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113. 亀裂

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これか、冥界の黒い魔素。
ミケは、大好きだった柱状節理の崖から、青い顔でずりずりと下がった。
先走りで吹き上がる黒い魔素は、まだ濃度こそ薄いものの、その下に底知れないパワーを感じる。

チャド・フロラインは必死で結界を張っていたが、昔のフロラインの結界を見たことがあるミケにとってみると、それは、どれほど彼女が弱っているかを示すような、彼女の羽根のように薄くてはかなげな結界だった。

大丈夫かなどと、到底聞けなくなったミケに、チャド・フロライは、あら、来てくれたの?と笑い、ここで頑張っても精霊界自体が長くはないので、無理はしてくれるなと言った。

冗談じゃない。無理、させてもらう。
魔の森が弱ったのは、私のせいだから、私が止める。

黒の魔素が押し返されて、一瞬大気が濃くなった気がする。味方だ。
ルカが来てくれたらしい。

それを裏付けるように、マー君の声が、ミケ、と頭の中に響き、魔素を頂戴、と言う。
フィールの魂を持つルカならば、きっと、亀裂を閉じられるから、と。

魔素など、いくらでももって行って。どれだけでも絞り出してみせる。
此処で死ねるなら、本望以上の本望だ。

ルカの魔力は、しなやかで、とても強い。
まっすぐに亀裂に伸びて、布でも縫うように地面の亀裂を狭めていく。

復讐しか考えられなかった私が、それを果たし、愛しい人々に再会し、自分の過ちをただす機会を得た。
私が、魔の森の人々に対して犯した罪を、シェドに対して犯した罪を、償えるなら。なんでもする。
償いたい。償いたい。ずっと、気が狂うほどに、償いたかった。


冥界の魔素は、ルカから聞いた通り、すべての光を吸い込むほどの完全な黒。世界から凹凸が消えて、自分までペラペラになってしまったような心もとなさを感じる。

冥界の魔素に、精神作用があるのは明らかだった。
不安と焦燥の真っ暗闇に誘っておきながら、甘美でほんのり明るい被害者意識を刺激してくる。ミケの大嫌いな、あの半端な悪意で得られる、こころの報酬だ。

それがわかる自分が嫌になるが、この黒い魔素は、人を寄せている。事実以外への隷属を甘美に見せる誘惑。

ほら、ふらふらと、人が歩いてくる。たくさん、たくさん。食虫植物に引き寄せられる虫のように。

レーブル人から、ヘルク人から。
メルホ平原に進軍中のムーガル人から。
メルホ平原のさらに北に置いてきたはずのフェルニア人からも。

黒い魔素の匂いに寄せられ、魔の森の綻びに助けられ。
ねじ曲がった空間を飛び越えて、柱状節理にたどり着いてしまう。

そして、たどり着いた人々は。
悪夢のように、同じような緩い笑みを張り付けて、同じようにナルシズムに満ちた目をして、なんのためらいも見せずに、亀裂へと飛び降りていく。

マー君を手に空間を縫っていたルカは、それを止めようとした。
だがダメなのだ、会話も通じず、痛覚もないようだし、気絶もせず、手を縛れば手を、足を縛れば足をちぎって、崖に進んで。
川の水が滝から落ちるように、止めようがない。

やがてルカに何人もの人間が貼り付いて、魔素が遮られた。それでも目の前に広がる亀裂を放置できず、ルカは大容量の魔術を放ち、倒れる。

私は、貼り付いた人間を跳ね飛ばしながら、必死で魔素を送った。
ルカ、起きて、ルカ。

ルカが倒れると、彼らは次々と、その身を崖に身を投じ、そのたびに亀裂が伸びて、やっと再生しかけている若い森へと迫っていった。

なるほど、この人間たちは、亀裂を広げる燃料か。
ミケとルカが、亀裂を閉じようとしたから。

ミケが諦めれば、この人間たちは、死なないのかもしれない。
それでも、退けない。
こんなにたくさんの亀裂から冥界の魔素が噴き出しては、若い森はひとたまりもないのだ。

冥界の先兵と思い切れれば楽なのかもしれないが、この燃料になりに来た人間には、両親や、クラムルや、監禁所で寄って来た男や、とにかくそう言うやつらで、ミケの苦手な匂いがする。
あの飛び込みの列には、いずれ自分の両親も、並ぶのだろう。いや、もうならんでいるのかもしれない。

実力行使で飛び降りをやめさせるのを諦め、ミケが彼らを魔道具に見立てて直接魔素を流すと、立ち止まるものが出始める。

彼らは足踏みをしながら、つぶやき続ける。

私は悪くない、だから、周りが悪いの。
俺だけが真実を知っている、だから、周りはバカなのだ。
敬われるべきなのに。見習われるべきなのに。称賛されるべきなのに。
全て思い通りになるべきなのに、別の人間が上手くいくなんて。

鹿威しにたまっていく水のように、一滴でバランスがくずれて倒れるのだと、ルカは言った。この人たちが、あのつぶやきを誰かに強引に認めさせるために、世界に吐き出す半端な悪意。それが一滴なのだとおもう。

