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第4章 遠くて近きは隣人の仲
第19話
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「機嫌…まだ完全になおってないよね…?」
ふん、わかっているなら、恋愛小説を書かせろなんて言わなきゃいい。
咲良はそう思いつつ、笑顔を貼り付けた。
「藤森先生、いよいよ念願のガラス床横断ですよ、覚悟はよろしいでしょうか?」
「うっ、怖いよ、その笑顔」
「あらぁ、滅多に笑わないって言うから笑ってさしあげたのに」
ニターッと口角だけを上げた咲良の更に不気味な笑顔に、藤森は思わずひゅっと息をのみ込んだ。
「心臓に悪いからいいよ無理に笑わなくて。お願いだからもうやめよう?ね?謝るから普段の君に戻って」
「まあ大変!私のせいで売れっ子の先生の身に何かあったら、ファンの皆さんに申し訳が立ちませんね。わかりました、笑顔は封印します」
「だからさぁ、そーゆー意味じゃな…、」
カシャリ。
それは咲良のスマホのシャッター音。
不意打ちだった。突然藤森の視界にスマホが飛び込みカシャッときた。撮った咲良が画面を見てくすくす笑っている。
「はい、センセ。超イケメンに撮れました」
見せられた画面に写っているのはもちろん藤森。これ以上ないくらいハの字に下げた眉と情けない目つき、困り果てた表情はお世辞にもイケメンとは言えない。
「どこがイケメンだよ。撮るならもう少しマシに撮ってくれないかな。削除して削除」
「するわけないでしょ。ネットで検索してもセンセの最近の写真ないでしょう?衝撃のビフォーアフター、ファンが見たら泣きますね、これ」
「やめて、それ、営業妨害」
「なに言ってんですか、タレントじゃないんだから顔じゃなくて腕で勝負でしょ」
「腕じゃなくて才能と言って。だけど、過去に顔を晒してる以上、イメージってもんがあるでしょうが」
「イメージねぇ…。あ!新作書いたら、カバーの裏、あれなんて言うんです?よく著者のプロフィール載ってるで折り返しのところ」
「そで」
「そで?」
「折り返し部分のこと」
「へぇ、そで、って言うんだ。そこに使います?」
「使えるわけないじゃん、そんなふざけた写真。それ以前に俺が恥ずかしいよ」
「ですよねー。じゃ、これは公開しません。代わりに、私のことも絶対に小説にはしないでくださいね。たとえ仮名のフィクション前提だとしても迷惑です。はい、この話題はこれにて終了。さ、センセ、早く、行きましょ」
何か言いたそうな藤森を無視して咲良はガラス床に近づくと端から真下を覗きこんだ。
二人は今、スカイツリーのガラス床を目の前にして立っている。といっても、藤森はやや離れた天望窓に張り付いているのだけれど。
「ねえ、」
「はい?」
藤森の声に咲良が振り返れば、ますます身をガラス床から離しているように見えるのは気のせいか?
「仲直り、でいいのかな?」
「もう終わりって言ったのに蒸し返しますか。そもそも、仲直りってなんですか、他の言い方があるでしょう」
「んー、和解、関係の修復、復縁、元の鞘に収まる、よりを戻す、とか」
「なんか後半は意味が違う気がしますが、あー、もうなんでもいいです、仲直りでいいです仲直りで」
「ほんとに? あー、よかった。じゃあさ、仲直りのしるしに夜はどこか評判のレストランでも行っちゃう?」
「仲直りのしるしって子供ですか」
「あっ、誤解しないで、何もなくてもどこかで食べて帰るつもりだったから」
「どっちでもいーですけど、得意の餌付けのような気もしますが? いいですよ、行きましょう。どこでもいいですけど強いて言うならお酒が飲めるところがいいですね。あー、でもセンセは車だからどうしましょう。置いていきます?それとも運転代行、頼みましょうか?飲まないって選択肢もありますけど」
「運転代行って…え、えっ、行くの!?」
「センセの奢りでしょ?」
そんなに驚くことだろうか。藤森はそう言ったきり、不思議な物を見てしまったような目つきで静止している。
「センセー」
「…え、っと、どーゆー風の吹き回し?」
「なーんの風も吹いちゃいませんが」
「でも…、いつもならその餌付けに乗らないのに…」
「おや?餌付けって認めちゃいますか」
「違うよ、君がそう言うから」
「まあ良いですけど。断ったほうが良かったとか?」
「ないない、絶対にそんなことはない!けど、なんで?」
「しつこいなぁ。食べて帰ったほうが楽だからです。はい、今度こそほんとに終わり!っていうか、つべこべ言ってないでガラス床横断!!」
「ちょ、ちょーっと待って!心の準備がっ!」
咲良が藤森の袖を引っ張ろうとしたらこの拒絶反応。はぁと咲良は溜息を漏らしながら手すりを握って離さない藤森の横に並んだ。
「まさか高所恐怖症?なわけないですね、普通に天望台から景色見てたし、今だって窓際にへばりついてるし」
