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第七回 追想、疑惑、切なる拒絶。
七の四(女王の寵愛、失くした宝物、罪と罰と病)
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/四
柴進には気慰みが、憂さ晴らしが、娯楽が無かった。
多くの者は『柴進の伴侶としての地位』を求めて来た。柴進を欲しがり、崇め、もてはやす者は大勢いる。柴進の享楽を止める者は、いなかった。
自分の身を案じろというありきたりな説教すら、柴進には届いたことがない。
だから新鮮に感じる。
男達に命じ、宋江の拘束を解かせた。
「わ、私を抱いたら……大事な柴進様の御身を穢すことになります。素晴らしい教育を受け、それに見合う聡明さを兼ね備えた貴女様なら分かっていただける筈……」
子供に厳しく諭すように、宋江は首を振り続けた。
それが余計に心を掴む。
「宋江殿は口先だけでなく、あくまでわたくしを気遣ってくれるのかしら」
柴進はひとまず、温厚な笑みを浮かべてみせた。
腹立たしさを口にしても良いが、頭を下げ続ける宋江の情けなさを見ていると許してやろうと思わずにいられない。
「確か、発情期はあと二日か三日。そうおっしゃっていましたね」
「……はい」
「発情中の七日間、宋江殿のお部屋に誰も近づけないようにすればいいのかしら。食事とお手洗いはどうしたらいいのでしょう?」
「い、いえ、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいきません。柴進様から薬を頂けただけでも私は救われました。……時期が始まる前に、このお屋敷を出ます」
「それは、危険ではなくて? 発情期の問題だけでなく、外は宋江殿を捕まえる者がうろついているかもしれなくてよ」
「……そのときは、大人しく捕まります。……私は、人を殺めたようですし、罰を受けるのは当然です。牢番には事情を説明します。……私には感染する病があり、隔離するなりしてほしいと。……幸い、警官の知り合いがいます。理解してもらえます」
――逃がしてくれた雷横と朱仝には、悪いことをした。
宋江は語りながらも、再び親友二人を頼ろうとしていることに、後ろめたさを感じていた。
絶縁状を叩きつけられるだろう。悲しいことだが、されても仕方ない。
だが自分が閻婆惜を殺したというなら、今すぐ自首をして裁かれるべき。そうも強く思っていた。
「そんなの、わたくしが許しません」
唐突に柴進が、宋江の右腕を力強く引く。
「宋江殿はわたくしの屋敷に居るべきです。誰にも貴方を捕まえさせません。ここに居れば罪に問われませんし、わたくしの丹書鉄券があれば役人、宋国の官軍はおろか陛下にも文句は言わせませんわ。ですからここに」
「柴進様。それは、横暴です。貴女が使える大きな力を、私のような者に無闇やたらに使ってはいけません。貴女の価値をひどく落としてしまいます」
「誰が、どのような輩がわたくしの価値を見定めますの。陥れますの。誰にも口出しはさせませんし、できませんわ」
「それでも。……罪人は罪人らしく処されなければ、誰も許してはくれません」
「わたくしが許すからいいのです」
「柴進様。貴女のようなお優しい御方から恩顧を得られるなんて、私はとても幸せ者です。ですが敢えて言わなければなりません。我儘は、いけないことです」
「いいのです! わたくしが許すから、いいのです! どうしてわたくしの言うことを聞かないのですか。……わたくしは貴方ともっと一緒にいたいのです! 遊びたいのです、ここにいてほしいのです、それ以外に理由などありますか、必要ですか!」
掴んだ右腕をぶんぶんと振る。
駄々っ子のように声を張り、暴れる女性に、思わず宋江は言葉を失った。
華麗な優美な淑女のようで、意地悪で無慈悲な女王が、我儘で幼い少女のごとく荒れ狂っていた。
痛くもない短気に、宋江は呆然とする。
突き放すことは、できなかった。
