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朝桜心中 一

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 庭の桜の樹はまだまだ満開を誇っている。
 朝日のなかで誇らしげに咲き競う花の群を見ていると、竹弥は奇妙な陶酔感におちいった。
 桃霞の向こうの世界へ、行けるものなら行ってしまいたい。俗世の悩みも苦しみもすべて捨てて、桜の花びらのつくりだす異界へと旅立ってしまいた。そんな感傷的な心持ちになってしまう。
 その世界には、伊吹もいるのだろうか。家を出てのちに亡くなった母もいるのだろうか。だが、母には会いたいという気持ちは露ほどにもない。
 あの世の母も、もう竹弥には会いたいなどと思わないだろう。家も夫も子も捨てて、生きたいように生きた女だ。子を捨てたことも死の間際まで悔いはしなかったろう。そういう女なのだ。母にも妻にもなれない女。ただ、恋をするためだけに生まれてきた女。
(いっそ生きたいように生きた母は、幸せだったかもな)
 桜を見上げつづけたまま、そんなことを竹弥はぼんやり思っていた。
 貴蝶は時姫のような女だ……。そう呟いたのは父だったか、親戚の誰かだったか。
『鎌倉三代記』に出てくる時姫は、親よりも家よりも恋した男を選んだ、情と業のはげしい女である。愚かで哀れな恋に殉じた女である。時姫は、貴蝶の父である歌舞伎役者の十八番おはこでもあった。
 舞台に生きた名女形と、芸者とのあいだにできた貴蝶は、生まれ落ちたときから、まっとうな世間一般の女の人生を送るのは無理だったのかもしれない。
(その血を引いている俺はどうなるのだろう?)
 竹弥もまた普通ではない人生をおくるように宿命づけられていたのかもしれない。
 さらに竹弥は父をとおして、やはり役者という堅気にはなれない血を引いている。父の父もそうであったし、それより前の先祖たちも、役者や芸人という異世ことよの世界に半分足をつっこんで日々の営みをこなし、普通の人より激しい情念を引きずって生きて死んだ人たちだった。
(だから、俺も普通ではないのかもしれない……)
 それが証拠に、桜吹雪につつまれながら、今竹弥は人を殺す計画を練っていた。

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