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第二回 混乱、暴走、黒旋風。
二の一(来ない発情期、現実逃避、嵐のような男)
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/一
三日経っても発情期が訪れなかった。
昂揚して何も考えられなくなる発情期は、七日ほどで終わる。休暇は大事を取って十日以上としているが、人として振舞える日々に戻るためこれ以上長引くのは困る。
もう日数が足りない。一刻も早く発情してほしかった。
(私はなんて恐ろしいことを考えて……。だけど。ああ、どうして発情しない?)
宋江は寝台の上で、何度も寝返りを打った。憂鬱だった。
固く鉄板が打ち付けられ扉も大袈裟な鍵の付いた部屋で、何事も無く過ごす日々は苦痛だった。
二階建ての自宅は、門構えは立派だが、広い家ではない。
一階部分は十日以上の食糧が置かれた土間と台所、人が招ける居間、亡き妻の遺品を残した一室がある。そして二階部分には、鍵の掛かる寝室しかない。
発情期が訪れる時期になると、宋江は自分で外界からの情報を断つ。
一切の窓は無く、寝室に相応しくないほど厚い壁の中で、体を丸めて過ごすのだ。
でないと誰かを惑わせてしまうかもしれない。
宋江にも理屈は判らないが、自分から発せられる目に視えない何かが人間を狂わせて、獣に変えてしまうという。
だから高熱が終わるまで、一人で耐えているしかなかった。
(……一人の日々に戻ったのも、ようやく慣れた)
亡き妻には共に生きると決めた日、自分の体のことを全て告げた。
不治の病に冒されていること、そのせいで他者を気狂いにしてしまうことを、明かしていた。
彼女が全てを理解していたかは判らない。だが百日に一度気が狂う夫を、見捨てないでいてくれる女性だった。たった一年だけでも良い夫婦でいられたと信じている。
人であった夜に、男として、彼女を抱いたこともあった。
抱き合い、彼女の中に精を放ち、拙いが愛の言葉も囁いたこともある。
幸せな家庭だった。しかし結局、子供は産まれなかった。
(もし私が、彼女の子を孕めたら今頃……。馬鹿な妄想だ! 何を考えている!)
一瞬でも自分が母親として腹を撫でる夢を見て、頭を抱える。
(いつまでも光の無い部屋に居るから、気落ちしてしまう)
普段なら息苦しさに寝込んでいる筈なのに、腹が減った。まるで健常者のようだ。
宋江はゆらゆらと一階に下る。
二階は宝物庫のように厳重な警備を敷いていても、一階は何の変哲もない一般家屋。窓があり、差し込む光は春らしく眩しい。
暑くもなく寒くもない、子供のはしゃぎ声が聞こえる世界に、三日ぶりに笑う。
無邪気な子供達の笑い声が羨ましくて、自分も笑いたくなったのだ。
(風を浴びたい。陽射しを浴びたい)
宋江は薬を喉に通すと、自分が持ちうるありったけの薬を懐に入れた。
何があってもすぐ薬が飲めるように胸元に隠す。
意を決して、外に出た。
(……どうして私は三日も外出をしなかった? こんなに太陽が気持ち良いのに!)