泣きじゃくる彼女が落ち着くまで、近くで頷き続ける。
先ほどまで厳しく忠言していたというのに、甘い言葉に頷いてしまった。
なんて曖昧な態度だと怒鳴られたとしても、女性を突き飛ばして出て行くことなどできない。
こうして柴進に付けられた首輪を外せないまま、部屋に押し込められた。
(私は本当に弱くて……半端者だ。柴進様のように、頑固を貫くこともできない。何より自分を認めてもらえたことが、嬉しくて……。とんだ意気地なしだ)
柴進は暫く、宋江から離れなかった。
泣き終えた彼女はまた情事の真似事を始めようとしたが、その頃には夕食の時間になり、使用人が何人も柴進のもとに訪れた。
「柴進様。会食のお時間でございます」
彼女は客人を持て成すのが趣味ではあるが、同時にそれが職務でもある。
大勢と語り合い、柴一族にとって得になる人脈作りこそが特権階級の役儀だ。
使用人に急かされた柴進は溜息を吐きながらも、大勢を連れ立ち部屋を出る。
「わたくしのお勤めが終わったら、宋江殿、今夜もお風呂をご一緒しましょうね。わたくしが洗ってさしあげます!」
また裸体を弄ばれるのだろうなと苦笑いしながら、宋江は頭を下げた。
(柴進様から薬も、食事も頂けている。清潔にしてもらい、快眠できる部屋まで用意してもらえて……私は恵まれすぎだ……)
発情期は計算によると、二日か三日先。
それまで穏やかに、そしてそれ以後も安らかに過ごせと再三言いつけられた。
とても嬉しい話だった。
(なにより……居場所があるということは、嬉しいな。『もっと一緒にいたい』なんて、あんな直接的な言葉を言われると……嬉しくて、涙が出てしまう)
天上の存在である皇女から寵愛を頂けるなんて、畏れ多い。
だが正直に顔が赤くなるぐらいには、照れていた。
ふと、かつて好意を抱いた相手の顔が過ぎった。
(晁蓋殿……)
乱暴だが自分を救うため抱き上げてくれた腕の感触を思い出し、惚けると同時に、もう会えない悲しみに胸が痛む。
(好きと言われるのは、嬉しい。当然のことなのに、改めて考えてしまう。真っ直ぐ好きだと言われたのは、いつぶりだろう……。ああ、花栄かな……。あの子は、なんでもすぐに口にしてしまう子だったから……)
思い出の中に生きる小さな幼馴染の姿を、夢想する。
宋江が十二歳のとき見た花栄は、まだ九つにもならない男子だった。
代々高名な武将を輩出し、朝廷に仕え続ける花家の長男。小さな体で、既に馬術や弓術、槍術に打ち込んでいた。
皆に優秀だと褒め称えられていたが、三つ年上の宋江の前にでは、年相応に甘える子供だった。
大好き、ずっと一緒にいよう、結婚しよう――まだ本当の意味も分からないだろうに、幼い花栄は抱きついては、何度もそう繰り返していた。
(あの子に好きと言われて、恥じない兄でいたいと思えるようになった。地下に監禁されたときも、あの子が手紙を寄越したから、私は光を見失わずにいられた。花栄のおかげで……花栄の……おかげで……?)
柴進の戯れに解放され、髪の毛に触れる。着せられた衣服の中も探る。
大事な物が、失くなっていた。
夜でも構わず駆け出す。
部屋から飛び出て、大声を上げて救ってくれた者達を探し出し、問い質した。
だが「そんな物は知らない」と首を振られる。
ならゴミ捨て場の所在を尋ねた。捨てられた着物は、記憶の彼方にある適当な部屋に放り出されたという。
ゴミを放置されるような部屋は何処だと設問しても、そんなものは覚えてないと投げやりに返された。
ゴミなど目につかなければいいもの。適当に置かれたゴミなど、そのうち誰かが片付けるもの。興味が無い者にとってはその程度に過ぎない。
けれど、宋江には『ただの髪束』でも宝物だった。
あれは大事な物だ。いつも肌身離さず持ち歩いている物すぎて、奪われたことにも気付かないほど、自分にとってはあって当然の品だった。
――死んでしまおうと決意した日々の中、唐突に現れた光。小さな幼馴染からの手紙に、何気なく挟まれていた物。