「こ、高所恐怖症じゃないけどさ、床がスケスケって普通にびびる」
「びびるって…、挑戦してみようかなって言い出したのセンセですよ」
「そ、そうだけど、クラクラしたとも言ったよね…、あ、あ、今、ったくしょうがないなぁ、意気地なし!って思ったでしょ」
「思ってませんよ。ヘタレなのは知ってますけど」
「それ、酷くない?」
「事実ですから。汚名返上したいなら、ささ、早く渡りましょう」
「だからちょっと待ってよ、心の準備がまだなんだって」
「いつまでかかってるんですかっ!もうかれこれ二十分は経ってますよ!?」
「だってぇ…もし万が一落ちたらって考えたらさ…」
マジでヘタレだわ、こいつ。落ちるわけないだろ。
こんな姿を恋人の前で晒したら、そりゃ百年の恋も冷めるわ。
咲良はもう何度目かわからない溜息をもらし、天望窓を背にしてガラス床を覗きこんでいる人々を眺めた。
若い男子グループがわいわい騒ぎながらガラス床の上に立ち足元を覗きこんでいる。中年の夫婦は安心のためかあえてガラスを仕切る枠の上を歩き、小さな男の子は父親の脚にしがみつきながら恐る恐る頭を乗り出していたりして。続いて藤森の横顔を窺がえば、眉を寄せて信じられない物を見る眼差しでガラス床に群がる人々を見ていた。
「そんなびびりで前回よく覗けましたね?」
「男は時として見栄を張らなきゃいけない時もあるんだって」
なるほど、惚れた女の前ならそうだろう。つまり、前回は名前を言ってはいけないあの女と来たんだもんね、そりゃ見栄も張ろう。
「ふ~ん、おかしいですね。ここには取材で来たって言ってませんでした?確か当時の担当は女性だったと記憶してますが、男としての見栄ですか?へえぇ、つまりその担当さんに興味があったんですねぇ、ふ~ん、なるほどぉ、楽しそうな取材ですねぇ。 ああ、そうか!ごめんなさい。作家としての見栄でですね、担当になめられちゃいけないって。そっかそっか。じゃあ、私の前でも見栄、張れますよねぇ?今後のためにもアシスタントになめられちゃいけないと思いますよ?」
じろっと藤森が睨んだのを見て、咲良は心の中で舌を出す。
こうもグズグズされれば皮肉のひとつも言いたくなるだろう。内容はあくまでも雨天ドライブ中の雑談、決して今日の話題にしてはいけない事項に当てはまらない。
「…言ってくれるね。しかも、」
「しかも?」
「よくもまあそんな細かいことをいちいち覚えてるね」
びびり藤森は何処へやら。手すりにしがみついていた藤森が、背筋をピンと張り真顔でつっ立って咲良を見下ろしているじゃないか。
「お褒め頂きありがとうございます」
「褒めてないし。今の発言は今日の禁止事項に抵触してるし」
「ええっ、どこがですか?おっかしーなぁ、センセが話してくれた取材の話と、私にも見栄張りましょうってこ言っただけですよぉ?」
してやったり、墓穴を掘ったとはこのことだろう。
うっと言葉に詰まった藤森はざまあみろ。咲良のことを小説にしようだなんて言うからだ。
気を取り直したのか、それともいよいよ見栄を張る覚悟が出来たのか、ほくそ笑む咲良を一瞥すると、藤森は腕を組んで気合をいれるように深呼吸をした。
「行きますか?」
咲良の言葉に藤森は一度ガラス床に顔を向けるとすぐにまた戻す。
「ほんとに君って、」
藤森はそこで一旦言葉を止めると、うんざりしたように眉を上げ、そして苛立ちを含んだように笑って言った。
「良い意味でも悪い意味でも、俺のやる気を奮い立たせるのが上手いよね」
なんだその、悪い意味って。
まあいい、悪い意味でも結果やる気になるのなら、皮肉でも嫌味でもいくらでも言いましょう。あのままじゃきっと閉館まで心の準備してたでしょうに。
「またまたお褒めいただきありがとうございます」
「だから褒めてないって。なんだろ、やけにムカつく」
ムカつきますか。いつもは私がそうですけど!
「大丈夫ですか? どこかで胃薬、買ってきましょうか?」
「違うよ!そのムカつくじゃなくてイライラしたりするほう!」
「ああ、そっち。具合が悪いんじゃなくて安心しました」
にこーっとわざとらしく咲良が笑えば、ふん、とそっぽを向く藤森。
おいおい、それ、三十過ぎた男がやっても可愛くないから。でも、面白い。
ムカついた勢いのまま藤森が一歩、また一歩とガラス床へと近づく。そんな藤森の後姿を見て咲良は心の中で拍手。
感心感心、ヘタレだってその気になれば出来るじゃないか。
ガラス床の淵まで行くと藤森がピタと足を止めた。頭を下げ首を伸ばして下を見ようかかどうしようかと体を揺らす。咲良は早足で藤森の真後ろに立つと、人指し指で背中を軽く突いてみる。
藤森がうわっ!と声をあげた。それが可笑しくて咲良はぷっと吹き出してしまう。覚悟を決めたんじゃななかったのかい?
「お、押すなよっ!ビックリするじゃん」
「いつまで経っても行かないから、指ツンしただけです」
「今渡ろうとしてたんだって。っていうか、さっきから人に行け行け言ってるけど、君はどうなのさ」
往生際が悪い!
