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第五回 喪失、奸計、近づくもの。
五の一(少女の心、発情期後の喪失、十億の強盗)
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/一
身なりの良い服の男が街の中を駆けていくのを、閻婆惜は興味無く見送った。
閻一家はこの街の人間ではない。歌と楽器で旅をしてきた芸人一座である。
座長である父は先日亡くなった。あのときは動転し、これからのことなど一切考えられなかった。
だが口うるさいが頼れる王婆と宋江という役人の援助によって、何とか食いつなぐことが出来た。
喧しく元気な老女が騒ぎ立て、冴えない中年が目についたことで、多くの者達が悲劇の芸人母子を気遣ってくれた。
それ以後は、実に平穏な日々を過ごしている。
歌を披露すれば誰もが立ち寄り、金を置いていった。元より腕は悪くない。
父は流行を読むのが上手く、母は楽器に秀でていて、若い娘の閻婆惜は華やかな顔。少しでも話題になれば、いくらでも客を惹きつけることができた。
葬式を終え、ようやく生活が豊かになった。
閻婆惜の母・閻氏は命の恩人である宋江という役人のもとに挨拶に行ったが、長期休暇のため旅行へ出ているという。
金持ちは、生きるためでもなく旅をするだけの金があり、心に余裕がある。
金のためにあちこちを渡り歩いていた閻婆惜には、理解できない人種だった。
閻氏はまず、娘の閻婆惜を連れて王婆に礼を言いに行った。
王婆という老女は非常に口やかましく、回復した母娘を大袈裟に喜び、聞いてもいないのに多くを語った。
この街を知らない閻一家にとっては、ありがたかった。
「宋押司という御方は、とても親切な男性ですのね」
母娘の近況報告が終われば、話題は自然と一家を助けた役人の男へと変わる。
「そうなのよ! 宋押司の身分はただの押司だけどね、実家は宋家村の大地主、広い土地をいくつもお持ちの大金持ちなんだよ。だから金遣いも良いのさ!」
「あら、お金持ちなの?」
「困ったことがあったら直ぐお金を渡してくれるし、返せとも言わない。いつも外で飲み食いしてるし、時には飯を奢りにまわっているぐらいだよ。お仕事熱心なお人だから知県様の信頼も厚くて、出世するのも約束されたような人だねぇ!」
「そこまでご立派な方なら、奥様も幸せ者ですね」
「ああ……奥さんは、いたけど、事故で亡くなられてね。あまりに突然のことだったから、数日塞ぎ込んで家から出てこなかったぐらいだよ。可哀想にねえ、まだ新婚さんだったのに……」
感情の揺れ動きが激しい王婆は、一瞬で涙ぐむ。
閻氏は「つらいお話をしてくださりありがとうございます」と頭を軽く下げながら、隣の閻婆惜を見た。
愛想良い顔をしているが、その目はつまらなそうにしている。
実母にはその目が、一刻も早く王婆宅を立ち去り、チヤホヤされる遊びへ出かけたいのだと見て取れた。
つまらないものを見る目になっている娘を小突く閻氏は、「長居しては失礼ですので」と王婆の家を去った。
その足で、もう一度宋江宅を訪ねる。
今日も宋江は留守にしていた。長期旅行から戻ってきてないらしい。
また肩透かしを食らい、閻婆惜が小さく愚痴を零す。
「凄いお家ねぇ。門構えも立派だし、見たことのない家。きっと中には……」
いっぱいお金になる物があるのよ、と声に出さず吐き出した。
そんな閻婆惜達の横を、近所の子供達が駆けて行こうとする。
「あ! 歌唄いのお姉さん!」 子供達の目の中に、キラキラとした憧れの光が散る。どうやら閻一座の舞台を観て歓声を上げた客のようだ。
察した閻婆惜は、瞬時に体を仕事に切り替える。とびっきりの笑顔で手を振った。
いきなり美女に微笑まれた少年達は顔を真っ赤にし、ブンブンと手を振り返す。
(売れっ子になると面倒なのよね。評判が命だから仕方ないけど)
これぐらい商売として当然。擬態なんて、お手の物だった。
宋江の意識が戻ったのは、七日後だった。
汗にまみれた身を寝台から起こし、周囲を見渡す。
室内はに残飯が転がり、躾ができてない犬小屋のように糞尿が見受けられた。
なんだこれは。愕然とする。
七日間の記憶が無く、こんな惨状は初めてだった。
たとえ発情期で性欲に溺れていても、腹が減るし糞もする。
だから熱に翻弄されながらも食べ物は貪るし、排泄もする。
だが汚物を、何も判らぬ赤子のように、撒き散らすことなどあっただろうか。
(……ど、動揺している場合ではない。きっと症状が重かったからだ)
人に戻った宋江は、とりあえず自室の処理を始めた。
内側から鍵が掛けられる厳重な扉、外に大声や匂いが漏れない壁、さらに水拭き掃除がしやすい床も、自分の生活がしやすいように用意させた特注品である。
この家自体に金が掛かっており、それ以外に贅沢は無い。恐ろしい状況になっていた部屋の掃除を終えると、溜息を吐きながら質素な食事を取った。
李逵と過ごした七日間は、よく覚えている。
李逵が居てくれたおかげで性欲が発散でき、自分を保てた日々を送った。
そうして三ヶ月、呉用や公孫勝に面倒を見てもらう日々を過ごした。
彼らのおかげで症状が和らぐかと思いきや、まさか記憶が無くなるほど熱に魘されるとは。
(何だ? ……吐き気がする)
食欲があったから飯を食べたというのに、妙な吐き気に襲われ、身を丸める。
下半身も、ズンと重くなる感覚がした。
発情期は終わったというのに妙な圧迫感と嘔吐感が止まらず、朝食が流れた。
抑制剤をすぐに口にした。
暫くして吐き気は消えたが、何故だか胸騒ぎがする。
謎の胸の重さ。説明不能の感覚に不安に駆られながら、外を見た。
(本当に私は……七日間、眠っていたのか? もっと時間が経っているのでは?)
自宅に誰か居れば問い掛けられるが、妻はもういない。誰かに会おうと外に出た。
天気は悪くないが良くもない雲模様で、余計に不安を後押しする。
空は暗くても、いつも通り子供達がはしゃいでいる。
久々に宋江の顔を見た母親達が、軽やかな挨拶をしてきた。
彼女らは、確かに七日が経っていることを教えてくれた。
何気ない話題を繰り出す女達に笑顔で応じながら、県役所に顔を出す。
変わりない日々だと確認したくて同僚を探していると、突然見覚えの無い男に声を掛けられた。
「なあ、知県殿はどこかね? どうして県役所は静かなのかね?」
身分が高い役人らしき、顔に真新しい刺青をされた中年男性だ。
少し上ずった声には焦りが読み取れる。
何か一大事と察した宋江は、穏やかな面持ちで応じた。
「この時間は、知県さんの執務がちょうど終わった頃です。みんな昼休憩に行ったところでしょう。まだ戻られないと思いますよ」
日々この場で働く宋江にとって、いつものことだ。
だがそれを知らない男は、深刻そうに顔を強張らせる。
「押司殿は、いつ頃に戻られるか? 急ぎの用なんだ!」
「私は押司としてここに勤めている者です。今日は当直ではありませんが、緊急事態であればすぐに私がお伝えしましょう」
「誠か!」
「どのようなご用件ですか? ……失礼ですがお名前を伺っても? 私は、姓は宋、名は江と申します」
目の前の男はバッと身構えた。
その場で拝礼まで始める始末である。
「及時雨と名高いあの! ワシは下っ端役人です、済州府の何濤観察と申します!」
「お、恐れ入ります……。その、観察殿は上の役所の御方。遠来のお客様で、本県においでなさったのも何かご公務でしょう、私になぞ気にせずそのままお話を……」
二人で話を譲り合い、バタバタと悶着をしていると、それだけで数分が経過した。
こういったとき押しに強い雷横がいれば「そこに座れ!」の一言で終わるのに。
もしくは間を取り持つのが巧い朱仝であったら、円滑な物言いで場を和ませられたかもしれない。
ひとまず笑って落ち着かせた宋江は、何とかして友二人を呼べないかと、キョロキョロしながら考えた。
二人とも昼休憩に出ているようで、探しても何観察を助けられる人は現れなかった。
「宋江殿。実を申しますと、貴県に凶悪な盗賊事件の重要人物がいるのです。そいつらをひっ捕らえる手筈をお願い申し上げたい」
「……じ、重要な案件ですね。詳しいお話を聞いてもよろしいでしょうか?」
「本府管轄下の黄泥岡で、盗賊の一味、あわせて八人が、痺れ薬を使って、北京大名府の梁中書から蔡大師の生辰綱を送るため派遣された兵士五十人を倒し、金銀財宝を奪ったのです」
「……大事件ではないですか」
「大事件なのです! 合計十万貫相応の財宝を盗まれてしまったのですから! 一味の一人を捕らえ、自白させたところ、残りの仲間七名は貴県にいると吐きました。どうかこの事件を解決すべく即刻ご報告をお願い申し上げます!」
「か、観察殿が自らご指示を持ちいただいたのですから、逮捕と護送のために兵士を派遣されるでしょう。その、犯人の残り七名について何か判っていることは……?」
「コソ泥は、主犯の名を自供しております。痺れ薬を盛り、財宝全てを盗んだ者達の頭領は、貴県東渓村の保正・晁蓋とのことです」
「晁保正」
「宋押司はご存知ではありませんか?」
「名前だけは存じております。ですがどんな人物かまでは把握しておりません。なぜ村の代表者なる保正ともあろう人物が、そのようなことをしたのでしょう?」
「庶民には手が届かぬ宝が、歩いて来たのです。強欲に身を焦がし、兵士を傷つけてでも、我が物にしようと企んだのでしょう。宋押司、犯人らは五十名をたった八人でひっくり返す連中です。いつ我々の動きを察するかも知れません、どうか速やかに取りかかってください!」
「そうですね。大丈夫です、我々が手を下せば必ず捕まえられます」
何観察は、事の重大さに焦りながら話している。
宋江と真剣に、懸命に、だが小さな表情の些細な変化までは察せないほどに、動転し続けていた。
話に躓きやすい宋江が、早口かつ無表情になっていることなど、初めて出会った男には判る筈も無かった。
「知県にすぐに処理実行してもらい、人を派遣して逮捕に向かわせます。ですがこの事件は慎重に動くべきです。何観察が仰る通り、残り七名の犯人は強敵ですから軽々しく人に漏らさず、確実に保正を捕らえなければ」
「ありがたい!」
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた役人が、冷淡に話し始めている。
ようやくその生真面目な変化に気付いた何濤は、宋江を信頼し、両手を握った。
「くれぐれも、どうぞ、よろしくお願いします!」
「ご心配なさらず。何観察は茶屋でお待ちになっていてください。私は知県殿と優秀な都頭達に話をつけて参ります」
「おお、おお、頼みますぞ……!」
「少し遅くなるかもしれませんか、面倒な処理を全て終えて、すぐに逮捕に出られるように手筈を整えて参ります。必ずここでお待ちください。行き違いになって、時間を取られてはなりません」
「宋押司のご都合が良いようになさってください。ワシはここでお待ちします!」
「こんな大きな事件を任されて、滅入っていることでしょう。暫くお休みください。お茶の追加注文はご自由になさってくださいね。私が全てお支払いしますので」
「そんなお気遣いなく! ワシは貴方にいち早くお会いできただけでも幸運です!」
去り際に、何観察に何十杯分の茶代を渡した宋江は、すぐさま馬小屋に向かった。
鞭を振るって駆け出した先は、知県達がよく食事に向かう店ではない。
馬を走らせれば一時間ほどで着く、晁蓋の屋敷へ、脇目もふらず走り出した。
財物を手にした晁蓋だったが、だからといって金に溺れることはない。
金が欲しくて兵士五十人の輸送団を襲ったのではない。
甘い汁を吸おうとする悪しき役人にお灸を据えてやりたくて、また、大勢の富を守りたくてしたことだった。
命からがらの大仕事、失敗すれば仲間はもちろん、縁のある一族は皆殺しになるかもしれない罪だ。
自分の益にならなかった汚い役人どもは、あの手この手を使って罪人を屠ろうとする。
それをどう見返してやろうか、晁蓋は仲間達と共に考えていた。
正義のための行ないならば、天が、神が味方をしてくれる。
早々に捕まり処刑されるなら、所詮その程度の星に過ぎなかったということ。
どんな結果になってもいい。腹は決まっていた。
それでも、一つの博打が当たったのは気分が良かった。
十万貫の金銀財宝を手にした今、気持ち良く酒が飲めると、有頂天な喜びを味わう。
(この祝いの席に、宋江を呼びたい。あいつと酒を飲みたかったんだ。何の宴か判らなくて慌てる宋江の顔、見てみたいな)
屋敷の庭で酒宴でも開こうか。
そう想いを馳せていると、数人の気の知れた者しか使わない裏口から駆け足が聞こえ、晁蓋は身を構えた。
現れたのは、今まさに姿を心に描がいていた宋江だった。
「宋江!」
思いが通じたのか。突然現れ駆け寄る宋江の体を支え、抱きとめようとする。
その宋江の目には涙が滲み、息を切らした口からは必死の叫びが吐き出された。
「黄泥岡の事件は、既に発覚しております!」
掌の汗まで判るような焦りの声に、目を見開いて驚く。
絞り出された声は、先ほどまでの晴れやかな晁蓋の心を掻き毟るほど、悲痛な色に染まり上がっていた。
「済州府は、貴方達を、逮捕しにやって来ます! もう晁蓋殿が、親玉だと、判明しているのです!」
「……何故、宋江はこんな所へ」
「たまたま私が一番早くこの話を聞いたから、参りました。私が戻れば、いえ、私の帰りが遅くなれば、貴方を捕らえに多くの兵士が訪れます!」
「だから何故、宋江はこんな所へ来たのだ?」
晁蓋は純粋な疑問をぶつけた。
宋江が、刑罰・計獄を担当する事務官を勤めていると呉用に聞かされていた。
清廉潔白を胸に据える人物だから味方に引き込むのは難しいとも。
だから罪人と判りながらわざわざ会いにくる理由を尋ねたのだが、叫び声を前に疑念は吹き飛ぶ。
「早くここからお逃げください! それを伝えるために参りました! ……手遅れになってはいけません! どうか、早く……」
前のめりな宋江を受けとめたい。
晁蓋は、息切れをした体を抱き寄せようとした。
(捕まるというなら、それも運命。それも天の導き。だが神は、オレに宋江を利用して救われろというのか。そんな……宋江は、オレ達の為に罪を犯そうというのか!)
だが引き寄せることは許されず。顔を上げた宋江は「どうか、お元気で」と言い放ち、すぐに駆けて行った。
手を伸ばせば……追いかければ、すぐに宋江を捕まえることができる。
しかし晁蓋は動かず、裏口で馬が駆けて行く足音を聞くだけで終わった。
身なりの良い服の男が街の中を駆けていくのを、閻婆惜は興味無く見送った。
閻一家はこの街の人間ではない。歌と楽器で旅をしてきた芸人一座である。
座長である父は先日亡くなった。あのときは動転し、これからのことなど一切考えられなかった。
だが口うるさいが頼れる王婆と宋江という役人の援助によって、何とか食いつなぐことが出来た。
喧しく元気な老女が騒ぎ立て、冴えない中年が目についたことで、多くの者達が悲劇の芸人母子を気遣ってくれた。
それ以後は、実に平穏な日々を過ごしている。
歌を披露すれば誰もが立ち寄り、金を置いていった。元より腕は悪くない。
父は流行を読むのが上手く、母は楽器に秀でていて、若い娘の閻婆惜は華やかな顔。少しでも話題になれば、いくらでも客を惹きつけることができた。
葬式を終え、ようやく生活が豊かになった。
閻婆惜の母・閻氏は命の恩人である宋江という役人のもとに挨拶に行ったが、長期休暇のため旅行へ出ているという。
金持ちは、生きるためでもなく旅をするだけの金があり、心に余裕がある。
金のためにあちこちを渡り歩いていた閻婆惜には、理解できない人種だった。
閻氏はまず、娘の閻婆惜を連れて王婆に礼を言いに行った。
王婆という老女は非常に口やかましく、回復した母娘を大袈裟に喜び、聞いてもいないのに多くを語った。
この街を知らない閻一家にとっては、ありがたかった。
「宋押司という御方は、とても親切な男性ですのね」
母娘の近況報告が終われば、話題は自然と一家を助けた役人の男へと変わる。
「そうなのよ! 宋押司の身分はただの押司だけどね、実家は宋家村の大地主、広い土地をいくつもお持ちの大金持ちなんだよ。だから金遣いも良いのさ!」
「あら、お金持ちなの?」
「困ったことがあったら直ぐお金を渡してくれるし、返せとも言わない。いつも外で飲み食いしてるし、時には飯を奢りにまわっているぐらいだよ。お仕事熱心なお人だから知県様の信頼も厚くて、出世するのも約束されたような人だねぇ!」
「そこまでご立派な方なら、奥様も幸せ者ですね」
「ああ……奥さんは、いたけど、事故で亡くなられてね。あまりに突然のことだったから、数日塞ぎ込んで家から出てこなかったぐらいだよ。可哀想にねえ、まだ新婚さんだったのに……」
感情の揺れ動きが激しい王婆は、一瞬で涙ぐむ。
閻氏は「つらいお話をしてくださりありがとうございます」と頭を軽く下げながら、隣の閻婆惜を見た。
愛想良い顔をしているが、その目はつまらなそうにしている。
実母にはその目が、一刻も早く王婆宅を立ち去り、チヤホヤされる遊びへ出かけたいのだと見て取れた。
つまらないものを見る目になっている娘を小突く閻氏は、「長居しては失礼ですので」と王婆の家を去った。
その足で、もう一度宋江宅を訪ねる。
今日も宋江は留守にしていた。長期旅行から戻ってきてないらしい。
また肩透かしを食らい、閻婆惜が小さく愚痴を零す。
「凄いお家ねぇ。門構えも立派だし、見たことのない家。きっと中には……」
いっぱいお金になる物があるのよ、と声に出さず吐き出した。
そんな閻婆惜達の横を、近所の子供達が駆けて行こうとする。
「あ! 歌唄いのお姉さん!」 子供達の目の中に、キラキラとした憧れの光が散る。どうやら閻一座の舞台を観て歓声を上げた客のようだ。
察した閻婆惜は、瞬時に体を仕事に切り替える。とびっきりの笑顔で手を振った。
いきなり美女に微笑まれた少年達は顔を真っ赤にし、ブンブンと手を振り返す。
(売れっ子になると面倒なのよね。評判が命だから仕方ないけど)
これぐらい商売として当然。擬態なんて、お手の物だった。
宋江の意識が戻ったのは、七日後だった。
汗にまみれた身を寝台から起こし、周囲を見渡す。
室内はに残飯が転がり、躾ができてない犬小屋のように糞尿が見受けられた。
なんだこれは。愕然とする。
七日間の記憶が無く、こんな惨状は初めてだった。
たとえ発情期で性欲に溺れていても、腹が減るし糞もする。
だから熱に翻弄されながらも食べ物は貪るし、排泄もする。
だが汚物を、何も判らぬ赤子のように、撒き散らすことなどあっただろうか。
(……ど、動揺している場合ではない。きっと症状が重かったからだ)
人に戻った宋江は、とりあえず自室の処理を始めた。
内側から鍵が掛けられる厳重な扉、外に大声や匂いが漏れない壁、さらに水拭き掃除がしやすい床も、自分の生活がしやすいように用意させた特注品である。
この家自体に金が掛かっており、それ以外に贅沢は無い。恐ろしい状況になっていた部屋の掃除を終えると、溜息を吐きながら質素な食事を取った。
李逵と過ごした七日間は、よく覚えている。
李逵が居てくれたおかげで性欲が発散でき、自分を保てた日々を送った。
そうして三ヶ月、呉用や公孫勝に面倒を見てもらう日々を過ごした。
彼らのおかげで症状が和らぐかと思いきや、まさか記憶が無くなるほど熱に魘されるとは。
(何だ? ……吐き気がする)
食欲があったから飯を食べたというのに、妙な吐き気に襲われ、身を丸める。
下半身も、ズンと重くなる感覚がした。
発情期は終わったというのに妙な圧迫感と嘔吐感が止まらず、朝食が流れた。
抑制剤をすぐに口にした。
暫くして吐き気は消えたが、何故だか胸騒ぎがする。
謎の胸の重さ。説明不能の感覚に不安に駆られながら、外を見た。
(本当に私は……七日間、眠っていたのか? もっと時間が経っているのでは?)
自宅に誰か居れば問い掛けられるが、妻はもういない。誰かに会おうと外に出た。
天気は悪くないが良くもない雲模様で、余計に不安を後押しする。
空は暗くても、いつも通り子供達がはしゃいでいる。
久々に宋江の顔を見た母親達が、軽やかな挨拶をしてきた。
彼女らは、確かに七日が経っていることを教えてくれた。
何気ない話題を繰り出す女達に笑顔で応じながら、県役所に顔を出す。
変わりない日々だと確認したくて同僚を探していると、突然見覚えの無い男に声を掛けられた。
「なあ、知県殿はどこかね? どうして県役所は静かなのかね?」
身分が高い役人らしき、顔に真新しい刺青をされた中年男性だ。
少し上ずった声には焦りが読み取れる。
何か一大事と察した宋江は、穏やかな面持ちで応じた。
「この時間は、知県さんの執務がちょうど終わった頃です。みんな昼休憩に行ったところでしょう。まだ戻られないと思いますよ」
日々この場で働く宋江にとって、いつものことだ。
だがそれを知らない男は、深刻そうに顔を強張らせる。
「押司殿は、いつ頃に戻られるか? 急ぎの用なんだ!」
「私は押司としてここに勤めている者です。今日は当直ではありませんが、緊急事態であればすぐに私がお伝えしましょう」
「誠か!」
「どのようなご用件ですか? ……失礼ですがお名前を伺っても? 私は、姓は宋、名は江と申します」
目の前の男はバッと身構えた。
その場で拝礼まで始める始末である。
「及時雨と名高いあの! ワシは下っ端役人です、済州府の何濤観察と申します!」
「お、恐れ入ります……。その、観察殿は上の役所の御方。遠来のお客様で、本県においでなさったのも何かご公務でしょう、私になぞ気にせずそのままお話を……」
二人で話を譲り合い、バタバタと悶着をしていると、それだけで数分が経過した。
こういったとき押しに強い雷横がいれば「そこに座れ!」の一言で終わるのに。
もしくは間を取り持つのが巧い朱仝であったら、円滑な物言いで場を和ませられたかもしれない。
ひとまず笑って落ち着かせた宋江は、何とかして友二人を呼べないかと、キョロキョロしながら考えた。
二人とも昼休憩に出ているようで、探しても何観察を助けられる人は現れなかった。
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「……じ、重要な案件ですね。詳しいお話を聞いてもよろしいでしょうか?」
「本府管轄下の黄泥岡で、盗賊の一味、あわせて八人が、痺れ薬を使って、北京大名府の梁中書から蔡大師の生辰綱を送るため派遣された兵士五十人を倒し、金銀財宝を奪ったのです」
「……大事件ではないですか」
「大事件なのです! 合計十万貫相応の財宝を盗まれてしまったのですから! 一味の一人を捕らえ、自白させたところ、残りの仲間七名は貴県にいると吐きました。どうかこの事件を解決すべく即刻ご報告をお願い申し上げます!」
「か、観察殿が自らご指示を持ちいただいたのですから、逮捕と護送のために兵士を派遣されるでしょう。その、犯人の残り七名について何か判っていることは……?」
「コソ泥は、主犯の名を自供しております。痺れ薬を盛り、財宝全てを盗んだ者達の頭領は、貴県東渓村の保正・晁蓋とのことです」
「晁保正」
「宋押司はご存知ではありませんか?」
「名前だけは存じております。ですがどんな人物かまでは把握しておりません。なぜ村の代表者なる保正ともあろう人物が、そのようなことをしたのでしょう?」
「庶民には手が届かぬ宝が、歩いて来たのです。強欲に身を焦がし、兵士を傷つけてでも、我が物にしようと企んだのでしょう。宋押司、犯人らは五十名をたった八人でひっくり返す連中です。いつ我々の動きを察するかも知れません、どうか速やかに取りかかってください!」
「そうですね。大丈夫です、我々が手を下せば必ず捕まえられます」
何観察は、事の重大さに焦りながら話している。
宋江と真剣に、懸命に、だが小さな表情の些細な変化までは察せないほどに、動転し続けていた。
話に躓きやすい宋江が、早口かつ無表情になっていることなど、初めて出会った男には判る筈も無かった。
「知県にすぐに処理実行してもらい、人を派遣して逮捕に向かわせます。ですがこの事件は慎重に動くべきです。何観察が仰る通り、残り七名の犯人は強敵ですから軽々しく人に漏らさず、確実に保正を捕らえなければ」
「ありがたい!」
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた役人が、冷淡に話し始めている。
ようやくその生真面目な変化に気付いた何濤は、宋江を信頼し、両手を握った。
「くれぐれも、どうぞ、よろしくお願いします!」
「ご心配なさらず。何観察は茶屋でお待ちになっていてください。私は知県殿と優秀な都頭達に話をつけて参ります」
「おお、おお、頼みますぞ……!」
「少し遅くなるかもしれませんか、面倒な処理を全て終えて、すぐに逮捕に出られるように手筈を整えて参ります。必ずここでお待ちください。行き違いになって、時間を取られてはなりません」
「宋押司のご都合が良いようになさってください。ワシはここでお待ちします!」
「こんな大きな事件を任されて、滅入っていることでしょう。暫くお休みください。お茶の追加注文はご自由になさってくださいね。私が全てお支払いしますので」
「そんなお気遣いなく! ワシは貴方にいち早くお会いできただけでも幸運です!」
去り際に、何観察に何十杯分の茶代を渡した宋江は、すぐさま馬小屋に向かった。
鞭を振るって駆け出した先は、知県達がよく食事に向かう店ではない。
馬を走らせれば一時間ほどで着く、晁蓋の屋敷へ、脇目もふらず走り出した。
財物を手にした晁蓋だったが、だからといって金に溺れることはない。
金が欲しくて兵士五十人の輸送団を襲ったのではない。
甘い汁を吸おうとする悪しき役人にお灸を据えてやりたくて、また、大勢の富を守りたくてしたことだった。
命からがらの大仕事、失敗すれば仲間はもちろん、縁のある一族は皆殺しになるかもしれない罪だ。
自分の益にならなかった汚い役人どもは、あの手この手を使って罪人を屠ろうとする。
それをどう見返してやろうか、晁蓋は仲間達と共に考えていた。
正義のための行ないならば、天が、神が味方をしてくれる。
早々に捕まり処刑されるなら、所詮その程度の星に過ぎなかったということ。
どんな結果になってもいい。腹は決まっていた。
それでも、一つの博打が当たったのは気分が良かった。
十万貫の金銀財宝を手にした今、気持ち良く酒が飲めると、有頂天な喜びを味わう。
(この祝いの席に、宋江を呼びたい。あいつと酒を飲みたかったんだ。何の宴か判らなくて慌てる宋江の顔、見てみたいな)
屋敷の庭で酒宴でも開こうか。
そう想いを馳せていると、数人の気の知れた者しか使わない裏口から駆け足が聞こえ、晁蓋は身を構えた。
現れたのは、今まさに姿を心に描がいていた宋江だった。
「宋江!」
思いが通じたのか。突然現れ駆け寄る宋江の体を支え、抱きとめようとする。
その宋江の目には涙が滲み、息を切らした口からは必死の叫びが吐き出された。
「黄泥岡の事件は、既に発覚しております!」
掌の汗まで判るような焦りの声に、目を見開いて驚く。
絞り出された声は、先ほどまでの晴れやかな晁蓋の心を掻き毟るほど、悲痛な色に染まり上がっていた。
「済州府は、貴方達を、逮捕しにやって来ます! もう晁蓋殿が、親玉だと、判明しているのです!」
「……何故、宋江はこんな所へ」
「たまたま私が一番早くこの話を聞いたから、参りました。私が戻れば、いえ、私の帰りが遅くなれば、貴方を捕らえに多くの兵士が訪れます!」
