鬼百合懺悔

文月 沙織

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乗馬鞭

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 わたくしは寝不足がたたってだるい身体で無理をして、いつものように何ごともない顔で廊下の雑巾がけをしておりました。けれど、頭のなかは昨夜のことでいっぱいで、心がうつろになっていたのを美紀に見咎められてしまいました。
「お清さん、お身体の具合でも悪いんですか?」
 美紀は浅はかではございますが、悪い娘ではございません。わたくしを見る目は心配に曇っております。
「ええ、あの、ちょっと暑気あたりみたいで」
「大事にしてくださいよ。お清さんになにかあったら、このお屋敷は、」
 と言いかけて美紀は口を閉じました。細い一重の目がきまり悪そうに伏せられます。
 気づいているのでございます、この娘も。この家が今普通でないことに。
 そんな使用人たちの想いを知ってか知らずか、今日も奥様の部屋からはのどかに琴の音が響いてまいります。本当に、あの音が響きわたると、この世が別の世に変わっていくようでございます。
 わたくしは、ふと先の奥様が生きていらしたころのことを思い出しました。戦争中ですら疎開先の別荘で、奥様は白いご飯を平然とお召し上がりになっていらっしゃったものでございます。おなじ屋根の下に住んでいても、わたくしどもは麦飯で、それでも当時は、食べるものがあるだけでも大変な僥倖ぎょうこうだったのでございます。
 この世にはそういうたぐいの女性がいるのだと、わたくしはつくづく思い知らされたものでございます。
 今の奥様もやはりそういう類の方なのでございましょう。
 道子奥様は七色なないろの雲のうえで優雅に琴をかなでられる吉祥天女なのでございましょうか。けれど下界をさまようわたくしどもは泥にまみれて今日もこの濁世を生きねばなりません。

「あら、雨かしら?」
 夏の夕立の気配を感じて美紀が眉をしかめました。
「あら、大変、洗濯もの取り入れないと。美紀、あんたは縁側の戸を全部閉めてちょうだい」
「はい」
 急いでわたくしは庭の洗濯物干し場に向かいました。その辺りは門がある表側からはちょうど裏側になり、奥様はめったに来られないので、鬼百合がかなり群生しております。あの、猩々緋しょうじょうひの色に墨を吹いたような鬼百合の花が、ぽつり、ぽつり、と落ちてきた大粒の雨にうなだれる様は、どこか気性激しい美女が打擲ちょうちゃくされて苦しむようで、官能的な絵のような風景でございます。
 平時なら、それはそれで美しいものに思えたかもしれませんが、今日のわたくしにはなにやら不吉なものに感じられました。
 思えば、猩々緋という色は、もとは猩々という中国の伝説の大猿の血で染めた色という意味らしく、その名の色をもつ鬼百合という花は、見れば見るほど、不気味で不吉で、それでいてやはり華やかで見る者の心を惹きつけるところがございます。
(知っているか、お清、鬼百合というのは、英語ではタイガー・リリーというんだよ。虎百合という意味だ。どちらにしろ、勇ましいものだな。強く、美しく、けれど、ちょっと怖い。誰かさんみたいだな)
 そう言って笑っていたあの男のことを思い出します。誰かさんというのは、今、思えば奥様のことなのか……。
 雨は本降りになり、わたくしは我にかえり、大急ぎで仕事をこなしました。
 どうにか籠に洗濯物をすべてほうりこみ、濡れないように屋内へもどると、ふと、気を引かれる想いがしたのは、虫の知らせというものでございましょうか。気がつけば、わたくしは脱いだサンダルをもう一度はき、裏庭へと向かっておりました。
 裏から出ると、すぐあの関守石が置いてある辺りになります。関守石も、突然の夕立に濡れて黒く涼し気に見えます。
 庭木も石もみな突然の夏の雨に濡れて、様変わりして見えますが、わたくしが気になって仕方ないのは、離れでございます。
 離れの辺りを傘もささずに歩き、どこにも須藤がいないのに安心しました。この時刻は、お嬢様はお昼寝されているので、起こさないように室には入りませんでした。音をたてないように気をつけながら、わたくしは離れの縁側の戸もすべて閉めました。
 須藤がもしや、お嬢様の部屋に行ったのではないかと余計な心配をしてしまったわたくしは、己の取り越し苦労を笑いながら、雨のなか踵を返そうとしましたが、そのとき、視界に、物置小屋がはいりました。
 竹林を背にたつ物置小屋は、以前は薪などを保存しておく場所であり、今では掃除道具などをしまいこんでおり、めったに開けることもございません。けれど、小屋のちいさな四角の格子窓から、たしかに黒っぽいものが見えた気がして、わたくしは恐る恐る足をすすめておりました。

