帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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奥室

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 今宵一晩はゆっくりくつろぎ旅の疲れをいやしてから明日は登城するように、という皇帝からの文をタキトゥスは片手でにぎりつぶした。
 象牙色の卓におかれた銅杯の酒を乱暴な仕草で一気に飲みほし、そのまま杯を大理石の床にたたきつけてやりたい気分になった。
 皇帝からの文はいたわりよりも、今回の戦でのろんこうこうしょうから彼がしめだされていることをほのめかしている。
 今までにもこういうことが幾度となくおこなわれてきた。彼にかぎらず軍人が戦場で功をたてて勇み帰還してみると、どういうわけか手柄は武器をとったこともない貴族たちのものにされ、与えられるはずの地位や恩賞が、たいして功のない、だが家柄だけはいい貴族の子弟のものとなってしまっている。そんな話を聞く度タキトゥスは悔しさに歯噛みした。
 官位や貴族の位がさほど欲しいわけではないが、軍人の地位がいつまでたっても帝国で低くされるのが不満なのだ。タキトゥスは貴族に列せられることよりも、軍人の地位、すくなくとも将軍、副将軍級の戦士が貴族と同等にあつかわれ、許可がなくとも宮廷に出入りできるほどの立場を確立したいのだ。
「機嫌が悪そうだな」
 いつ来たのか柱のそばにディトスが、異国人らしい風貌の少女をつれて立っていた。少女は白い袖なしの衣をまとっていることから召使としれた。都では上流社会の女はけっして袖のない衣はまとわない。 
「都の大通りでは今夜一晩すごい騒ぎになりそうだぞ。明日の奴隷市はさぞにぎやかになることだろうな」
 ディトスの言葉に少女の肩がふるえた。    
「イリカはどうした?」
「奥の室にひかえさせている。なにか、言いたいことでもあるのか?」
「……タキトゥス、おまえイリカに麻薬をつかったろう? あの様子はふつうではない」
 タキトゥスはふてくされた子どものように唇をとがらせて、そっぽをむく。彼がこんな態度をとるのはこの年長の友人だけであり、やはりディトスは彼にとって唯一の親友なのだろう。
「悪いか? 俺の捕虜を俺がどうあつかおうと俺の勝手ではないか」
「タキトゥス、おまえは……どんどん変わっていくな。戦場ではどうあれ、降伏して権威をうしなった弱者をいたぶってたのしいのか?」
(あいつは降伏なぞしていない)
 タキトゥスは昨夜、今一度イリカに奴隷宣言書に署名することを命じたが、ほとんど魂をこわされる寸前となっていても、イリカは最後の気力をふりしぼって拒否した。
 業を煮やしたタキトゥスは今朝イリカを馬に乗せるまえに、今までに使った媚薬よりはるかに強烈な麻薬を吸わせたのだ。意志も判断力もなくしたが、だが、かすかに意識がのこされた状態でイリカにあのおぞましい恥辱をあたえた。麻薬の効き目がとけて完全に意識を回復したとき、彼はもはや自分が奴隷として生きるしかないことをわきまえるだろう。
「それが敗残者の道なのだ。負けたのが罪なのだ。弱いのが悪いのだ」
 ぽとり、とうつむいている少女が涙を床に落としたがタキトゥスは目もくれない。
「では、おまえの母上も悪いのか? か弱い女子に生まれたことが罪だったのか?」
「……母の場合はちがう」
 タキトゥスは一瞬、硬直した。
 タキトゥスは幼いころ両親とともに国境ちかくの農村で暮らしていた。父が国境警備隊長だったのだ。
 父はタキトゥスが八歳のとき、責めてきた蛮族と戦って殺され、母もまた敵に輪姦され殺された。
 タキトゥスは敵が扉を蹴りやぶって侵入してくる直前、母が必死に戸棚の後ろにある、万が一に備えてつくっておいたかくし部屋に押しこんでくれたおかげで生きのびることができたのだ。だが、せまい暗闇のなか、野獣のような男たちが母をむさぼりつくし咀嚼しつくす音を否応なしに聞かされた。
 その後なんとか助かったタキトゥスは父の上官であった義父にひきとられ都で育ったが、歳月は彼の心の傷を癒してはくれなかった。 
 あのときタキトゥスのなかで何かがこわれたのだ。
 戦で無残に殺された母子の死体を見ても何も感じないときは、心の一部が凍って凍傷を起こしているようでもあり、ぎゃくに馬を駆けさせみずから剣で敵兵を殺戮しまわるときは、心の奥から沸騰した湯がわきあがって、全身を炎につつまれているような黒い情熱に満たされている。
(俺はもしかしたら、あのとき、人間ではなくなったのかもしれない。人であることよりも戦士であり、戦士であることよりも復讐者であることを選んだのかもしれない)
 柄にもなく自分の過去と行動をふりかえり己を分析しながらタキトゥスは、戦っているときと他者を傷つけているときだけ生きている気がする我が身が、すこし恐ろしくなった。
(このままいったら、どうなるのか?)
 そんな不吉な予兆も感じる。
 ――タキトゥス様も、惨いことをなさる。
 戦を生きのびて母の代から仕えてきてタキトゥスが爺と呼んでいる召使が、イリカの室をととのえながら嘆息してもらした一言が、夕食をとったあともタキトゥスの耳にこびりついてはなれない。