咲良は藤森の横に並ぶと一度顔を見て、いいですか、と一歩踏み出しすたすたと渡りだした。渡りきるとすぐさま回れ右で戻りガラス床のど真ん中で停止、頭を下げて足元を覗きこむと、藤森に向かって言った。
「いい眺めですよ。ほら、センセも早く」
「・・・・・・・・」
いたって平然とガラスの上に立つ咲良。絶対に大丈夫ですからと言いながら軽くジャンプまでしているじゃないか。当然、周りの注目を浴び、人々の興味は藤森に集中。
「…ちくしょ」
周りの注目を一身に浴びた藤森は小さく毒づいた。
端から見たら勇敢な彼女とへっぴり腰な彼氏。彼氏、頑張れよと何処からともなく声が上がった。
こうも注目を浴びては渡らないわけにはいくまい。そーっと藤森が首を伸ばして下を覗くが、あまりの高さに思わず目を瞑ってしまう。
「情けないなぁ。身近な初体験でリベンジと未知なる妄想の刺激するんじゃないんですか」
目を閉じた藤森の頭上から聞こえてきたのは咲良の声。
「怖いかもしれないけど、絶対に落ちませんて。日本の技術を信じましょう!」
おずおずと顔を上げる藤森に咲良は手を差し伸べた。
どうも藤森の決意は十秒と持たないらしく、このままでは本当に閉館までここにいる羽目になりそうだ。そしてそれ以上に注目の的になるのはちょっと勘弁願いたい。
「ここ、男を見せる場面かと?」
咲良の手を取るべきか一瞬迷いを見せた藤森の耳元で咲良が囁いた。途端に藤森の瞳がキラーンと輝く。今度こそ本当にやる気スイッチが入ったらしい。咲良の手を躊躇いなく取ると大きく大きくはじめの一歩。
二人を注目していた人達からおおーっと小さいながら歓声が上がった。気を良くしたのか、ヘタレだったくせにタレントよろしく藤森がギャラリーに手を振る。
バカ、余計注目されるじゃないか。
咲良は急かすよう藤森の手を引いて中央まで来ると、下を見るように促した。
「え、見なきゃダメ?」
「ダメでしょ。メインですよ、今日のメイン」
「それは渡ることで…」
「言い訳しない」
「実は立ってるだけで精一杯なんだけど」
「もうひと踏ん張り。手を振った皆さんも注目してます。男なら、期待に応えましょう」
藤森の表情がキッと引き締まった。
ほう、やる気スイッチ第二弾、入りました~っ!
恐る恐るながら、ゆっくり藤森は頭をたれる。床下の景色が目に飛び込んだ瞬間、握った咲良の手に力を込めたがそれも一瞬、徐々に強張った表情を緩ませ呟いた。
「…すごい」
見下ろした景色がすごいのか、見下ろす自分がすごいと思ったのか。それとも両方だろうか。
ぱちぱちと拍手がわく。まだ床下の景色に心奪われている藤森に代わって、咲良が小さく礼をすると二人を見守っていた人達もちりじりになって行った。
「やれば出来るじゃないですか」
「誰かさんに乗せられて注目浴びちゃったしね。でも、もう二度目はいいや」
注目されたのは手なんか振るからでしょう。
しかしよほど緊張していたのか床を渡りきった今でも、藤森は咲良の手をぎゅっと強く握ったまま。
いつまでおててつないでいるつもりだ。
そうは思えど、痺れを切らしてついつい手を差し伸べたのは咲良。一歩を踏み出すまでのヘタレっぷりからすれば、この手ひとつで緊張がほぐれるのならおやすいもんだ。減るもんでもなし、なんだかんだ今日は楽しませてくれたし、たまには優しくしてもいいかなぁ、なーんて。
「ちなみに、感想とか訊いていいですか?」
「うん、なんて言うか…落ちないって分かってても背筋がゾッとした。足元はふわふわするし股間はスースーするし」
「やだセンセ、うちの弟とおんなじようなこと言ってる。弟は股間がきゅーんとなる、でしたけど」
「男にしかわからないだろうね、その感覚」
「ですね。私は持ってませんからねぇ、感じようがありません」
「おやおや、下ネタ、突入?」
「いたって普通の会話です。それにしてもゾッとしてスースーした、だけですか?そんなんでリベンジの参考になるんですか?」
「ところで、弟さんがいるんだ?」
咲良の問いに対して合ってない答えに、咲良は眉を寄せながら藤森を見上げた。
「一人いますが、私は感想を訊いてるんですけど」
「これも率直な感想なんだけど。お姉ちゃんなんだなぁ、と思って。尻込みしてる俺に手を差し伸べたりさ、叱咤激励って言うか、きっといつも弟にそうして来たんだって妙に納得した」
いやぁ、納得されても…
むしろ年子の弟に対しては物心ついた頃から同等というか、どちらかといえば切磋琢磨の間柄。如何せん相手は男だ、子供の頃の取っ組み合いだって、夕飯のおかずの取り合いだって、姉の座に胡坐をかいていては負けは必至。
「言っておきますが、弟はこんなヘタレじゃありませんから」
「だろうね。もし君が俺の姉だったら、間違ってもヘタレなんて言われなかったと思うよ?」
「残念でした、弟は一人で充分だし、年上の弟なんて要りません」
「だよね。ちなみに、妹はいないの?」
「は?」
「義理の姉、とか?」
「義理の…って、そのバカな発想、さすが作家です。でも妹はいないので義理の弟にはなれませんのでどうか諦めてください」
「やっぱそうだよね、うん、俺もそう思う。だってさ、事情はどうあれ、義理の姉と公共の場で手をつないでちゃまずいよね。つーか、つないじゃいけない」
ああ~~っ、そうだそうだ、忘れてた!
おててつないで続行中じゃないか!
