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第九回 決意、覚悟、夜を行く。

九の四(兄と弟と再会、父への謝罪、強襲)

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 /四


「では花栄、またな。……石勇、途中まで花栄を見送れ」
「石勇とやら、分かりやすい街道まででいい、よろしく頼む」
「かしこまりました」
「じゃあ、宋清、達者で」

 荷物を背負った花栄の馬が、従者せきゆうの馬と共に遠ざかっていく。

 早く帰らせることになった詫びの弁当を持たせていたら、あっという間に夕暮れになった。
 雪深い地方で夜は酷だと思い、もう一晩泊まるかと提案したが、花栄は「観光ついでに色んな宿に泊まりたいから」と爽やかに去っていった。

 明らかに幼馴染に気遣われた。
 自覚しながら、村を去る馬を見送る。
 感慨深く眺める暇も与えず、新たな来客が現れ、宋清は村長の顔に戻った。
 遅い時間に現れた村の男は「運城の城郭まちで商売をしたいから許可が欲しい」という相談を持ちかけてきた。
 宋国の規則として、住民が村や街を移動する際は、村長や所轄の役所に許可を得る法律システムになっている。
 申請をして記録を残すように定めているのだが、多くの国民はその規則を無視していた。
 些細な旅の申請など、誰もしていない。役人ですら守る者が少ない法だった。

 だが宋清は用心深く、必ず小さな規則を守っている。
 下手に法を破り、不埒な輩に弱みを握られたくない疑り深さがあった。
 そして同じく規則を守ろうとする男には、悪い気はしない。
 わざわざ村長に許可を取りに来ただけの男へ、余分に金を握らせる。

「厳しい年になりそうですが、頑張りましょう。宋家ぼくは全力で応援します」

 媚びを売る賄賂とは違う。
 正当で誠実な村の者への、僅かな激励を送る。

「若旦那、ありがとう! アンタもお兄様に似てお優しい、良い男になったなぁ」

 おひねりを受け取った男は、何も考えてない顔で頭を下げた。

(……この三年で、『運城県の及時雨きゅうじう 宋江』は、有名人になった)

 村を出て下級役人になった兄は、ただの役場の窓口にすぎない。
 だが宋江は自ら人々の相談に乗り、金銭を縋ってきた者に渡していた。
 それでいて賄賂を受け取らず、援助も断る。
 まるで聖人だと、街一番の役人になっていた。

(冗談も休み休み言え。馬鹿兄貴の愚行は、全て僕が解決してやっている)

 相手が悪人であろうと金を渡し、身内以外の者に家の鍵を渡し、嘘をつかれても笑って許す。
 怪しい話も聞き分けられず妙な契約だってするような愚か者なのだ。

(僕が薬を調達して送らなければ、人として生きられないくせに。家人つまの葬式で、喪主の務めも果たせなかったくせに。そして今度は、殺人事件と失踪事件の迷惑まで掛けてくるくせに……)

 いつまで兄の尻拭いをさせられるのか。宋清には考えたくもなかった。


 さすがに今夜は、雪は降らずにいてくれた。
 春だと言ってもいい時期なのに。この異常気象の原因は、世の乱れだろうか。
 迷信を信じない宋清でも、時折そう考えてしまう。

(世が乱れてる。花栄が……軍人として姦譎ふせいじつな連中を処断していると話してたが)

 何故そのような者達が生まれたかというと、税収が激しくなったからだそうだ。
 税が重く、まともに食えない民が増えた。
 食えない者達の心は荒れ、明日の飯欲しさに略奪を始める。
 なら税を下げれば幾つか解決するのだが、世の中には『他者を搾取してでも楽をして生きたい金持ち』が多すぎた。

(税で肥える奴らを粛正しなければ、国は良くならない。奇跡でも起きて皇帝陛下が世界を変えるか、帝以上に世を変える者が誕生しない限りは、どうしようもない)

 せめて心地良い気候で野菜が獲れ、皆が飢え死にしないで生きていけたなら。
 そんな小さな望みを天気の神に祈ってしまうほど、この世はどこも冷たくなっていた。

(これ以上、気温が下がらないでくれ。このまま春になって、花でも咲かせてくれ)

 春の訪れを信じながら、朝に開けた雨戸を閉めていく。
 力仕事だった。古くて広い屋敷の雨戸は、どれも建付けが悪い。だからこそ雨戸の開け閉めは、力がある宋清がしている。
 年老いた父や、炊事を任せている女達には相応しくない仕事で、これも宋清がするべき役目であった。
 なかなか雨戸が閉まらず、ガタガタと力を込める。
 随分前から大工を呼ぶべきと判っていても、暇と金が惜しかった。
 宋清は暫く、一つの雨戸と必死に格闘する。

