帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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支配する者される者

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「これね、召使たちでお食べと侍従頭の爺やさんがくださったの。あのお屋敷にも親切な人がいるのね」
 日はまだ高く、ならんで歩く姉弟の影が赤土のうえにくっきりと焼きつけられる。
「アルゲリアス人も悪い人ばかりじゃないわね」
 大通りはますます人であふれ、ひっきりなしに馬車や荷車がとおり、ひときわ大きな戦用の馬車が砂ぼこりをまきちらして通行人を押しのけるようにすすんで行く。
「姉さん……奴隷市だ」
 タキトゥス将軍の屋敷を出てから無言だったパリアヌスが、はじめて口をひらいた。
 馬車にあふれるように詰め込まれているのは帝国の属国属州から連れてこられ奴隷たちであり、浅黒い肌に黒髪の人間がおおく、皆汗と泥にまみれ首には縄をつけられており、身体つきのたくましい男たちの手足には黒い鎖が不気味にかがやく。男がほとんどだが女も見られる。男女ともに彼らの黒い瞳には希望のかけらもない。
 車は奴隷の屋台に変わったようで、街の往来で競りがはじまった。
「どうだ、この男は? 遠い東のラグーンから来た男たちだ。体力があるからよく働くぞ」
 鞭を手にした奴隷商人が大声をあげた。
「この坊やはなかなか可愛いぞ。こっちの細いのは数ヶ国語をしゃべれる。歌もうたえるぞ」
「この娘はどうだ? まだ生娘だぞ。おい衣を脱げ!」
 気に入った奴隷を見つけた都民は代価を口にし、競りは盛りあがる。ちょうど車のうえの台にのぼらせられたのはパリアヌスとおなじ歳ぐらいの少女だ。顔だちが上品なのは、もしかしたら貴族か裕福な商人の娘だったのかもしれない。
 異国からつれてこられる奴隷というのは、パリアヌスたちのように戦に敗れて戦利品としてつれてこられる者か、宗主国であるアルゲリアスに税をおさめられなかった弱小国の臣民が奴隷としてさしだされたか、どちらかである。
 帝国の首都には毎日のように異国の奴隷がつれてこられ売りさばかれる。もちろん帝国生まれの帝国人のなかにも奴隷は大勢いる。
 この時代、アルゲリアスのみならず、世のなかには二つの人種しかいなかった。支配する者と、される者、だけである。
 イカラスにいたころパリアナたちは、屋敷のなかでいくら影がうすいとはいえ貴族の血をひく富裕層の人間であったが、国が敗れて勝者の国へとつれてこられた今、姉弟は支配される側に完全に堕ちてしまった。むろん、王家の庶子であるイリカも。
「行きましょう」
 動物のように売られていく人々を見ないようにしてパリアナが弟をせかした。
「わたしたちは運が良かったのよ……」
 姉の言葉にパリアヌスも内心でうなずいた。そうだ、自分たちは運が良かったのだ。軍人であっても根が善良でやさしいディトスにひろわれたのだから。だが、イリカは……。
 パリアヌスは鼻の奥がつん、と痛くなってきた。

 パリアナはそれからもタキトゥスの屋敷に度々足をはこんでイリカの様子をうかがうことをやめず、無口で感情をおもてに出さないイリカも、パリアナにだけはうちとけた態度をとってくれる。パリアヌスがなにかイリカを気に病ませることを言ったのではないかとパリアナは心配していたが、そのことについてイリカはなにも言わず、ただ時折、弟は元気か、とたずねるぐらいだ。
「こちらの暮らしにも慣れてきて、最近ではディトス様のお屋敷の近くに住んでいる職人の家に出入りしているようですわ」
「職人の?」
 東方産の高価な茶を淹れながらパリアナは弟の近況について報告した。