ちくしょー、優しさが裏目に出た。緊張?どこが。藤森は完全に面白がっている。
咲良が思い切り振りほどこうにも、ヘタレと言えど意思を持った男の握力に適うはずもない。
「は、離して下さいよっ!」
「えー、いいじゃん。もう少しつないでいようよ」
「セ、セクハラですよ?つーか自分で手をつないじゃまずいって言ったばかりでしょ」
「言ったけど意味が違うもんね。それに、先に手を出したの、誰だっけ」
「手を出したとか、それこそ意味が違うし」
「いいからいいから、それは置いといて、俺の話、聞いてよ。もう少しだけでいいから、手をつないでいて欲しいんだ。さっき感じたものが何だったのか、分かりそうな気がするから」
今までのふざけた様子を引っ込めた藤森が、咲良の瞳を懇願の眼差しで見つめながら、握った手に更に力を込める。
ね?と首をかしげ、だから、それ男がやっても可愛くないし!と内心毒づきながらも、思わず庇護欲を掻き立てられる藤森の表情に咲良は焦った。
お姉ちゃん、だなんて余計な事を刷り込むからだ。弟とは同等だったと言えど腐っても姉、いざとなれば庇うべき、守るべき時だってあったのだと少ない記憶がめきめきと蘇る。
ああああああ…、そんな捨てられたワンコのような瞳で見つめられたら、手くらい、いつまでもつないでて良いんだよって気がして来るではないか。
ぶるぶると咲良は首を横に大きく振った。
いやいやいやいや、こやつは弟じゃない。年上だし、ただの隣人だし、今は雇い主だし!!
そんな赤の他人と手をつなぎ続ける必要ないし!!
「なななな、何ですか!?そそそそ、そんな顔したって、だまされな……っ!」
「さっき、」
「…え?」
「ガラスの上から二人で下を覗いた時、ふと思ったんだ、もし突然ガラスが割れて落ちたとしても、君と手をつないだままなら怖くはないかな、って」
「は?」
「だったら一緒に落ちてもいいかな、ってね」
真面目な顔で何を語るのかと思えば、一緒に落ちてもいいだと?
「…一緒に死ぬ気は毛頭ありませんが」
「仮にそうなった場合だよ。俺だってまだまだ生きたいからね」
「いえ、仮でも一緒に死にたくないです。センセと一緒に落ちたら、間違いなく私がセンセを庇って下敷きでぐちゃぐちゃになる確率大なんで」
咲良が何気なく言った一言に藤森は瞠目すると、次にくつくつと喉を鳴らして笑った。
「やっぱりお姉ちゃん気質なんだね。でも、言っておくけど、流石に俺だってもしもそうなったら君を庇って俺が下敷きになるよ。そして君は…生き残ってそうだよね」
生き残りそうではなく、咲良なら生き残るだろう。
ヘタレにしちゃあ大きく出たじゃないか。まあ、いざとなったら出来るかどうかはさておき、脱ヘタレへ半歩前進かな。まだまだ千歩くらいあるけれども。
「センセ、一言いいでしょうか?」
「ん?」
「死ぬ間際に男気見せても遅すぎます。どうせならそうなる前に男を見せましょう。仮に、センセの男気に私が惚れたとします、でも惚れた瞬間に死んじゃってるなんて可哀想すぎます。生き残ってもどうやって生きて行けと?」
ぷはっと藤森が吹き出した。咲良が可笑しなことを言ったつもりはないのにと思う間もなく、もう少しつないでいてと懇願したはずの手はさっさと外され、すると顔面に何か当たってるではないか。
ぽんぽんと背中を軽く叩かれて咲良は気付いた。自分の顔面に当たっているのは藤森の胸なのだと。そうなのだ、おててつないでの次は何故かハグされている。しかも、頭上から「さすが」だの、「やっぱり君だよ」だのと藤森の声がする。
「セ、センセ!?」
「感激してるんだ。なんだか今ので胸のもやもやがストンと落ちた。ここに来て良かった」
「あ、あのぉ、よく分かりませんがお役に立てたなら本望ですけど、ハグはやりすぎでは?」
「そうでもないよ?分かったこともあるし」
「?」
「君が意外と小さいこと。あ、胸じゃないよ?」
間髪いれずにグーパンチ。それは見事に藤森の鳩尾にヒット。鍛えていない藤森にはさぞ効いただろう、身をよじった隙に腕の中から咲良は脱出だ。
「命の恩人殴るか?」
「まだ助けられてないし!っていうか、一度一人で落ちてください」
「それじゃあ無駄死にじゃん」
「じゃあ死なない程度に落ちてください」
「どうせ落ちるなら恋の方が良いなぁ」
「ほう、つまり過去は振り切ったと?だったら落ちる相手を見つけることですね。ああ、ちょうど良いじゃないですか、私をだしにしなくても、その人との恋愛小説を書けば一石二鳥だと思います」
ずんずんと靴音が鳴り響きそうな勢いで咲良は歩き出した。背中から藤森のくすくす笑う声が聞こえるが無視だ無視。
あのセクハラ野郎め、どうせ胸はぎりぎりCカップ、小さくもなきゃ大きくもない。そろそろ重力に負けてきそうなのは認めよう。
だけど、そんなことより、いきなりハグとはビックリするじゃないか。
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。
これは非常にまずい事態。
ええーい、静まれ、心臓!!
藤森に背中をぽんぽんされた時、不覚にも咲良は藤森に男を感じてしまったのだ。
よくぞ冷静に対処したと咲良は自分を褒めた。よし、このまま落ち着こう。
そう思えば思うほど裏腹に心臓が忙しく跳ねる。咲良は足を止めると胸をパンパンと数回叩いた。
止まれ、心臓!