「……宋清。久しぶりだね……」

 だから何の前触れもなく現れた彼を、兄と認識できなかった。



 宋江が、立っていた。

 三つ年上の筈なのに、体は小さく、召使いの女達ほどの背丈しかなく、怯えた目で唇を震わせている人物なんて、宋清は彼しか知らない。
 前触れもなく現れた兄を正しく認識できず、宋清は目をパチクリしながら、ただただ見下ろす。
 相変わらず兄は小さくて、情けない顔をしていた。
 何か声を掛けようと宋清は考えたが、三年前と同じ、突然すぎて何から怒鳴ればいいか分からず、声を失うばかり。

 宋清が何かを口にするより先に、宋江は「父さんに会いにきた」と言い放つ。
 ようやく宋清は意識を取り戻し、兄を屋敷に通した。
 召使いの誰にもすれ違うことなく、宋清は父の部屋へと案内された。


 ――高齢の父・宋英そうえいは一線を退き、家督を宋清に譲り、自室で日々を送っている。
 常に堅い表情の男で、眉間に皺が緩むことはなく、息子が殺人罪を疑われていると知ったときも、花栄が挨拶に訪れたときすら表情を変えなかった。厳格で窮屈、生真面目の塊のような人間である。

 そんな父の部屋へ、宋清は仰々しいぐらいの前置きを述べると、兄を通した。
 来客ならばまず茶を出させるのだが、当たり前の気遣いもできないほど、宋清の頭は真っ白になっている。
 そんな宋清を置いて、宋江は……年を取っても変わらず恐ろしい父を相手に膝をついた。
 父が一日の大半を過ごす椅子の前へ伏して頭をつけ、額でゴツリと床を鳴らす。
 頭が割れてしまうのではないか、そう思わずにはいられないほどの音を立てた土下座だった。

「親不孝をお許しください。宋江わたしは……不覚にも魔が差し、過ちを犯し……罪無き人を殺めました」

 消え去りそうな声で話す兄が、喉を振り絞りながら、許しを乞い始めた。

「法を守り、国に尽くすべき立場でありながら……私は、役人になってから、人々を想い、尽くして参りました。ですが、この手を血に染めてしまい……人を殺めたことを、悔やむばかりです。死罪でも、償いきれません」
「なにゆえここに来た」
「……不孝者ですが、父さんに、一目お会いしたかったのです」

 宋江は床に頭をつけたまま、上げない。
 父も息子の頭を、上げさせようとしなかった。

「謝罪と、今まで立派に育てていただいたご恩に感謝、したく、そして、報いることができず、宋家の名を汚してしまったことの、謝罪、を……」

 次第に嗚咽が混じり、宋江の言葉が続かなくなる。それからは、同じ詫び言を繰り返すようになった。
 涙する兄を見た宋清は、静かに心拍数を上げる。
 一方で父の表情は、変わらず険しい。
 厳めしい顔のまま年老いてより細くなった両眼で、軟弱で恥知らずな息子を睨んでいる。

 かと思えば、父が鈍い動きで立ち上がった。
 伏したまま涙を流していた宋江は父に名を呼ばれ、頭を上げる。
 鋭い平手打ちが飛び、宋江が倒れた。

 息子に手を上げるのも、珍しいちちではない。
 教育として打たれた経験は、幼い頃の宋江も、家督を継いでからの宋清も、幾度もあった。

「儂はお前のような奴など知らん。勝手に生きるがいい」

 父は一発の平手打ちののち、椅子へ戻るのみ。
 拳で殴らなかったのはせめてもの情けかと、殴られ慣れた弟には思えた。
 兄が鼻を啜る音が部屋にこだまする。
 暫く聞いているだけだった宋清だったが、家の者が走り回る足音を聞き、宋江の腕を引いて立たせた。

「……立てよ。自分で歩け」

 体を震わせて喘ぐ兄を、引き摺る。
 嫌な予感がした。だから兄を連行する。
 どこへ……三年前から残してある、部屋の存在すら知らされなかった、地下室へ。
 そこしか思いつかなかった。


 深い階段を下り、泣き続ける兄を地下室へ押し込む。

 兄の寝室である地下の清掃は、定期的に行わせていた。兄が帰ってくる可能性を昔から考えていたからだった。
 帰ってきてほしかった、ではない。いつか帰ってくる、そう理性的に結論づけていた。
 兄は不治の病であり、薬で抑制できても治りはしない。
 だからこそいつか外で暮らせないと諦めて、めそめそと帰ってくると予想を立てていた。
 もしくは、何か揉め事を起こして帰ってくると、そんな気がしていた。

