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第九回 決意、覚悟、夜を行く。

九の五(牢獄、自分を殺す日、希望)

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 /五


 ここに戻ってきてしまった。
 泣き終えた宋江は、ゆるゆると立ち上がり、寝台ベッドに腰を下ろす。
 数十年間を過ごした寝台はそのままの形で残され、宋江を歓迎した。
 地下の部屋は、雪が積もった外よりも暖かい。
 だけど、誰も居ない。共に下りてきた弟は、すぐに地上へ戻っていった。
 だからなのか、雪道を歩き続けたときよりも、ずっとここは寒かった。

(父へ用意してきた謝罪と感謝の言葉が、落涙のせいで半分も言えなかった)

 とても情けなかった。父も弟も、土下座して涙に溺れる者を、情けない情けないと憐れんでいるだろう。
 それでも、言えた。何も言わずに姿を消してはならない、その一心で村に戻り、目的を果たせたのだ。

 情けない姿でも肩の荷が下ろせた。
 見渡した部屋は窓も無く、蝋燭が無ければ書も読めない、文も書けない、周りを見渡すことすら敵わない牢獄だった。
 明るい昼間なら、格子の先、地上へ向かう階段から少しだけ光が差し込む。
 微かな光を頼りに手紙を読み、書を読んで学び、外へ想いを馳せる日々を送った。

(光があったから。光が差し込んでくれたから。だから、生きたいと思えた)

 花栄が手紙をくれたから生きようと思えた。
 それは、とても感謝していた。
 今までの尊い光に感謝しながら、宋江は宋清が置いていった灯りに息を吹きかける。
 当然の暗闇が、地下の部屋を支配した。

(灯りがあると……『これ』が見えてしまって怖いから。躊躇してしまう)

 暗闇になった寝台の上で、李俊と名乗った少年から貰った短刀ナイフを抜く。
 鞘から刀身を抜き取り、両手で握り締めた。
 暗闇の中ではどれほどの刃が宋江へ向けられているか、宋江自身にも分からない。
 ただ、刃は鋭く研がれている物だと確かめてある。
 肌を裂く鋭利な刀であると、屋敷を訪れる前に小枝を斬って確認済みだった。

(恐ろしい刃を目にしては、怖くて逃げてしまう。暗闇にするのが正解なんだ)

 柄を両手で持ち、自分の首に向けた。まだ刃は首元に届かない。
 少し頭を下げればいい。鋭い切先が首を襲う。闇の中で、眠るように終われる。
 何度も深呼吸をし、首が傾く瞬間に備えた。

 両手で握り、刃を向けている。深呼吸をした。その瞬間を待った。
 ぎゅっと短刀を握り締めた。刃は上を向いている。呼吸を整えた。最期を待った。
 刃を首へ向けた。頭を下げれば首に切先が突き刺さる。覚悟を決めた。
 自害のための一歩を踏み出そう。刃を首へ差し込もう。死ぬとしよう。
 死ぬのだと自分に言い聞かせた。何度も息づく。短刀に力を込めた。死のう。
 震える手を堪えた。一気に首へ刺そうとする。涙を堪えた。死んでしまおう。
 もう決めたのだと自分に言い放った。刃で突こうとする。死んでしまえ。
 死にたいと十数年前から考えていたと叫ぶ。刃を押し込もうとする。死ぬのだ。
 死にたいという決意はどこにいったのだと呟いた。指に全力を込める。死ね。
 どうして死ねないのだと喚いた。怖いからだと心が騒ぐ。力を込める。死。

「いやだ」

 いつまで経っても死は訪れない。

 死ねない。怖い。死にたくない。怖い。痛いのは怖い。苦しいのは怖い。
 死んだら誰にも会えない。誰とも話せない。誰とも笑い合えない。
 誰もいない死。それは嫌だ。
 全身が叫んでいた。

