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86. シェドの葛藤
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シェドは、自分が全身毛を逆立てた猫のようになっている自覚があった。
ライヒが恩赦になっただけだったなら、こんなに神経をすり減らす思いは、しなくて済んだ。
フリーハンドで戦うなら、魔術でも剣術でも兵の動かし方でも、ライヒに負けるとは思わない。ライヒの攻撃が自分に向くなら、恐れることは何もない。
ムーガル王からグリーンへの手紙は、自国の危うさを認識し方向性を指示してあるに過ぎないが、具体論に落とし込むなら、ミケをスケープゴートにしろと言っているのに等しい。
フェルニア平定の最高責任者であるグリーン総司令が、ライヒの暴虐を容認すると決めたのだ。その容認は、ムーガルの弱みの裏返しであり、国策であり、ライヒ本人にとっては、自分に至高性でも認められた気分だろう。
グリーンはミケの下賜が取り消し、ミケを普通の戦争捕虜に紛れさせて解放処理にした。
表向きの理由は、グリーンがパチドに自家を継がせる決意をし、それをムーガル王が認めたためと公表しくさった。
パチドには下賜を取り消されるようななんの落ち度もない。だが、パチドが継ぐのは、国王に最も信頼され、広大な領地を与えられて、ムーガル有数の権勢を誇る、我が伯爵家だ。良家との縁談が進んでいて、『そう言う用途』のコブ付きでは、婚姻相手の女性に失礼になると思ったのだ、と、完全に私的な理由で押し切った訳だ。
表側だけを見れば、ライヒは復権しただけで、権勢を増したのは家格と広大な領地と財産を確約されたパチドにも見える。ミケについても『解放』。自由の身にしただけで、処刑でもなければ、パチドから強引に取り上げて他の人間の褒美に当てたわけでもない。
パチドがムーガル王やグリーンに恨みを持ち、不満を叩きつけて暴れる公的な契機は表向きには無い。どれだけグリーンの伯爵家を継ぐ気がなくても、それを公にして不満をあらわにすることは、ムーガル王とムーガルの統治機構に対する逆心と取られても文句は言えない。
だが、グリーン自身にはわかっているはずだ。
パチドの時ですら1年の間ミケの看病が最優先で、ミケに執着をあらわにしていたのだ。記憶の封印を解いてシェドが加わった今、自分が黙ってミケを渡すはずなどないと。
ライヒも、ミケに執着している。もともとひとりの女にのめり込んだという話を聞いたことがない男だ。にもかかわらず、ミケに関しては、パチドに下賜されても諦めず、ティムマインのところにいると思えば手勢を連れて乗り込んだ。
そこまで執着していたミケに、あっさりと一杯食わされたのだ。
結果はティムマイン殺害でムーガルに恥をかかせ、上層部の信頼を根こそぎ失って投獄。
自業自得だが、奴にとっては苦渋の1年。執着心も復讐心も嗜虐心も拗らせたおしてヒートアップしているに決まっている。
その中で、グリーンが王から受けた命は、パチドもライヒも失わず、外見上、軍の権勢を誇示できる状態を維持しろ、だ。そのためには、フェルニアの民だけでなく、フェルニアからムーガルにもたらされるはずだった利益すら犠牲にしてもかまわないと暗に告げていた。
グリーンは、パチドとライヒを表立って争わせるわけにはいかないから、初めはパチドにミケを諦めさせることに、全力を尽くすだろう。衝動制御障害の発作を起こしているライヒを説得するよりは現実的だから。
だが、それでもダメなときは、争いの芽であるミケを消すしかなくなる。消す。覆滅。暗殺。攻撃の方法は、ライヒの比でなく多くなる。例えばパチドが、ミケにたどり着くように設計した毒のように。
ライヒは100%仕掛けてくる。
ムーガルの役人どもは、ミケ関連でやらかしたせいでパチドの不興を買ったと思い込んでいるから、ライヒにつく。
この状態で、自分がミケを絶対にあきらめる気がないと、グリーンに知られるのは、悪手だった。
ライヒの攻撃への警戒だけでも神経が焼けるようなのに、グリーン側からのミケ暗殺を警戒するなど考えたくもない。
グリーンには、せめて、ミケを諦めるべきか迷っているように見せなければ。
パチドは、グリーンに、伯爵家が進める縁談相手を検討すると、伝えた。
ミケには、言えなかった。寂しいと、不安だと、幸せな今はきっとすぐに終わってしまうと泣くミケには。6年を、魂を焼きながら復讐に捧げ、自分が流した毒で苦しみ抜き、1年も意識がなかったミケには。
そのせいもあって、ミケは、シェドから見ると、警戒感が足りない。
シェドの元を離れて、どこかに身を隠さないかとでも言いだそうものなら、もう自分を捨てるのかと、聞いてくる。
捨てる?捨てるだと?一体どうやってだ!