誰にも見せず、見られず、伸びきった髪に髪束を通して、ようやっと自分が人間らしい行動ができたと感動し、涙し、ワアワアと声を上げて喚き、まだ自分は生きたいのだと、もっと人間らしくありたいのだと気付かされた切欠。
汗だくになって駆け回り、ありとあらゆる部屋の戸を開けた。
人々に問い質し、時に声を上げて、一心不乱に探し続ける。
それほどに失ってはならない物だった。
騒いだわりには、見つかるのは早かった。
何気なく散歩をして歩いていた廊下まで戻ってきた宋江は、着物を剥がれる原因となった部屋を訪れる。
静かに戸を開け、暗い室内を見渡すと、ちょうど男にひっくり返され倒れた場所に髪束が落ちていた。
暴漢から助けてくれた召使い達が知らないと口を揃えていたのも、無理はない。
彼らが救助に駆けつけたときにはもう、髪束は宋江から離れていたのだから。
「良かった……あった……良かった……」
宝物である髪束を胸に抱き、興奮して流してしまった涙を拭う。
ふと、先ほどまでのあまりに子供じみた行動が思い返され、急に恥ずかしくなってしまった。
騒がれた人々に、このまますぐ頭を下げに行くのも気まずい。
せめてもう少し時間が経ってから、発見までに時間が掛かったことにしたい。
そうしてわざとゆっくりと立ち上がろうとした宋江は……部屋の妙な息苦しさに、気付いた。
「……君。平気か?」
窓を布で閉め切っているせいか、室内は暗い。
薄暗い中で目を凝らすと、至るところに食べ終えた皿や放置された酒瓶で溢れている。不潔な部屋だった。
その中で、汚れた布団を被り、ボロの服を着た大男が、横たわっている。
眠っているのではない。眠れていなかった。
苦しそうな音で呼吸を繰り返し、外は冬の寒さで満たされているというのに、布団を被っている彼は汗を流していた。
高熱に魘されている。
尋常ではない様子に近づき、声を掛けた。
その瞬間、大きな腕がブウンと宙を裂く。受けてしまえば壁まで吹っ飛ぶかというほどの豪腕が、宋江を襲った。
逞しい体の大男は、ゼエゼエと息を吐く。ボタボタと汗を流し、弱っていた。
けれど力までは衰えず、誰も人を寄せ付けない気迫に覆われている。
「君! ……その、武松、体調が?」
昼間に見かけた鋭い目は、きつく閉ざされたまま動かない。
暑そうにしながらも、体を震わせている。ゲホゲホと咳き込み、吐く。
ついに大男の息遣いが、奇妙な音に変じ始めた。
常人の呼吸ではなかった。
「医者を呼んでくる。少し我慢できるかい」
髪束を探して騒いだとき、医者らしき人物は見当たらなかった。
高熱を出した病人に、どうするべきか。
この男は食事を放り出しているが、最後に栄養を摂ったのはいつか。
足元の酒瓶以外に何を口にしているのか。状況を把握する。
灯りを点けようと蝋燭を探した。
光源を灯すと、男が一段と唸り、声を上げた。
光が気に入らない、消せと言うかのように恐ろしい声だった。
「大丈夫。武松、すぐに戻る。だから待っていてくれ」
だというのに唸る男は、
「うるさい。……どうせ俺は、後は、くたばるだけなんだ……」
拒絶の言葉を吐き散らす。
冷たい言葉だ。けれど、立ち止まる理由にならない。
暴言を吐く間にも、大男の体はひどい高熱で震えている。
助けないという選択肢は無かった。
助かりたいと思っていない。
自分にはそろそろ天罰が下る。
この高熱はここで苦しんで死ねという天啓であり、苦痛を味わって死ななければならない天命だと、納得していた。
産まれたときから罪だらけで、なぜ今まで赦されていたのか武松には判らない。
母親は自分を産んだせいで死んだ。父親は幼い子供を養うために無理をして、亡くなった。
兄は自分を食わせるために、また父親と同じ馬鹿真面目に働き続けた。
体を壊すほど働く必要は無いと訴えても、そこまで俺を助けてくれなくていいと何度叫んでも、兄は腹が立つ連中にも頭を下げ、笑われながら昼夜働いた。
「大丈夫。武松、すぐに戻る。だから待っていてくれ」
寂しいから行かないでと泣く弟を置いて、「武松を食わせる為に行くんだよ」と、兄は懸命に働いた。
