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第六回 手紙、脅迫、堕ちた先。

六の二(少女の奸計、強制飲酒の罠、脅迫)

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 /二


 劉唐に早く梁山泊へ戻るよう、再三言いつけた。
 だが夜に、朱仝と雷横にも逃亡の手引きをしてくれた謝礼を渡しに行くという。
 朱仝なら理解が早く誰にでも穏やかに応対するので、事故なく終わるだろう。
 しかし雷横は、どうやら劉唐と何らかの因縁があるらしい。

「ぶっちゃけ雷横のヤローとは会いたくねー。会うけど! アニキの命令だから会うけど! クソッ、思い出しただけで腹立つ!」

 そう、口を尖らせていた。
 そんな喧嘩腰で騒ぎにならないか心配だった。
 だが劉唐自身は不安がることもせず「晁蓋アニキに、必ずお話します!」と明るく去って行く。
 劉唐が元気に振る舞えるということは、彼の周りにも大事が無いということ。
 呉用達も、晁蓋も、元気でいる。その事実が、心を一層明るく照らした。
 重かった体が嘘のように身軽になり、大荷物でもつい嬉しくて足早になる。

 そんな足早で近づいた、自宅の大袈裟な門の前。
 閻婆惜が一人で、夕方過ぎだというのに佇んでいた。

「宋江様。お帰りなさい」
「……えんさんの、娘さん?」
「閻婆惜です。お忘れです?」

 彼女・閻婆惜と再び出会ったのは、葬式が終わった直後以来である。
 父の死に打ちひしがれていた顔色は、すっかり血色が良くなった。
 化粧も売れっ子芸者らしく一流で、景気が良いのか煌びやかに着飾っている。

「調子はどうかな。ご活躍は耳にしているが」
「あら、宋江様はあたしの舞台をまだ見に来てくれないの?」

 そんな美女が自宅の前で微笑んでいた。
 文句がつけられないほど美しく、しかも可憐な笑みを浮かべていれば、道行く誰もが足を止めるほどである。

「ああ、失礼。同僚達と聞きに行ったよ。流行り物の、恋の歌はあまり聞かないのだけど、良い歌声だと思った」
「聞きに来てくれたのなら、声を掛けてくれても良かったのに」
「そんなそんな、君のような人気者はいつもみんなに囲まれているじゃないか」
「命の恩人である宋江様が会いに来てくれたとなれば、母子揃って喜びますとも。いつでもいらっしゃってくださいね」

 美しい閻婆惜の白い顔に、喜色が表れる。
 宋江にとっては父を亡くして涙する姿がこびり付いた悲しい少女だが、もうそれも数ヶ月前の話だ。彼女は今や、煌びやかな席で大勢から歓声を受ける人気の歌唄いアイドルとして立ち直っている。
 母親がいなくても流暢に話をできていた。
 その成長が、宋江には嬉しかった。

「実は、宋江様に助けてもらいたくて来ちゃいました。贈り物です」

 門の足元に置いていた物を、よいしょと持ち上げる。
 贈り物と言うわりには地べたに置くのか、と宋江は一瞬眉を顰めた。
 だが箸より重い物を持ったことがなさそうな少女の細腕なら仕方ない。何せそれは酒壺さかつぼだった。

「昨日まで母と大きな舞台に立っていまして、そのお代としてお酒を頂いたの。私にはまだ判らない物ですけど、とても良いお酒なんですって」
「君も一人前だと認められたということじゃないか。良かったね」
「ああ、そういう考え方もあるんだ? 口に出来ない物を貰ってもどうしたらいいのよって悩んでたのだけど」
「はは……。あまり閻婆惜はお酒が得意じゃないのかな?」
「まだあたし、小娘ですから。お酒の味は判らないの。そのことを母に相談したら、『贈り主から気持ちは頂いているからもう充分。ならお酒が大好きな御方に飲んでもらうべき』だと言い出しまして」
「……それで、私のもとに?」

 閻婆惜への贈り物でも、若い彼女は美味しく飲めない。だが捨てるには勿体無い。
 ならばどうか楽しんでもらえる人に引き取ってほしい。
 なるほど一理ある。

「宋江様はお酒好きで有名だと聞いて、なら、ねぇ?」

 充分に閻婆惜への贈り物としての役割を果たしているのなら、彼女の判断で譲渡しても問題ない。
 彼女は笑いながら「母は、良い物を口も付けずに放ったら神様がお怒りになって、お天道様に顔向けできなくなるって脅すの」と大袈裟に言う。

