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第七回 追想、疑惑、切なる拒絶。
七の一(二十年の監禁生活、自殺への決意、女王)
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/一
死のう。二年目の宋江は、思った。
自分は人を狂わす化け物である。だから地下室に監禁されている。重い扉は開かないのも、そのせいだ。
泣いて拒んだ事実を、十四歳になってようやく理解できるようになった。
途端に、惨めでならなくなった。
食事は小窓から差し込まれる。日々の排泄と沐浴は、桶を使ってやり取りがされていた。
何もかも、家の使用人が面倒を見た。十四歳にもなったのに、下々の世話をされている。
情けなくて、しかし、どうしようもなかった。
口が利ける唯一の相手は父だけ。
地下室に宋家の息子が押し込まれていると知るのは、食事や桶を運ぶ一部の使用人のみ。彼らとの会話も、禁じられていた。
厳格な父は必要以上を話さなかった。
また、悲しみに暮れる宋江に近寄る使用人を叱責した。宋江からも声を掛けてはいけなかった。
「怪物は人を食らう。宋江の異香に飲まれれば、人でなくなるぞ」
父が地下室の前で、誰かを厳しく叱りつけることがあった。
宋江を気遣っただけの優しい召使いを叱ったのだ。
宋江がその人の名前を覚えた頃には、もう二度と会えなくなっていた。
(誰かと話したかっただけなのに)
一年、二年、一人で耐えた。
誰かと出会わないことに耐えるだけではない。昂る体をこれ以上卑しくしないよう、耐える日々を送った。
百日に一度、正気を失うほどの熱に侵される。濡れた膣への刺激を求めて指を挿れたくなる。
それでも涙を流すだけで、息を凝らした。
布団の中で身を縮めて耐えた。肌の表面が刺激を欲しがっても耐えた。
耐えて、耐えて、耐え続けた。
そしてついに、諦めがついた。
(死んでしまおう。私には、生きる理由が無い)
死ねば、誰にも迷惑が掛からない。
獣になった息子を抱える父や、いつ食われるか怯えながら食事を運ぶ使用人も、安心して暮らせる。
自分が死ねば何もかも良いのだ。だからまず、食事を断った。
だが、簡単に飢えて死ねなかった。
発情期を迎えれば獣になる。しかし、獣でない宋江は、人間のままだ。
腹が減り、小窓から食事を差し出されれば、弱い宋江はすぐに手を伸ばしてしまった。
(本当に死にたければ死ねただろう。息を止めるなり、壁に頭を打ち付けるなりできた筈だ。どれもできなかった私は、まだ、死にたくなかったのか)
楽になりたい。
それは本心だったのに、根底には「生きたい」という心が消えてくれなかった。
(死にたい。死にたいのに、生きたい。生きていても誰かを害するだけなのに)
涙を流しながら、食事を喉に通した。
大半が涙の味になるほど泣き腫らしても、食事を断つことはできなかった。
そんな苦痛を抱えながらも「生きよう」と決意した理由は、幼馴染の花栄から手紙を貰ったからだった。
ある日。無言で差し込まれる皿の下に、一通の手紙が置かれていた。
宋江の容態を気遣う文と、些細な近況報告の他に、頭を結う髪帯や小さな押し花が挟まっていた。
どうやら三つ年下の花栄には、「宋江が大病を患い、外出を禁じられている」と伝わっているらしい。
手紙は花栄の日記のようなもので、「母と花見に行った」や「演劇を観て楽しかった」など世間話が詰められている。
決して「元気か」や「早く治るように」「また会おう」とは綴られていない。
宋江は不治の病に冒されたものとして、幼いなりに病人を気遣った文章だった。
それでも宋江には充分だった。
たとえ一方通行の内容でも、自分に向けられた言葉だ。
誰にも接してはいけないと禁じられた地下室で、誰かが自分を想ってくれている。
それが、唯一の光となった。
召使い達から「武松が宋江を襲った」と聞かされた柴進は、さすがに堪忍袋の緒が切れそうだった。
「宋江殿! ご無事ですの? わたくしの客が貴方にイタズラしたと聞いてこの柴進いてもたってもいられず! 全速力で駆けつけましたわ!」
家主である柴進が住まう本殿から客人を泊める別棟までは、距離がある。