兄の為になりたいと思った。兄を苛める腹立たしい奴らを、自慢の拳で打ちのめすようになった。次第に喧嘩に明け暮れて、とことん迷惑をした。
さらに罪だらけの弟になってしまったのに、それでも「弟の為だ」と美味い饅頭を食わせる兄が憎たらしかったし、愛おしかった。
愛おしいからこそ、兄には自分以上に幸せになってほしかった。
弟のせいで散々な人生だった兄に、美人な嫁ができた。夫婦水入らずで幸せに過ごしてもらいたくて、自分は兄から離れて暮らした。
けど弟がいないと喧嘩に勝てず、やられるしかない弱い兄は、殺された。
(俺が傍にいれば殺されずに死んだ。俺がいないせいで死んだ。俺が殺した)
喧嘩しかできない単純な頭が、そう繋げてしまう。
自分を憎んだ。そのキッカケを作った兄嫁も憎んだ。
夫が死んだのに、嫁は何を、のうのうと生きているか。なぜ自分だけ生きようとしているのか。
気付いたら、殺していた。
そんなことが、何度も続いた。
母を殺した。父を殺した。兄を殺した。
新しく家族になってくれた義姉まで、殺した。
その後も無我夢中に何人かを殺して理由はあっても出会った人と出会うたびに罪を重ねてどうして理由は結局原因は自分で最初から自分が何もかも悪くてそもそも俺が最初からいなければ母も父も兄も結局俺が生きてきたことが罪であり――。
(どこかのお伽噺。伏魔殿に封印されし、魔王の話)
兄から離れ、一人で国を旅していたときに聞いた伝説がある。
(天界を追放された、生まれついての悪の星。この世に顕れたときから罪の塊で、人を陥れる、悪そのもの。その魔王の生まれかわりが百〇八の魂に分かれ、世界のどこかに注がれたという……生まれたときから罪で悪。……そう、いっそ、俺がそれなんだと、誰かに言ってもらえたら……)
魔王の物語なんて洒落たものだと笑いながら、心のどこかで「自分がそうだったらいい」と思い始めた。
(俺がしたことは、魔王としての天命だから。……そんな逃げる口実を、思いついてしまった。俺が、みんなを殺したことには変わりないのに……)
助かりたいと思っていない。
……なんて、嘘だった。
(お伽噺に縋ってでも救われたいと思っている。……馬鹿だ、俺は。早くくたばった方が……)
そうして都合良く、この身に病が舞い降りた。
今まで風邪一つ引いたことがない武松にとって、きっとこれは「苦しんで死ね」という天啓だと思い込める、都合の良い高熱だった。
数日前から体が震え、頭がぼうっとする。視界に入るもの全て不愉快に映る病だ。
あまりの苦痛に、目の前に通った人間が居れば、問答無用で振り払った。
力が強い武松は幼い頃から勝手が分からず、気が付くと周りが吹っ飛んだ。
傷つけたいと思ったことは無くても、邪魔だと思った次の瞬間に相手は倒れていた。
何人も打ちのめしているうちに、誰も近寄らなくなった。
それでどうなろうとも、構わない。
元から実兄以外、自分に接してくれる人などいなかったのだから。
(好き勝手暴れて、くたばるだけ。……もう、何をしたって、もう……)
面倒なことがあれば払って伸して黙らせる。
そうやって二十年を生きてきたが、ついにそれができなくなるほど体が弱った。
――ふと、バタバタと音を立て、じれったく肌に触る者がいた。
振り解こうとしても弱りきった腕は動かず、されるがままになる。
せめて動く唇で「やめろ、邪魔だ」と呟く。
それでもベタベタと肌に触る指は止まらない。嫌な苦しさが、募りに募っていった。
うざったい何者かを睨みつけようと重い瞼を開く。
ひどく情けない顔をした弱そうな小男が、自分の額に触れていた。
なぜか笑いかけながら、濡れ布巾を顔に押しつけてくる。
何をしているのか、武松には判らない。
最期の力を振り絞り、睨んだ。
だがそこで、力尽きる。
喧嘩も負け知らず、地元でも恐れられた暴れん坊が、あんなにも弱そうな男を振り解くことすらできないなんて。
それどころか、情けない小さな姿を見て――殺した兄や義姉が、どこまでも弟に優しかった二人が看病しにきてくれたと、一瞬でも思ってしまって――。