「あっ……ああ」
 聞き覚えのある声が聞こえてきて、わたくしはまたも全身が凍るような心持ちになりました。
 ああ……、やはりという想いもわきます。
 じりじりしながら格子窓からそっとなかの様子をうかがうと、そこにいたのはやはり須藤と……坊ちゃまでございました。
「や、やめ、もうやめ」
 竜樹坊ちゃまは立ったまま四角の柱につながれて手を後ろで戒められているようでございます。
水色のシャツはボタンをすべてはずされ、坊ちゃまの品のある雪柳の色の肌があらわになっております。下肢は、下着ごとズボンをおろされ、不様に足元にからみつくように落とされておりますが、ここから見ると、まるで大蛇が坊ちゃまの足首にからみついて責めたてているようでございます。それは一幅の春画のようでございました。
「し、坊ちゃん、しずかに」
「ひっ」
 ここからは全ては見えませんが、どうやら須藤が手にしているのは乗馬用の鞭のようでございます。
 以前、旦那様やご親戚の方は、この近くにある馬場で乗馬をたのしんでいらしたことがあったのでございますが、最近はすっかり飽きられて、物置小屋にそのときの道具をすべてしまいこんだままにされていたのでございました。須藤はその道具をつかって、坊ちゃまをいたぶっていたようでございます。黒いシャツを着た須藤が鞭を片手に微笑む姿には、ぞっとするものがございます。わたくしは足が震えてまいりました。
「は、はなせ、馬鹿! こ、こんなこと、許さないぞ!」
 今日は昼間だけあって、坊ちゃまもいつもよりは強気でございます。白いお顔を悔し気に赤く染め、いつもはどこか意志のよわそうな榛色の瞳を、憎しみと怒りに琥珀のようにつよく燃えたてさせております。こんなときですが、わたくしはあらためて坊ちゃまをお美しいと感心しました。けれど、いつになく気強そうな表情と態度は、かえって須藤の情欲をあおったようでございます。

 ピシッ――。

「ひいっ!」
 空を切るような音が響いたかと思うと、坊ちゃまは柱に縛られたままの身体をふるわせられました。それでも負けん気に全身を緋色に燃やして、なお坊ちゃまは言いつのりました。
「と、父様が帰っていらしたら、お前を絶対にクビにしてやるからな!」
 ふふふふふ……。
「あっ、ああ!」
 須藤が何をしたか察せられました。
 鞭の先で、坊ちゃまの、まだ初々しい少年のきざしを、下からすくうようにして、いじっているのでございます。
「あっ……、ああ、やめろぉ」
 坊ちゃまが柱に背をすりつけるようにして、いやいやをされます。
 急所とは、よく言ったもので、そこをいじられると、どうにもならないようでございます。それでも必死に虚勢を張って、坊ちゃまは須藤を睨みつけられました。今日の坊ちゃまは、なかなか頑張られます。
「や、めろよぉ……。ほ、本当だぞ、本当に父様に言いつけてやるからな! おまえは、牢屋に入れられるかもしれないぞ」
 涙声になりながらわめく坊ちゃまに、須藤はいっそ嬉しそうな声をかけます。
「旦那様のお許しは得ています」
「……」
 わたくしは胸が裂けそうになりましたが、須藤は滔々と語ります。
「一人息子のせいか、どうも竜樹は気が弱く甘えん坊で我が儘なところがある。家には女ばかりだから、おまえが竜樹を厳しく躾けてやってくれ、と旦那様から言われてきたんですよ」
「う……」
「いいんですよ、坊ちゃんが言いたければ旦那様に言っても。でもね、」
「あ……」
 鞭の先が、坊ちゃまの野苺のような胸の突起に触れます。
「そうしたら、私も坊ちゃんが夜に女の恰好をして庭を歩いていることや、私のお仕置きに可愛い声で泣いたことも、全部旦那様にお知らせしないといけませんね。旦那様だけではなく、旦那様のしたで働いている安治さんにも報告しないと」
「や、やめろ!」
 その名が出たことにわたくしの心臓は一瞬、鼓動を打つことを忘れておりました。
 坊ちゃまの立場を狙ういわば敵のような男に、ぼっちゃまのこの秘密を知られたら……そう想像して身体を震わせているのは、わたくしだけではございません。坊ちゃまは硬直されて赤くなっていたお顔を、真っ青にされています。
「安治さんや、叔父さんたちが、坊ちゃまにそんな趣味があることを知ったら、さぞびっくりなさるでしょうね」
「よせ、よせったら! 誰にも言うな!」
 坊ちゃまはまたお顔を赤くされて、必死に抗弁なさります。そんな坊ちゃまの胸や、腰のあたりを、須藤の鞭はたのしむように這いまわります。
「ああ……ん」
 顎下、首、胸、腹、太腿、膝、と順番に這いまわった鞭先は、最後に坊ちゃまの若い芽の先へともどってまいります。そして、淡い繊毛をからかうようにつつき、ふたつの果実の手応えをたのしみ、坊ちゃまの頬をいっそう赤くさせます。
「い、いたい、やめろ!」
「これは、躾けです、坊ちゃん。我が儘で甘ったれの坊ちゃんを私がきびしく躾けなおすんです」
 ぴしゃり――。
「ひぃ!」
 かるく空を切る音がはしったあとに、坊ちゃまの悲痛な叫びが聞こえます。
「わかったら、もっと足を開いて。開けるでしょう? ああ、ズボンが邪魔ですね」
「い、いやだ」
 須藤は坊ちゃまの足にからみついているズボンを脱がしてしまいます。片方の靴は脱げてしまいましたが、黒い靴下はそのままという、かえって全裸にされるより卑猥な格好を強いられてしまいました。
「よせ、よせったら!」
 木柱に背をこすりつけるようにして坊ちゃまは拒絶を示されますが、淡くはしばみ色がかったうすい繊毛せんもうの中心で、坊ちゃまの可愛らしい少年の象徴は須藤の鞭先になびくように頭をもたげてまいりました。
 わたくしは唾を飲みこみ、体の震えをおさえるのが精一杯でございました。
 
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