「だから何故、宋江はこんな所へ来たのだ?」
晁蓋は純粋な疑問をぶつけた。
宋江が、刑罰・計獄を担当する事務官を勤めていると呉用に聞かされていた。
清廉潔白を胸に据える人物だから味方に引き込むのは難しいとも。
だから罪人と判りながらわざわざ会いにくる理由を尋ねたのだが、叫び声を前に疑念は吹き飛ぶ。
「早くここからお逃げください! それを伝えるために参りました! ……手遅れになってはいけません! どうか、早く……」
前のめりな宋江を受けとめたい。
晁蓋は、息切れをした体を抱き寄せようとした。
(捕まるというなら、それも運命。それも天の導き。だが神は、オレに宋江を利用して救われろというのか。そんな……宋江は、オレ達の為に罪を犯そうというのか!)
だが引き寄せることは許されず。顔を上げた宋江は「どうか、お元気で」と言い放ち、すぐに駆けて行った。
手を伸ばせば……追いかければ、すぐに宋江を捕まえることができる。
しかし晁蓋は動かず、裏口で馬が駆けて行く足音を聞くだけで終わった。
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今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話
あかさたな!
BL
潜入捜査官のユウジは
マフィアのボスの愛人まで潜入していた。
だがある日、それがボスにバレて、
執着監禁されちゃって、
幸せになっちゃう話
少し歪んだ愛だが、ルカという歳下に
メロメロに溺愛されちゃう。
そんなハッピー寄りなティーストです!
▶︎潜入捜査とかスパイとか設定がかなりゆるふわですが、
雰囲気だけ楽しんでいただけると幸いです!
_____
▶︎タイトルそのうち変えます
2022/05/16変更!
拘束(仮題名)→ 潜入捜査でマフィアのドンの愛人になったのに、正体バレて溺愛監禁された話
▶︎毎日18時更新頑張ります!一万字前後のお話に収める予定です
2022/05/24の更新は1日お休みします。すみません。
▶︎▶︎r18表現が含まれます※ ◀︎◀︎
_____
エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので
こじらせた処女
BL
大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。
とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…
部室強制監獄
裕光
BL
夜8時に毎日更新します!
高校2年生サッカー部所属の祐介。
先輩・後輩・同級生みんなから親しく人望がとても厚い。
ある日の夜。
剣道部の同級生 蓮と夜飯に行った所途中からプチッと記憶が途切れてしまう
気づいたら剣道部の部室に拘束されて身動きは取れなくなっていた
現れたのは蓮ともう1人。
1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。
そして大野は裕介に向かって言った。
大野「お前も肉便器に改造してやる」
大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…
短編エロ
黒弧 追兎
BL
ハードでもうらめぇ、ってなってる受けが大好きです。基本愛ゆえの鬼畜です。痛いのはしません。
前立腺責め、乳首責め、玩具責め、放置、耐久、触手、スライム、研究 治験、溺愛、機械姦、などなど気分に合わせて色々書いてます。リバは無いです。
挿入ありは.が付きます
よろしければどうぞ。
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