危険なのだと伝えても、いざとなれば、迷宮回廊に飛び込むもん、の一点張り。
もともと迷宮回廊が張り巡らされた上の土地を、フェルニアと呼んだのだ。最大版図を拡大した時に出来た例外的な支流を除けば、迷宮回廊に飛び込んでも、この国から出ることはできず、この国自体がミケの都合もフェルニアの都合も考えないムーガルに占領されている。
パチドの流した毒だって、設計が残っているのだ。グリーンは似たようなマネはできてしまうし、ミケが疑ったような、毒を魔素に溶かして触れているものを無差別に攻撃する簡単なものなら、ライヒレベルですらできてしまう。
迷宮回廊に入れなくとも、魔素で埋まった迷宮回廊からあぶりだすのは、簡単なのだ。
ミケを、とられる。ミケが、害される。
ゆるさない。
ミケは、俺の、ものだ。
湧き上がってくる感情は、自分のモノとは思えない程凶暴で、覚えがあった。
ルカに初めて会った時に襲われた、あの感情だ。突然で圧倒的な情動を制御できずに、血まみれでろくに身動きもできないルカの右手を踏みつぶした。
その情動が、ミケに向いてしまいそうで落ち着かない。本当に自分がミケにとって安全なのかすら、不安になってくる。
理性だけで考えるなら、ミケは新生フェルニアに逃がすべきだった。
ルカは、ミケを裏切らない。腹が立つほどまっすぐに守り抜くだろう。
分っている。わかっていても、できなかった。
どうしても、できなかったのだ。
ライヒが恩赦になっただけだったなら、こんなに神経をすり減らす思いは、しなくて済んだ。
フリーハンドで戦うなら、魔術でも剣術でも兵の動かし方でも、ライヒに負けるとは思わない。ライヒの攻撃が自分に向くなら、恐れることは何もない。
ムーガル王からグリーンへの手紙は、自国の危うさを認識し方向性を指示してあるに過ぎないが、具体論に落とし込むなら、ミケをスケープゴートにしろと言っているのに等しい。
フェルニア平定の最高責任者であるグリーン総司令が、ライヒの暴虐を容認すると決めたのだ。その容認は、ムーガルの弱みの裏返しであり、国策であり、ライヒ本人にとっては、自分に至高性でも認められた気分だろう。
グリーンはミケの下賜が取り消し、ミケを普通の戦争捕虜に紛れさせて解放処理にした。
表向きの理由は、グリーンがパチドに自家を継がせる決意をし、それをムーガル王が認めたためと公表しくさった。
パチドには下賜を取り消されるようななんの落ち度もない。だが、パチドが継ぐのは、国王に最も信頼され、広大な領地を与えられて、ムーガル有数の権勢を誇る、我が伯爵家だ。良家との縁談が進んでいて、『そう言う用途』のコブ付きでは、婚姻相手の女性に失礼になると思ったのだ、と、完全に私的な理由で押し切った訳だ。
表側だけを見れば、ライヒは復権しただけで、権勢を増したのは家格と広大な領地と財産を確約されたパチドにも見える。ミケについても『解放』。自由の身にしただけで、処刑でもなければ、パチドから強引に取り上げて他の人間の褒美に当てたわけでもない。
パチドがムーガル王やグリーンに恨みを持ち、不満を叩きつけて暴れる公的な契機は表向きには無い。どれだけグリーンの伯爵家を継ぐ気がなくても、それを公にして不満をあらわにすることは、ムーガル王とムーガルの統治機構に対する逆心と取られても文句は言えない。
だが、グリーン自身にはわかっているはずだ。
パチドの時ですら1年の間ミケの看病が最優先で、ミケに執着をあらわにしていたのだ。記憶の封印を解いてシェドが加わった今、自分が黙ってミケを渡すはずなどないと。
ライヒも、ミケに執着している。もともとひとりの女にのめり込んだという話を聞いたことがない男だ。にもかかわらず、ミケに関しては、パチドに下賜されても諦めず、ティムマインのところにいると思えば手勢を連れて乗り込んだ。