「いやだ、あ、あああ、あああああ」


 宋江に光が襲い掛かった。
 提灯を持った朱仝は大きな音を立てて戸を開けると、風を切るような速度で駆け寄り、宋江の腕を叩きのめした。
 カランと軽い音がして、短刀が床に転がる。
 ほんの数秒のことで、腕を叩かれたことなど宋江には理解できない。
 何かを考えるよりも先に刃を弾き飛ばした朱仝は、子供のように大声で喚く宋江を自らの胸の中へ導いた。

 抱き締められ、親友が現れても取り繕うことすらできない宋江は、再び大声で叫び上げる。
 刃を奪われ、望んだ死を得られなかった、そんなことなどどうでもいいほどに、声を上げて泣いた。
 かつて、どんなに泣いても、外に声は届かなかった。
 それは十数年前から同じ。宋江が何度声を上げても、誰も助けに来てくれない。
 だが今は、朱仝が宋江を抱き締めていた。

(宋江。宋江……宋江……)

 救いたい一心で、朱仝は宋江を抱き締める。

(なぜ……? どうして? なんで? ……今は、そんなときじゃないのに!)

 だがその心は、朱仝には全く分からない色に染め上げられていく。
 声を上げて泣く宋江の涙に触れるたび、その香りを嗅ぐたび、朱仝の体は熱く燃え上がっていった。
 気遣う親友として振る舞いたくても、頭の中は『宋江を犯すこと』しか考えられなくなっていく。

(なんだこれは? おかしい。絶対におかしい。香りが良い。もっと味わいたい。愛でたい。愛しい。愛しい。愛しい。愛しい。愛しい。……どうして!)

 今すぐに目の前にいる謎の物体から離れなければ、理性を失う。
 理由は分からない。だが、抱きたい、抱きたい、抱きたいと、自分が壊れていく音が反響した。
 しかし胸の中で、涙をポロポロと零しながら苦しみ喘ぐ友を投げ捨てて逃げていくことなど、絶対に出来ない。
 歯を食いしばり、唐突な性衝動を堪えた。

(愛しいからだ。大切にしたいからだ。僕は宋江のことが……好きだから、死んでほしくないと体中が叫んでいるぐらいに好きだから、だから……鎮まってくれ!)

 心に言い聞かせた。胸の中で縋る宋江の髪を撫で、膝をつく。
 二人して冷たい床にしゃがみ込み、ただただ時が過ぎるのを待った。



 宋家の邸内を何巡も回った雷横は、土蔵廊下のような暗い奥を進む。
 突き当たりは、持仏堂だった。四壁は陰々として冷たい。旧家の大屋敷だけあり、仏壇も立派で小綺麗だ。
 そのわりに仏具の長櫃ながひつの位置が妙な角度でズレている。
 暗闇の中を覗き込むと、下に降りられる穴倉があった。

 真っ暗な階段を下りた雷横を出迎えたのは、牢獄だった。
 都頭が詰めている刑務所とは違い、病室のように清潔感がある。それでも牢獄という言葉に違いはない。
 人間を捕らえて逃がさぬ造りは、本物の囚獄だった。

「朱仝。……宋江」

 雷横が灯りを向ける。牢屋の中で、背の高い朱仝が宋江を胸にしまい込んでいた。
 ふと、提灯の灯りが剥き出しの刃を光らせた。
 何があったか察した雷横は、床に転がっていた短刀を拾い上げる。
 血は無い。だが刃が濡れている。
 宋江の涙によるものだと、すぐに勘付いた。

 朱仝が何も言わず、宋江を抱き締め続けている。
 朱仝の顔色は雷横からは視えず、推し量れない。宋江が泣いている理由も、雷横には分からない。
 だから雷横が、問い質すしかなかった。

「宋江。無事で良かった」

 問い質さなければならないのだが、それでも雷横は真っ先にそう口にしてしまう。
 雷横の言葉に、朱仝も噛んでいた唇を緩めた。

「……うん、宋江。死ななくて良かった。君が無事で、僕も嬉しい」
「大勢に押しかけられて怖かったか? でも安心しろ。俺達は、いや、知事殿も庁内もみんな、お前は悪人じゃないと考えている」