ひどく情けないのは俺の方ではないかと、武松は自らを嘲った。
柴進には気慰みが、憂さ晴らしが、娯楽が無かった。
多くの者は『柴進の伴侶としての地位』を求めて来た。柴進を欲しがり、崇め、もてはやす者は大勢いる。柴進の享楽を止める者は、いなかった。
自分の身を案じろというありきたりな説教すら、柴進には届いたことがない。
だから新鮮に感じる。
男達に命じ、宋江の拘束を解かせた。
「わ、私を抱いたら……大事な柴進様の御身を穢すことになります。素晴らしい教育を受け、それに見合う聡明さを兼ね備えた貴女様なら分かっていただける筈……」
子供に厳しく諭すように、宋江は首を振り続けた。
それが余計に心を掴む。
「宋江殿は口先だけでなく、あくまでわたくしを気遣ってくれるのかしら」
柴進はひとまず、温厚な笑みを浮かべてみせた。
腹立たしさを口にしても良いが、頭を下げ続ける宋江の情けなさを見ていると許してやろうと思わずにいられない。
「確か、発情期はあと二日か三日。そうおっしゃっていましたね」
「……はい」
「発情中の七日間、宋江殿のお部屋に誰も近づけないようにすればいいのかしら。食事とお手洗いはどうしたらいいのでしょう?」
「い、いえ、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいきません。柴進様から薬を頂けただけでも私は救われました。……時期が始まる前に、このお屋敷を出ます」
「それは、危険ではなくて? 発情期の問題だけでなく、外は宋江殿を捕まえる者がうろついているかもしれなくてよ」
「……そのときは、大人しく捕まります。……私は、人を殺めたようですし、罰を受けるのは当然です。牢番には事情を説明します。……私には感染する病があり、隔離するなりしてほしいと。……幸い、警官の知り合いがいます。理解してもらえます」
――逃がしてくれた雷横と朱仝には、悪いことをした。
宋江は語りながらも、再び親友二人を頼ろうとしていることに、後ろめたさを感じていた。
絶縁状を叩きつけられるだろう。悲しいことだが、されても仕方ない。
だが自分が閻婆惜を殺したというなら、今すぐ自首をして裁かれるべき。そうも強く思っていた。
「そんなの、わたくしが許しません」
唐突に柴進が、宋江の右腕を力強く引く。
「宋江殿はわたくしの屋敷に居るべきです。誰にも貴方を捕まえさせません。ここに居れば罪に問われませんし、わたくしの丹書鉄券があれば役人、宋国の官軍はおろか陛下にも文句は言わせませんわ。ですからここに」
「柴進様。それは、横暴です。貴女が使える大きな力を、私のような者に無闇やたらに使ってはいけません。貴女の価値をひどく落としてしまいます」
「誰が、どのような輩がわたくしの価値を見定めますの。陥れますの。誰にも口出しはさせませんし、できませんわ」
「それでも。……罪人は罪人らしく処されなければ、誰も許してはくれません」
「わたくしが許すからいいのです」
「柴進様。貴女のようなお優しい御方から恩顧を得られるなんて、私はとても幸せ者です。ですが敢えて言わなければなりません。我儘は、いけないことです」
「いいのです! わたくしが許すから、いいのです! どうしてわたくしの言うことを聞かないのですか。……わたくしは貴方ともっと一緒にいたいのです! 遊びたいのです、ここにいてほしいのです、それ以外に理由などありますか、必要ですか!」
掴んだ右腕をぶんぶんと振る。
駄々っ子のように声を張り、暴れる女性に、思わず宋江は言葉を失った。
華麗な優美な淑女のようで、意地悪で無慈悲な女王が、我儘で幼い少女のごとく荒れ狂っていた。
痛くもない短気に、宋江は呆然とする。
突き放すことは、できなかった。
泣きじゃくる彼女が落ち着くまで、近くで頷き続ける。
先ほどまで厳しく忠言していたというのに、甘い言葉に頷いてしまった。
なんて曖昧な態度だと怒鳴られたとしても、女性を突き飛ばして出て行くことなどできない。