「それは確かに助けてもらいたくもなるな。判った、私が一肌脱ごう」

 大荷物を抱えていた宋江は一旦門前で全てを置き、頑丈な鍵を開けた。
 一つ、二つ、三つも掛けられた鍵を解き、買い出しの品、重い包み、少女からの贈り物を運ぼうとする。
 すると華やかな衣装と盛り立てた髪にも関わらず、閻婆惜は「お手伝いしますわ」と荷物を家へと運び始めた。
 先ほどは無礼な娘かと思った。だが随分と気が利く。

(そもそも私のいつ帰るのか判らないのに、寒空の下で待っていたぐらいだ。荷物を地べたに置きたくなるのも、仕方ない話だな)

 長旅を続け母と二人で生きている彼女は、思った以上に良い子らしい。
 感心しながら「ありがとう」を告げる。するとゆったりと優しい笑みを見せた。
 とても美しい、絵に描いたような透明な笑顔だった。


 間違いなくあの包みは、金塊だ。
 相当な金額だ。閻婆惜は商売の傍ら、大金持ちの男と夜を共にしたことがある。
 そのとき遊びで持たせてくれた金塊の重さを、忘れる訳が無い。
 それより重い金をこの宋江という男は、常に持ち歩いているのだ。
 耳にタコができるぐらい母の閻氏が「宋江の妾になれ」と言っていた理由が、ようやく判った。

(お母さん、本当にこの男は当たりよ)

 役人で、実家が大地主で、金を持っていることを誇示するかのように街中にバラ撒く生活をしている男。
 父が亡くなった日、大金を持っていたのは偶々たまたまではない。本物の金持ちなのだ。
 この冴えない中年は金蔓かねづるになる。確信した。

 母は自分を玉の輿に乗せることばかり考えていた。貧乏は嫌だがその考えも嫌で、随分と抵抗した。
 だが実際に宋江と話してみると、案外悪いものではない。
 背は低く、肌は色白でない。自信が無さそうな顔をしていて、男らしくも何ともない。
 姿勢も悪く、酒の飲みすぎか腹も出ている。喋りもどこか女々しい。
 けれどそれらを払拭できる、魅力があった。

(自分がモテないのを判っているのか……良い着物をいくつも着てるし、お香で気を遣っているのよね。この人と話していると、何だか凄く良い匂いがして、気分が良くなる。外身に何もしないおじさんが多いけど、清潔にしているだけ合格点だわ)

 自宅に入れてもらえた閻婆惜は、厨房を見渡した。
 豪華な食材が並んでいる訳ではないが、野菜の数が多い。まるで料理屋だ。
 独り身だというのに、一週間は外出せずに過ごせる量が貯蓄してある。これは毎日豪勢な食事をしている証だった。

 閻婆惜は席を陣取り、お酌を名乗り出た。
 宋江は夜遅くなるから帰れと断ったが、「私が飲む筈の酒なのだから、せめてこれぐらいはしないと贈り主に申し訳ない」と言い放つと、「それもそうだな」とひとたまりもなく騙された。


 酒を飲む宋江は、瞬く間に酔っていく。
 宋江が酒好きだと噂していたのは王婆だけでなく、近所の者も、宋江がよく酒を嗜むことや、同僚に背負われて帰る日が多いことも話していた。
 だから度の強い酒を母と選び、酔わせることにしたのだ。
 気の弱い男なら、一晩一緒に過ごしただけで正妻として責任を取るもの。
 この軟弱そうな男が優しく真面目なことは知っている。男がどのようにすれば堕ちるのか、閻婆惜が知らなくても、母の閻氏が根掘り葉掘り教えてくれた。
 教わりたくないことまで、閻婆惜は幼少期から聞かされて生きてきたぐらいだった。
 お酌が長丁場になる覚悟をしていた。

「少し、つらい……もう飲めない」

 だが強すぎる酒を仕入れた甲斐もあり、閻婆惜の想定を越えて、宋江が降参ギブアップした。
 それでも閻婆惜は杯に酒を盛る。
 宋江は酒豪と噂されているのだ。たった数杯で降参する筈が無い。