 ディトスが来たのも、おそらくはタキトゥスの風評が、捕虜への仕打ちによって、一部で落ちていることを懸念して注進にやってきたのだろう。大きなお世話だ、と口をひらこうとした瞬間、ディトスが頭をさげた。
「たのみがある」
「なんだ?」
「この娘は弟をさがしていてな、名をパリアヌスというのだが、俺の部下がしらべたところでは明日、奴隷市で競りにかけられることになっているらしい。歳は十二で、この娘とおなじように亜麻色の髪に紫色の瞳。肌は白い。つまり、なかなかの美少年だ。俺の軍功とひきかえにしてもいいから、その少年をゆずってくれないか?」
 思いもかけないことをたのまれ、タキトゥスはするどい目をいつになくまるめて友人を見た。
 戦で得た捕虜は戦功として臣下にあたえられることもあるが、おおくは奴隷として売られ、その代価は国庫へいくことになっている。
 総大将であるタキトゥスにとっては融通をつけて奴隷を横ながしすることはたやすいが、ディトスは今までそういったことはいっさいしない男だった。
「パリアヌス、というのだな? 今夜じゅうにさがしだして明日にはおまえの屋敷におくろう。しかし、めずらしいな? どうするつもりだ? その娘と、つがいの奴隷としてたのしむつもりか? 怒るな、冗談だ。わかっているさ、おまえが帝国一、潔癖な軍人だということはな」
 ディトスはパリアナを見てからタキトゥスにあおい瞳をむけた。
「……タキトゥス、おまえには話したことはなかったかもしれないがな、俺には母親のちがう妹がいたのだ」
「それは……、初耳だな」
 意外な話でタキトゥスは神妙な顔になった。
「母親が奴隷女だったから田舎の小さな家で育てられた。ときおり父がその家にかよっていて、ごくまれに俺もいっしょに異母妹に会いに行ったことがあってな。俺とはまったく似ていなくて可愛い娘だった。年頃になって結婚の話がもちあがった。相手は都の大きな商家の跡取り息子で、奴隷女の娘にしては幸運な縁談だった」
 ディトスのやさしい瞳がなつかしい季節を追いかけ蝋燭の明かりをはねかえすのを見て、タキトゥスは一瞬、揶揄にゆがめた唇をすぐひきしめた。なつかしむのは、それが失われたものだからだ。
「あの年のあの戦、帝国領内まで敵が責めてきたとき……逃げおくれて」
 〝あの年〟、〝あの戦〟という二つの言葉は帝国人、とくに軍人にとって、百年ちかくにわたって他国の侵害をゆるさなかったアルゲリアス帝国領土が踏みにじられた年、という驚愕と屈辱の意味をもち、古傷を思い出させる語である。
 タキトゥスにとっても、国境警備隊の隊長だった父が戦死した年であり、母が蛮族に殺された戦である。ディトスもそのとき大事なものをうしなっていたのだ。
「今まで、一度も言わなかったではないか?」
「言えば厭なことを思い出す。俺は、憎しみに月日を奪われるのはむなしいと思うのだ。もちろん、今の時代に帝国軍人の息子と生まれたからには、その運命と祖国に忠実でありたい。だが必要以上に怒りにまどわされたくはないのだ」
「……俺とおまえとではちがう。異母妹と母ではちがうし、なによりおまえは異母妹が嬲られるところを見ていたわけではないだろう。したたる血の匂いを、肉親の血肉が床にばらまかれた様を目のあたりにしたわけではないだろう」
「……そうだな、すまん」
 お互い同じことを感じていたろう。これ以上はあらそいたくない、と。
「では、パリアヌスのことをたのむ」
「引き受けた」
「あ、あの!」
 ディトスの濃紺の衣の裾がひるがえされるや、それまで存在すら忘れられていた少女が異国のなまりある言葉でうったえた。
「ご無礼を承知でお願いいたします! な、なにとぞ、イリカ様にお目通りを」
「パリアナ」
 少女は決死の覚悟をひめて薄紫の瞳でタキトゥスをせいいっぱいにらみつけている。   
「……よかろう、会わせてやろう」
 
 養父からゆずり受けたその屋敷は、壁漆喰かべしっくい柱廊ちゅうろうも白でまとめられ、さらに家具調度品もすべてマホガニーで統一された、軍人にしてはなかなか洒落た雰囲気の建物であるが、まだ妻帯していないタキトゥスには家族がおらず、わずかな使用人のみが影のようにひかえているだけで、華やぎにかける空気の冷めた場所だ。
 その最奥の室に、異国からつれかえった美貌の捕虜がとらわれていた。
「この奥だ」
 タキトゥスにそうは言われたものの、パリアナのサンは大理石の床にすいつけられるように動かなくなってしまった。
 品の良い屋敷のなか、白い霧のような白繻子しろしゅすで仕切られたその室内だけは、なにやら得体のしれぬみだらな風に染められているようで、乙女であるパリアナは息苦しさをおぼえた。 
 おそるおそる薄布をめくり、熱気のこもる室内にしのびこむ。
「イリカ様?」
 うすべにいろの天蓋つきの豪奢な寝台のうえでうごめくものがあった。

(ああ……)
 パリアナは涙ぐみそうになった。
 ゆっくりと起きあがったイリカは、かつて島の神殿で遠目に見た、あの神々しいほどの聖人とは、あまりにもかけはなれていた。

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