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異界 一
しおりを挟む男につづいて蔵の前の二段の石段を踏みながら、竹弥は彼の名をまだ聞いてないことに気づいた。
「あの、名前、なんていうんですか?」
なんとなく間の抜けた雰囲気になる。ばつの悪さを感じて、まごつく竹弥に、男は笑ってみせた。
「ああ、まだ名乗っていなかったですね。杉屋です」
低く、深みのある声に、竹弥の胸はまた妙にざわつく。
役者の家に生まれそだっただけあって、竹弥は声というものがいかに人に影響をあたえるか身に染みて知っていた。
また喋り方がどれほど人というものをあらわすのかも理屈ぬきで知っている。それだけに、杉屋と名乗った男の声や口調に強い印象を受けてしまう。
「杉屋さん……?」
どこかで聞いたような記憶があるが、ありそうな名でもある。
「下の名前は、なんというんですか?」
名を聞けば思い出すかもしれないと思い、たずねてみた。
「宗司ですよ。坊ちゃん」
坊ちゃんと呼ばれて、また竹弥はまごついた。実家ではよくそう呼ばれたが、さすがに二十歳も過ぎたのだ。その呼称は返上したい。だいいち家の使用人や父の弟子たちならともかく、初対面のこの男にはそう呼ばれる筋合いもない。
「坊ちゃんはやめてくださいよ。近江で、いえ、竹弥と呼んでください」
「竹弥……さん」
自分で言って、そう呼ばれてから、また奇妙に胸がざわつく。思えば、ごく幼いころをべつとすれば、家族以外の知人友人から名前で呼ばれたことは幾久しくない。大学の友人たちとも呼び合うときは苗字を使う。
(あいつも、俺のことは近江と呼んでいた)
一度だけ、竹弥と名で呼ばれたことがあった。いつだったろう……。
桜満開の季節に、竹弥はまたクリスマスソングの響く冬の日へ行ってしまいそうになり、あわててしのび寄ってくる追憶を振りはらった。
ついぼんやりしてしまっていたのか、相手の漆黒の目にいぶかしむようなものもを感じて竹弥は居心地がわるい。それを悟ったのか、男は笑った。
「いや、失礼。坊ちゃん、いえ、あんたが、あんまりにもお綺麗なんで、ちょっとびっくりしたんですよ」
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