だめだめ、止まったら死んでしまう。
「なにしてんの?」
それは動悸の原因の主の声。
おどかすんじゃない。このドキドキを勘違いしてしまうじゃないか。
しかしその後、咲良の動悸はすぐにおさまった。
藤森曰く、「過去は振り切ったと?」の咲良の発言が今日の禁止事項に抵触していると。
「下僕、決定」
「はぁ!?」
「さーて、何してもらおうかな?」
「どこが抵触!?ええ~っ、ちょーっと、誰のおかげで渡れたと思ってんの!?」
「きっかけは君、最後は俺の意思」
「ば、ばっかやろ~っ! マジで一度、落ちてしまえ~~~っ!」
この後、咲良は一言も口をきかなかったとさ。
ふん、わかっているなら、恋愛小説を書かせろなんて言わなきゃいい。
咲良はそう思いつつ、笑顔を貼り付けた。
「藤森先生、いよいよ念願のガラス床横断ですよ、覚悟はよろしいでしょうか?」
「うっ、怖いよ、その笑顔」
「あらぁ、滅多に笑わないって言うから笑ってさしあげたのに」
ニターッと口角だけを上げた咲良の更に不気味な笑顔に、藤森は思わずひゅっと息をのみ込んだ。
「心臓に悪いからいいよ無理に笑わなくて。お願いだからもうやめよう?ね?謝るから普段の君に戻って」
「まあ大変!私のせいで売れっ子の先生の身に何かあったら、ファンの皆さんに申し訳が立ちませんね。わかりました、笑顔は封印します」
「だからさぁ、そーゆー意味じゃな…、」
カシャリ。
それは咲良のスマホのシャッター音。
不意打ちだった。突然藤森の視界にスマホが飛び込みカシャッときた。撮った咲良が画面を見てくすくす笑っている。
「はい、センセ。超イケメンに撮れました」
見せられた画面に写っているのはもちろん藤森。これ以上ないくらいハの字に下げた眉と情けない目つき、困り果てた表情はお世辞にもイケメンとは言えない。
「どこがイケメンだよ。撮るならもう少しマシに撮ってくれないかな。削除して削除」
「するわけないでしょ。ネットで検索してもセンセの最近の写真ないでしょう?衝撃のビフォーアフター、ファンが見たら泣きますね、これ」
「やめて、それ、営業妨害」
「なに言ってんですか、タレントじゃないんだから顔じゃなくて腕で勝負でしょ」
「腕じゃなくて才能と言って。だけど、過去に顔を晒してる以上、イメージってもんがあるでしょうが」
「イメージねぇ…。あ!新作書いたら、カバーの裏、あれなんて言うんです?よく著者のプロフィール載ってるで折り返しのところ」
「そで」
「そで?」
「折り返し部分のこと」
「へぇ、そで、って言うんだ。そこに使います?」
「使えるわけないじゃん、そんなふざけた写真。それ以前に俺が恥ずかしいよ」
「ですよねー。じゃ、これは公開しません。代わりに、私のことも絶対に小説にはしないでくださいね。たとえ仮名のフィクション前提だとしても迷惑です。はい、この話題はこれにて終了。さ、センセ、早く、行きましょ」
何か言いたそうな藤森を無視して咲良はガラス床に近づくと端から真下を覗きこんだ。
二人は今、スカイツリーのガラス床を目の前にして立っている。といっても、藤森はやや離れた天望窓に張り付いているのだけれど。
「ねえ、」
「はい?」
藤森の声に咲良が振り返れば、ますます身をガラス床から離しているように見えるのは気のせいか?
「仲直り、でいいのかな?」
「もう終わりって言ったのに蒸し返しますか。そもそも、仲直りってなんですか、他の言い方があるでしょう」
「んー、和解、関係の修復、復縁、元の鞘に収まる、よりを戻す、とか」
「なんか後半は意味が違う気がしますが、あー、もうなんでもいいです、仲直りでいいです仲直りで」
「ほんとに? あー、よかった。じゃあさ、仲直りのしるしに夜はどこか評判のレストランでも行っちゃう?」
「仲直りのしるしって子供ですか」
「あっ、誤解しないで、何もなくてもどこかで食べて帰るつもりだったから」
「どっちでもいーですけど、得意の餌付けのような気もしますが? いいですよ、行きましょう。どこでもいいですけど強いて言うならお酒が飲めるところがいいですね。あー、でもセンセは車だからどうしましょう。置いていきます?それとも運転代行、頼みましょうか?飲まないって選択肢もありますけど」
「運転代行って…え、えっ、行くの!?」
「センセの奢りでしょ?」
そんなに驚くことだろうか。藤森はそう言ったきり、不思議な物を見てしまったような目つきで静止している。
「センセー」
「…え、っと、どーゆー風の吹き回し?」
「なーんの風も吹いちゃいませんが」
「でも…、いつもならその餌付けに乗らないのに…」
「おや?餌付けって認めちゃいますか」
「違うよ、君がそう言うから」
「まあ良いですけど。断ったほうが良かったとか?」
「ないない、絶対にそんなことはない!けど、なんで?」
「しつこいなぁ。食べて帰ったほうが楽だからです。はい、今度こそほんとに終わり!っていうか、つべこべ言ってないでガラス床横断!!」
「ちょ、ちょーっと待って!心の準備がっ!」
咲良が藤森の袖を引っ張ろうとしたらこの拒絶反応。はぁと咲良は溜息を漏らしながら手すりを握って離さない藤森の横に並んだ。