そこまでの疾走は優雅を心掛ける柴進にとって、年に一度あるかの大事件だった。
「さ、柴進様……お騒がせを、何度も何度も申し訳ございません……」
「なぜ宋江殿が謝られますの! 待たれて。いま呼吸を整えますわ。すーはー!」
深呼吸を繰り返す柴進は、顔ほどある大きな胸を上下させ、落ち着きを取り戻す。
そして、うろたえる全裸の宋江に抱きついた。
「ぁむっ」
宋江の頭を正面から抱え込むように、抱き締める。
気品ある端整な造形に、豊満すぎる双胸。
そこへ押し込まれた宋江は、たとえ相手がやんごとない生まれでなくても、挙動不審になってしまう。
「よしよし。宋江殿、怖かったですわね。大丈夫ですのよ」
宋江の呼吸が、止まりかけた。
昔は息など簡単に止められなかった。
けれど今は、窒息しかけている。
「い、いけません柴進様! 貴女のような高貴な御方が、はしたないことを……!」
柴進は、かの大周皇帝の子孫である。
宋の現朝廷に帝位を譲ったことから丹書鉄券を与えられた柴家は、現朝廷政府と言えど無闇に手出しできない、庶民にとっては雲の上の存在だ。
たとえ皇位は得られなくても、神に等しく尊ばれる令嬢。
生まれたときから「何をしても構わない」と尊ばれ、恵まれた環境で最上級の教育を得た柴進は、並み以上の知恵と常識が備わった女性……の筈、である。
色男とは口が裂けてもいえない冴えない宋江でも、見た目は男だ。しかも今は全裸だ。婦人が抱きついていいものではない。なんとしてでも引き離したかった。
かといって突き放すなんてこともできず、ただ息を止めて許してもらえるまで固まる他なかった。
「宋江殿、さぞ恐ろしい目に遭われたでしょう? 武松にはわたくしから、きつく、おこですと超きつーく叱っておきます! だからどうかお許しになられて」
「い、いえ。その……私が、悪いのです。私の不注意で、彼に火傷を負わせかけて、だから彼が怒ってしまって……。何もされておりませんし」
「本当です?」
寝床に引きずり込まれ強姦、いや、殺気立った目からして衝動的に殺されかけた、とは言わない。
武松という男に個室へ引きずり込まれた宋江だったが、大声を出したおかげか、通りすがりの召使い達に救われていた。
それ以上何も無く、武松は寝床に篭もったままだ。
それで全て終わっていて、柴進が出てくる必要は無かった。
「……あの男性は、柴進様の客人ですか?」
「ええ。清河県の出身で、武松と申します。陽谷県で都頭(警察官)をする働き者でした」
「都頭だったのですか……」
「虎退治にも一躍買って有名になっていましたのよ」
まだ若いが、確かに雷横と朱仝並び立つような力強さがあった、
「ですが、兄嫁を殺め、流刑になり、その先でも十数人を殺めて流れ着いた先が、わたくしの所でした」
感心する暇も与えず、婦女子が口にしてはいけない衝撃的な情報を口にされる。
「ほら、彼を見たなら分かっていただけますね。体格が良く端整で美丈夫でしょう? それでいて超強いなんて、最高です」
宋江が柴進と初めて会ったとき、既に言われたことがある。
――強盗捕縛の官軍でも、たとえ朝廷任命の役人でも、決して屋敷を見せない。
お上の財物を盗もうが、十数人を殺した殺人鬼であろうが、柴進の力が及ぶこの敷地内では、何もかもが無効になるのだ――と。
(この人には、誰にも逆らえない)
改めて彼女が頂点であると再確認し、身震いする。
そんな怯えもよそに、柴進は宋江を抱き、撫でた。
服を剥がれて必死に身を隠していても、全て無視する勢いで。
「怯えないで。確かに武松は罪人とされていますが、悪くありませんわ。武松が殺した兄嫁は実兄を手に掛けたという毒婦です。武松は仇討ちのため、兄の魂を救うために女を殺めたに過ぎない」
「……そうなのですか」
「他の罪もそうです。彼は名誉の為に、大勢を殺めました。彼が殺らなければ違う被害者と加害者が生まれていた。彼は正義の鉄槌を、世の為に振り下ろしたのです」
ようやく柴進の胸から解放された宋江は、深呼吸をする。
落ち着いたと思いきや、今度は柴進の指先が宋江の顎を持ち上げた。
じっと見つめてくる目はどこまでも穏やかで、宋江の頬を赤く染めていく。
思わず、頭を下げた。