そこまで執着していたミケに、あっさりと一杯食わされたのだ。
結果はティムマイン殺害でムーガルに恥をかかせ、上層部の信頼を根こそぎ失って投獄。
自業自得だが、奴にとっては苦渋の1年。執着心も復讐心も嗜虐心も拗らせたおしてヒートアップしているに決まっている。
その中で、グリーンが王から受けた命は、パチドもライヒも失わず、外見上、軍の権勢を誇示できる状態を維持しろ、だ。そのためには、フェルニアの民だけでなく、フェルニアからムーガルにもたらされるはずだった利益すら犠牲にしてもかまわないと暗に告げていた。
グリーンは、パチドとライヒを表立って争わせるわけにはいかないから、初めはパチドにミケを諦めさせることに、全力を尽くすだろう。衝動制御障害の発作を起こしているライヒを説得するよりは現実的だから。
だが、それでもダメなときは、争いの芽であるミケを消すしかなくなる。消す。覆滅。暗殺。攻撃の方法は、ライヒの比でなく多くなる。例えばパチドが、ミケにたどり着くように設計した毒のように。
ライヒは100%仕掛けてくる。
ムーガルの役人どもは、ミケ関連でやらかしたせいでパチドの不興を買ったと思い込んでいるから、ライヒにつく。
この状態で、自分がミケを絶対にあきらめる気がないと、グリーンに知られるのは、悪手だった。
ライヒの攻撃への警戒だけでも神経が焼けるようなのに、グリーン側からのミケ暗殺を警戒するなど考えたくもない。
グリーンには、せめて、ミケを諦めるべきか迷っているように見せなければ。
パチドは、グリーンに、伯爵家が進める縁談相手を検討すると、伝えた。
ミケには、言えなかった。寂しいと、不安だと、幸せな今はきっとすぐに終わってしまうと泣くミケには。6年を、魂を焼きながら復讐に捧げ、自分が流した毒で苦しみ抜き、1年も意識がなかったミケには。
そのせいもあって、ミケは、シェドから見ると、警戒感が足りない。
シェドの元を離れて、どこかに身を隠さないかとでも言いだそうものなら、もう自分を捨てるのかと、聞いてくる。
捨てる?捨てるだと?一体どうやってだ!
危険なのだと伝えても、いざとなれば、迷宮回廊に飛び込むもん、の一点張り。
もともと迷宮回廊が張り巡らされた上の土地を、フェルニアと呼んだのだ。最大版図を拡大した時に出来た例外的な支流を除けば、迷宮回廊に飛び込んでも、この国から出ることはできず、この国自体がミケの都合もフェルニアの都合も考えないムーガルに占領されている。
パチドの流した毒だって、設計が残っているのだ。グリーンは似たようなマネはできてしまうし、ミケが疑ったような、毒を魔素に溶かして触れているものを無差別に攻撃する簡単なものなら、ライヒレベルですらできてしまう。
迷宮回廊に入れなくとも、魔素で埋まった迷宮回廊からあぶりだすのは、簡単なのだ。
ミケを、とられる。ミケが、害される。
ゆるさない。
ミケは、俺の、ものだ。
湧き上がってくる感情は、自分のモノとは思えない程凶暴で、覚えがあった。
ルカに初めて会った時に襲われた、あの感情だ。突然で圧倒的な情動を制御できずに、血まみれでろくに身動きもできないルカの右手を踏みつぶした。
その情動が、ミケに向いてしまいそうで落ち着かない。本当に自分がミケにとって安全なのかすら、不安になってくる。
理性だけで考えるなら、ミケは新生フェルニアに逃がすべきだった。
ルカは、ミケを裏切らない。腹が立つほどまっすぐに守り抜くだろう。
分っている。わかっていても、できなかった。
どうしても、できなかったのだ。
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