外出していなかった自分を悔いるほど、外は爽快だった。
体調は良く、何も考えずとも足が勝手に進む。爽やかな風に自然と笑顔が零れた。
「宋江さん。今日はお休みなのですねぇ、珍しい。どこかお出かけですか?」
偶然通り過ぎた近所の女性達が、にこやかに挨拶をしてくる。今日の快晴につられているのか、晴れやかな表情だった。
「いえ、特に何もすることが無くて。ただの散歩です」
何気なく女性達と話していると、後ろから男性達にも声を掛けられる。
「これは宋押司さん。お暇ですか。昼間からクイッと、どうです?」
いつも愉快な壮年の男が、杯を傾ける仕草をした。外で力仕事を終えたばかりの彼は「これから飯の時間ですし!」と、流暢に宋江の肩を抱く。
「残念ながら食事をしたばかりでして。今度の楽しみにさせてください」
「及時雨の旦那はちょっと飲むだけじゃあ足りませんもんねぇ。顔に似合わず大層な酒豪だぁ。飲むなら朝から誘わないとダメかぁ」
食事の誘いを断ると、今度は子供達が駆けてきた。
「ねえねえ! 今日遊びに行っていい? 遊びに行っていい?」
以前、朱仝に誘われて面倒を見ていた子供達だ。
朱仝の「子供と触れ合うのも街の平穏を保つ仕事」の言葉に感動し、たまに彼らを自宅に招いて昔話を披露している。無給だが、子供と触れ合える楽しい仕事だった。
「ごめんよ、今日は家が片付いてないからダメなんだ」
「じゃあ今度はいつ? いつなら遊びに行っていい? いつにする?」
「コラコラ、休みを邪魔したらダメよ。ところで宋江さん、梨はいかがですか?」
「及時雨の旦那! 良かったらウチの家を使ってくれてもいいですよ!」
「宋江様。実はお耳に入れてほしい話があるのです。うちの馬鹿息子がですね……」
大勢の笑顔に囲まれ、あれほど進まなかった時間が光のように過ぎ去っていった。
元より宋江は人と過ごす時間が好きだった。
誰かと一緒なら、自分の嫌なことなど忘れられる。何気ない会話でも涙が零れそうになるぐらい、楽しかった。
(今日は……限界まで、好きなことをしよう。気分転換も必要だ)
男達が「昼飯は魚にしよう」と言う姿を見て、宋江は釣りをしようと決めた。
決して上手くはないが好きなことをしようと、川の畔に訪れる。
強くない陽射しの下、爽やかな風が吹き込む釣り場を見つけ、自宅に眠っていた釣り竿を垂らした。
釣り針には残飯を練餌として括り付け、ひたすら魚を待つ。
簡単に魚は獲れない。だが下手なりに何匹は釣れる。
たまに通りすがりが「釣れますか?」と尋ねてきた。
「待つのも楽しみですよ」と返す宋江の釣りは、魚だけでなく人を釣るのも醍醐味の一つだった。
誰も声を掛けてこないときは一人で水面を眺め、幼馴染と過ごした春を夢想する。
(穏やかな春だ。……幼い頃、花栄と野原を駆けた春を思い出す)
そういえば釣りのやり方を教えてくれたのも、幼い花栄だった。
小さな手であちこち引っ張られ、色んな所を冒険したものだ。
手紙では立派な字を書く大人になった花栄だが、宋江の中ではまだ子供のまま成長していない。
(家を出て、日々働いた。遠出は一度もしなかった。……手紙のやり取りが当たり前になりすぎて、会いに行くこともなかった)
幼馴染に会いたい。下手な釣りを続けながら、唐突にそんなことを考える。
いや、今はまだ難しい。ならいつにするべきか?
