帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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狂帝の愛犬

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 イカラス戦最大の功労者であるタキトゥスが宮殿にあがったのは、凱旋パレードから三日たってのことだった。
 大理石をしきつめた白亜の宮殿の迷路のように長い廊下を、従者にはさまれ絹のとばりを幾枚もたぐって、妖しい香でうめつくされた深宮にたどりついたタキトゥスは、勇猛で知られたさきの皇帝の良き時代は終わったのだとつくづく思い知らされた。
「イカラス遠征、ご苦労だったな、タキトゥス」
 黄金の玉座に腰かけている若きアルゲリアス皇帝ゼノビアス=アルゲリアスの、酷薄そうな薄い唇がゆがむのを見て、タキトゥスはこみあげてくる嫌悪を必死にこらえた。
 彼は、どうしてもこの美しいが残酷で、どこかんだような皇帝が好きになれない。
 さきの皇帝には数人の寵妃がいたが、正妻である皇后とのあいだに生まれた男子は彼ひとりであり、その生い立ちには暗い影がつきまとっていた。
 嘘か本当か、亡きイルビア皇后は皇帝の実弟と不貞をはたらいていたという噂があり、ゼノビアスも本当は叔父の種ではないかと宮廷でささやかれ、それを本気にした皇帝が、酔って少年だったゼノビアスのまえで皇后をくびり殺したという前代未聞の事件があった。
 おもてむきは病死と発表されたが、そのことを知らぬ人間は宮殿にはもちろん、帝国領土、版図内にはひとりとしていない。その当時、ゼノビアスはわずか十歳。父が母を殺すという惨劇をまのあたりにして育った皇太子は、幼少のころから不吉な影をまとっていた。
 もともと英邁えいまいではあったが暴将としても大陸に名をしられた権力者の嫡子だけあって、ごく幼いころから我がまま尊大で、ささいなことで召使を鞭打ったり、子犬や馬を打ち殺すなどの過激なところはあったが、五年前皇帝が急死し、宮殿内で誰も彼をおさえる人間がいなくなったころから、いっそう彼の残虐性は強くなっていった。
 今も金糸銀糸の縫いとりもあざやかな衣に身をつつみ、わずかに化粧をほどこしたゼノビアスは、腰までのばしている黄金の髪といい、赤く染めた爪といい、女性的というよりもほとんど魔物的なところがあり、それがまたいっそう彼の背徳性をつよく印象づけ、全身から強烈な邪気をかもしだしている。気の弱い侍女などは目を向けられただけで、おびえてふるえてしまうほどだ。
(まぁ、性格の悪さでは俺も皇帝のことを言えないのだがな)
 タキトゥスは内心で苦笑しながら純白の衣の膝を床について臣下の礼をとり、用意していた口上をのべた。
「アルゲリアス第一軍隊総将軍タキトゥス=ディルニア、お召しにより参上いたしました」
「うむ。大儀じゃ」
 玉座にひかえていた側近が、白絹につつまれた酒樽のように肥えた腹をゆらした。
「おお、タキトゥス、よくぞ戻ってきたのう」
 声の主を見上げてタキトゥスは舌打ちしそうになる。
「叔父としてうれしいぞ」
「これは、ドノヌス叔父上」
 ドノヌス=ディルニア。叔父といっても、両親を失って孤児となった彼をひきとってくれた養父の弟で血のつながりはなく、温情家であった養父とは似ても似つかぬ愚物だとタキトゥスは内心軽蔑しきっていた。
 育ててくれた養父は古い家柄の貴族であり、血のつながりがないタキトゥスに三官という地位をのこしてくれたのだが、後見人という名目をかさにきて、今よりさらに若かったタキトゥスが手続き事にうといのをいいことに、いつの間にかドノヌスがその地位をうばってしまった。
 もともと血筋で言うなら弟であるドノヌスが位を受けついで当然なのだろうが、賄賂をばらまいて役所や議会をだまらせたやり方にタキトゥスは鬱憤を感じてしかたない。
 文にも武にもたいして秀でたところのない男だが、やたらと皇帝や宮殿の権力者たちにとりいるのがうまく、いつのまにか皇帝の第一側近としての地位を築いてしまい、帝国一のたんとしても悪名たかい。タキトゥスはドノヌスのたるんだ頬を見て、内心で唾棄した。
「我が甥よ、イカラスではよい土産をもちかえってきたそうじゃが、一足おそかったな」 
 いぶかしむタキトゥスにゼノビアス帝は含み笑いをむけて、かたわらの卓上の銀の鈴をならした。
「余はもっとおもしろいものをドノヌスからもらったところじゃ。見てみよ」
 黒衣をまとった痩せた小柄な男が背をまげてあらわれた。宮廷の雑務をこなす宦官であり、彼の手には長い革紐がにぎられている。
 なにごとかと目をこらしていると、やがてひらかれた垂幕のあいだから白いものがあらわれ、思わずタキトゥスは息をのんだ。

