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儀式
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橙色にあやしく光る満月が夜道を照らしている。
民家のならぶ集落を通りこしていったいどれぐらい歩いたろう。先行くふたりは湖にむかい、小船に乗りこんだ。
深夜であっても夜釣りをする漁師たちがかなりおり、彼らのもちいる漁り火が湖水を幻惑的にかがやかせ、それを目あてにまた船を浮かべて宴をたのしむ風流な金持ちの商人などもおおく、おかげでタキトゥスは目立つことなく古びた小船を拝借してふたりの跡を追った。こういうときの素早さは、さすが歩兵からたたきあげられた一流の戦士だけある。
やがて湖のむかい岸に出ると、さらにふたりは歩きつづけた。
(いったいどこまで行くのだ?)
やがてタキトゥスも彼らの目的地がわかってきた。
たどりついたのは神殿だった。
かつてタキトゥスが王宮の正面から入ってきたのとは逆に、ふたりは裏側の石塀を目指していたのだ。
イリカが去ってからは次の神官長も定まらずほとんど廃殿にされていると聞いてはいたが、人気もなく、裏の小さな門には見まわりの兵士もおらず、見るからにうらさびれた雰囲気だ。
こちらから見える殿舎の向こうには王宮があり、さすがにその方角には兵士が見まわっているらしく松明がいくつも見えるが、彼らはそこへ行くことはないようだ。
ここはタキトゥスが初めてイリカを見た場所だが、今は不気味な静寂に満ち、石塔や、神にささげる舞がまわれた舞台となる石台も手入れされることがなくなって久しいらしく草が生いしげっている。
タキトゥスは、石台の背後にそびえる石壁に彫りこまれたイカラスの神々の像が自分を睨んでいる錯覚がして、首のうしろが冷たくなってきた。
こわれた小さな石の神像の影にひそみ、いったいこんな時間にこんなところで何をするのかといぶかしんでいると、かぶりものをとったイリカは音もたてずに苔むした石台にあがった。
黄水晶の粒のような月光が降ってきて彼を打つ。
月の神が降臨したかと思うほどの神秘さだった。
イリカは、しずかに舞いはじめた。
パリアヌスが錫杖と鈴をふり独特の音律をつくる。
慣れてくると、それはなんとも美しい音色でタキトゥスはうっとりと聞きいった。
そのあまりの神韻縹渺とした様子に、生きたまま別世界へ足をふみこんでしまった気がして恐怖すら感じたが、それでも薄紫の衣に身をつつみ優雅な仕草で舞うイリカの身体から目ははなせなかった。かつて見たときの舞も素晴らしかったが、今夜の舞はまた格別だ。
幻想的ななかにも不思議な色香があり、かつて感じた神々しさこそうすれたものの、その分存在感がまさって、タキトゥスは今夜の舞により惹かれた。
(あのときは、無垢だった。だが、今はちがう……)
名工のつくった人形に、月神が魂を吹きこんだかのようだ。たしかに肉体を感じるのだ。
タキトゥスは世にも不思議なものを見た。
夜空から、黄金の粉が降ってくるようだ。
それらは生あるもののようにイリカにまとわりついて彼をつつみこむ。
やがて、動きはとまりイリカはうやうやしくひざまずいた。
音が完全に終わるのと同時に、閃光があたりに火花のようにきらめいた。
タキトゥスは我が目を疑い、考えることもなく石像の影からとびだした。
「よせっ!」
「あ、タキトゥス」
驚いているイリカの手から短刀をもぎとって投げ捨てた。
あと一秒でもおそければその短刀はイリカの肌を傷つけていたろう。
「どうしてここに?」
「おまえたちが門を出ていくのを見て、後をつけてきたのだ。パリアヌス、なぜ止めないのだ?」
怒りの矛先を少年にむけると、彼は昂然と背伸びして言い返してきた。
「代替わりの儀式を行っていたのです!」
「何を言っている!」
怒気をたちのぼらせたタキトゥスの腕をイリカのしなやかな手がおさえる。
「やめてくれ、パリアヌスを責めないで。これが私の使命なのだ」
「何を言う? 神官長は自死してはならぬのだろう?」
「それは死者の魂をみちびくためにございます」
いったいどこにひそんでいたのか、黒い衣をまとった男が夜闇からあらわれ、うやうやしくイリカのまえに短剣をさしだした。
「どういうことだ?」
よく見ると男は昼間ディトスを呼びにきた農民だったが、身のこなしや今の顔つきはただの百姓には見えない。闇に生きる者であることをタキトゥスは直感した。