グオオオオッ

草食獣しかいない若い森に、異様な咆哮が響き、空が一気に暗雲に覆われていく。

異様な咆哮にふさわしい、異様な気が、魔の森に満ちていく。
狂気と愛惜、後悔と不撓。冥界の気配とは違う、人間の慟哭。

なんだ、これは。
ぞわぞわと身が縮み、魔素が途切れる。

『ミケ』
マー君を通じてルカの声が響いて、ほっとする。
『ルカ!気づいた?無事?』
『おう、わりぃ、あと30秒休んだら働くけど、その前に、この咆哮、パチドだ』
『は?』

パチド、って、シェド?
いえ、これは違う。この気配は、シェドではない誰かで、私は、彼を知っているのに。おもいだせない。

・・・ド。そうだ、私は彼を何度も呼んだはずで。

フロライン、と繰り返す絶叫が、頭に響いて。自分の声が、拾えない。

ルードさま・・ルード様・・

「るーど?」

口に出してみると、その声に反応して、オーデがピカピカ光る。

ルード・・・伝説の黒の魔術師。敵、だろうか。

『ルードは味方!ルードは味方! 人間界を守り抜いた素敵なキーパー。冥界の天敵。愛すべき仲間。ルードは味方!』

腕にはまったオーデがけたたましいほどに騒ぎ、次いで、信じられない程の魔素量が、がくんと持っていかれる。

あ、これはわかる、シェドだ!
シェド、どこ?

シェドに魔素が届いて、嬉しい。しかも、驚くべきことに、魔素の森が、動いた。
北に向かって、亀裂から逃げるように。

森の方を動かした?シェドすごい。

だが、亀裂まみれの地面と、魔の森をうごかした後の隙間に立ったのは、赤い髪をたなびかせる、金色の目の男だった。

それは、ミケのシェドで、ムーガルのパチドだったけれど、何よりも人間界のルードだった。

真っ赤な魔力炎で、黒い魔素を焼き払いながら、フロラインの森に触れるなと、吠える。

ルードの咆哮は、雷雨を呼んで、立ち上る黒い魔素を押し流していく。
やがて、飛び込みに向かっていた人の群れが、向きを変えて、ルードに襲い掛かかかったが、ルードの咆哮で金縛りにあったように動かなくなる。

強い。
この世の者とも思われない程、冥界の魔素慣れしているのがわかる。

これが、ルードか。なるほど。

いかにも人々だの世界だの集合的な何かに縋られそうな、そんな力だ。
集団に夢を見せる力の持ち主が、誰かひとりを大事にするのは難しかっただろう。
フロラインを捨てたというより、すがってくる世界を捨てられずに狂ったのかな、と思う。

それほどに、異質な力だった。

勝てるかもしれない、ミケがそう思った瞬間、人の群れに向かってメリメリと地が裂けた。

足踏みしていた人間も、金縛り中の人間も、亀裂が自分に近づくと恍惚とした表情をうかべ、嬉しそうに、私は特別だと呟いて飛び込んでいった。

だめだ、亀裂が魔の森に突き刺さってしまう。

『ミケ、俺もパチドがやったやつ試していいか?森の方をずらすやつ』
『できるの?!』
『・・・自信ないけど、たぶん』
『たのむわ!』

ほかに手はない。
魔素の限り、逃げて、逃げて、逃げまくってやる。

ルカが、魔素の森を、動かす。何度もひたすらに。
1度ごとには、シェド程の距離は稼げなかったけれど、方向がメルホ平原に直行。

この子もあいかわらず凄い。多分どさくさに紛れて、『魔の森を保護下に置けるまで、南進』の約束果たす気だ。
レーブルとヘルクの国境が接している分だけ、魔の森を北にもっていけば、目的は達成できる。

それに気づいた私は、全力で魔素を供給した。ルカにも、そして、ルードにも。だって、ルードは、放っておくと黒の魔素を吸おうとするのだ。シェドの体なのに。

ぺぺぺ。そんなモノ捨ててしまって。
魔素が欲しければ私に言いなさいよ。いくらでも吸わせてあげる。

雨と、咆哮と、ルカの必死の掛け声と。
たまに、シェドの、声。
何を言っているのかわからないから、夢とか幻聴かも。

チャド・フロライン・・おかあさん。
私は、たとえこのまま、土に還っても、諦めたりしない。

シェドは、チャドさんは、褒めてくれるかな。
ナイスな償いだ、とか、よくやったね、とか。
駄目な子だけど、あの亀裂の燃料な人々とは違うね、とか。

息が苦しくて、目が良く見えない。
体にため込まれていた魔素はすっからかんだけど、湧いてくる端から、ルカにシェドにと送りまくる。
意識がとぎれとぎれになって、ちょっとランナーズハイかもしれない。

チャド・フロライン、今度こそ、償ってみせる。
シェド、今度こそきっと、挽回してみせるから。

私を、捨てないで。
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