 それは、革紐を首にくくりつけられた、十五、六歳ほどの全裸の娘であった。  
 ととのった顔には念入りに化粧がほどこされ、耳と首元には金銀細工の豪華な飾り玉がきらめいているのが異常に生々しい。
 あわれにも四つんばいを強いられた娘は、肩からゆたかな栗色の髪をたらし、その毛先を小刻みにふるわせていた。その目にはひたすら絶望がきらめき、頬は羞恥と屈辱に赤く染まっている。
「どうじゃ、余のあたらしい飼い犬は? 生まれは東の属国タグルでな、名はエメリア。タグル国王の三番目の姫じゃ。ほれ、エメリア、良い声で鳴いてみよ」
「ひっ……、く、くぅーん」
 硬直しているタキトゥスのまえで、なんと異国の王女は犬がよくそうするように手をまるめて上体をあげた。涙で化粧はくずれかけている。
 タキトゥスは一瞬、生まれてはじめて船に乗ったときのように、頭のなかが、ぐらり、とゆれた。
 もともと皇帝の悪趣味は有名だったが、最近ますますひどくなり、ほとんど狂人にちかいところまできているのではないかと臣下たちは囁いている。それをいさめる良識的な側近はつぎつぎと遠ざけられ、彼の異常性におもね、残酷さをあおるような者だけが宮殿で幅をきかせているとディトスが嘆いていたことも思い出された。
 幾多の戦で血を見てきてタキトゥスですらえんに背が寒くなる。
 タキトゥスだとて戦場で数えきれないほどの敵兵を殺しもしたし、侵略し主権をうばったあと、没落王家や貴族の子弟を処刑したこともあったが、それらはみな、帝国を強くするためである。命令によって挑んだ戦場や敵国では殺さねば殺され、後々の政情を考えて不穏分子を摘む必要があったからであり、攻められた方にしてみれば一方的で身勝手な理屈に思えても、彼なりにこの戦乱の時代を生きるために必要なことであったのだ。あくまでも彼の理屈だが。
 だが、これは、必要があることだろうか? 
 目のまえの美しい、哀れな〝ひといぬ〟を見てタキトゥスはふたたび吐き気をおぼえた。仮にも異国の王女をこのような形でおとしめていいものだろうか。
 おもしろい玩具を得てよろこんでいる皇帝が、娘の白い尻を、真珠の留め金のついたサンダルの先でつつくのを見た瞬間、タキトゥスは激しい憎悪をおぼえた。
 だが、考えてみれば、馬の背にほとんど全裸のイリカをのせて晒しものにした自分も、この狂いかけているゼノビアス帝と同類だったことに遅ればせながら気づいた。
(俺も、この狂帝と同種の人間か?)
 胸にひろがるこの憎しみは、実は同類嫌悪なのだということにタキトゥスは思い当たった。
 自分自身の異常性を見せつけられる思いで、タキトゥスはおぞましい皇帝のお遊びを呆然と見ていた。呆気にとられているタキトゥスのまえで皇帝は悦に入ったように、宦官に遊び道具をもってこさせる。
 それを見た娘の顔は一気に青くなる。
 まともな人間なら目をそむけたくなるような醜悪な形の張型で娘の陰部をつついたかと思うと、金銀の玉を肛門につめてみたり、娘が嫌がって泣くと喜々として細い背を鞭でたたいたりもする。
 大理石のつめたい床の上に娘の泣き声と肉を打つ無残な音にまじって、皇帝の哄笑がひびきわたる。
 ふと気づくと、ドノヌスは涎をたらさんばかりに興奮して娘の哀れな姿を食い入るような目つきで見ており、扉付近にひかえている宦官たちも興味津々で不幸な異国の人質の哀れきわまりない醜態をおもしろがっている。
 後宮にも出入りし宮殿の雑事一切をこなす宦官というのは不思議な人種で、男性器を喪失したこの異形の男たちは、一種異様な雰囲気をたちのぼらせている。
 彼らのおおくは異国から買われてきた奴隷や戦で捕虜となった敵兵たちだが、皇族に仕える者のなかには、出世をあきらめた貧しい貴族の子弟もおおい。器量のまさった者もいるが、歳を経るにつれ腰がまがり皺がふえ外見がひどく衰えてしまう者が圧倒的におおく、そんな大猿のようにひょこひょこと廊下を行きかう彼らを見ると、タキトゥスは生理的嫌悪をおぼえずにいられない。今も哀れな虜囚の娘に一片の憐憫も見せず、ぎょろっとした目を光らせている彼らを見ると、蹴り散らしてやりたくなる。
 ふたたびタキトゥスは背が寒くなってきた。皇帝が狂っているなら、側近も従者もみな狂っているのだ。
 宮殿じゅうの人間が狂っているような、あながち錯覚とはいえない感慨が、はじめてタキトゥスを芯から恐れさせた。
 ディトスの声がまたよぎる。
(タキトゥス、おまえも狂いかけている)
 タキトゥスは皇帝の狂乱をとめることもできず、ただ怖気を感じながら不憫な奴隷少女の泣き声を聞きつづけた。

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