形でその身を水面へと豪快に叩き付けて行く。
派手な音と共に立ち上るのは、水飛沫、と言うより、これでは水の柱と表現出来る代物だ。
「ジャンヌ姉!!」
「分かってる! アレは無理だ!! 疑似餌で誘導していくっ!」
一息。
「アタシが此処でぶった切るしかない!!」
右手に力を込めつつ、叫んだ。
と同時、更に前進。
既に白旗を越え、水域は腰程に達している。
当然、下半身までもが水中であり、川の流れ自体は緩やかとはいえ、些か心元なくはあった。
其方にまで気を回す余裕は無いのだが。
「っの!」
力任せに左右へ振りつつ釣り縄の長さを調整していく。
今や隠れる事もしなくなったバララムートが、時折疑似餌目掛けて顔を出してくる。
寸前で引き寄せて回避。
――なんて、格好付けてみたけど、詠唱する余裕があるかなぁっ!? これっ!
思案。
本来であれば、すぐにでも手繰り寄せてばっさりと行きたい所だが、そうでなくとも、あの巨体だ。
万が一にでも、止めを刺し損なう、等と言う事態だけは避けなければならない。
「確実な、それでいて、致命的な一撃を……っ」
それを為すには、やはり、ゼルフの力を利用しない手はなかった。
――あぁ、一か八かばっかりだなぁ、全くもうっ。
愚痴るが状況は変わらない。
流石に振り回されている方の身も心配になってきたのもあり、一條は深呼吸を二回。
「よしっ」
覚悟を決めた。
集中していく。その間も、左手は忙しない。
今まで以上に深い集中。
「『世界を包む遙かな力の欠片よ。我が声に応え、我が剣に宿りて顕現せよ』」
今度こそ、ヴァルグの剣身が淡い光を灯す。
身体が、熱を持っていくのを感じた。
しかし、頭は逆に冴えてくる。
「『概念創造。光は質量を持つ』」
ヴァルグの、淡い光が強くなった。
先日から、紀宝と二人で試していた事だ。
「火とか水とか出せるなら、別の物も出せたりするんじゃない?」
かくして、様々な実験を経て今回の詠唱と言う訳である。
「『照らすは日ではなく我が剣身。照らせ照らせ、全てを照らせ。白く染めろ我が大剣』」
剣身が、白く染まった。
同時、慣れてきた左手の操作で疑似餌を大跳躍させる。
これまでの記録を大幅に塗り替える勢いでの最高地点到達だ。
釣り縄に括られていなければ、ではあるが。
それを目標に、バララムートが飛び上がった。
構う事無く、先を続ける。
「『光は力を帯びる。質量ある光の暴威。全てを切り裂け、輝く剣』」
釣り縄を引き寄せた。
疑似餌が空から一條の方目掛けて飛んでくる。
次いで、水面を叩いたバララムートも追って来た。
狙いは既に、空中の疑似餌から、目立つ光を灯す此方だろう。
「『日より輝く光量を持て。此処に放つは大質量の一撃。ただの一振り、全てを斬り捨てろ』」
飛んでいた囮が、後方に落着。
それを確認するかの様に、巨大魚が、その全身を以て飛んだ。
怯むどころの話ではなく、それを気にする事すらない。
「『延伸するは極光の剣身っ。抜剣っ!』」
今こそ、両手でヴァルグを保持。
切っ先を天へと向けた。
瞬間。
「っ!?」
剣身から、光が現出。
伸びた、と言うより、元からそうであったかの様に、バララムートの巨体を凌ぐ白い剣が、あった。
「――!」
誰かの声。
一條の視界全てが、バララムートに塗り潰されていく。
叫んだ。
「『一閃! 極光剣、ヴァルグ!!』」
大上段からの真っ向、唐竹割り。
それで、決着した。
眼前にまで迫っていた生物の壁が、縦二つに分かれ、しかし、勢いそのままに通っていく。
浅い事もあり、すぐさま水底に激突。
派手な衝撃音を奏でた。
広がった津波の如き水波紋は一條を洩れなく包み、まだ無事であった上半身すら完全に水を浴びる事となる。
「……。……っ、はぁっ……」
一息吐いてから、残心とも言える状態から姿勢を戻した。
ヴァルグは、もう光を放っていない。
振り下ろした時には、既にこの状態である。
「……真っ二つにすれば、流石に生きてないでしょ……」
事実、バララムートはぴくりともしていない。
「ジャンヌぅぅ。死ぬかと思ったよ俺ぇぇ……」
情けない声に振り向けば、情けない格好で疑似餌改め親友が居た。
「どっから声出してんだお前は……」
苦笑しつつ近寄って行けば、お互い視認出来る距離で、相手が石化する。
――おや?
と思ったのも束の間。
自動車の様な勢いで走ってくる人物を視界に納める。
「あ」
と声を出した瞬間、親友が撥ねられた。
「ほらもうっ、やっぱりっ! 幾ら隊服だからってそんだけ濡れてれば透けてるでしょ! 少しは恥じらえっ」
指摘に見れば、確かに諸々危険である。
成程、どこぞの神話生物の様な能力にでも目覚めた訳ではない事は理解した。
――錆びないかなぁ。
等と暢気しつつ横にヴァルグを突き立ててから、一條は胸を両手で隠し、身体を捩って見せる。
「い、いやーん……なんちゃってー……」
精一杯の格好で告げたものの、言い終わる時には、一條の身体は空中にあった。
山脈から顔を覗かせた朝日を背に、猫の様な声と共に水面へと頭から飛び込んだ。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる