86 / 141
86. シェドの葛藤
しおりを挟む
シェドは、自分が全身毛を逆立てた猫のようになっている自覚があった。
ライヒが恩赦になっただけだったなら、こんなに神経をすり減らす思いは、しなくて済んだ。
フリーハンドで戦うなら、魔術でも剣術でも兵の動かし方でも、ライヒに負けるとは思わない。ライヒの攻撃が自分に向くなら、恐れることは何もない。
ムーガル王からグリーンへの手紙は、自国の危うさを認識し方向性を指示してあるに過ぎないが、具体論に落とし込むなら、ミケをスケープゴートにしろと言っているのに等しい。
フェルニア平定の最高責任者であるグリーン総司令が、ライヒの暴虐を容認すると決めたのだ。その容認は、ムーガルの弱みの裏返しであり、国策であり、ライヒ本人にとっては、自分に至高性でも認められた気分だろう。
グリーンはミケの下賜が取り消し、ミケを普通の戦争捕虜に紛れさせて解放処理にした。
表向きの理由は、グリーンがパチドに自家を継がせる決意をし、それをムーガル王が認めたためと公表しくさった。
パチドには下賜を取り消されるようななんの落ち度もない。だが、パチドが継ぐのは、国王に最も信頼され、広大な領地を与えられて、ムーガル有数の権勢を誇る、我が伯爵家だ。良家との縁談が進んでいて、『そう言う用途』のコブ付きでは、婚姻相手の女性に失礼になると思ったのだ、と、完全に私的な理由で押し切った訳だ。
表側だけを見れば、ライヒは復権しただけで、権勢を増したのは家格と広大な領地と財産を確約されたパチドにも見える。ミケについても『解放』。自由の身にしただけで、処刑でもなければ、パチドから強引に取り上げて他の人間の褒美に当てたわけでもない。
パチドがムーガル王やグリーンに恨みを持ち、不満を叩きつけて暴れる公的な契機は表向きには無い。どれだけグリーンの伯爵家を継ぐ気がなくても、それを公にして不満をあらわにすることは、ムーガル王とムーガルの統治機構に対する逆心と取られても文句は言えない。
だが、グリーン自身にはわかっているはずだ。
パチドの時ですら1年の間ミケの看病が最優先で、ミケに執着をあらわにしていたのだ。記憶の封印を解いてシェドが加わった今、自分が黙ってミケを渡すはずなどないと。
ライヒも、ミケに執着している。もともとひとりの女にのめり込んだという話を聞いたことがない男だ。にもかかわらず、ミケに関しては、パチドに下賜されても諦めず、ティムマインのところにいると思えば手勢を連れて乗り込んだ。
そこまで執着していたミケに、あっさりと一杯食わされたのだ。
結果はティムマイン殺害でムーガルに恥をかかせ、上層部の信頼を根こそぎ失って投獄。
自業自得だが、奴にとっては苦渋の1年。執着心も復讐心も嗜虐心も拗らせたおしてヒートアップしているに決まっている。
その中で、グリーンが王から受けた命は、パチドもライヒも失わず、外見上、軍の権勢を誇示できる状態を維持しろ、だ。そのためには、フェルニアの民だけでなく、フェルニアからムーガルにもたらされるはずだった利益すら犠牲にしてもかまわないと暗に告げていた。
グリーンは、パチドとライヒを表立って争わせるわけにはいかないから、初めはパチドにミケを諦めさせることに、全力を尽くすだろう。衝動制御障害の発作を起こしているライヒを説得するよりは現実的だから。
だが、それでもダメなときは、争いの芽であるミケを消すしかなくなる。消す。覆滅。暗殺。攻撃の方法は、ライヒの比でなく多くなる。例えばパチドが、ミケにたどり着くように設計した毒のように。
ライヒは100%仕掛けてくる。
ムーガルの役人どもは、ミケ関連でやらかしたせいでパチドの不興を買ったと思い込んでいるから、ライヒにつく。
この状態で、自分がミケを絶対にあきらめる気がないと、グリーンに知られるのは、悪手だった。
ライヒの攻撃への警戒だけでも神経が焼けるようなのに、グリーン側からのミケ暗殺を警戒するなど考えたくもない。
グリーンには、せめて、ミケを諦めるべきか迷っているように見せなければ。
パチドは、グリーンに、伯爵家が進める縁談相手を検討すると、伝えた。
ミケには、言えなかった。寂しいと、不安だと、幸せな今はきっとすぐに終わってしまうと泣くミケには。6年を、魂を焼きながら復讐に捧げ、自分が流した毒で苦しみ抜き、1年も意識がなかったミケには。
そのせいもあって、ミケは、シェドから見ると、警戒感が足りない。
シェドの元を離れて、どこかに身を隠さないかとでも言いだそうものなら、もう自分を捨てるのかと、聞いてくる。
捨てる?捨てるだと?一体どうやってだ!
危険なのだと伝えても、いざとなれば、迷宮回廊に飛び込むもん、の一点張り。
もともと迷宮回廊が張り巡らされた上の土地を、フェルニアと呼んだのだ。最大版図を拡大した時に出来た例外的な支流を除けば、迷宮回廊に飛び込んでも、この国から出ることはできず、この国自体がミケの都合もフェルニアの都合も考えないムーガルに占領されている。
パチドの流した毒だって、設計が残っているのだ。グリーンは似たようなマネはできてしまうし、ミケが疑ったような、毒を魔素に溶かして触れているものを無差別に攻撃する簡単なものなら、ライヒレベルですらできてしまう。
迷宮回廊に入れなくとも、魔素で埋まった迷宮回廊からあぶりだすのは、簡単なのだ。
ミケを、とられる。ミケが、害される。
ゆるさない。
ミケは、俺の、ものだ。
湧き上がってくる感情は、自分のモノとは思えない程凶暴で、覚えがあった。
ルカに初めて会った時に襲われた、あの感情だ。突然で圧倒的な情動を制御できずに、血まみれでろくに身動きもできないルカの右手を踏みつぶした。
その情動が、ミケに向いてしまいそうで落ち着かない。本当に自分がミケにとって安全なのかすら、不安になってくる。
理性だけで考えるなら、ミケは新生フェルニアに逃がすべきだった。
ルカは、ミケを裏切らない。腹が立つほどまっすぐに守り抜くだろう。
分っている。わかっていても、できなかった。
どうしても、できなかったのだ。
ライヒが恩赦になっただけだったなら、こんなに神経をすり減らす思いは、しなくて済んだ。
フリーハンドで戦うなら、魔術でも剣術でも兵の動かし方でも、ライヒに負けるとは思わない。ライヒの攻撃が自分に向くなら、恐れることは何もない。
ムーガル王からグリーンへの手紙は、自国の危うさを認識し方向性を指示してあるに過ぎないが、具体論に落とし込むなら、ミケをスケープゴートにしろと言っているのに等しい。
フェルニア平定の最高責任者であるグリーン総司令が、ライヒの暴虐を容認すると決めたのだ。その容認は、ムーガルの弱みの裏返しであり、国策であり、ライヒ本人にとっては、自分に至高性でも認められた気分だろう。
グリーンはミケの下賜が取り消し、ミケを普通の戦争捕虜に紛れさせて解放処理にした。
表向きの理由は、グリーンがパチドに自家を継がせる決意をし、それをムーガル王が認めたためと公表しくさった。
パチドには下賜を取り消されるようななんの落ち度もない。だが、パチドが継ぐのは、国王に最も信頼され、広大な領地を与えられて、ムーガル有数の権勢を誇る、我が伯爵家だ。良家との縁談が進んでいて、『そう言う用途』のコブ付きでは、婚姻相手の女性に失礼になると思ったのだ、と、完全に私的な理由で押し切った訳だ。
表側だけを見れば、ライヒは復権しただけで、権勢を増したのは家格と広大な領地と財産を確約されたパチドにも見える。ミケについても『解放』。自由の身にしただけで、処刑でもなければ、パチドから強引に取り上げて他の人間の褒美に当てたわけでもない。
パチドがムーガル王やグリーンに恨みを持ち、不満を叩きつけて暴れる公的な契機は表向きには無い。どれだけグリーンの伯爵家を継ぐ気がなくても、それを公にして不満をあらわにすることは、ムーガル王とムーガルの統治機構に対する逆心と取られても文句は言えない。
だが、グリーン自身にはわかっているはずだ。
パチドの時ですら1年の間ミケの看病が最優先で、ミケに執着をあらわにしていたのだ。記憶の封印を解いてシェドが加わった今、自分が黙ってミケを渡すはずなどないと。
ライヒも、ミケに執着している。もともとひとりの女にのめり込んだという話を聞いたことがない男だ。にもかかわらず、ミケに関しては、パチドに下賜されても諦めず、ティムマインのところにいると思えば手勢を連れて乗り込んだ。
そこまで執着していたミケに、あっさりと一杯食わされたのだ。
結果はティムマイン殺害でムーガルに恥をかかせ、上層部の信頼を根こそぎ失って投獄。
自業自得だが、奴にとっては苦渋の1年。執着心も復讐心も嗜虐心も拗らせたおしてヒートアップしているに決まっている。
その中で、グリーンが王から受けた命は、パチドもライヒも失わず、外見上、軍の権勢を誇示できる状態を維持しろ、だ。そのためには、フェルニアの民だけでなく、フェルニアからムーガルにもたらされるはずだった利益すら犠牲にしてもかまわないと暗に告げていた。
グリーンは、パチドとライヒを表立って争わせるわけにはいかないから、初めはパチドにミケを諦めさせることに、全力を尽くすだろう。衝動制御障害の発作を起こしているライヒを説得するよりは現実的だから。
だが、それでもダメなときは、争いの芽であるミケを消すしかなくなる。消す。覆滅。暗殺。攻撃の方法は、ライヒの比でなく多くなる。例えばパチドが、ミケにたどり着くように設計した毒のように。
ライヒは100%仕掛けてくる。
ムーガルの役人どもは、ミケ関連でやらかしたせいでパチドの不興を買ったと思い込んでいるから、ライヒにつく。
この状態で、自分がミケを絶対にあきらめる気がないと、グリーンに知られるのは、悪手だった。
ライヒの攻撃への警戒だけでも神経が焼けるようなのに、グリーン側からのミケ暗殺を警戒するなど考えたくもない。
グリーンには、せめて、ミケを諦めるべきか迷っているように見せなければ。
パチドは、グリーンに、伯爵家が進める縁談相手を検討すると、伝えた。
ミケには、言えなかった。寂しいと、不安だと、幸せな今はきっとすぐに終わってしまうと泣くミケには。6年を、魂を焼きながら復讐に捧げ、自分が流した毒で苦しみ抜き、1年も意識がなかったミケには。
そのせいもあって、ミケは、シェドから見ると、警戒感が足りない。
シェドの元を離れて、どこかに身を隠さないかとでも言いだそうものなら、もう自分を捨てるのかと、聞いてくる。
捨てる?捨てるだと?一体どうやってだ!
危険なのだと伝えても、いざとなれば、迷宮回廊に飛び込むもん、の一点張り。
もともと迷宮回廊が張り巡らされた上の土地を、フェルニアと呼んだのだ。最大版図を拡大した時に出来た例外的な支流を除けば、迷宮回廊に飛び込んでも、この国から出ることはできず、この国自体がミケの都合もフェルニアの都合も考えないムーガルに占領されている。
パチドの流した毒だって、設計が残っているのだ。グリーンは似たようなマネはできてしまうし、ミケが疑ったような、毒を魔素に溶かして触れているものを無差別に攻撃する簡単なものなら、ライヒレベルですらできてしまう。
迷宮回廊に入れなくとも、魔素で埋まった迷宮回廊からあぶりだすのは、簡単なのだ。
ミケを、とられる。ミケが、害される。
ゆるさない。
ミケは、俺の、ものだ。
湧き上がってくる感情は、自分のモノとは思えない程凶暴で、覚えがあった。
ルカに初めて会った時に襲われた、あの感情だ。突然で圧倒的な情動を制御できずに、血まみれでろくに身動きもできないルカの右手を踏みつぶした。
その情動が、ミケに向いてしまいそうで落ち着かない。本当に自分がミケにとって安全なのかすら、不安になってくる。
理性だけで考えるなら、ミケは新生フェルニアに逃がすべきだった。
ルカは、ミケを裏切らない。腹が立つほどまっすぐに守り抜くだろう。
分っている。わかっていても、できなかった。
どうしても、できなかったのだ。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
絶倫彼は私を離さない~あぁ、私は貴方の虜で快楽に堕ちる~
一ノ瀬 彩音
恋愛
私の彼氏は絶倫で、毎日愛されていく私は、すっかり彼の虜になってしまうのですが
そんな彼が大好きなのです。
今日も可愛がられている私は、意地悪な彼氏に愛され続けていき、
次第に染め上げられてしまうのですが……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
前世変態学生が転生し美麗令嬢に~4人の王族兄弟に淫乱メス化させられる
KUMA
恋愛
変態学生の立花律は交通事故にあい気付くと幼女になっていた。
城からは逃げ出せず次々と自分の事が好きだと言う王太子と王子達の4人兄弟に襲われ続け次第に男だった律は女の子の快感にはまる。
【R18】助けてもらった虎獣人にマーキングされちゃう話
象の居る
恋愛
異世界転移したとたん、魔獣に狙われたユキを助けてくれたムキムキ虎獣人のアラン。襲われた恐怖でアランに縋り、家においてもらったあともズルズル関係している。このまま一緒にいたいけどアランはどう思ってる? セフレなのか悩みつつも関係が壊れるのが怖くて聞けない。飽きられたときのために一人暮らしの住宅事情を調べてたらアランの様子がおかしくなって……。
ベッドの上ではちょっと意地悪なのに肝心なとこはヘタレな虎獣人と、普段はハッキリ言うのに怖がりな人間がお互いの気持ちを確かめ合って結ばれる話です。
ムーンライトノベルズさんにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる