【R-18】キスからはじまるエトセトラ【完結】

田沢みん

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【番外編】

新しい命のお話 (1)

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「天馬先生、せっかくお休みを取ったのに残念でしたね」

 手術室の手洗い場で手を洗いながら、隣から辻が話しかけてきた。

「まあ仕方ない。初産は予定日より遅れることが多いらしいからな」

 肘関節まで丁寧に洗い、消毒液を指先に擦り込みながら天馬が答える。

 口先ではそんな風に答えながら、天馬も内心では悔しくて悔しくてたまらないのだ。

ーー本当だよ! 何のために無理やり2日間の休みを取ったと思ってるんだよ!

 今日は5月26日。
 楓花の出産にどうしても立ち会いたかった天馬は、可能な限りの仕事を全部前倒しして、出産予定日の24日とその翌日の25日に休みを取った。

「初産は遅れることが多いって言うし、天馬は普通に仕事に行ってくれていいのよ」

 楓花はそう言っていたけれど、陣痛が起こる瞬間や破水の瞬間、全ての大事な出来事は可能な限り側で見ていたいし、頭の中の楓花とのメモリーファイルにしっかり保存しておきたいのだ。
 それに病院にだって自分が付き添って、ずっと手を握っていてあげたい……。

 だからその2日間に賭けていたのだけれど、どうやら自分は賭けに負けたらしい。
 2日間、いつ来るかいつ来るかとドキドキしていたけれど、ついぞその兆しは訪れなかった。


「せっかくお休みを取ってくれたのにごめんね」

 今朝、玄関でお弁当箱を手渡しながら、楓花は心底申し訳なさそうな顔をした。

「何言ってるんだよ。2日間もゆっくり楓花と過ごせて俺は嬉しかったよ。出産前の楓花ももう見納めだからな」

 楓花にニッコリと微笑みかけて行って来ますのキスを交わすと、すっかり大きくなったお腹にもチュッと一つキスを落として玄関を出て来たのだった。


 今日の手術は腹腔鏡による幽門側胃切除術だ。食道と小腸を吻合ふんごうする手技が難しいため、執刀医が天馬、補助に辻が入る。

「……よし、行くぞ」
「はい」

 楓花のことが気になるけれど、手術の時はそんな事を考えている場合では無い。
 脳裏に何度も叩き込んだ病巣部位と手術手順を思い浮かべ、目の前の患者に意識を集中させた。


 それは手術開始後1時間半ほど経った時だった。
目の前の3Dモニターを見つめながら慎重にメスを進めていると、手術室の自動ドアがスッと開き、術衣を着た男性が入って来た。

「天馬、交代だ」

 手術に集中していた天馬は、突然横から聞こえて来た声に「えっ?!」と目を向けたけれど、その声の主が宗馬であると分かると、瞬時に状況を悟って、興奮で目を大きく見開いた。

「……楓花?」
「ああ、陣痛が起こった。母さんが付き添って病院に行っている。お前もすぐに向かえ」

 胸がドクンと跳ねて指先が震えた。たとえ残れと言われたとしても、こんな状態じゃまともに手術出来ないだろう。

「ありがとう。行ってきます」
「ああ、しっかり支えてあげなさい」
「はい」

「天馬先生、頑張って!楓花ちゃんも!」
「ああ、ありがとう。みんなも……行ってきます!」

 言いながら既に足は外へと向かっていた。

 タクシーに飛び乗って産婦人科に向かうと、既に楓花は病衣に着替えてベッドに横になっていた。

 ちょうど内診を終えた女医が、

「まだ子宮口が3センチしか開いていませんので、まだまだ時間が掛かるかと思います。初産ですと10時間や12時間はザラですから、御主人がしっかり励ましてあげて下さいね」

 そう言って出て行く。

「楓花、大丈夫か?!」

 ドクターにペコリと頭を下げてすぐに楓花に駆け寄り手を握る。

「天馬、来てくれたの? お仕事は?」
「それは大丈夫だから! 調子はどうだ? 痛みは?」

 顔を覗き込みながら尋ねると、楓花は軽く顔をしかめて、今はまだ陣痛が7分間隔なのだと教えた。

「今朝からズンと腰が怠い感じがあったから、洗い物を済ませてからベッドで休んでたの。昼過ぎになって生理痛みたいな痛みが始まって……陣痛が10分間隔になるのを待ってから病院に電話して、依子ママに連れて来てもらったの」

 天馬がパイプ椅子に座っている依子を見ると、彼女はスッと立ち上がって笑顔を見せる。

「ここからが長いと思うから、明け方まで掛かるのを覚悟なさい。楓花ちゃんは何時間も陣痛の痛みに耐えなきゃいけないんだから、あなたが夫として全力で支えてあげなさいよ」

 天馬の肩をポンと叩いてから、楓花に何か食べたいものは無いかと聞いて、近くのコンビニに買い出しに出掛けて行った。


「痛たたたた……っ!」

 突然楓花がお腹を押さえて顔をしかめる。

「楓花、大丈夫か?!」
「ん……痛い……! でも、子宮口が10センチになるまで力んじゃ駄目なんだって」

 天馬だって医者だから知識はあるし、研修医時代には産婦人科でお産に立ち会った事だってある。
 だけど自分の妻となると話は別だ。何時間もの間、こんなふうに楓花が苦しむのだと思うと、仕方がないこととは言え、見ているこっちまで辛くなる。

「俺が代わってやれたらいいのに……痛いよな……今からでも麻酔を頼んでみるか?」

 硬膜外麻酔での無痛分娩という選択肢を拒否したのは楓花だった。

『お母さんも体験して来た『産みの苦しみ』っていうのをちゃんと経験しておきたいから』

 そう言っていたけれど、こんなに辛そうにしているくらいなら、薬を使って楽に産んだ方がいいんじゃないだろうか……と単純に思う。

 だけど楓花は首を横に振った。

「ううん……頑張る」
「だけど……」

「天馬は今日はずっと側にいられるの?」
「心配するな。今日でも明日でも……生まれるその瞬間まで、絶対に離れない。ずっとここにいるから」

 瞳を覗き込みながら、両手にグッと力を込める。

「そっか……それなら頑張れる。ありがとう」

 額に薄っすら汗をかきながらもニッコリと微笑んで見せるいじらしい姿に、胸が締め付けられる。

 定期的に訪れる激しい痛みに顔を歪ませる姿に自分の方が泣きそうになりながら、彼女に飲み物を与え、タオルで額の汗を拭き腰をさすり、手を握り続けた。
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