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訪問客 十

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(やめろよ! はなせよ!)
 自分の声が信じられないほど冷たく厳しく和室に響いてくる。
 だがそこは、この和室でもなく、開耶が伊吹とともに過ごした部屋でもない。
 夏でも春でもない、あの寒い冬の夜、どこかの部屋で、酔っぱらった寮生たちの歌う調子はずれのクリスマスソングの聞こえる和室だ。
 目の前にいたのは、親友だった男だった。
 彼に向かって、自分はなんと言ったろう。
(来るなよ! 気持ち悪い! 変態野郎!) 
 そうだ。たしかにそう言ったのだ。
 来るなよ! 気持ち悪い! 変態野郎!
 耳に響いてくるのは自分の声なのか。
 闇にも、はっきりと、近江の驚愕と苦痛の表情が見えた気がした。
 前夜祭のその出来事は、男ばかりの学生寮でのちょっとした出来事のはずだった。近江は酔っていたのだ。
 だから、竹弥の布団に入ってこようとしたのだ。竹弥を揶揄からかおうとしていたのかもしれない。酔ってふざけただけ。そんな青春時代の笑い話として終わるはずだった。
 だが、笑い話では終わらなかった。
 その夜が、竹弥が近江を見た最後だった。
 近江がふらふらと立ちあがり、廊下へ出ていく背を見送った。
 廊下からはまだ放歌高吟する寮生たちの声が聞こえていた。クリスマスソングは寮歌に変わっていた。
 そのあとのことはよく覚えていない。冷えてしまった身体をふたたび布団つつみ、朝までうつらうつらと浅い眠りに身を沈ませていた。
 目覚めたのはかなり遅く、そのあとも食事も取らずぼんやりと過ごしていた。
 昨夜のことを思い出して、後味の悪さと罪悪感、羞恥に頭が混乱していた。
 やはり言い過ぎた。近江には謝らないと、と思っていた。だが、近江の姿は見えない。
 それから……少しした頃だった。近江が事故死した知らせを、寮生の誰かが大声で知らせてきたのだ。
 しばらくは何も考えられなかった。あわただしい騒ぎのなか、寮でおこなわれた仮通夜の席に座っていた。伊吹の田舎でおこなわれた葬式には出席しなかった。
 竹弥が自分の少年時代が、青春時代が終わったことを知るには、さらに数日の時間が必要だった。そして、さらに
この先、もう心から笑うことがないことを知るには、一月ちかくかかった。
「先輩、泣いているんですか?」
「ち、ちが……」
 ちがう、と言おうとしたが、頬にあたたかいものが流れるのを止められない。
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