「わたくしは前々から武松を讃える声をいくつも聞いていました。噂好きな客人が多く訪れる屋敷ですからね。その頃から武松を招待したいと何度も考えていまして」
「は、はあ」
「そんな彼が、捕縛隊に追われて血まみれで塀の外で倒れていたとなったら! 神がわたくしの願いを聞き入れてくれたのです! 人食いに拾われて肉まんの具にされる前で幸運でしたわ!」
頭を下げて柴進の話を聞いていた宋江の首に、何かが巻き付いた。
視線を上げると、柴進が首に回した物にカチャリと金具を架けている。
首輪を、着けられていた。
「でも彼、とても乱暴で。口は悪いし何も話してくれないし、怪我の手当をしようにも嫌がるし、暴れますの」
「あ、あの、柴進様?」
「幸い命に別状は無いと医者は診てくれましたが、近寄った人を殴るわ、蹴るわ、罵るわ。ちょっと幻滅して放置していましたの」
「柴進様。これは、その……?」
「餌と水だけ近くに置いて、従者やお客様には武松がいる区域には近寄るなと言っておいたのですが……まさか宋江殿があんな果ての小屋までお散歩に行くとは思わず。あそこはこっちの建物と違って渡り廊下も外気剥き出しで寒かったでしょう?」
武松が居た通路には、火鉢がそのまま置かれていた。
しかし真新しい建物であるこちらは、壁もしっかりとした造りでどこも暖かい。
冬とは思えないほど、優雅に過ごせるほどである。
それは、ともかく。
「な、何故、私に首輪を……? そもそも何故、私は、着物を脱がされたのでしょうか……?」
寒くないが何も身に着けてない宋江は、震えながらも意を決して、声を張る。
間近に居る柴進にしか聞こえないほど小声だったとしても。
「その首輪はわたくしから宋江殿への贈り物です。武松に食われる前に渡せて嬉しいですわ。わたくしがまだ何もしてないのに傷を付けられたら悔しいですもの」
「ぶ、武松には何もされていません。柴進様、どうか、このようなことは……」
「これからわたくしの部屋に行きますので、ご安心ください」
「い、いけません。柴進様のお部屋に、私のような者などを入れては……」
「お気遣いありがとう。でも私室でも寝室でもありません。ただの部屋ですので」
「柴進様! 発情期が、ち、近いのです……。早まっている可能性もあります。ですから……!」
「オメガの発情期! 楽しみにしておりましたの!」
「楽しんでもらえるものではありません!」
「でも本当に発情期が早まっているなら、わたくしも武松も止めに入った召使い達も我慢できなくて、襲っちゃってると思いません?」
そうでないのだから、まだ平気。
滑らかな口調で柴進は、穢れの無い白い指で、金具に紐を通していく。
「うふふ。オメガの発情期については、まだ医術書でしか知りませんの」
「は、博識な柴進様なら、これが大変なことだと、判ってくださいますよね……?」
「あと数日で発情期が実体験できると思うと楽しみで楽しみで! でもその前に、発情してないときの宋江殿も楽しんでおかなくては。でないと、差が判りませんもの」
長さのある紐の先を首輪の金具に括り、逆の先端を握りしめる。
家畜を連れる紐が完成した。
「それに……貴方も武松に『その気』にさせられて実は今、不完全燃焼なのでは?」
現状の宋江は、不完全燃焼どころの話ではない。
屈強な漢にのされて、胸の高鳴りを感じていたのは事実。
だがすぐに通りすがりの従者達に助けてもらい、離れた館まで連れてこられた。
その後、柴進と連絡がついた従者達に「着物が汚れたから」とあれよあれよと剥がされた。
新たな着物は何も渡されず、何も身にできず、ただただ隅で丸くなって泣くしかなかった。
蒸気した頭は武松のせいではなく、柴進のせいである。
「い、今は……御心掛けのおかげで体調が良く抑えられていますが、それでも柴進様の大事な御身に悪影響が無いとも言えません! だから、悪い遊びは……」
ぎゅう、と。宋江は、鋭い痛みに襲われた。
なんてことはない。目の前に居た柴進が、宋江の耳朶を掴んでいた。
「宋江殿」
彼女は出会ったときもそれ以後も、たびたび宋江の大きな耳を持ちたがる。
小さい行為ではある。
だが、先ほどまで穏やかに微笑んでいる顔が、少しずつ機嫌を損ね始めていた。
その片鱗を敢えて見せつけるような、無邪気な攻撃だった。