「お熱いからお気をつけください。良い香りですわね。このお茶はお身体にもよろしいのだそうですわ」
 イカラスでは見たこともない飲みものだが、最近都では流行っていてディトスが「イリカに飲ませてやるといい」と、もたせてくれた。
 パリアナは心やさしい主に感謝しながら、今ではもうひとりの主といっていいイリカに器ののった銀の盆をさしだした。
 おそるおそるイリカが熱い器をもち、ゆっくりと口づける。その様子は子どものようで、パリアナは泣きたくなる。
(わたしに力があったら……どんなことをしても助けてさしあげるのに)
「その職人は、なにを作っているのだ?」 
 一口飲んでほっと息をつくとイリカは卓のうえに器をもどした。
「あ、はい。楽器を。あの、そのおじいさんはイカラスの出身だそうです。もう、ずっと昔に帝国にうつり住んで、裏路地でほそぼそとイカラスの笛をつくりつづけているのだそうでございます」
「イカラス人なのか?」
「はい。きっとあの子も同国人と会えたのがうれしいのでしょうね。毎日のようにおじいさんの家へ入りびたって、笛の作り方など教わっているようでございます。ディトス様が、それならいっそそのおじいさんに弟子入りして職人になれば良いと」
 そうなるのも良いのでは、とパリアナも思っている。貴族といっても身分はごく低く、しかも妾腹で捕虜として帝国につれてこられた自分たちは、それほど体裁にこだわってはいない。むしろこのままこの国で生きていくのなら、なにか身を立てる術がほしい。自分はディトスの屋敷で召使として一生終わっても良いと思っているが、男の弟には己を生かせる道を見つけてほしかった。
「笛か……私も好きだ」
 おんきょくをつうじて神と語るため、神官は皆一通りの楽器を学んでいる。イカラスでは音楽や舞楽は天にささげるものであり、それに通じる者は人から尊ばれる。ごく幼いころからイリカも音楽や楽器にしたしみ、つねにそれらに囲まれ成長してきた。
(どれぐらい、音や舞からはなれてしまっただろう)
 もう長いこと舞も舞わず、いかなる楽器も奏でてはいない。ますます神から離れていくようでイリカの眉は切なさにゆがむ。
「あの、もしよろしければ、おじいさんに頼んで笛を作ってもらいましょうか?」
 かすかにだがイリカの瞳が明るく光ったのをパリアナは見逃さなかった。
「良いのか?」
「もちろんでございますわ。おじいさんも、イリカ様に吹いていただけるなら、きっと喜んで作ってくださるでしょう」
 かすかに、はにかむようにイリカが微笑んだ。室に茶の香がたちのぼる。

「おじいさん、ちょっといいかい?」
 パリアヌスは粗末な木の扉を押すと、かけてある薄布のむこうに、いつものように背をまげて細工仕事にいそしむ老人をうかがった。
「なんじゃ、パリアヌス、また来たのか?」
「うん。邪魔?」
「邪魔なものか。まぁ、こっちへおいで、今ちょうど一段落ついたころじゃから休もうと思っておったところさ」
 土間のあたりに散らばる木屑をはらい、白髪に白い髭の老人が座をつくってくれる。椅子がわりの古板をしいただけの床にパリアヌスは座りこんだ。
「ねぇ、おじいさん、今日はたのみがあるんだけれど、良かったら笛をひとつ作ってくれないかい?」
「笛? おまえさんが吹くのかい?」
「ちがうよ。イリカ様……、神官長が吹くんだ。聞いているだろう? 今タキトゥス将軍のお屋敷にいる人」
 最後の言葉を告げるときは、ふてくされたようにパリアヌスはそっぽをむいた。
 イリカにたいしては複雑な感情があり、それにはまだ決着をつけられないでいる。今のイリカの状況は仕方がないことなのだと同情すべきか、それでもあのような見苦しいあさましい身の上に堕ちて生きていることを蔑むべきなのか、十一歳の少年の心はどう決めていいのか判らずゆれていた。
 祖国が敗れて人質として敵兵にゆだねられた身の上は気の毒ではあるが、あの不様さは少年ゆえの潔癖でゆるせなかった。