思考を巡らせていると、キラリと光ったものを感じた。宋江は竿を引く。
三匹目の魚が、釣れた。
穏やかだった水面が激しく揺れ、映っていた人間の姿を消していく。宋江は魚を地に下ろしながら、目を瞑った。
(初めて魚が釣ったとき……嬉しくて踊って、足を踏み外して、川に落ちたっけ。宋清に散々馬鹿にされたな。寒くて苦い記憶だけどが、楽しい思い出だ)
快い春風が、肌を差す夜風へ変貌していく。それでも気分が良く、暫し当たった。
(私は外の世界が好きだ。自由な世界が好きだ。誰かと会うことが、話すことが大好きだ。……鍵を掛けて一人、疼きに悶える日が嫌だ。もう、戻りたくない……)
楽しかった春を思い出すほどに、苦痛な記憶も蘇らせていく。
湧き上がる熱。自分が塗り潰される感覚。己を見失い、大切なものさえ忘れて溺れる時間。
赤の他人だろうが友人だろうが、誰であろうが狂わせてしまう――異香。
思い出したくない現実が胸に突き刺さり、宋江は溜息を吐く。
ぼうっとしていると、少し強めの風が吹いた。
びゅうと強い風が吹き、同時に釣り竿が揺れる。期待してなかった四つ目が釣れたかもしれない。
視線を戻すと、水面に黒い影ができていた。
ふと横に視線を移せば、大男が釣った魚を入れた桶に手を突っ込んでいた。
「……えっ?」
「貰っていく!」
至近だというのに男に大声を出されて、宋江はよろける。
声で跳ね退けられたのは初めてだった。
「えっ? ……ええ?」
勢い良く声を張り上げたのは、肌の黒い男だった。
宋江も色白ではないがそれよりも黒く、何倍も大きな体をしている。
体格が良いから二十過ぎの大人に見えるが、見開いた目がくりくりと丸く、妙に幼く思えた。
見るからに乱暴そうな男は、その野生じみた風貌に相応しく、無遠慮に釣った魚を抱き上げる。
三匹もの魚を胸に抱えようとした。
魚は当然ビチビチと抵抗するので、今にも落としそうだった。
「まだ魚、そこにも居るのか? 寄越せ!」
釣れていない竿を顎で指されて、宋江は唖然としながら、首を振るう。
「寄越せ!」
また飛び退いてしまうほどの大声に、肩が跳ねた。
宋江の動きを見て魚が釣れたと勘違いした男が、次々と大声で襲い掛かる。
「金が無いとやらねえって言うのか! 銭がねえ! だから寄越せ!」
「……金が無いなら、頼むといい。気が良い人ならくれるだろう」
「だからおいら! 寄越せって言ってるだろ!」
「それは……頼んだことにはならないよ。そんな言い方だと無駄に敵を作るだけだ」
「お前! 敵だっていうのか! おいらの! 敵なのか!」
「て、敵になるつもりはないよ。……どうして自分で獲らない?」
「おいら、釣り竿ない! 銛ない! 泳げない! 泳げないのバカにしてるのか!」
「……泳げないのは今、初めて知った。どうして魚が欲しいのか訊いていいかい?」
「腹が減った! 何でもいいから食いたい! お前が釣りしてた! だからだ!」
「……今までどうやって生きてきた?」
「戴宗のアニキが銭を恵んでくれた! 新しい仕事を見つけて稼げって言われた! 銭、もう無い! 何かイイコト発見するまで帰ってくんなって言われた! 何も見つからないからもう帰る! でも腹が減った!」
(どこかの街から職を探して転々として、何も進展が無いまま銭を無くし、空腹のあまり我を忘れている……のか? それとも元からこの言動なのか?)
黒い大男は威嚇するような大声だが、応対はできている。
少し強引でも話が分からない相手でもない。宋江は出来るだけゆっくりした声で、語り掛けた。
「その魚はあげるし、食べていい。食べて……アニキとやらに手紙を書こう。書いたら私が代わりに出してあげるよ。アニキに連絡をして、迎えに来てもらおうか」
「おいら、字なんて書けねえ! それに……イイコト何もねーってアニキに言ったらまた怒鳴られる。怒られるのヤだ!」
図体だけは威圧感のある成人男性。だが言動が幼すぎる。体が大きいだけで、昼間に声を掛けてきた子供達よりも小さな子供に思えた。
しかし、見た目は大人の体格だ。その不整合さが、人を遠ざけてしまうのかもしれない。職を探すのは、難しそうだった。
「寄越せよぉ!」
「あ、あげると言っているよ……あっ」
竿を持つ腕を、大男に掴まれる。
宋江の顔ほどある大きな手でグイッと力を込められた瞬間、小柄の体が浮かんだ。
怪力だと宋江が認識するより早く、有り余った力で体は放り投げられていた。
大男にとっても宋江の踏ん張りの弱さは想定外だったらしい。
振り切るだけのつもりが、重心を崩した宋江は水の中に飛び込み、正面から川へと落ちた。
たとえ浅瀬でも混乱しきった頭は体の操作を奪う。
動転した頭が水中で呼吸を命じる。鼻からも口からも、水が入ってくる。
激痛に襲われても、衣服を纏った重い体は持ち上がらない。
暴れるしかなかった。
三日経っても発情期が訪れなかった。
昂揚して何も考えられなくなる発情期は、七日ほどで終わる。休暇は大事を取って十日以上としているが、人として振舞える日々に戻るためこれ以上長引くのは困る。
もう日数が足りない。一刻も早く発情してほしかった。
(私はなんて恐ろしいことを考えて……。だけど。ああ、どうして発情しない?)