(花栄が言っていた。馬鹿兄貴に会ったら、部屋に閉じ込めてやると。……よその家が何を馬鹿なことを。僕はそんなの、三年前から考えていたよ)

 投げ飛ばすように宋江を牢に入れる。
 宋江が床に膝をつき、蹲った。顔を伏せて、また泣いている。

(こんなにも弱いのに、外に出たのが悪い。ここでずっと居れば良かったのに。病人は病人らしく、家主の僕に守られていれば良かったんだ)

 泣いている兄を見るのは、心苦しい。
 と思っていたが、伏して泣く兄を眺め、宋清は考えを改める。
 優越感を抱いていた。
 今のこの状況を他者が見たとしたら、どちらが立派かなんて一目瞭然。
 そんな子供じみた自尊心が凄まじい波になり、宋清の身を襲っている。

「ここに居ろ。それが嫌なら……逃げたければ、逃げればいい。それができないアンタは、ここで生きていればいいんだ」

(そう……家主であるぼくに、守られていれば良い!)

 言葉と心が反する。不釣り合いな自覚があった。
 だが今は、整合性を見直す時間は無い。
 灯りを置き、鍵は掛けず、戸を締めた。
 宋清は愉悦を顔に出さず階段を上がり、バタバタと騒いでいる者達を引きとめに走った。



 ――宋家村の保正宅は、強襲された。

 殺人の容疑のある宋江の実家を家宅捜索しろと、県知事からの命令である。
 従者せきゆうを通じて告知をされていたが、本来であれば突発的な襲撃だ。
 宋清は心の準備ができていたので狼狽うろたえない。
 数日後ではなくて今夜であったことは、さすがに少し驚いたが。

 宋清は古家の大門を開ける。
 既に地元兵が、宋家の屋敷をぐるりと取り囲んでいるようだった。
 数は四十人あまり。大がかりではあるが、総じて目に覇気は無い。
 袖の下が通してあることが、宋清の目にも丸わかりだった。

「自分が宋家村の保正、宋清と申します」

 一家の代表として外に出た宋清のもとへ、二人の男が前に出た。
 男達は昨日まで降り積もった夜道を行進してきたらしく、厚手の外套マントを身に纏っている。寒そうではあるが、同情心は芽生えない。
 毅然とした態度で振る舞うと、男らは公文書を見せ、容疑者を捜索・逮捕している者だと明かした。
 令状を持った屈強な男性らいおうは静かに佇み、背が高く黒々と端麗な髪をした男性しゅどうが穏やかに話し始める。

「宋江という男は、この屋敷におられますか?」
「宋江は、自分の兄です。ですが兄とは全く関わりがございません。宋江はもう三年以上戸籍を別にし、我々一家と生計をともにしておりませんし、ここに帰って来たこともありません」
「捜査と逮捕は知事による命令です。公文書を奉じて参りましたから、我々に捜索させてください。ここにいないと言われても、納得しかねます」
「……ご自由に。念入りにお調べください」

 宋清はあっさりと、兵士達の来訪を許す。
 騒動を大きくし、村民を不安にさせたくなかった。
 既に数十人の兵が押し寄せているが、大騒ぎにならなければ良い。すぐさま終わらせるべく、都頭達を敷地に通す。
 しかし門を潜ったのは隊長の二人の他に、ほんの五人だけ。他は待機していた。

(手際の良い茶番だ。これだから役人は)

 邸内を一巡する者もいれば、冬の蓄えがある蔵に進む者もいる。
 屋内を隅々まで見るとは言ったが、無理に押し入り荒らすことはない。
 せいぜい荷に被せていた布を剥いだり、膨らんだ布団を捲ったりする程度だった。

 それでも宋清が最も肝を冷やしたのは、父の部屋を調べられる瞬間である。
 父は頑固者で、誰でも構わず雷を落とす。入ってきた都頭達を殴りはしないか特に心配だったが、

「どうぞ随意に」

 非常に重い声音で、その一言のみ。
 思わず入室した者達が委縮し遠慮してしまうほど、恐ろしい一言だった。

「宋清。都頭殿らを追いかけて、威嚇するでない。彼らの勤めが終わるまで、お前はここで座って待つがいい」
「……はい、おっしゃる通りで」

 宋清は父に言われた通り、席に着く。
 威嚇しているのはどっちだ、そう喉から出かかった言葉を押し込みながら。

 父なりの考えがあるのかは、宋清には分からない。
 だが父に逆らえない宋清は都頭達の捜索が終わるまで、じっと待つ羽目になってしまった。
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