 零れる涙は止まらない。それでも少しずつ宋江は呼吸を整え始め、牢獄は静けさに満ちていく。
 朱仝に正面から抱き締められたままの宋江に、今度こそ雷横は近付き、片膝をついた。

「ああ、宋江。死ぬなんて考えなくていいんだ」
「…………ううん、雷横くん、朱仝くん、私は、生きていたらダメなんだ」

 宋江は、顔を上げることができない。
 涙に濡れた顔を見せたくない誇りなどない。
 優しく語り掛ける友二人の顔を見た途端、また涙を流して、話ができなくなることを恐れたからだった。

「柴進様は、私が殺人を犯したことを教えてくれた。自分の罪は、受け入れる」

 鼻を啜りながら、風が吹けば消えてしまいそうなほど小さな声で、呟く。

「罪を犯したなら、償わなくては。命をもって償いをしなければ。それに私は……大勢の人々を、狂わせ……」
「待て宋江。まず教えてほしい。お前は閻婆惜えんばしゃくという女を殺した記憶があるのか?」

 雷横が、朱仝に顔をうずめる宋江に問う。

「……無い。記憶が無い。だけど、おそらく……」
「だから待て宋江。『おそらく』は、言うな。お前は閻婆惜を殺したいと思ったか」
「そんなことは絶対に無い。人を殺したいだなんて、一度も……」
「殺意は無かった。そうだな? なら、俺達はお前が殺したとは断言できない」
「そうなんだよ宋江。誰も見ていないし、君に記憶も殺意も無いなら、犯人は君だと言い切れない。……宋江の家で死んでいた彼女は、事故死だと考えている。君に罪は無い。もし逮捕されたとして、死罪になることもない」
「でも」
「家宅捜索の結果、宋江はいなかったし犯人だと証明できる物も押収されなかったと陳情しておくから」
「でも、そうでなくても、私は……みんなに、迷惑を掛けた……迷惑ばかり掛けて、何も生めない……産めない……私は、多くの人のためにも、死ななければ……」
「こんなに生きてほしいって願っている俺達がいるのに?」

 雷横が、伏せる宋江の髪を掴んだ。
 乱暴な強い力で、首をぐるりと回す。

「俺は宋江が好きだから生きていてほしい」

 顔を向かされた宋江の唇を、雷横が正面から奪った。


 暫くの沈黙。

 数秒に渡る静けさの中、雷横は……口走った自らの言動に、顔を赤くしていった。
 何も考えずに発した言葉だった。

 雷横は子供の頃から、物を考えない。後先を見ずに、手が出る。
 母に「アンタの悪い癖だよ、治しな!」と耳にタコができるほど言われ続け、治る事なく都頭になった。
 好意を抱いていた宋江に口づけできた感動よりも真っ先にうるさい母の小言を思い出してしまい、憂鬱になった。