 あれ以来、パリアヌスはイリカのことを考えない日はない。とくに夜寝るまえにはイリカの姿を思い出しては気がたかぶり、青い衝動をおさえきれず、それに気づいた同室の年上の朋輩にみちびかれ、すでに少年から男への第一の通過儀礼も体験してしまった。
 ここ数日でパリアヌスは雰囲気もすっかり変わり顎がすこしとがり、目つきがするどくなってきた。姉が急に遠くなり、今一番近しいのは大人への入り口を教えてくれた朋輩と、夜毎の秘めた夢にかいま見るイリカの幻だ。朋輩とたがいの手でともに夢に酔いながら、パリアヌスはイリカのほっそりとした身体やなめらかな肌を夢想せずにはいられない。
(あの人のせいだ。あの人のせいで、僕はどんどん汚れていく)
 汚れていくのではない、大人になっていくのだ、と気のいい朋輩は笑って教えてくれた。彼のことは好きだが、夢に落ちる瞬間、パリアヌスはイリカから嗅いだ甘い体臭を思い出してしまう。この感情をどう呼ぶか、パリアヌスはまだ知らず、仮に知ったとしてもみとめる勇気はなかったろう。すべてを告げた朋輩は、すこし寂しげな顔をして寝床のなかで彼を抱きしめ頬に接吻してくれた。
(おまえ、その人のことが好きなんだな)
 同性への恋の歌が吟遊詩人たちによって往来で堂々と歌われる都で育った朋輩は、おおらかで早熟だった。
(ちがう、ちがう。そんなんじゃない。あの人は祖国の神官長だもの。あの人の淫らな格好など見たくなかった)
 イリカへの慕わしさと恨めしさにはさまれてパリアヌスには憂悶の日々がつづいたが、それでいて姉にイリカのために笛を手に入れてきてくれとたのまれると、すぐさま老人のもとへ駆けつけずにいられない。
「神官長か……、話は聞いたが」 
 皺だらけの顔を痛ましげにゆがめて老人は嘆息した。あの凱旋軍のひどい見世物の噂は、世捨て人同然にひっそりと都の片隅で暮らす老人の耳にも入っていた。  
「僕情けないよ……神官長ともあろうお方が……あんな」
「戦とはそういうものなのだよ。げんに、おまえさんらだってアルゲリアス兵に捕虜としてこの国へつれてこられたのだろう? ……ちょうど出来たばかりの笛がひとつあるが、これんなぞ、どうじゃ?」
「きれいだね」
 美しい鳥の模様を彫りこんだ木の笛は、見事な工芸品だった。帝国で流行っている長い横笛ではなく、手のなかにつつみこめてしまえるほどのイカラス風の小さなものだが、持ってみると温かみを感じる。
「イリカ様も、喜ばれるかも」
「イリカ様、とおっしゃるのか? その神官殿はお幾つになられる?」
 老人がなにか思い出すように黒い眼をとおくにむけた。
「たしか、二十……二になると思うけれど」
「ふうむ……。人は、なにが幸運になるか、不幸になるかわらかぬものだぞ。生き永らえておれば、その神官殿にもたのしい日がめぐってくるかもしれんな」
 パリアヌスには老人の言わんとすることがよくのみこめないが、あのような淫らな姿を強いられて生きて幸せになるイリカを想像すると、また複雑な気持ちになり嫌悪感もわいてくる。
 少年の潔癖感とは強烈で残酷なもので、パリアヌスはイリカに生きてほしくないとねがっている。
 もしイリカがあのような醜態を恥じて舌でも噛み切って死んでくれればイリカをゆるし愛せるかもしれないが、イリカはこの敵国で敵の屋敷にかこわれ男妾と後ろ指さされ生き恥さらしているのだ。自分たちも虜囚となって敵兵の屋敷に住んでいるが、自分たちとイリカとでは立場がちがう。
(僕と姉さんはしがない下級の貴族の出で、しかも母親は帝国の人だったのだもの。イカラスにいたころから混血児ということで散々屋敷でもいじめられてきた。今の身の上をあまり恥じる必要はないと思う。……でもイリカ様は神官長じゃないか! イカラスでは国王陛下よりも敬われていた方が、あんな目にあわされて生きているなんて)