「乱暴者の寝床に入った着物は、全て処分させていただきました。これからわたくしの部屋に行くのですから、当然ですわね」
死のう。二年目の宋江は、思った。
自分は人を狂わす化け物である。だから地下室に監禁されている。重い扉は開かないのも、そのせいだ。
泣いて拒んだ事実を、十四歳になってようやく理解できるようになった。
途端に、惨めでならなくなった。
食事は小窓から差し込まれる。日々の排泄と沐浴は、桶を使ってやり取りがされていた。
何もかも、家の使用人が面倒を見た。十四歳にもなったのに、下々の世話をされている。
情けなくて、しかし、どうしようもなかった。
口が利ける唯一の相手は父だけ。
地下室に宋家の息子が押し込まれていると知るのは、食事や桶を運ぶ一部の使用人のみ。彼らとの会話も、禁じられていた。
厳格な父は必要以上を話さなかった。
また、悲しみに暮れる宋江に近寄る使用人を叱責した。宋江からも声を掛けてはいけなかった。
「怪物は人を食らう。宋江の異香に飲まれれば、人でなくなるぞ」
父が地下室の前で、誰かを厳しく叱りつけることがあった。
宋江を気遣っただけの優しい召使いを叱ったのだ。
宋江がその人の名前を覚えた頃には、もう二度と会えなくなっていた。
(誰かと話したかっただけなのに)
一年、二年、一人で耐えた。
誰かと出会わないことに耐えるだけではない。昂る体をこれ以上卑しくしないよう、耐える日々を送った。
百日に一度、正気を失うほどの熱に侵される。濡れた膣への刺激を求めて指を挿れたくなる。
それでも涙を流すだけで、息を凝らした。
布団の中で身を縮めて耐えた。肌の表面が刺激を欲しがっても耐えた。
耐えて、耐えて、耐え続けた。
そしてついに、諦めがついた。
(死んでしまおう。私には、生きる理由が無い)
死ねば、誰にも迷惑が掛からない。
獣になった息子を抱える父や、いつ食われるか怯えながら食事を運ぶ使用人も、安心して暮らせる。
自分が死ねば何もかも良いのだ。だからまず、食事を断った。
だが、簡単に飢えて死ねなかった。
発情期を迎えれば獣になる。しかし、獣でない宋江は、人間のままだ。
腹が減り、小窓から食事を差し出されれば、弱い宋江はすぐに手を伸ばしてしまった。
(本当に死にたければ死ねただろう。息を止めるなり、壁に頭を打ち付けるなりできた筈だ。どれもできなかった私は、まだ、死にたくなかったのか)
楽になりたい。
それは本心だったのに、根底には「生きたい」という心が消えてくれなかった。
(死にたい。死にたいのに、生きたい。生きていても誰かを害するだけなのに)
涙を流しながら、食事を喉に通した。
大半が涙の味になるほど泣き腫らしても、食事を断つことはできなかった。
そんな苦痛を抱えながらも「生きよう」と決意した理由は、幼馴染の花栄から手紙を貰ったからだった。
ある日。無言で差し込まれる皿の下に、一通の手紙が置かれていた。
宋江の容態を気遣う文と、些細な近況報告の他に、頭を結う髪帯や小さな押し花が挟まっていた。
どうやら三つ年下の花栄には、「宋江が大病を患い、外出を禁じられている」と伝わっているらしい。
手紙は花栄の日記のようなもので、「母と花見に行った」や「演劇を観て楽しかった」など世間話が詰められている。
決して「元気か」や「早く治るように」「また会おう」とは綴られていない。
宋江は不治の病に冒されたものとして、幼いなりに病人を気遣った文章だった。
それでも宋江には充分だった。
たとえ一方通行の内容でも、自分に向けられた言葉だ。
誰にも接してはいけないと禁じられた地下室で、誰かが自分を想ってくれている。
それが、唯一の光となった。
召使い達から「武松が宋江を襲った」と聞かされた柴進は、さすがに堪忍袋の緒が切れそうだった。
「宋江殿! ご無事ですの? わたくしの客が貴方にイタズラしたと聞いてこの柴進いてもたってもいられず! 全速力で駆けつけましたわ!」
家主である柴進が住まう本殿から客人を泊める別棟までは、距離がある。
そこまでの疾走は優雅を心掛ける柴進にとって、年に一度あるかの大事件だった。
「さ、柴進様……お騒がせを、何度も何度も申し訳ございません……」
「なぜ宋江殿が謝られますの! 待たれて。いま呼吸を整えますわ。すーはー!」
