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3、さらば引き籠り生活

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 月白楓花つきしろふうか、22歳、無職。
 自分で無職と名乗るのは忸怩じくじたるものがあるけれど、実際そうなのだから仕方がない。
 これでもつい半年前までは保育士という肩書があったのだけれど……。


 楓花は高校卒業後、地元の名古屋を出て東京の短大へ進学し、卒業後はそのまま地元には帰らず、東京の保育園で保育士として働いていた。

 

 

「せんせー、 健太けんたくんが噛んだ~! 」
「えっ、 健太くんが?! 」

 それは半年ほど前のこと。楓花が保育士となって2年が経っていたある日、園児の1人がクラスメイトの腕を噛んだ事から始まった。


しょうくん、ちょっと見せてね」

 楓花が翔のスモックの袖を捲って見ると、右腕にくっきりと歯型がついている。薄っすら赤くなっているだけで出血には至っていないから、病院に行く程では無いけれど……。

ーーああ、まただ。ちゃんと見てたつもりだったのに……。

 お漏らしをした園児の着替えに行っていた、ほんの数分の出来事。他の保育士だって外で見守りをしていた。
 だけどこれはクラスの担当である楓花の責任だ。


 楓花が受け持つ3歳児クラスには、『噛み癖』のある園児がいる。健太という名前のその子は、両親の離婚により父親の実家に引っ越したため、9月末という中途半端な時期に転園してきた男の子だった。

 登園初日に健太の父親が語ったことを思い出す。

『それではよろしくお願いします。お恥ずかしい話ですが、妻との離婚の際にはかなり揉めまして……そのストレスからか、健太に噛み癖がついてしまったようで……』

『噛み癖……ですか』

 楓花の問いに、父親が頷いた。

『はい。前に通っていた保育園でも、それでトラブルになりました。今は僕の実家に引っ越してきたばかりなので、健太が新しい生活に馴染むまでご迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします』

 楓花は健太の父親の言葉を思い出し、 翔の前にしゃがみ込むと、 彼の頭を撫でながら言った。


「翔くん、噛まれて痛かったね。これから消毒してガーゼを貼るね。健太くん、翔くんに謝ろうか」

「嫌だ!そいつがいつまで待っても砂場のスコップを貸してくれないから……」

 楓花は小さく溜息をつく。健太の言っていることは本当だろうと思う。
 この園の近くには電気機器の専門商社の社宅があり、そこに住んでいる子供が何人か通ってきている。翔の父親はその会社の部長。

 夫の役職がそのまま母親の序列になり、その影響が園児の力関係にも及んでいるわけで……。
 翔が『お山の大将』よろしく他の園児を見下したり威張ったりしているのはいつもの事で、今回もそれを発揮して砂遊びの道具を独り占めしていたのだろう。

 健太がそれに腹を立ててしまったというのは容易に予想がつくけれど、それにしたって噛んで良いわけではない。


「健太くん、腹が立つのは分かるけれど、噛むのは良くないよ。翔くんの腕を見たでしょ? 痕がついてたよ。健太くんだって痛いのは嫌でしょ?」

 どうにか説得して健太から「ごめん」の一言は引き出せたけれど、逆に翔がオモチャの独り占めについて謝ることは無かった。

 先輩保育士に報告したら、母親を恐れてか翔の怪我を気にするばかり。

ーーそりゃあ噛むのは良くないけれど、健太くんは親の離婚で傷ついて不安定な時期なんだし、翔くんの我が儘だって問題だと思うんだけど……。

 そんな気持ちが言葉にも出てしまったんだろう。お迎えに来た翔の母親に事情を説明した時に、ついつい健太を庇うような事を言ってしまったのだ。


「子供たちから目を離して本当に申し訳ありませんでした」

「全くだわ。ちゃんと見ててもらわないと困るわよ! 健太くん、この前も他の子を噛みましたよね。本当に恐ろしい。うちの子には非が無いのにこんな怪我させられて……どう責任取るつもり?!」

「本当にすいませんでした。 でも、 健太くんも新しい環境で精神的に落ち着いてないんだと思います。 今日は何度頼んでも翔くんがスコップを貸してくれなかったようで、それで腹を立てて……」

 これがいけなかった。

「だから若い先生って嫌なのよ」
「えっ?! 」

「トラブルの対処もちゃんと出来ないし、若い父親に色目を使うことばかり考えて園児の贔屓をして……」
「そんな……」

 確かに健太の父親はまだ30台前半で、いつもスーツをビシッと着こなしている素敵な男性だけど、だからといって特別な目で見たことも、ましてや色目を使ったことなんて無い。

 だけど……その母親が園児の保護者の中心的存在だったため、これをきっかけに、母親たちの陰口が始まったのだ。

 これ見よがしに嫌味を言われたりヒソヒソ話をされたり。
 挙げ句の果てには地域のコミュニティーサイトに楓花の誹謗中傷の投稿までされるようになった。


『バツイチの父親に色目を使っている』
『若いだけが取り柄で頼りない』
『園児のえこ贔屓をする』
『危なっかしくて安心して子供を預けられない』

 園長や他の同僚は、同情こそするものの、庇ってはくれなかった。
 保育園だって客商売だ。仕方がない。

 そのうちに、仕事に行こうとすると胃痛がするようになってきた。 
 それがどんどん酷くなると、食欲が落ち、吐き気もするようになった。

 病院で検査しても異常は見られず、精神的なものだろうと言われるだけ。
 休職して家で静養して、2ヶ月程で症状が治まったものの、今度は怖くて職場復帰できなくなった。

 そのまま退職して家で引きこもっていたところに、 母親が訪ねてきてこう言った。

『楓花、名古屋に帰ってらっしゃい。お父さんの転勤で、お母さんたち神奈川に行くことになったの。帰っておじいちゃんのお店を手伝ってくれない?』

ーー家に帰る……それもいいかも知れない。ここで引き籠もっているよりは。


 そして実家に帰ってきた楓花は、祖父母の喫茶店でお手伝いをする事になった。
引き籠もりよりは家事手伝いの方がまだマシだ。

 なのに、帰ってきたその翌日……。
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