宋江は寝台の上で、何度も寝返りを打った。憂鬱だった。
固く鉄板が打ち付けられ扉も大袈裟な鍵の付いた部屋で、何事も無く過ごす日々は苦痛だった。
二階建ての自宅は、門構えは立派だが、広い家ではない。
一階部分は十日以上の食糧が置かれた土間と台所、人が招ける居間、亡き妻の遺品を残した一室がある。そして二階部分には、鍵の掛かる寝室しかない。
発情期が訪れる時期になると、宋江は自分で外界からの情報を断つ。
一切の窓は無く、寝室に相応しくないほど厚い壁の中で、体を丸めて過ごすのだ。
でないと誰かを惑わせてしまうかもしれない。
宋江にも理屈は判らないが、自分から発せられる目に視えない何かが人間を狂わせて、獣に変えてしまうという。
だから高熱が終わるまで、一人で耐えているしかなかった。
(……一人の日々に戻ったのも、ようやく慣れた)
亡き妻には共に生きると決めた日、自分の体のことを全て告げた。
不治の病に冒されていること、そのせいで他者を気狂いにしてしまうことを、明かしていた。
彼女が全てを理解していたかは判らない。だが百日に一度気が狂う夫を、見捨てないでいてくれる女性だった。たった一年だけでも良い夫婦でいられたと信じている。
人であった夜に、男として、彼女を抱いたこともあった。
抱き合い、彼女の中に精を放ち、拙いが愛の言葉も囁いたこともある。
幸せな家庭だった。しかし結局、子供は産まれなかった。
(もし私が、彼女の子を孕めたら今頃……。馬鹿な妄想だ! 何を考えている!)
一瞬でも自分が母親として腹を撫でる夢を見て、頭を抱える。
(いつまでも光の無い部屋に居るから、気落ちしてしまう)
普段なら息苦しさに寝込んでいる筈なのに、腹が減った。まるで健常者のようだ。
宋江はゆらゆらと一階に下る。
二階は宝物庫のように厳重な警備を敷いていても、一階は何の変哲もない一般家屋。窓があり、差し込む光は春らしく眩しい。
暑くもなく寒くもない、子供のはしゃぎ声が聞こえる世界に、三日ぶりに笑う。
無邪気な子供達の笑い声が羨ましくて、自分も笑いたくなったのだ。
(風を浴びたい。陽射しを浴びたい)
宋江は薬を喉に通すと、自分が持ちうるありったけの薬を懐に入れた。
何があってもすぐ薬が飲めるように胸元に隠す。
意を決して、外に出た。
(……どうして私は三日も外出をしなかった? こんなに太陽が気持ち良いのに!)