深呼吸を繰り返す柴進は、顔ほどある大きな胸を上下させ、落ち着きを取り戻す。
そして、うろたえる全裸の宋江に抱きついた。
「ぁむっ」
宋江の頭を正面から抱え込むように、抱き締める。
気品ある端整な造形に、豊満すぎる双胸。
そこへ押し込まれた宋江は、たとえ相手がやんごとない生まれでなくても、挙動不審になってしまう。
「よしよし。宋江殿、怖かったですわね。大丈夫ですのよ」
宋江の呼吸が、止まりかけた。
昔は息など簡単に止められなかった。
けれど今は、窒息しかけている。
「い、いけません柴進様! 貴女のような高貴な御方が、はしたないことを……!」
柴進は、かの大周皇帝の子孫である。
宋の現朝廷に帝位を譲ったことから丹書鉄券を与えられた柴家は、現朝廷政府と言えど無闇に手出しできない、庶民にとっては雲の上の存在だ。
たとえ皇位は得られなくても、神に等しく尊ばれる令嬢。
生まれたときから「何をしても構わない」と尊ばれ、恵まれた環境で最上級の教育を得た柴進は、並み以上の知恵と常識が備わった女性……の筈、である。
色男とは口が裂けてもいえない冴えない宋江でも、見た目は男だ。しかも今は全裸だ。婦人が抱きついていいものではない。なんとしてでも引き離したかった。
かといって突き放すなんてこともできず、ただ息を止めて許してもらえるまで固まる他なかった。
「宋江殿、さぞ恐ろしい目に遭われたでしょう? 武松にはわたくしから、きつく、おこですと超きつーく叱っておきます! だからどうかお許しになられて」
「い、いえ。その……私が、悪いのです。私の不注意で、彼に火傷を負わせかけて、だから彼が怒ってしまって……。何もされておりませんし」
「本当です?」
寝床に引きずり込まれ強姦、いや、殺気立った目からして衝動的に殺されかけた、とは言わない。
武松という男に個室へ引きずり込まれた宋江だったが、大声を出したおかげか、通りすがりの召使い達に救われていた。
それ以上何も無く、武松は寝床に篭もったままだ。
それで全て終わっていて、柴進が出てくる必要は無かった。
「……あの男性は、柴進様の客人ですか?」
「ええ。清河県の出身で、武松と申します。陽谷県で都頭(警察官)をする働き者でした」
「都頭だったのですか……」
「虎退治にも一躍買って有名になっていましたのよ」
まだ若いが、確かに雷横と朱仝並び立つような力強さがあった、
「ですが、兄嫁を殺め、流刑になり、その先でも十数人を殺めて流れ着いた先が、わたくしの所でした」
感心する暇も与えず、婦女子が口にしてはいけない衝撃的な情報を口にされる。
「ほら、彼を見たなら分かっていただけますね。体格が良く端整で美丈夫でしょう? それでいて超強いなんて、最高です」
宋江が柴進と初めて会ったとき、既に言われたことがある。
――強盗捕縛の官軍でも、たとえ朝廷任命の役人でも、決して屋敷を見せない。
お上の財物を盗もうが、十数人を殺した殺人鬼であろうが、柴進の力が及ぶこの敷地内では、何もかもが無効になるのだ――と。
(この人には、誰にも逆らえない)
改めて彼女が頂点であると再確認し、身震いする。
そんな怯えもよそに、柴進は宋江を抱き、撫でた。
服を剥がれて必死に身を隠していても、全て無視する勢いで。
「怯えないで。確かに武松は罪人とされていますが、悪くありませんわ。武松が殺した兄嫁は実兄を手に掛けたという毒婦です。武松は仇討ちのため、兄の魂を救うために女を殺めたに過ぎない」
「……そうなのですか」
「他の罪もそうです。彼は名誉の為に、大勢を殺めました。彼が殺らなければ違う被害者と加害者が生まれていた。彼は正義の鉄槌を、世の為に振り下ろしたのです」
ようやく柴進の胸から解放された宋江は、深呼吸をする。
落ち着いたと思いきや、今度は柴進の指先が宋江の顎を持ち上げた。
じっと見つめてくる目はどこまでも穏やかで、宋江の頬を赤く染めていく。
思わず、頭を下げた。
「わたくしは前々から武松を讃える声をいくつも聞いていました。噂好きな客人が多く訪れる屋敷ですからね。その頃から武松を招待したいと何度も考えていまして」
「は、はあ」