「まさか高所恐怖症?なわけないですね、普通に天望台から景色見てたし、今だって窓際にへばりついてるし」
「こ、高所恐怖症じゃないけどさ、床がスケスケって普通にびびる」
「びびるって…、挑戦してみようかなって言い出したのセンセですよ」
「そ、そうだけど、クラクラしたとも言ったよね…、あ、あ、今、ったくしょうがないなぁ、意気地なし!って思ったでしょ」
「思ってませんよ。ヘタレなのは知ってますけど」
「それ、酷くない?」
「事実ですから。汚名返上したいなら、ささ、早く渡りましょう」
「だからちょっと待ってよ、心の準備がまだなんだって」
「いつまでかかってるんですかっ!もうかれこれ二十分は経ってますよ!?」
「だってぇ…もし万が一落ちたらって考えたらさ…」
マジでヘタレだわ、こいつ。落ちるわけないだろ。
こんな姿を恋人の前で晒したら、そりゃ百年の恋も冷めるわ。
咲良はもう何度目かわからない溜息をもらし、天望窓を背にしてガラス床を覗きこんでいる人々を眺めた。
若い男子グループがわいわい騒ぎながらガラス床の上に立ち足元を覗きこんでいる。中年の夫婦は安心のためかあえてガラスを仕切る枠の上を歩き、小さな男の子は父親の脚にしがみつきながら恐る恐る頭を乗り出していたりして。続いて藤森の横顔を窺がえば、眉を寄せて信じられない物を見る眼差しでガラス床に群がる人々を見ていた。
「そんなびびりで前回よく覗けましたね?」
「男は時として見栄を張らなきゃいけない時もあるんだって」
なるほど、惚れた女の前ならそうだろう。つまり、前回は名前を言ってはいけないあの女と来たんだもんね、そりゃ見栄も張ろう。
「ふ~ん、おかしいですね。ここには取材で来たって言ってませんでした?確か当時の担当は女性だったと記憶してますが、男としての見栄ですか?へえぇ、つまりその担当さんに興味があったんですねぇ、ふ~ん、なるほどぉ、楽しそうな取材ですねぇ。 ああ、そうか!ごめんなさい。作家としての見栄でですね、担当になめられちゃいけないって。そっかそっか。じゃあ、私の前でも見栄、張れますよねぇ?今後のためにもアシスタントになめられちゃいけないと思いますよ?」
じろっと藤森が睨んだのを見て、咲良は心の中で舌を出す。
こうもグズグズされれば皮肉のひとつも言いたくなるだろう。内容はあくまでも雨天ドライブ中の雑談、決して今日の話題にしてはいけない事項に当てはまらない。
「…言ってくれるね。しかも、」
「しかも?」
「よくもまあそんな細かいことをいちいち覚えてるね」
びびり藤森は何処へやら。手すりにしがみついていた藤森が、背筋をピンと張り真顔でつっ立って咲良を見下ろしているじゃないか。
「お褒め頂きありがとうございます」
「褒めてないし。今の発言は今日の禁止事項に抵触してるし」
「ええっ、どこがですか?おっかしーなぁ、センセが話してくれた取材の話と、私にも見栄張りましょうってこ言っただけですよぉ?」
してやったり、墓穴を掘ったとはこのことだろう。
うっと言葉に詰まった藤森はざまあみろ。咲良のことを小説にしようだなんて言うからだ。
気を取り直したのか、それともいよいよ見栄を張る覚悟が出来たのか、ほくそ笑む咲良を一瞥すると、藤森は腕を組んで気合をいれるように深呼吸をした。
「行きますか?」
咲良の言葉に藤森は一度ガラス床に顔を向けるとすぐにまた戻す。
「ほんとに君って、」
藤森はそこで一旦言葉を止めると、うんざりしたように眉を上げ、そして苛立ちを含んだように笑って言った。
「良い意味でも悪い意味でも、俺のやる気を奮い立たせるのが上手いよね」
なんだその、悪い意味って。
まあいい、悪い意味でも結果やる気になるのなら、皮肉でも嫌味でもいくらでも言いましょう。あのままじゃきっと閉館まで心の準備してたでしょうに。
「またまたお褒めいただきありがとうございます」
「だから褒めてないって。なんだろ、やけにムカつく」
ムカつきますか。いつもは私がそうですけど!
「大丈夫ですか? どこかで胃薬、買ってきましょうか?」
「違うよ!そのムカつくじゃなくてイライラしたりするほう!」
「ああ、そっち。具合が悪いんじゃなくて安心しました」
にこーっとわざとらしく咲良が笑えば、ふん、とそっぽを向く藤森。
おいおい、それ、三十過ぎた男がやっても可愛くないから。でも、面白い。
ムカついた勢いのまま藤森が一歩、また一歩とガラス床へと近づく。そんな藤森の後姿を見て咲良は心の中で拍手。
感心感心、ヘタレだってその気になれば出来るじゃないか。
ガラス床の淵まで行くと藤森がピタと足を止めた。頭を下げ首を伸ばして下を見ようかかどうしようかと体を揺らす。咲良は早足で藤森の真後ろに立つと、人指し指で背中を軽く突いてみる。
藤森がうわっ!と声をあげた。それが可笑しくて咲良はぷっと吹き出してしまう。覚悟を決めたんじゃななかったのかい?
「お、押すなよっ!ビックリするじゃん」
「いつまで経っても行かないから、指ツンしただけです」
「今渡ろうとしてたんだって。っていうか、さっきから人に行け行け言ってるけど、君はどうなのさ」
往生際が悪い!