「お、俺は……! 宋江が、好きだから、生きてほしい! 死んでほしくない。だから、死ぬな!」
「……ら、雷横くん?」
「……やだなぁ。雷横に先越されちゃったよ」

 歯切れが悪く口ごもる雷横を横に、朱仝は再び宋江を両腕で抱き締める。
 髪を擦り、涙に濡れた顔を拭った後、乾いた頬に唇を落とした。

「僕も宋江を愛しているんだ。だから、絶対に死んでほしくないよ」

 一瞬だけ唇に口づけた雷横とは違い、朱仝は頬に長く唇を落とす。
 冷たくなった宋江の肌を唇で暖めるように、長く長く、顔を寄せた。

「お、おい、朱仝……な、長いぞっ!」
「僕は雷横よりずっと前から宋江を知っているからね。長くても仕方ないよ」
「何が仕方ないんだ、馬鹿!」
「……ふ、二人とも……?」
「宋江。こんなに君を想っている僕達を、置いて逝ってしまうのかい? それは嫌だよ。もう死ぬなんて言わないでほしいな」
「あぅ……」
「君には生きてもらいたい。死なんて、選んでほしくないのさ」
「……そん、な……」
「俺は……俺達は、宋江がこのまま逮捕されるなら、全力でお前を守る。俺達に掴まりたくないなら……どこか、遠くに逃げていてほしい。病が長引いたからと、遠くへ療養の旅に出たことにしろ」
「元から体調不良で辞表を提出していたよね? 知県殿が受け取って、保留したやつさ。あの人、短期休暇届けとして改竄していたから、問題無く遠出していいよ」
「……なんで、そこまで、二人は……私を助けてくれる……?」

 か細い問いかけに、朱仝の中で、張文遠ちょうぶんえんの告白が思い出された。
 宋江が人を狂わす化け物かもしれない、心を惑わす妖術師かもしれない。
 胸に生じた感情は、全て偽物の嘘っぱち。そう警告する言葉を忘れた訳ではない。

 ――だけど、この悲痛な涙と戸惑いが、奸計であるものか。
 朱仝は、声を張る。

「もし君が妖怪だとしても、幻術を操る術師であっても、大好きだから、助けたい。……知県殿も、屋敷の外に居る連中も、みんなそう思っているよ」
「お前が酒に誘った奴らはみんな、お前を救おうとしている。本当だぞ。あいつら、外で律儀に待っているだけなのは、そういうことなんだぞ」
「だから宋江。生きろ」



 ――真夜中になる前に、隊長達が大勢の兵士を連れていく。

 宋家を取り囲んでいた兵士達は大きな音を立てることなく、村民が騒動に怯える前に去っていった。
 宋清は兵士達が完全にいなくなったことを見計らい、仏堂へ向かう。
 父の部屋で待機していた宋清は、都頭達が隠し階段を発見したのか見ていない。
 だから……階段を下りた先に兄が居ない事情が、さっぱり分からなかった。
 連れて行かれたのか。無事を確認できなかった宋清は焦り、階段を駆け上がる。
 そして仏堂まで戻り、ひんやりとした冷気が頬を刺したおかげで、宋清は冷静さを取り戻した。

(逃げたければ逃げろと言ったのは、僕じゃないか)

 自分の興奮した言葉を思い出すほどに、宋清は涼やかなものになっていく。

(馬鹿兄貴を目にした瞬間、言葉を失ってしまった。腕を掴んで連れてきたとき、興奮で抱(いだ)いたことのない感情に襲われた。……目の前から消えたから、いつもの自分に戻ることができた、のか)

 怯えて声を掛けてきた召使いに「兄を見かけなかったか」と尋ねようとした。
 だが自分と父と以外、兄と会っていないことに気付き、唇を噛む。

「……荒された部屋を片付けて、さっさと寝てくれ」
「それですが旦那そうせい様。横暴な警官がたは一人も居ませんでしたので、少し砂埃が舞った程度で何にも問題はございませんよ」

 なら明日の用意をしてさっさと寝てくれと、宋清は使用人に背を向けた。
 兄は、出ていった。
 宋家の助けは不要という表明だ。
 それならそれでいいと宋清はひとり、頷く。
 兄はここへ逃げてきたのではなく、あくまで父に詫びるために来たのだから。

(去ってくれて、良かったかもしれない。……兄を目の前にした僕は、正気を失っていた。そうだ、あの人を見るたび、僕は正気を失う。優越感に浸って傲慢な振る舞いをしなくて済む。良かったんだ、これで……)

 冷たい廊下で立ち止まった宋清は、ひとり、頭を柱に打ち付ける。

(昔のように兄と肩を並べて走り回ることは、もう出来ない)

 ごつん、ごつんと、兄の土下座のように音を立てて額を打ち付けた。
 たった数分だけ垣間見えてしまった自分の本性を、全て忘れたいがために。
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