「宋江様、もっと飲んで。あたしの代わりに飲んでくれないと困るわ」

 さあもう一杯と進めると、断りきれずグイッと飲み干す。顔が赤くなってきた。
 頭もクラクラするのか、目が虚ろになる。
 冬とはいえ熱いようで、羽織りすぎている着物を脱がしてやる。
 するとまだ飲めそうな表情になった。
 宋江の首元を開けた途端、男とは思えぬ甘い香りが舞う。
 汗臭い男の匂いを嗅いでも顔色一つ変えない閻婆惜は、思いがけない甘い香りに、胸をドキンと弾ませた。

(果物の香り……? 本当に良いお香を使っているのね。あたしも欲しいわ)

 優しい女を演じてやろうと、首元の汗を指で拭ってやる。
 こんなことをされて嫌がらない男はいない。スッと、宋江の胸元に飛び込もうとする。
 だが逆に、閻婆惜は飛び退いていた。
 愛撫の一つもされていない、酒だって一口しか飲んでいないというのに、閻婆惜の肉体は既に熱く燃え盛っていた。

(やだぁ……あたし、感じるの早すぎでしょ。一体どうしたの?)

 もしかしたらこの強すぎる酒は、自分と特に相性が悪かったのかもしれない。
 でなければ既に乳首がピンと高く張り立っていることも、下もトロリと愛液を溢れさせていることも、説明がつかなかった。

(一口だけでイきそうになる酒って何よ。お母さん、何てものを娘に渡したの? 宋江様は……それを何杯も飲んでいるのよね? 平気なの?)

 閻婆惜の喉が、ゴクリと鳴った。
 自分以上に顔を真っ赤にしている宋江は、どれほど勃起させているだろう。
 何でもいいからドロドロのおまんこに刺激が欲しい。早く押し倒して勃起したそれを……。

 ハッとして、首を振るう。
 閻婆惜は明らかにおかしい自身の容態に、酒のつまみとして出されていた冷菜を口にした。
 呼吸を整える。『自分から乱れたふしだらな女』ではなく『宋江から求められたため、仕方なく妻になることを承諾した女』になる、それが閻婆惜の目的なのだ。

「宋江様。お休みになられた方がいいかもね。寝室はどこですか?」
「……二階……。もう、飲めない……」
「美味しいお酒でしたね、本当に。寝室まで歩けますか? 肩をお貸しします」

 今にも眠りこけそうな宋江の体を抱き、少しずつ階段を登る。
 小柄な宋江と風采スタイルの良い閻婆惜の体格差は無く、開けられた二階の寝室に、すぐさま辿り着いた。

 寝室には、荷物を運び入れる際に置いた包みがあった。
 宋江は帰宅と同時に、真っ先に大事な物を寝室に持っていった。さすがに一階には金塊は置かないらしい。
 閻婆惜は酔っ払った宋江を一つしかない寝台に下ろし、着物を脱がして楽にしてやる。
 先ほど気分転換したことで正気を取り戻しつつあった。

(さっさと抱かれて、さっさと妾になって、さっさとお金を巻き上げるのよ)

 興奮は何とか収めた。意識は冷淡に戻っている。
 もう一度深呼吸をして、寝台以外のものを眺めた。

 雑多に置かれた物がいくつかある。どれも高価な物に見えない。だが価値がある物なのは閻婆惜にも判っている。
 金塊の他には、何を隠し持っているのだろう?
 包みの隣に置かれた紙をチラリと見た。寝室の灯を近付け、中を確かめる。
 そこには、犯罪者の名が書かれていた。


 ――謎の痛みで、宋江は目を覚ました。
 頭痛。胸焼け。強い酒を飲んだからか。……だが腹部の痛みは何だろう?
 妙な息苦しさに腹を抱える。
 寝台に横たわらせていた身を、何とか起こした。

「やっと起きてくれましたか、宋江様」

 寝室でする訳の無い他人の声に、宋江はぎょっとした。
 声の方へ振りむけば、寝台に腰掛けた美しい少女がいた。
 盛った髪は零れ、服も化粧も美しいまま乱れている。
 嫁入り前の女が居ていい場所、していい格好ではない。
 舞台の上とは違う魅力を放つ閻婆惜に、宋江は慌てて身繕いをする。
 すぐに帰りなさいと言おうとする宋江の口を、閻婆惜の言葉が塞いだ。

「宋江様。これ、何です?」

 パラリと紙をうちわのように仰ぐ。
 間違いなく、手紙だった。

「こんな大事な物、すぐに燃やさないといけないと思いますけど」
「閻婆惜。それは」
「あー、長話をするの面倒なんでさっさと言うわね。梁山泊の賊と通じていると役所に知れたら、どうなると思っているの?」
「……私は罪人として逮捕されるな」
「判っているじゃないの」
「でも、梁山泊の盗賊は討伐されたんだ。今はとても良い人が」
「はあ? あたしだって字が読めるんですよ。超極悪強盗犯の名前ぐらい、知っているんですからね」
「……晁蓋殿は、そんな人じゃないよ」
「晁蓋殿? そんな人じゃない? ……宋江様ったら、本当に極悪人と繋がっていたんですね。失望しました。あたし、役所に話します。極悪人の共犯者が役所にいましたって。悪い人がいたなら通報するのは当然ですからね」
「……そうか」

 宋江が俯く。一方で閻婆惜は失望という言葉とは裏腹に、悠然と微笑んでいた。
 その間も細く可憐な指で、手紙をヒラヒラと弄んでいる。

「でも。……黄金百両、とりあえずこれで数日は黙ってあげます。すぐに用意できるみたいですしね。なにせこの手紙に百両あるって書いてますから」

 共犯者としての通報。それをやめてもらいたければ、金銭を払え。
 とりあえず百両という金額でいい。なら黙っておいてあげるという脅迫。
 自分が置かれている状況は明白だった。
 今の宋江は、疑いようもなく黒にされようとしている。

「閻婆惜」

 だが、それらのことで宋江の胸が痛むことはなかった。
 それよりも、ある一点だけが、気に入らなかった。

「閻婆惜。やめてくれないか」
「あたしがやめるかどうかは、お金を出してから言ってくれませんかね。宋江様、お金ならいくらでも持っているでしょう? まずは誠意として百両は……」
「……手紙。手紙を、そんな扱い、しないでくれないか……」

 宋江が何を言っているか判らず、驚いて動きを止める。
 見つめた先にいる男の顔に、焦りや怒りの色は無い。不気味なほど、沈んでいた。
 ただ、ある物を見つめている。
 脅迫者である閻婆惜を、ではなく、閻婆惜が弄んでいる紙に対してだった。

「……これ?」

 手紙には、先日の大騒動の渦中が直筆で宋江に当てた言葉が記されていた。
 これを読めば二人の関係が親密であることが伺える。
 そして宋江が晁蓋の『何か』を助けたことが記されている。『お礼に金百両を贈る』ほどの何かが、二人の仲に発生しているのは確かだ。
 役所が調べれば悪事が明らかになるだろう。
 それほど大事な証拠など、早く処分すべきである。

 なのに宋江は残していた。
 今もなお、大事にしようとしている。内容以上の価値があることは、明白だった。
 閻婆惜は試しに、ニヤリと笑い、手紙を引き裂く。

「やめっ……!」

 引き裂く、仕草をした。
 もちろん演技だ。こんな大事な脅迫道具を失う訳にはいかない。
 だが芸に長けた閻婆惜にかかれば、今まさにビリビリに破かれてゴミとなる演技もお手の物だった。

「なーんちゃって!」

 実際は端しか破かれていない手紙を、勝ち誇ったように見せつける。
 わなわなと唇を震わせて固まる宋江は、大量の汗をかいていた。
 今にも泣きそうな情けない顔で、その場に膝をつくぐらい怯えている。

(大人のくせに変なの! ……すっごく気持ち良い!)

 自分よりも年上が、金持ちが、自分の掌の上で踊ろうとしている。
 あまりの快感に閻婆惜の表情が歪んだ。

「宋江様、これ大事なお手紙ですよね? 破られたくないですよね? じゃあまず何をしなきゃいけないか、頭の良い宋江様なら判りますよね!」

 大金が得られるだけではない。この男は、遊べる。
 大事な物を守るためならどのような命令も聞きそうな弱者を手にした閻婆惜は、この上ない悦を感じていた。

 今夜は思いっきりこの男を貶めよう。強者の貫録を突きつけよう。
 まずは、妙な高鳴りを続ける体を収めてもらおうか。火照った下の口を舐めてご奉仕してもらおうか。
 いや、足の指から綺麗にしてもらう方が先だ。舌で女の素足を舐めさせる。一度やってみたかった。汚い中年男には、ありがたすぎるご褒美だろう。

(服を脱がせて、丸裸にさせて辱めて、それから、それから……!)

 だがそんな勝者の余裕も、一瞬で終わった。
 たった数分の天下だった。
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