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聖花
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イリカは人目にふれることを恐れて屋敷の奥部屋にこもったきりで、島に来てからタキトゥスは一度も彼と会うことはなかった。
おもてむきはタキトゥスは使用人ということになっているので、食事は台所でパリアナとパリアヌスととり、寝る場所も、あてがわれた粗末な小さな部屋でひとり眠り、同じ屋根の下で暮らしていてもまったくイリカの姿を見ることもなければ言葉をかわすこともない。ディトスも医者として終日忙しく働いておりゆっくり話す機会は今のところなかった。
タキトゥスのなかではイリカがあのとき自分を裏切ったのではないかという疑惑が消えず、しこりとなって黒い小蛇のように胸の底でとぐろを巻いていた。
そのことに関してきちんとした説明をしてほしかったが、イリカに近づくこともできないようなこの状況ではそれも果たせず、ディトスも忙しいせいか何も言わぬまま、ただ日が過ぎていくだけだ。ディトスとしては時間をとってタキトゥスにいろいろ考えさせようという腹なのかもしれないが。
今は将軍でも支配者でもない身、ディトスに助けられ寄宿者としておいてもらっているタキトゥスは抗議できる立場でないことを知っていたし、なによりイリカと顔を合わせるのには恐怖にも似たばつの悪さがある。
落魄した我が身への恥もさることながら、朝夕に水鏡に映る己の顔が、タキトゥスのかつての金塊のような自信をくずしてしまったのだ。
(女や容色で身を立てる色子でもあるまいに)
と自分を戒めてみても、美丈夫としてもてはやされていたタキトゥスには、赤くもりあがった傷痕やひらくことのない瞼というのは辛い現実だった。
(この顔を見ればイリカも気味悪がるだろう)
夜明けごろ、石造りの四阿につくられた小さな拝殿で祈りをささげるイリカにつきそうパリアヌスを遠目に見ると、タキトゥスは鼻の奥が痛くなるような気がしてならない。パリアヌスの日に日に凛々しくなっていく横顔からは誇らしさと、遠目でもはっきりとわかるほどイリカへの思慕が感じられた。
一度、石床に膝をつき神に祈りをささげるイリカの衣の裾を、パリアヌスがそっとつかもうとしてできずに己の指をにぎりしめる動作を見たことがある。
その様子は聖花を摘みとろうとして、ふみとどまった花盗人のようでタキトゥスは歯噛みしそうになった。パリアヌスはすくなくとも聖花に触れるほどには近づくことがゆるされるのに、自分は……という悔しさにせっつかれるのだ。
そんなタキトゥスの煩悶を笑うように南の島の時はながれ、人々にはそれぞれの季節がおとずれていた。
「タキトゥス将軍、いえ、タルティス、僕に剣を教えてくれませんか?」
めっきり男らしくなってきたパリアヌスが頬を赤くしてたのんできたとき、タキトゥスはかつてみずからの運命の全盛時に驕って彼の目のまえでイリカを辱め、少年の心を傷つけたことを思い出し、その埋めあわせになるならば、と朝夕に剣の稽古をつけてやることにした。せまい裏庭では木剣の打ちあう小気味よく勇ましい音がひびいた。
そんな黒玉の月(十月)に入ったある朝、稽古を終えて井戸水で身体を洗っていたタキトゥスが背後に人の気配を感じてふりむくと、そこにイリカが立っていた。
いつのまにかイカラスに来てから月は二度その呼び名をかえており、ふたりが正面から顔を合わせたのはこの朝がはじめてだった。
「タキトゥス、いや、タルティス、たのみがある」
おもてむきはタキトゥスは使用人ということになっているので、食事は台所でパリアナとパリアヌスととり、寝る場所も、あてがわれた粗末な小さな部屋でひとり眠り、同じ屋根の下で暮らしていてもまったくイリカの姿を見ることもなければ言葉をかわすこともない。ディトスも医者として終日忙しく働いておりゆっくり話す機会は今のところなかった。
タキトゥスのなかではイリカがあのとき自分を裏切ったのではないかという疑惑が消えず、しこりとなって黒い小蛇のように胸の底でとぐろを巻いていた。
そのことに関してきちんとした説明をしてほしかったが、イリカに近づくこともできないようなこの状況ではそれも果たせず、ディトスも忙しいせいか何も言わぬまま、ただ日が過ぎていくだけだ。ディトスとしては時間をとってタキトゥスにいろいろ考えさせようという腹なのかもしれないが。
今は将軍でも支配者でもない身、ディトスに助けられ寄宿者としておいてもらっているタキトゥスは抗議できる立場でないことを知っていたし、なによりイリカと顔を合わせるのには恐怖にも似たばつの悪さがある。
落魄した我が身への恥もさることながら、朝夕に水鏡に映る己の顔が、タキトゥスのかつての金塊のような自信をくずしてしまったのだ。
(女や容色で身を立てる色子でもあるまいに)
と自分を戒めてみても、美丈夫としてもてはやされていたタキトゥスには、赤くもりあがった傷痕やひらくことのない瞼というのは辛い現実だった。
(この顔を見ればイリカも気味悪がるだろう)
夜明けごろ、石造りの四阿につくられた小さな拝殿で祈りをささげるイリカにつきそうパリアヌスを遠目に見ると、タキトゥスは鼻の奥が痛くなるような気がしてならない。パリアヌスの日に日に凛々しくなっていく横顔からは誇らしさと、遠目でもはっきりとわかるほどイリカへの思慕が感じられた。
一度、石床に膝をつき神に祈りをささげるイリカの衣の裾を、パリアヌスがそっとつかもうとしてできずに己の指をにぎりしめる動作を見たことがある。
その様子は聖花を摘みとろうとして、ふみとどまった花盗人のようでタキトゥスは歯噛みしそうになった。パリアヌスはすくなくとも聖花に触れるほどには近づくことがゆるされるのに、自分は……という悔しさにせっつかれるのだ。
そんなタキトゥスの煩悶を笑うように南の島の時はながれ、人々にはそれぞれの季節がおとずれていた。
「タキトゥス将軍、いえ、タルティス、僕に剣を教えてくれませんか?」
めっきり男らしくなってきたパリアヌスが頬を赤くしてたのんできたとき、タキトゥスはかつてみずからの運命の全盛時に驕って彼の目のまえでイリカを辱め、少年の心を傷つけたことを思い出し、その埋めあわせになるならば、と朝夕に剣の稽古をつけてやることにした。せまい裏庭では木剣の打ちあう小気味よく勇ましい音がひびいた。
そんな黒玉の月(十月)に入ったある朝、稽古を終えて井戸水で身体を洗っていたタキトゥスが背後に人の気配を感じてふりむくと、そこにイリカが立っていた。
いつのまにかイカラスに来てから月は二度その呼び名をかえており、ふたりが正面から顔を合わせたのはこの朝がはじめてだった。
「タキトゥス、いや、タルティス、たのみがある」
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