「私は神殿に仕える者にございます。王が代替わりをするとき、王の魂を天にみちびく役をこなすのが神官長のつとめにございます。それがゆえに神官長には儀式でつとめをはたすまでは自死がゆるされぬのでございます。そして、今こそ儀式が執りおこなわれ、神官長はこの儀式でみずから今生での生を終え、その聖代の治世に亡くなった者たちの魂をみちびいて、ともに天に帰るのでございます」
淡々と説明する男にタキトゥスは怒りをおぼえた。
「そ、そんな愚かしい!」
「それがイカラスのしきたりにございます。さ、イリカ様、儀式をお続けください」
「おまえはイリカに死ねというのか!」
「そうなのだ、タキトゥス。その者の言うことは正しいのだ」
冷静な声にタキトゥスは逆上した。
「馬鹿げている! それでは死ぬために神官長になったようなものではないか」
イリカの黒い瞳が月下でしめやかに光った。
「そう決まっているのだ。そのことを誓ったうえで私は神官長のお役目にあがったのだ。それが神官長の最後の儀式でありつとめだから。だから私はいかなる辱めを受けてもみずから死をえらぶことはできなかった。この日のために……」
「で、では、おまえは、俺に陵辱されながら耐えて生きぬいたのは、こうやって自害するためだったというのか? わざわざ死ぬためにあの責め苦に耐えてこの島にもどってきたというのか?」
こくりと、かぼそい首が同意にうごく。
「そ、そんな愚かしいことがあるか!」
イリカの瞳はどこまでも静謐で美しいようなあきらめに澄んでいる。
「それが、私の使命なのだ。そのために生かされてきたのだ」
「狂っている!」
「それがイカラスの法でございます。さ、イリカ様、ご準備を。このままでは前王も、その治世のあいだに亡くなった者たちの魂もいつまでも地上をさまよいつづけ、いずれは生ある者に仇をなす悪霊と落ちぶれてしまいまする」
男のさしだした短剣はイリカににぎられるまえにタキトゥスに奪われ、その次の瞬間、薄闇に鮮血がはしった。
「うるさい! 貴様が死ね!」
「タキトゥス!」
遠く、石舎の石窓から騒ぎ声があがった。
廃屋となった建物と思っていたら神官たちがひそんでいたらしく、どうやらこの儀式を遠目にひっそりと見守っていたようだ。
「イリカ、来い!」
「タキトゥス様、なにをなさいます?」
「うるさい! パリアヌス、おまえがイリカの代わりに神官でもなんでもなれ!」
やつあたりめいた言葉を投げつけるとタキトゥスはイリカの腕をひっぱった。さすが歴戦の猛将だけあって動きは迅速だ。短剣で追ってきた男たちを威嚇し、有無を言わせずイリカをひっさらうように背におうと夜道をかけぬけた。
民家のならぶ集落を通りこしていったいどれぐらい歩いたろう。先行くふたりは湖にむかい、小船に乗りこんだ。
深夜であっても夜釣りをする漁師たちがかなりおり、彼らのもちいる漁り火が湖水を幻惑的にかがやかせ、それを目あてにまた船を浮かべて宴をたのしむ風流な金持ちの商人などもおおく、おかげでタキトゥスは目立つことなく古びた小船を拝借してふたりの跡を追った。こういうときの素早さは、さすが歩兵からたたきあげられた一流の戦士だけある。
やがて湖のむかい岸に出ると、さらにふたりは歩きつづけた。
(いったいどこまで行くのだ?)
やがてタキトゥスも彼らの目的地がわかってきた。
たどりついたのは神殿だった。
かつてタキトゥスが王宮の正面から入ってきたのとは逆に、ふたりは裏側の石塀を目指していたのだ。
イリカが去ってからは次の神官長も定まらずほとんど廃殿にされていると聞いてはいたが、人気もなく、裏の小さな門には見まわりの兵士もおらず、見るからにうらさびれた雰囲気だ。
こちらから見える殿舎の向こうには王宮があり、さすがにその方角には兵士が見まわっているらしく松明がいくつも見えるが、彼らはそこへ行くことはないようだ。
ここはタキトゥスが初めてイリカを見た場所だが、今は不気味な静寂に満ち、石塔や、神にささげる舞がまわれた舞台となる石台も手入れされることがなくなって久しいらしく草が生いしげっている。
タキトゥスは、石台の背後にそびえる石壁に彫りこまれたイカラスの神々の像が自分を睨んでいる錯覚がして、首のうしろが冷たくなってきた。
こわれた小さな石の神像の影にひそみ、いったいこんな時間にこんなところで何をするのかといぶかしんでいると、かぶりものをとったイリカは音もたてずに苔むした石台にあがった。
黄水晶の粒のような月光が降ってきて彼を打つ。
月の神が降臨したかと思うほどの神秘さだった。
イリカは、しずかに舞いはじめた。
パリアヌスが錫杖と鈴をふり独特の音律をつくる。
慣れてくると、それはなんとも美しい音色でタキトゥスはうっとりと聞きいった。
そのあまりの神韻縹渺とした様子に、生きたまま別世界へ足をふみこんでしまった気がして恐怖すら感じたが、それでも薄紫の衣に身をつつみ優雅な仕草で舞うイリカの身体から目ははなせなかった。かつて見たときの舞も素晴らしかったが、今夜の舞はまた格別だ。
