帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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分かれた夢

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 十日間歩いてタキトゥスたちは南の最果ての地へとやられた。見覚えのある景色に、この道を将軍として捕虜をしたがえてとおった記憶がよみがえり、あまりの皮肉さにタキトゥスは自嘲の笑みをもらさずにおれない。
 深い悔恨と苦痛。そしてはるか青空から目に見えぬ何者かの意図を感じて肩をいっそう落とした。
(天罰とは、こういうものをいうのだろうか?)
 ドノヌスはあの後、タキトゥスをその場にいた獄吏と、下級の牢番ふたりに与えた。
 かつての英雄を凌辱する興奮に野卑な男たちは燃えあがり、タキトゥスは気をうしなうまで彼らに犯され、幾度となく情をしぼりとられ、気づいたときは自分が完全に転落したことを実感した。
 運命の残酷な急変に発狂せずにいられるのは、その自戒にも似た想いがタキトゥスを納得させるからだ。この運命を受けいれろ、己のしたことの報いを受けとれ、と頭上から天の声が聞こえてくる気がするのだ。
(イリカ、おまえは神に仕えた身。おまえの神がこの俺の不様な姿を夢でおまえに見せているかもしれない。さぞ、いい気味だと笑っているのだろう)
 粗末な奴隷小屋で昼の苦役につかれはてた仲間たちが泥のように眠りこけているあいだ、タキトゥスは鉄格子のついた窓をながめては月と星のはざまに愛人の面影をもとめずにおれない。そしてかすかに目じりを涙で濡らした。自分がこんなにも弱い未練がましい男だったとは彼自身思いもしなかった。

 イリカは喉のかわきを覚えて、寝台に身を起こした。
 かたわらでは愛の営みに疲れてタキトゥスが心地よげに眠りこんでいる。複雑な想いを抱きながら、イリカはそっと身を床に足をのばす。
(憎いはずの男なのに……)
 とうとう身体の交わりを持ってしまった。
 だが、不思議と後悔はない。どのみち汚れてしまっているのだという自棄でもなく、どこか、一線を乗り越えたような、清々しさを感じる。とことん落ちてすべて失くしたとき、人はいっそ生まれ変わったような感慨になれるのかもしれない。
 イリカはなるべく音を立てないように歩いた。もともと神殿では常に静かに動くようにしているので身に着いた習性だったのだ。暗い廊下を進んでいくと、一度だけ入ったことのある厨房が見えてきた。誰もいないかと思っていたら、庭から人影が柱廊に入りこんできた。いつも食事は運んでくれる老僕だった。
 この屋敷に来たときから常にイリカに気を配ってくれている親切な老人である。イリカは引き寄せられるように足をすすめた。
 彼は月光にイリカを見て驚いた顔をしている。
「どうしのだ?」
 様子が奇妙なのに気をひかれて訊ねたイリカに老人は皺のはざまの目をゆがませた。
「お、お逃げなされ。もうすぐこの屋敷は……」
 言い終わらぬうちに物音が響いた。
「こ、こっちへ!」
 老僕に手をひかれ、裏庭へと導かれた。病みあがりで抵抗できないイリカは彼に言われるがままに夜の庭を小走りにはしった。いや、抵抗できないというより、どういうわけかこの場は言われるとおりにした方がいいのでは、という直観にしたがったのだ。
「ど、どうしたというのだ?」
「あちらに使用人用の小さい門があります。あそこからお逃げなされ」
「何が起こった?」
「もうすぐタキトゥス様をとらえるために兵士たちが攻め込んできます。あたなもひどい目に合わされるかもしれん」
「……タキトゥスに知らせねば」
「もはや手遅れです。逃げなされ。あなたは散々ひどい目にあったのだから、もう充分じゃ。ほら、あそこの木の扉から。とりあえずディトス様のお屋敷に向かいましょう」
 老人が先に木の扉を推した瞬間、奇妙な音がたった。
「うっ!」
 老人の胸に剣が突きささっていた。
 目を見開くイリカのまえで彼は地にたおれた。
「おやおや、逃げようとしておったのか?」
 そこにいたのはドノヌスだ。黒い衣をまとっており、いっそう不気味に見える。
「逃がさんぞ。可愛い雄犬よ」
 イリカは身体がふるえるのを自覚した。
「は、はなせ!」
「ほほほほ。よいか、こやつを見張っておけ」
 数人の兵をのこしてドノヌスは屋敷へとすすんでいく。イリカはなにもできず、地に伏している老人の頭に顔をよせてみた。彼はまだ生きていた。
「誰か、医者を呼んでくれ!」
 イリカの叫びは当然のごとく無視される。
 月光がまるでここが劇場で、これから戦いの芝居が演じられるのではという錯覚をイリカに思わせる。だが、すぐそばでのたうつ人間の苦しみは本物だった。
「お、おゆるしくだされタキトゥス様……」
「何があったのだ?」
 イリカの問いに老人は苦しい息のした、断末魔の力でもちこたえて口を動かす。
「わ、わしはタキトゥス様を裏切った……。すべてはリアの……わしの孫娘のためじゃったのじゃ……。ああ、たのむ、リアを助けてくだされ」
 イリカは手をにぎられ、うろたえたが、死にゆく人に一片の希望をあたえてやりたく、唇が自然にひらいた。
「わかった。きっとなんとかしてやるから」
 自分でも嘘だと自覚している。この状況でイリカができることなどない。リアという娘がどこにいるのか、その顔も歳も知らない。だが、それでも老人を安心させてやりたくそんなことを口にしていた。
 そうこうしている間にも屋敷からは悲鳴や物音が聞こえ、やがて煙がたちのぼって辺りに不吉な匂いがただよってくる。それはまちがいなく死と敗北と、敗残者をまちうける悲劇の匂いである。
「おい、貴様、ドノヌス様のお呼びだ」
 イリカは兵士のひとりに袖を引っ張られ、ドノヌスのもとへと連れて行かれた。
 庭には屋敷の使用人の死骸がころがっていた。兵士の死骸も見える。その惨状は戦場にくらべればちいさなものだろうが、イリカにははじめて見る流血の光景だ。イカラス戦のときは神殿にこもっていたし、激戦となるまえにイカラスは降伏したので、イリカは間近で血をみるのは初めてなのだ。
 数歩足をすすめると、月の明かりのした、数人の兵士にとりおさえられてうずくまるものが見えた。相手が顔をかすかにあげる。
(ああ……)
 イリカは息をのんだ。そこにいたのは、数刻まえ、寝所で互いをむさぼりあい、ひとときの夢をわかちあった男だった。


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