咲良は藤森の横に並ぶと一度顔を見て、いいですか、と一歩踏み出しすたすたと渡りだした。渡りきるとすぐさま回れ右で戻りガラス床のど真ん中で停止、頭を下げて足元を覗きこむと、藤森に向かって言った。
「いい眺めですよ。ほら、センセも早く」
「・・・・・・・・」
いたって平然とガラスの上に立つ咲良。絶対に大丈夫ですからと言いながら軽くジャンプまでしているじゃないか。当然、周りの注目を浴び、人々の興味は藤森に集中。
「…ちくしょ」
周りの注目を一身に浴びた藤森は小さく毒づいた。
端から見たら勇敢な彼女とへっぴり腰な彼氏。彼氏、頑張れよと何処からともなく声が上がった。
こうも注目を浴びては渡らないわけにはいくまい。そーっと藤森が首を伸ばして下を覗くが、あまりの高さに思わず目を瞑ってしまう。
「情けないなぁ。身近な初体験でリベンジと未知なる妄想の刺激するんじゃないんですか」
目を閉じた藤森の頭上から聞こえてきたのは咲良の声。
「怖いかもしれないけど、絶対に落ちませんて。日本の技術を信じましょう!」
おずおずと顔を上げる藤森に咲良は手を差し伸べた。
どうも藤森の決意は十秒と持たないらしく、このままでは本当に閉館までここにいる羽目になりそうだ。そしてそれ以上に注目の的になるのはちょっと勘弁願いたい。
「ここ、男を見せる場面かと?」
咲良の手を取るべきか一瞬迷いを見せた藤森の耳元で咲良が囁いた。途端に藤森の瞳がキラーンと輝く。今度こそ本当にやる気スイッチが入ったらしい。咲良の手を躊躇いなく取ると大きく大きくはじめの一歩。
二人を注目していた人達からおおーっと小さいながら歓声が上がった。気を良くしたのか、ヘタレだったくせにタレントよろしく藤森がギャラリーに手を振る。
バカ、余計注目されるじゃないか。
咲良は急かすよう藤森の手を引いて中央まで来ると、下を見るように促した。
「え、見なきゃダメ?」
「ダメでしょ。メインですよ、今日のメイン」
「それは渡ることで…」
「言い訳しない」
「実は立ってるだけで精一杯なんだけど」
「もうひと踏ん張り。手を振った皆さんも注目してます。男なら、期待に応えましょう」
藤森の表情がキッと引き締まった。
ほう、やる気スイッチ第二弾、入りました~っ!
恐る恐るながら、ゆっくり藤森は頭をたれる。床下の景色が目に飛び込んだ瞬間、握った咲良の手に力を込めたがそれも一瞬、徐々に強張った表情を緩ませ呟いた。
「…すごい」
見下ろした景色がすごいのか、見下ろす自分がすごいと思ったのか。それとも両方だろうか。
ぱちぱちと拍手がわく。まだ床下の景色に心奪われている藤森に代わって、咲良が小さく礼をすると二人を見守っていた人達もちりじりになって行った。
「やれば出来るじゃないですか」
「誰かさんに乗せられて注目浴びちゃったしね。でも、もう二度目はいいや」
注目されたのは手なんか振るからでしょう。
しかしよほど緊張していたのか床を渡りきった今でも、藤森は咲良の手をぎゅっと強く握ったまま。
いつまでおててつないでいるつもりだ。
そうは思えど、痺れを切らしてついつい手を差し伸べたのは咲良。一歩を踏み出すまでのヘタレっぷりからすれば、この手ひとつで緊張がほぐれるのならおやすいもんだ。減るもんでもなし、なんだかんだ今日は楽しませてくれたし、たまには優しくしてもいいかなぁ、なーんて。
「ちなみに、感想とか訊いていいですか?」
「うん、なんて言うか…落ちないって分かってても背筋がゾッとした。足元はふわふわするし股間はスースーするし」
「やだセンセ、うちの弟とおんなじようなこと言ってる。弟は股間がきゅーんとなる、でしたけど」
「男にしかわからないだろうね、その感覚」
「ですね。私は持ってませんからねぇ、感じようがありません」
「おやおや、下ネタ、突入?」
「いたって普通の会話です。それにしてもゾッとしてスースーした、だけですか?そんなんでリベンジの参考になるんですか?」
「ところで、弟さんがいるんだ?」
咲良の問いに対して合ってない答えに、咲良は眉を寄せながら藤森を見上げた。
「一人いますが、私は感想を訊いてるんですけど」
「これも率直な感想なんだけど。お姉ちゃんなんだなぁ、と思って。尻込みしてる俺に手を差し伸べたりさ、叱咤激励って言うか、きっといつも弟にそうして来たんだって妙に納得した」
いやぁ、納得されても…
むしろ年子の弟に対しては物心ついた頃から同等というか、どちらかといえば切磋琢磨の間柄。如何せん相手は男だ、子供の頃の取っ組み合いだって、夕飯のおかずの取り合いだって、姉の座に胡坐をかいていては負けは必至。
「言っておきますが、弟はこんなヘタレじゃありませんから」
「だろうね。もし君が俺の姉だったら、間違ってもヘタレなんて言われなかったと思うよ?」
「残念でした、弟は一人で充分だし、年上の弟なんて要りません」
「だよね。ちなみに、妹はいないの?」
「は?」
「義理の姉、とか?」
「義理の…って、そのバカな発想、さすが作家です。でも妹はいないので義理の弟にはなれませんのでどうか諦めてください」
「やっぱそうだよね、うん、俺もそう思う。だってさ、事情はどうあれ、義理の姉と公共の場で手をつないでちゃまずいよね。つーか、つないじゃいけない」
ああ~~っ、そうだそうだ、忘れてた!
おててつないで続行中じゃないか!
ちくしょー、優しさが裏目に出た。緊張?どこが。藤森は完全に面白がっている。
咲良が思い切り振りほどこうにも、ヘタレと言えど意思を持った男の握力に適うはずもない。
「は、離して下さいよっ!」
「えー、いいじゃん。もう少しつないでいようよ」
「セ、セクハラですよ?つーか自分で手をつないじゃまずいって言ったばかりでしょ」
「言ったけど意味が違うもんね。それに、先に手を出したの、誰だっけ」
「手を出したとか、それこそ意味が違うし」
「いいからいいから、それは置いといて、俺の話、聞いてよ。もう少しだけでいいから、手をつないでいて欲しいんだ。さっき感じたものが何だったのか、分かりそうな気がするから」
今までのふざけた様子を引っ込めた藤森が、咲良の瞳を懇願の眼差しで見つめながら、握った手に更に力を込める。
ね?と首をかしげ、だから、それ男がやっても可愛くないし!と内心毒づきながらも、思わず庇護欲を掻き立てられる藤森の表情に咲良は焦った。
お姉ちゃん、だなんて余計な事を刷り込むからだ。弟とは同等だったと言えど腐っても姉、いざとなれば庇うべき、守るべき時だってあったのだと少ない記憶がめきめきと蘇る。
ああああああ…、そんな捨てられたワンコのような瞳で見つめられたら、手くらい、いつまでもつないでて良いんだよって気がして来るではないか。
ぶるぶると咲良は首を横に大きく振った。
いやいやいやいや、こやつは弟じゃない。年上だし、ただの隣人だし、今は雇い主だし!!