外出していなかった自分を悔いるほど、外は爽快だった。
体調は良く、何も考えずとも足が勝手に進む。爽やかな風に自然と笑顔が零れた。
「宋江さん。今日はお休みなのですねぇ、珍しい。どこかお出かけですか?」
偶然通り過ぎた近所の女性達が、にこやかに挨拶をしてくる。今日の快晴につられているのか、晴れやかな表情だった。
「いえ、特に何もすることが無くて。ただの散歩です」
何気なく女性達と話していると、後ろから男性達にも声を掛けられる。
「これは宋押司さん。お暇ですか。昼間からクイッと、どうです?」
いつも愉快な壮年の男が、杯を傾ける仕草をした。外で力仕事を終えたばかりの彼は「これから飯の時間ですし!」と、流暢に宋江の肩を抱く。
「残念ながら食事をしたばかりでして。今度の楽しみにさせてください」
「及時雨の旦那はちょっと飲むだけじゃあ足りませんもんねぇ。顔に似合わず大層な酒豪だぁ。飲むなら朝から誘わないとダメかぁ」
食事の誘いを断ると、今度は子供達が駆けてきた。
「ねえねえ! 今日遊びに行っていい? 遊びに行っていい?」
以前、朱仝に誘われて面倒を見ていた子供達だ。
朱仝の「子供と触れ合うのも街の平穏を保つ仕事」の言葉に感動し、たまに彼らを自宅に招いて昔話を披露している。無給だが、子供と触れ合える楽しい仕事だった。
「ごめんよ、今日は家が片付いてないからダメなんだ」
「じゃあ今度はいつ? いつなら遊びに行っていい? いつにする?」
「コラコラ、休みを邪魔したらダメよ。ところで宋江さん、梨はいかがですか?」
「及時雨の旦那! 良かったらウチの家を使ってくれてもいいですよ!」
「宋江様。実はお耳に入れてほしい話があるのです。うちの馬鹿息子がですね……」
大勢の笑顔に囲まれ、あれほど進まなかった時間が光のように過ぎ去っていった。
元より宋江は人と過ごす時間が好きだった。
誰かと一緒なら、自分の嫌なことなど忘れられる。何気ない会話でも涙が零れそうになるぐらい、楽しかった。
(今日は……限界まで、好きなことをしよう。気分転換も必要だ)
男達が「昼飯は魚にしよう」と言う姿を見て、宋江は釣りをしようと決めた。
決して上手くはないが好きなことをしようと、川の畔に訪れる。
強くない陽射しの下、爽やかな風が吹き込む釣り場を見つけ、自宅に眠っていた釣り竿を垂らした。
釣り針には残飯を練餌として括り付け、ひたすら魚を待つ。
簡単に魚は獲れない。だが下手なりに何匹は釣れる。
たまに通りすがりが「釣れますか?」と尋ねてきた。
「待つのも楽しみですよ」と返す宋江の釣りは、魚だけでなく人を釣るのも醍醐味の一つだった。
誰も声を掛けてこないときは一人で水面を眺め、幼馴染と過ごした春を夢想する。
(穏やかな春だ。……幼い頃、花栄と野原を駆けた春を思い出す)
そういえば釣りのやり方を教えてくれたのも、幼い花栄だった。
小さな手であちこち引っ張られ、色んな所を冒険したものだ。
手紙では立派な字を書く大人になった花栄だが、宋江の中ではまだ子供のまま成長していない。
(家を出て、日々働いた。遠出は一度もしなかった。……手紙のやり取りが当たり前になりすぎて、会いに行くこともなかった)
幼馴染に会いたい。下手な釣りを続けながら、唐突にそんなことを考える。
いや、今はまだ難しい。ならいつにするべきか?
思考を巡らせていると、キラリと光ったものを感じた。宋江は竿を引く。
三匹目の魚が、釣れた。
穏やかだった水面が激しく揺れ、映っていた人間の姿を消していく。宋江は魚を地に下ろしながら、目を瞑った。
(初めて魚が釣ったとき……嬉しくて踊って、足を踏み外して、川に落ちたっけ。宋清に散々馬鹿にされたな。寒くて苦い記憶だけどが、楽しい思い出だ)
快い春風が、肌を差す夜風へ変貌していく。それでも気分が良く、暫し当たった。
(私は外の世界が好きだ。自由な世界が好きだ。誰かと会うことが、話すことが大好きだ。……鍵を掛けて一人、疼きに悶える日が嫌だ。もう、戻りたくない……)
楽しかった春を思い出すほどに、苦痛な記憶も蘇らせていく。
湧き上がる熱。自分が塗り潰される感覚。己を見失い、大切なものさえ忘れて溺れる時間。