「そんな彼が、捕縛隊に追われて血まみれで塀の外で倒れていたとなったら! 神がわたくしの願いを聞き入れてくれたのです! 人食いに拾われて肉まんの具にされる前で幸運でしたわ!」
頭を下げて柴進の話を聞いていた宋江の首に、何かが巻き付いた。
視線を上げると、柴進が首に回した物にカチャリと金具を架けている。
首輪を、着けられていた。
「でも彼、とても乱暴で。口は悪いし何も話してくれないし、怪我の手当をしようにも嫌がるし、暴れますの」
「あ、あの、柴進様?」
「幸い命に別状は無いと医者は診てくれましたが、近寄った人を殴るわ、蹴るわ、罵るわ。ちょっと幻滅して放置していましたの」
「柴進様。これは、その……?」
「餌と水だけ近くに置いて、従者やお客様には武松がいる区域には近寄るなと言っておいたのですが……まさか宋江殿があんな果ての小屋までお散歩に行くとは思わず。あそこはこっちの建物と違って渡り廊下も外気剥き出しで寒かったでしょう?」
武松が居た通路には、火鉢がそのまま置かれていた。
しかし真新しい建物であるこちらは、壁もしっかりとした造りでどこも暖かい。
冬とは思えないほど、優雅に過ごせるほどである。
それは、ともかく。
「な、何故、私に首輪を……? そもそも何故、私は、着物を脱がされたのでしょうか……?」
寒くないが何も身に着けてない宋江は、震えながらも意を決して、声を張る。
間近に居る柴進にしか聞こえないほど小声だったとしても。
「その首輪はわたくしから宋江殿への贈り物です。武松に食われる前に渡せて嬉しいですわ。わたくしがまだ何もしてないのに傷を付けられたら悔しいですもの」
「ぶ、武松には何もされていません。柴進様、どうか、このようなことは……」
「これからわたくしの部屋に行きますので、ご安心ください」
「い、いけません。柴進様のお部屋に、私のような者などを入れては……」
「お気遣いありがとう。でも私室でも寝室でもありません。ただの部屋ですので」
「柴進様! 発情期が、ち、近いのです……。早まっている可能性もあります。ですから……!」
「オメガの発情期! 楽しみにしておりましたの!」
「楽しんでもらえるものではありません!」
「でも本当に発情期が早まっているなら、わたくしも武松も止めに入った召使い達も我慢できなくて、襲っちゃってると思いません?」
そうでないのだから、まだ平気。
滑らかな口調で柴進は、穢れの無い白い指で、金具に紐を通していく。
「うふふ。オメガの発情期については、まだ医術書でしか知りませんの」
「は、博識な柴進様なら、これが大変なことだと、判ってくださいますよね……?」
「あと数日で発情期が実体験できると思うと楽しみで楽しみで! でもその前に、発情してないときの宋江殿も楽しんでおかなくては。でないと、差が判りませんもの」
長さのある紐の先を首輪の金具に括り、逆の先端を握りしめる。
家畜を連れる紐が完成した。
「それに……貴方も武松に『その気』にさせられて実は今、不完全燃焼なのでは?」
現状の宋江は、不完全燃焼どころの話ではない。
屈強な漢にのされて、胸の高鳴りを感じていたのは事実。
だがすぐに通りすがりの従者達に助けてもらい、離れた館まで連れてこられた。
その後、柴進と連絡がついた従者達に「着物が汚れたから」とあれよあれよと剥がされた。
新たな着物は何も渡されず、何も身にできず、ただただ隅で丸くなって泣くしかなかった。
蒸気した頭は武松のせいではなく、柴進のせいである。
「い、今は……御心掛けのおかげで体調が良く抑えられていますが、それでも柴進様の大事な御身に悪影響が無いとも言えません! だから、悪い遊びは……」
ぎゅう、と。宋江は、鋭い痛みに襲われた。
なんてことはない。目の前に居た柴進が、宋江の耳朶を掴んでいた。
「宋江殿」
彼女は出会ったときもそれ以後も、たびたび宋江の大きな耳を持ちたがる。
小さい行為ではある。
だが、先ほどまで穏やかに微笑んでいる顔が、少しずつ機嫌を損ね始めていた。
その片鱗を敢えて見せつけるような、無邪気な攻撃だった。
「乱暴者の寝床に入った着物は、全て処分させていただきました。これからわたくしの部屋に行くのですから、当然ですわね」
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