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本編

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 カタカタとキーボードを叩いて表計算ソフトに数字を打ち込んでいく。パソコン上の作業はある種単調なものなので、ついつい考え事が捗ってしまう。……それが考えたくないことであっても。

 あれから、結局遠藤のプロポーズともとれる誘いを強く断ることもできず、遠藤には余計な期待を持たせてしまっている。遠藤のことを考えるのならキッパリと断るべきなのに、悲しげな顔を思い出すとあれ以上に強く出ることができなかった。
 俺たちは共にホテルを出て出社し、何事もなかったように普段通りに仕事をこなしているが……。

「…………」

 時折、デスクに座る遠藤と視線が交わる。それなりに距離の離れた位置にいても、ふとパソコンから目を逸らせば目が合う。昨日の今日で俺も意識してしまっているからかもしれない。遠藤は目が合うと嬉しそうに微笑むが、俺はそれに気まずい微笑みを返すことしかできなかった。
 視線をパソコンの画面に戻す。考えなくてはいけないことがたくさんあるが、その全てを放棄してしまいたい。仕事を終えて帰宅した後に五紀に会うのだと思うと、まだ昼前なのに気が重かった。五紀に対してこんな思いを抱くのは初めてだが、これが俺の犯した罪の重さなんだろう。自分で計画を実行しておいて今更やめたくなっているなんて、弱気すぎて我ながら笑えてしまう。

 五紀を傷つけることはもう決まっている。俺が遠藤に体を許したあの時、俺が明確に五紀との未来を断ち切ったのだから。

「はあ……」

 俺が落ち込むのはお門違いだとわかっている。
 気の重さを紛らわすように軽快にキーボードを打った。




 窓から見える景色はいつの間にか暗くなり、街灯が帰宅途中であろうサラリーマンたちを照らしている。彼らのことをぼんやりと眺めながら、ブラインドを閉じた。

「吾妻さん、お帰りならご一緒してもいいですか?」

 鞄を取ろうとデスクへ振り返ったところで、いつの間にか横にやってきていた遠藤に声をかけられた。驚いて少し肩が揺れたが、誤魔化すようにして少し咳払いをした。

「え、遠藤か……まあ、別に構わないけど……」
「吾妻さん、なんか緊張してます?ガチガチなんですけど……」

 遠藤は訝しげに俺の顔を見ながら、それとなく二の腕あたりを手で掴むようにして揉んでくる。今までにはなかったスキンシップに驚き、つい振り払ってしまうと「あー」と気の抜けた、こちらを非難するような声をあげたのでそれが少しおかしくて笑ってしまった。

「よかった、ちょっと元気でました?」
「そんなにわかりやすく落ち込んで見えたか?……はあ、ダメだな。気を遣わせてごめん」
「もしかして……今日、言うつもりなんですか?週末に修羅場ですね~」


 デスクに戻り鞄を手にして、エレベーターを待ちながら会話を続ける。繁忙期でない今、定時過ぎのオフィスにはあまり人の姿がない。とは言え遠藤はこちらを気遣って声を潜めるようにそう言った。

「今日言わないと、この先ずっと言えない気がするしな……」
「まあ、それもそうですよね……それに……、いや。吾妻さん、このまま逃げちゃうのってどうですか?」
「え?」

 変わらず軽い調子で言うものだから、思わず聞き間違いかと思ってしまった。確認するように遠藤の顔を見ると、遠藤もこちらを見ていたようでその優しげな目と視線が合う。どう返事をするべきか考えあぐねていると、ちょうどエレベーターが到着したのでとりあえず乗り込んだ。上から降りてきた他の会社の社員であろう人達の間で、俺たちは肩をくっつけるようにして中央へ立った。他の人がいることもあり、お互い無言のままエレベーターは降下してゆく。

 “逃げる”という言葉への返事を頭の中で巡らせるが、結局はまとまることのないままエレベーターは1階へと着いてしまった。
 ポン、という軽い電子音を出して扉が開く。人に流されるようにしてそのままエントランスへと出た。立ち止まらず少し歩いたところで遠藤が来ているか振り返ると、思った以上にすぐ側にいたのか思わずぶつかりそうになったので驚いて一歩下がった。


「あ、悪い……」
「いえ、大丈夫です……吾妻さん」

 遠藤は両手を俺に伸ばし、その手で大事そうに俺の左手を取った。俺はただ、こちらを真っ直ぐと見据える遠藤の目をじっと見ていた。

「辛いなら、逃げちゃいましょうよ。このまま……俺と」

 そう言った遠藤の声はやたらと甘美で、揺れるこの心を……身を任せてしまいたくなる。無意識のうちに肯定の言葉が口から出そうになったが、不意に脳裏に五紀の笑顔が浮かんで口を閉ざした。

「ごめん……俺、帰らないと」
「あ……そう、ですよね。すみません」

 俺の返事を聞いて緩んだ遠藤の手から自分の手を抜くと、遠藤は所在なさげに眉を下げて俺を見る。

「遠藤、俺……やっぱり遠藤のことは可愛い後輩だって思うよ。一番可愛い後輩」

 ごめん、と絞り出すように口にする。遠藤はその言葉に目を見開いたが、すぐにわかっていたとでも言うかのように静かに目を伏せて優しく微笑んだ。そして明るい声で「じゃあ吾妻さん、また来週……ですね!」と言った。


 遠藤の気持ちを弄んで捨てることになったのも、これから五紀を苦しめるのも、全てが……。
 ああ全て、全てが俺のせいだった。

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