 イカラスの名誉が木っ端微塵にくだけちるようで、情けなく悔しかった。半分だけの祖国でも、男子であるパリアヌスには、やはりその土地に忠誠心があり、さらに男として目覚めてきた彼には、同性の快楽の道具にされて生きているイリカがゆるせない。 
「さあ、パリアヌス坊や、これを持っていって神官殿にさしあげると良い。お代はいらんよ。わしからの奉納品だと思っておくれ」
「ありがとう、おじいさん」
 パリアヌスは複雑な感情をおさえて、もらった笛をだいじに両手につつんだ。これを、イリカにわたすときは、どんな顔をすればいいのだろうと悩みながら。

「笛ならわたしがイリカ様におわたしするから、あんたは外で待っていて」
 門番に挨拶するとパリアナはややきつい口調で弟を遠ざけようとした。
「なんでだよ?」
 朋輩たちと過ごすうちにパリアヌスの言葉づかいもくだけてきたが、パリアナはそれをとがめなかった。この土地で生きていくのなら、亡国の下級貴族であった過去などさっさとふり捨て、今の世間に染まる方がいっそ幸せだと判じたのだ。 
「あんたが来ると、またイリカ様のお加減が悪くなるかもしれないから。最近、イリカ様はお身体の調子が良くないのよ」
 自分の先日の言動がイリカを傷つけたのではと思うと、パリアヌスは口を閉じて目をふせた。胸が小さな針でつかれたようにちくりとうずく。
「だったら、僕は庭で待っているよ」
「そうね。そうして。笛はわたしからわたしておくから」
(ずるいや)
 とは口に出さず、いそいそと屋内へ消えていく姉の背を見送って、遅咲きの薔薇の花壇を見わたせるあずまやの石椅子にぼんやり腰かけた。あの笛を、イリカは喜んでくれるだろうか。自分が手に入れてきたものだと知ったら嫌がるだろうか。そんなことをうじうじ考えていると、みょうに寂しい気持ちになってパリアヌスはますますしょんぼりとした気分になってくる。
 どうして自分はこんなに気弱なのだろう、と自己嫌悪にもおちいる。今ごろ姉はイリカと仲良く語り合っているのかと思うと、自分ひとり仲間はずれにされたような切なさにいたたまれない。
物思いにふけっていたパリアヌスは、四阿に近づいてくる人影に気づかなかった。
「おやおや、これはいつぞやの白薔薇の精ではないか?」
 ひからびた声がパリアヌスをおどろかせた。
「なにを怯えておる? このまえ会うたではないか? わしじゃ、ドノヌス様じゃぞ」
 白絹につつまれたでっぷりとした腹がゆれているのは、相手が笑っているからだとパリアヌスは気づいた。ドノヌスの後ろには革の胸当てを身につけた屈強そうな三人の従者が今日もひかえており、彼らにもパリアヌスは恐怖を感じた。
「あ、あの。僕、姉といっしょでして」
 幼児のような間のぬけた言葉で場をつくろい、あわてて立ちあがると四阿から下がろうとした。
「まあ、待て、パリアヌスとやら、いっしょに薔薇の花を見んか?」
「いえ、けっこうです」
 腕にさわれられた瞬間、そこに巨大な蛞蝓が這った錯覚をおこしてパリアヌスは背に怖気を感じた。
「一目見て気に入ったのじゃ。どうじゃ? わしの屋敷に来ぬか? 大事にしてやるぞ」
「いえ、僕はディトス様のお屋敷でお世話になっていますので」
「しかし、そなたは」
 そこでドノヌスはにたりと太い唇で笑みを作った。てかてかと禿げた頭が昼の陽光に照らされ不気味にかがやいている。いったい、どうしてこう上から下まで不気味で醜い人間が存在しているのか、パリアヌスはほとんど不思議な心もちになってきた。
「イカラスからつれてこられた捕虜でないか? それならば奴隷市で競りにかけられておるはずじゃ。なにゆえディトスの屋敷におる? ディトスが法をやぶって勝手なことをしおったのか?」
 そう言われてパリアヌスはまばゆいほどの光のなかで凍りついた。
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