幻想的ななかにも不思議な色香があり、かつて感じた神々しさこそうすれたものの、その分存在感がまさって、タキトゥスは今夜の舞により惹かれた。
(あのときは、無垢だった。だが、今はちがう……)
名工のつくった人形に、月神が魂を吹きこんだかのようだ。たしかに肉体を感じるのだ。
タキトゥスは世にも不思議なものを見た。
夜空から、黄金の粉が降ってくるようだ。
それらは生あるもののようにイリカにまとわりついて彼をつつみこむ。
やがて、動きはとまりイリカはうやうやしくひざまずいた。
音が完全に終わるのと同時に、閃光があたりに火花のようにきらめいた。
タキトゥスは我が目を疑い、考えることもなく石像の影からとびだした。
「よせっ!」
「あ、タキトゥス」
驚いているイリカの手から短刀をもぎとって投げ捨てた。
あと一秒でもおそければその短刀はイリカの肌を傷つけていたろう。
「どうしてここに?」
「おまえたちが門を出ていくのを見て、後をつけてきたのだ。パリアヌス、なぜ止めないのだ?」
怒りの矛先を少年にむけると、彼は昂然と背伸びして言い返してきた。
「代替わりの儀式を行っていたのです!」
「何を言っている!」
怒気をたちのぼらせたタキトゥスの腕をイリカのしなやかな手がおさえる。
「やめてくれ、パリアヌスを責めないで。これが私の使命なのだ」
「何を言う? 神官長は自死してはならぬのだろう?」
「それは死者の魂をみちびくためにございます」
いったいどこにひそんでいたのか、黒い衣をまとった男が夜闇からあらわれ、うやうやしくイリカのまえに短剣をさしだした。
「どういうことだ?」
よく見ると男は昼間ディトスを呼びにきた農民だったが、身のこなしや今の顔つきはただの百姓には見えない。闇に生きる者であることをタキトゥスは直感した。
「私は神殿に仕える者にございます。王が代替わりをするとき、王の魂を天にみちびく役をこなすのが神官長のつとめにございます。それがゆえに神官長には儀式でつとめをはたすまでは自死がゆるされぬのでございます。そして、今こそ儀式が執りおこなわれ、神官長はこの儀式でみずから今生での生を終え、その聖代の治世に亡くなった者たちの魂をみちびいて、ともに天に帰るのでございます」
淡々と説明する男にタキトゥスは怒りをおぼえた。
「そ、そんな愚かしい!」
「それがイカラスのしきたりにございます。さ、イリカ様、儀式をお続けください」
「おまえはイリカに死ねというのか!」
「そうなのだ、タキトゥス。その者の言うことは正しいのだ」
冷静な声にタキトゥスは逆上した。
「馬鹿げている! それでは死ぬために神官長になったようなものではないか」
イリカの黒い瞳が月下でしめやかに光った。
「そう決まっているのだ。そのことを誓ったうえで私は神官長のお役目にあがったのだ。それが神官長の最後の儀式でありつとめだから。だから私はいかなる辱めを受けてもみずから死をえらぶことはできなかった。この日のために……」
「で、では、おまえは、俺に陵辱されながら耐えて生きぬいたのは、こうやって自害するためだったというのか? わざわざ死ぬためにあの責め苦に耐えてこの島にもどってきたというのか?」
こくりと、かぼそい首が同意にうごく。
「そ、そんな愚かしいことがあるか!」
イリカの瞳はどこまでも静謐で美しいようなあきらめに澄んでいる。
「それが、私の使命なのだ。そのために生かされてきたのだ」
「狂っている!」
「それがイカラスの法でございます。さ、イリカ様、ご準備を。このままでは前王も、その治世のあいだに亡くなった者たちの魂もいつまでも地上をさまよいつづけ、いずれは生ある者に仇をなす悪霊と落ちぶれてしまいまする」
男のさしだした短剣はイリカににぎられるまえにタキトゥスに奪われ、その次の瞬間、薄闇に鮮血がはしった。
「うるさい! 貴様が死ね!」
「タキトゥス!」
遠く、石舎の石窓から騒ぎ声があがった。
廃屋となった建物と思っていたら神官たちがひそんでいたらしく、どうやらこの儀式を遠目にひっそりと見守っていたようだ。
「イリカ、来い!」
「タキトゥス様、なにをなさいます?」
「うるさい! パリアヌス、おまえがイリカの代わりに神官でもなんでもなれ!」
やつあたりめいた言葉を投げつけるとタキトゥスはイリカの腕をひっぱった。さすが歴戦の猛将だけあって動きは迅速だ。短剣で追ってきた男たちを威嚇し、有無を言わせずイリカをひっさらうように背におうと夜道をかけぬけた。
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