そんな赤の他人と手をつなぎ続ける必要ないし!!
「なななな、何ですか!?そそそそ、そんな顔したって、だまされな……っ!」
「さっき、」
「…え?」
「ガラスの上から二人で下を覗いた時、ふと思ったんだ、もし突然ガラスが割れて落ちたとしても、君と手をつないだままなら怖くはないかな、って」
「は?」
「だったら一緒に落ちてもいいかな、ってね」
真面目な顔で何を語るのかと思えば、一緒に落ちてもいいだと?
「…一緒に死ぬ気は毛頭ありませんが」
「仮にそうなった場合だよ。俺だってまだまだ生きたいからね」
「いえ、仮でも一緒に死にたくないです。センセと一緒に落ちたら、間違いなく私がセンセを庇って下敷きでぐちゃぐちゃになる確率大なんで」
咲良が何気なく言った一言に藤森は瞠目すると、次にくつくつと喉を鳴らして笑った。
「やっぱりお姉ちゃん気質なんだね。でも、言っておくけど、流石に俺だってもしもそうなったら君を庇って俺が下敷きになるよ。そして君は…生き残ってそうだよね」
生き残りそうではなく、咲良なら生き残るだろう。
ヘタレにしちゃあ大きく出たじゃないか。まあ、いざとなったら出来るかどうかはさておき、脱ヘタレへ半歩前進かな。まだまだ千歩くらいあるけれども。
「センセ、一言いいでしょうか?」
「ん?」
「死ぬ間際に男気見せても遅すぎます。どうせならそうなる前に男を見せましょう。仮に、センセの男気に私が惚れたとします、でも惚れた瞬間に死んじゃってるなんて可哀想すぎます。生き残ってもどうやって生きて行けと?」
ぷはっと藤森が吹き出した。咲良が可笑しなことを言ったつもりはないのにと思う間もなく、もう少しつないでいてと懇願したはずの手はさっさと外され、すると顔面に何か当たってるではないか。
ぽんぽんと背中を軽く叩かれて咲良は気付いた。自分の顔面に当たっているのは藤森の胸なのだと。そうなのだ、おててつないでの次は何故かハグされている。しかも、頭上から「さすが」だの、「やっぱり君だよ」だのと藤森の声がする。
「セ、センセ!?」
「感激してるんだ。なんだか今ので胸のもやもやがストンと落ちた。ここに来て良かった」
「あ、あのぉ、よく分かりませんがお役に立てたなら本望ですけど、ハグはやりすぎでは?」
「そうでもないよ?分かったこともあるし」
「?」
「君が意外と小さいこと。あ、胸じゃないよ?」
間髪いれずにグーパンチ。それは見事に藤森の鳩尾にヒット。鍛えていない藤森にはさぞ効いただろう、身をよじった隙に腕の中から咲良は脱出だ。
「命の恩人殴るか?」
「まだ助けられてないし!っていうか、一度一人で落ちてください」
「それじゃあ無駄死にじゃん」
「じゃあ死なない程度に落ちてください」
「どうせ落ちるなら恋の方が良いなぁ」
「ほう、つまり過去は振り切ったと?だったら落ちる相手を見つけることですね。ああ、ちょうど良いじゃないですか、私をだしにしなくても、その人との恋愛小説を書けば一石二鳥だと思います」
ずんずんと靴音が鳴り響きそうな勢いで咲良は歩き出した。背中から藤森のくすくす笑う声が聞こえるが無視だ無視。
あのセクハラ野郎め、どうせ胸はぎりぎりCカップ、小さくもなきゃ大きくもない。そろそろ重力に負けてきそうなのは認めよう。
だけど、そんなことより、いきなりハグとはビックリするじゃないか。
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。
これは非常にまずい事態。
ええーい、静まれ、心臓!!
藤森に背中をぽんぽんされた時、不覚にも咲良は藤森に男を感じてしまったのだ。
よくぞ冷静に対処したと咲良は自分を褒めた。よし、このまま落ち着こう。
そう思えば思うほど裏腹に心臓が忙しく跳ねる。咲良は足を止めると胸をパンパンと数回叩いた。
止まれ、心臓!
だめだめ、止まったら死んでしまう。
「なにしてんの?」
それは動悸の原因の主の声。
おどかすんじゃない。このドキドキを勘違いしてしまうじゃないか。
しかしその後、咲良の動悸はすぐにおさまった。
藤森曰く、「過去は振り切ったと?」の咲良の発言が今日の禁止事項に抵触していると。
「下僕、決定」
「はぁ!?」
「さーて、何してもらおうかな?」
「どこが抵触!?ええ~っ、ちょーっと、誰のおかげで渡れたと思ってんの!?」
「きっかけは君、最後は俺の意思」
「ば、ばっかやろ~っ! マジで一度、落ちてしまえ~~~っ!」
この後、咲良は一言も口をきかなかったとさ。
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