赤の他人だろうが友人だろうが、誰であろうが狂わせてしまう――異香。
思い出したくない現実が胸に突き刺さり、宋江は溜息を吐く。
ぼうっとしていると、少し強めの風が吹いた。
びゅうと強い風が吹き、同時に釣り竿が揺れる。期待してなかった四つ目が釣れたかもしれない。
視線を戻すと、水面に黒い影ができていた。
ふと横に視線を移せば、大男が釣った魚を入れた桶に手を突っ込んでいた。
「……えっ?」
「貰っていく!」
至近だというのに男に大声を出されて、宋江はよろける。
声で跳ね退けられたのは初めてだった。
「えっ? ……ええ?」
勢い良く声を張り上げたのは、肌の黒い男だった。
宋江も色白ではないがそれよりも黒く、何倍も大きな体をしている。
体格が良いから二十過ぎの大人に見えるが、見開いた目がくりくりと丸く、妙に幼く思えた。
見るからに乱暴そうな男は、その野生じみた風貌に相応しく、無遠慮に釣った魚を抱き上げる。
三匹もの魚を胸に抱えようとした。
魚は当然ビチビチと抵抗するので、今にも落としそうだった。
「まだ魚、そこにも居るのか? 寄越せ!」
釣れていない竿を顎で指されて、宋江は唖然としながら、首を振るう。
「寄越せ!」
また飛び退いてしまうほどの大声に、肩が跳ねた。
宋江の動きを見て魚が釣れたと勘違いした男が、次々と大声で襲い掛かる。
「金が無いとやらねえって言うのか! 銭がねえ! だから寄越せ!」
「……金が無いなら、頼むといい。気が良い人ならくれるだろう」
「だからおいら! 寄越せって言ってるだろ!」
「それは……頼んだことにはならないよ。そんな言い方だと無駄に敵を作るだけだ」
「お前! 敵だっていうのか! おいらの! 敵なのか!」
「て、敵になるつもりはないよ。……どうして自分で獲らない?」
「おいら、釣り竿ない! 銛ない! 泳げない! 泳げないのバカにしてるのか!」
「……泳げないのは今、初めて知った。どうして魚が欲しいのか訊いていいかい?」
「腹が減った! 何でもいいから食いたい! お前が釣りしてた! だからだ!」
「……今までどうやって生きてきた?」
「戴宗のアニキが銭を恵んでくれた! 新しい仕事を見つけて稼げって言われた! 銭、もう無い! 何かイイコト発見するまで帰ってくんなって言われた! 何も見つからないからもう帰る! でも腹が減った!」
(どこかの街から職を探して転々として、何も進展が無いまま銭を無くし、空腹のあまり我を忘れている……のか? それとも元からこの言動なのか?)
黒い大男は威嚇するような大声だが、応対はできている。
少し強引でも話が分からない相手でもない。宋江は出来るだけゆっくりした声で、語り掛けた。
「その魚はあげるし、食べていい。食べて……アニキとやらに手紙を書こう。書いたら私が代わりに出してあげるよ。アニキに連絡をして、迎えに来てもらおうか」
「おいら、字なんて書けねえ! それに……イイコト何もねーってアニキに言ったらまた怒鳴られる。怒られるのヤだ!」
図体だけは威圧感のある成人男性。だが言動が幼すぎる。体が大きいだけで、昼間に声を掛けてきた子供達よりも小さな子供に思えた。
しかし、見た目は大人の体格だ。その不整合さが、人を遠ざけてしまうのかもしれない。職を探すのは、難しそうだった。
「寄越せよぉ!」
「あ、あげると言っているよ……あっ」
竿を持つ腕を、大男に掴まれる。
宋江の顔ほどある大きな手でグイッと力を込められた瞬間、小柄の体が浮かんだ。
怪力だと宋江が認識するより早く、有り余った力で体は放り投げられていた。
大男にとっても宋江の踏ん張りの弱さは想定外だったらしい。
振り切るだけのつもりが、重心を崩した宋江は水の中に飛び込み、正面から川へと落ちた。
たとえ浅瀬でも混乱しきった頭は体の操作を奪う。
動転した頭が水中で呼吸を命じる。鼻からも口からも、水が入ってくる。
激痛に襲われても、衣服を纏った重い体は持ち上がらない。
暴れるしかなかった。
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