こうして柴進に付けられた首輪を外せないまま、部屋に押し込められた。
(私は本当に弱くて……半端者だ。柴進様のように、頑固を貫くこともできない。何より自分を認めてもらえたことが、嬉しくて……。とんだ意気地なしだ)
柴進は暫く、宋江から離れなかった。
泣き終えた彼女はまた情事の真似事を始めようとしたが、その頃には夕食の時間になり、使用人が何人も柴進のもとに訪れた。
「柴進様。会食のお時間でございます」
彼女は客人を持て成すのが趣味ではあるが、同時にそれが職務でもある。
大勢と語り合い、柴一族にとって得になる人脈作りこそが特権階級の役儀だ。
使用人に急かされた柴進は溜息を吐きながらも、大勢を連れ立ち部屋を出る。
「わたくしのお勤めが終わったら、宋江殿、今夜もお風呂をご一緒しましょうね。わたくしが洗ってさしあげます!」
また裸体を弄ばれるのだろうなと苦笑いしながら、宋江は頭を下げた。
(柴進様から薬も、食事も頂けている。清潔にしてもらい、快眠できる部屋まで用意してもらえて……私は恵まれすぎだ……)
発情期は計算によると、二日か三日先。
それまで穏やかに、そしてそれ以後も安らかに過ごせと再三言いつけられた。
とても嬉しい話だった。
(なにより……居場所があるということは、嬉しいな。『もっと一緒にいたい』なんて、あんな直接的な言葉を言われると……嬉しくて、涙が出てしまう)
天上の存在である皇女から寵愛を頂けるなんて、畏れ多い。
だが正直に顔が赤くなるぐらいには、照れていた。
ふと、かつて好意を抱いた相手の顔が過ぎった。
(晁蓋殿……)
乱暴だが自分を救うため抱き上げてくれた腕の感触を思い出し、惚けると同時に、もう会えない悲しみに胸が痛む。
(好きと言われるのは、嬉しい。当然のことなのに、改めて考えてしまう。真っ直ぐ好きだと言われたのは、いつぶりだろう……。ああ、花栄かな……。あの子は、なんでもすぐに口にしてしまう子だったから……)
思い出の中に生きる小さな幼馴染の姿を、夢想する。
宋江が十二歳のとき見た花栄は、まだ九つにもならない男子だった。
代々高名な武将を輩出し、朝廷に仕え続ける花家の長男。小さな体で、既に馬術や弓術、槍術に打ち込んでいた。
皆に優秀だと褒め称えられていたが、三つ年上の宋江の前にでは、年相応に甘える子供だった。
大好き、ずっと一緒にいよう、結婚しよう――まだ本当の意味も分からないだろうに、幼い花栄は抱きついては、何度もそう繰り返していた。
(あの子に好きと言われて、恥じない兄でいたいと思えるようになった。地下に監禁されたときも、あの子が手紙を寄越したから、私は光を見失わずにいられた。花栄のおかげで……花栄の……おかげで……?)
柴進の戯れに解放され、髪の毛に触れる。着せられた衣服の中も探る。
大事な物が、失くなっていた。
夜でも構わず駆け出す。
部屋から飛び出て、大声を上げて救ってくれた者達を探し出し、問い質した。
だが「そんな物は知らない」と首を振られる。
ならゴミ捨て場の所在を尋ねた。捨てられた着物は、記憶の彼方にある適当な部屋に放り出されたという。
ゴミを放置されるような部屋は何処だと設問しても、そんなものは覚えてないと投げやりに返された。
ゴミなど目につかなければいいもの。適当に置かれたゴミなど、そのうち誰かが片付けるもの。興味が無い者にとってはその程度に過ぎない。
けれど、宋江には『ただの髪束』でも宝物だった。
あれは大事な物だ。いつも肌身離さず持ち歩いている物すぎて、奪われたことにも気付かないほど、自分にとってはあって当然の品だった。
――死んでしまおうと決意した日々の中、唐突に現れた光。小さな幼馴染からの手紙に、何気なく挟まれていた物。
誰にも見せず、見られず、伸びきった髪に髪束を通して、ようやっと自分が人間らしい行動ができたと感動し、涙し、ワアワアと声を上げて喚き、まだ自分は生きたいのだと、もっと人間らしくありたいのだと気付かされた切欠。
汗だくになって駆け回り、ありとあらゆる部屋の戸を開けた。
