煉獄の歌 

文月 沙織

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奈落にて 一

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 雨の音はもう聞こえない。
 ひどく肌寒い。そして、背が痛い。
 辺りは闇だった。すでに日は暮れているのだろう。かすかに、聞こえてきた音楽が、敬の鼓膜に忍び入る。
ものげで、気だるいような、それでいて、悲しいメロディー。聞き覚えのある曲だ。
(兄貴もよく聞いていたっけ……)
 思考が少しずつしっかりしてきて、思い出した。有名なジャズだ。
『朝日のあたる家』だ。
 古風な和風旅館めいたこの屋敷でジャズというのは、ひどく不似合いだが、それでいて、娼館のことを謳ったその曲は、ひどくふさわしい気もする。
 勇は武道やスポーツに優れている一方で、音楽や文学にも精通しており、そんなところも敬は憧れていた。
 生前、父がどれほどすすめても兄は大学へは進まなかった。下手に知識を得てしまい、当節出てきだしたインテリヤクザにはなりたくない、というのが勇の言い分だ。つねに極道世界の現場で第一線にいたいのだ、と。学歴を持ってしまうと、どうしても我が身大事になってしまうから、と。そんな幹部ヤクザもいる。
 敬は兄の横顔を脳裏に思い浮かべている自分を叱咤しったし、起き上がることに専念した。
 手足は痛むが、すでに戒めはほどかれており、のそのそと、どうにか身を起こす。くずれた襦袢のうえに、毛布が一枚かけてあったのは、晩春のこの時期にはありがたい。
(いや、いっそ風邪でもひいて肺炎になって、死んでしまった方がもうけものだったかもな)
 そんな自虐と自棄めいた考えにとりつかれてしまうのは、いかに気の強い敬も、瀬津の責めがかなりこたえている証拠だった。
 暗い室内で一人ぼんやりと座っていると、たまらなく惨めで情けない気持ちになってくる。狭い部屋が地獄のどん底のように思えてくる。昔の女郎は勤めが終わるたびに、こんなやるせない想いを抱いていたのだろうか。
 敬が物思いにふけっていると、かすかな物音がして、引き戸がひかれた。
 奈落の底に、かすかな光が入ってきた。
 廊下の電球が、侵入者の顔にあわい光を投げかける。
 敬は咄嗟に毛布を胸元に引き寄せていた。
 こんな仕草は男が取るべきものではない。瀬津によって受け身の身体に造り変えられつつある証しであり、数秒遅れてそのことに気づいた敬は悔しさに内心地団駄じだんだ踏みそうになった。
「あの……」
 入ってきたのは、敬のように襦袢一枚まとった女だった。
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