翠帳紅閨 ――闇から来る者――

文月 沙織

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囚われて 三

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 老人は室内を見回して続ける。
「この家は空家だったんで電話も止めてありますから、すぐ連絡もらうこともできへんし。若さんが倒れても、近所の人かて遠いから、気づかへんやろうし」
「だ、大丈夫です。こんなこと、滅多にないんで」
 そうだ、このようなことはもうないはずだ。あってはならない。
 そうですか……。そこまで言うのなら、とこぼして、伊能氏は心配しつつその夜は屋敷を去った。

 竹弥はとにかく風呂を沸かすと身体を洗った。駅近くにに銭湯もあるらしいが、家風呂があるのはありがたい。実家には常に弟子たちが住み込んでいるので、一人だけのために風呂を沸かすなど贅沢な気分がする。
 タイル張りの浴室にかがんで、手桶で清らかそうな湯をすくい背に湯をかけると、この身体があの男に汚されたなど信じられない。湯をはじく若い肌には一点の染みもない。
 だが……うっすらほのかに桜色に染まった太腿や腹、腕の見えるところに、かすかにのこる跡が竹弥を打ちのめす。
 そこには、まぎれもなく男の残した征服の証しがきざまれているのだ。
(悪い夢だ……。俺は春の夜に、悪い夢を見ただけだ)
 そう自分に言い聞かせた。

 翌日は、すべてが嘘のように晴れやかな春の日だった。目が覚めたときは十時を過ぎており、竹弥はのろのろと起きると、とにかく身支度をととのえた。
 朝食を、と思って、すべて一人でせねばならなかったのだと思い出した。昨日、越してきたばかりで、まだ米も買っていないことに気づいた。
 どこか食べに行こうかとも思ったが、朝食が食べれるような店となると、駅前あたりまで行かねばならず、ニ十分も歩くのかと思うと面倒くさくなり、とりあえず湯をわかすと茶を淹れて、それでやり過ごすことにした。
(昼になったら、食べにでよう。あと、食糧をすこし買っておくか)
 そんなことを思いながら、ぼんやり春空を見上げた。新聞もとっていなし、この家にはテレビなどない。ラジオだけは持ってきていたので、座敷に寝そべって、水道橋に後楽園ホールが完成したことを告げるアナウンサーの声を、なんとなく聞いていた。
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