人々に問い質し、時に声を上げて、一心不乱に探し続ける。
それほどに失ってはならない物だった。
騒いだわりには、見つかるのは早かった。
何気なく散歩をして歩いていた廊下まで戻ってきた宋江は、着物を剥がれる原因となった部屋を訪れる。
静かに戸を開け、暗い室内を見渡すと、ちょうど男にひっくり返され倒れた場所に髪束が落ちていた。
暴漢から助けてくれた召使い達が知らないと口を揃えていたのも、無理はない。
彼らが救助に駆けつけたときにはもう、髪束は宋江から離れていたのだから。
「良かった……あった……良かった……」
宝物である髪束を胸に抱き、興奮して流してしまった涙を拭う。
ふと、先ほどまでのあまりに子供じみた行動が思い返され、急に恥ずかしくなってしまった。
騒がれた人々に、このまますぐ頭を下げに行くのも気まずい。
せめてもう少し時間が経ってから、発見までに時間が掛かったことにしたい。
そうしてわざとゆっくりと立ち上がろうとした宋江は……部屋の妙な息苦しさに、気付いた。
「……君。平気か?」
窓を布で閉め切っているせいか、室内は暗い。
薄暗い中で目を凝らすと、至るところに食べ終えた皿や放置された酒瓶で溢れている。不潔な部屋だった。
その中で、汚れた布団を被り、ボロの服を着た大男が、横たわっている。
眠っているのではない。眠れていなかった。
苦しそうな音で呼吸を繰り返し、外は冬の寒さで満たされているというのに、布団を被っている彼は汗を流していた。
高熱に魘されている。
尋常ではない様子に近づき、声を掛けた。
その瞬間、大きな腕がブウンと宙を裂く。受けてしまえば壁まで吹っ飛ぶかというほどの豪腕が、宋江を襲った。
逞しい体の大男は、ゼエゼエと息を吐く。ボタボタと汗を流し、弱っていた。
けれど力までは衰えず、誰も人を寄せ付けない気迫に覆われている。
「君! ……その、武松、体調が?」
昼間に見かけた鋭い目は、きつく閉ざされたまま動かない。
暑そうにしながらも、体を震わせている。ゲホゲホと咳き込み、吐く。
ついに大男の息遣いが、奇妙な音に変じ始めた。
常人の呼吸ではなかった。
「医者を呼んでくる。少し我慢できるかい」
髪束を探して騒いだとき、医者らしき人物は見当たらなかった。
高熱を出した病人に、どうするべきか。
この男は食事を放り出しているが、最後に栄養を摂ったのはいつか。
足元の酒瓶以外に何を口にしているのか。状況を把握する。
灯りを点けようと蝋燭を探した。
光源を灯すと、男が一段と唸り、声を上げた。
光が気に入らない、消せと言うかのように恐ろしい声だった。
「大丈夫。武松、すぐに戻る。だから待っていてくれ」
だというのに唸る男は、
「うるさい。……どうせ俺は、後は、くたばるだけなんだ……」
拒絶の言葉を吐き散らす。
冷たい言葉だ。けれど、立ち止まる理由にならない。
暴言を吐く間にも、大男の体はひどい高熱で震えている。
助けないという選択肢は無かった。
助かりたいと思っていない。
自分にはそろそろ天罰が下る。
この高熱はここで苦しんで死ねという天啓であり、苦痛を味わって死ななければならない天命だと、納得していた。
産まれたときから罪だらけで、なぜ今まで赦されていたのか武松には判らない。
母親は自分を産んだせいで死んだ。父親は幼い子供を養うために無理をして、亡くなった。
兄は自分を食わせるために、また父親と同じ馬鹿真面目に働き続けた。
体を壊すほど働く必要は無いと訴えても、そこまで俺を助けてくれなくていいと何度叫んでも、兄は腹が立つ連中にも頭を下げ、笑われながら昼夜働いた。
「大丈夫。武松、すぐに戻る。だから待っていてくれ」
寂しいから行かないでと泣く弟を置いて、「武松を食わせる為に行くんだよ」と、兄は懸命に働いた。
兄の為になりたいと思った。兄を苛める腹立たしい奴らを、自慢の拳で打ちのめすようになった。次第に喧嘩に明け暮れて、とことん迷惑をした。
さらに罪だらけの弟になってしまったのに、それでも「弟の為だ」と美味い饅頭を食わせる兄が憎たらしかったし、愛おしかった。
愛おしいからこそ、兄には自分以上に幸せになってほしかった。
弟のせいで散々な人生だった兄に、美人な嫁ができた。夫婦水入らずで幸せに過ごしてもらいたくて、自分は兄から離れて暮らした。
けど弟がいないと喧嘩に勝てず、やられるしかない弱い兄は、殺された。
(俺が傍にいれば殺されずに死んだ。俺がいないせいで死んだ。俺が殺した)
喧嘩しかできない単純な頭が、そう繋げてしまう。
自分を憎んだ。そのキッカケを作った兄嫁も憎んだ。
夫が死んだのに、嫁は何を、のうのうと生きているか。なぜ自分だけ生きようとしているのか。
気付いたら、殺していた。
そんなことが、何度も続いた。
母を殺した。父を殺した。兄を殺した。
新しく家族になってくれた義姉まで、殺した。
その後も無我夢中に何人かを殺して理由はあっても出会った人と出会うたびに罪を重ねてどうして理由は結局原因は自分で最初から自分が何もかも悪くてそもそも俺が最初からいなければ母も父も兄も結局俺が生きてきたことが罪であり――。
(どこかのお伽噺。伏魔殿に封印されし、魔王の話)
兄から離れ、一人で国を旅していたときに聞いた伝説がある。
(天界を追放された、生まれついての悪の星。この世に顕れたときから罪の塊で、人を陥れる、悪そのもの。その魔王の生まれかわりが百〇八の魂に分かれ、世界のどこかに注がれたという……生まれたときから罪で悪。……そう、いっそ、俺がそれなんだと、誰かに言ってもらえたら……)
魔王の物語なんて洒落たものだと笑いながら、心のどこかで「自分がそうだったらいい」と思い始めた。
(俺がしたことは、魔王としての天命だから。……そんな逃げる口実を、思いついてしまった。俺が、みんなを殺したことには変わりないのに……)
助かりたいと思っていない。
……なんて、嘘だった。
(お伽噺に縋ってでも救われたいと思っている。……馬鹿だ、俺は。早くくたばった方が……)
そうして都合良く、この身に病が舞い降りた。
今まで風邪一つ引いたことがない武松にとって、きっとこれは「苦しんで死ね」という天啓だと思い込める、都合の良い高熱だった。
数日前から体が震え、頭がぼうっとする。視界に入るもの全て不愉快に映る病だ。
あまりの苦痛に、目の前に通った人間が居れば、問答無用で振り払った。
力が強い武松は幼い頃から勝手が分からず、気が付くと周りが吹っ飛んだ。
傷つけたいと思ったことは無くても、邪魔だと思った次の瞬間に相手は倒れていた。
何人も打ちのめしているうちに、誰も近寄らなくなった。
それでどうなろうとも、構わない。
元から実兄以外、自分に接してくれる人などいなかったのだから。
(好き勝手暴れて、くたばるだけ。……もう、何をしたって、もう……)
面倒なことがあれば払って伸して黙らせる。
そうやって二十年を生きてきたが、ついにそれができなくなるほど体が弱った。
――ふと、バタバタと音を立て、じれったく肌に触る者がいた。
振り解こうとしても弱りきった腕は動かず、されるがままになる。
せめて動く唇で「やめろ、邪魔だ」と呟く。
それでもベタベタと肌に触る指は止まらない。嫌な苦しさが、募りに募っていった。
うざったい何者かを睨みつけようと重い瞼を開く。
ひどく情けない顔をした弱そうな小男が、自分の額に触れていた。
なぜか笑いかけながら、濡れ布巾を顔に押しつけてくる。
何をしているのか、武松には判らない。
最期の力を振り絞り、睨んだ。
だがそこで、力尽きる。
喧嘩も負け知らず、地元でも恐れられた暴れん坊が、あんなにも弱そうな男を振り解くことすらできないなんて。
それどころか、情けない小さな姿を見て――殺した兄や義姉が、どこまでも弟に優しかった二人が看病しにきてくれたと、一瞬でも思ってしまって――。
ひどく情けないのは俺の方ではないかと、武松は自らを嘲った。
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