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1巻
1-2
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たまに事務所で冬馬さんと二人きりになることがあって、そんな時はパソコンに向かって文章を打ち込んでいる彼の横顔を密かに眺めるのが楽しみだった。
クライアントが来た時にサッと立ち上がって、イタリアブランドの細身のスーツの襟元をパッと整えるお約束の仕草が好きで、いつも見惚れていた。
そんな感じでどうにか三人で仕事を回し、半年もすると事務所は軌道に乗ってくる。兄の持ち前の社交性と愛想の良さに加え、頭が切れて仕事もできる冬馬さんの尽力もあり、徐々に顧客を増やしていったのだ。
そこで新たに事務員を一人雇うことになってやってきたのが、当時三十一歳の水口麻耶さんだ。
彼女は元中小企業の社長秘書という肩書を持つ、紅い口紅の似合う美しい女性だった。社長の息子からのセクハラで会社を辞め、以降は派遣で事務職をしていたという。
彼女が来たことで私はあっけなくお役ご免となる。たまに顔を出して手伝おうとしても、兄に「そんなことより勉強してろ」と言われ、水口さんには「私がいるから大丈夫よ」と笑顔でティーポットを取り上げられて、すっかり事務所での居場所を失ってしまった。
――冬馬さんのスーツ姿もあまり見られなくなるのか。水口さんが冬馬さんと並ぶと、美男美女でお似合いすぎて悔しいな……
「私ったら、何を言ってるんだろ」
今は兄と冬馬さんの努力が認められてきたことを喜ぶべきなんだ。水口さんが来てくれたことで、益々二人の仕事がはかどるに違いない。
私は余計なことを考えた自分を反省すると、両頬をペシッと叩いて気合を入れた。
けれど、そんなある日……
「気づいた? アイツら付き合ってるっぽいな」
兄がおもむろにこう切り出した。
「えっ⁉」
――付き合ってる? アイツら……って……
そんなの分かりきっていたのに、それでも私は聞き返す。
「それって……冬馬さんと水口さん? 本当に付き合ってるの?」
「多分な。俺にはハッキリ言わないけど、事務所にいる時もいい雰囲気だし、たまにアイコンタクトしてたり、給湯室に一緒に籠ってたりするんだ。それに元々冬馬は大人っぽい年上の女性が好みだから、タイプ的に彼女はドンピシャなんだよな~」
――年上の大人っぽい女性……
それじゃまるっきり私と正反対。
「へぇ~、そ、そうなんだ~」
「ああ、昔付き合ってた彼女も法学部の先輩だったし、アイツ、好みが分かりやすいんだよ」
いきなり目の前が真っ暗になったような気がした。
まさか自分が付き合えるなんて本気で考えていたわけじゃない。だけど、自分に向けてくれる笑顔や優しさに『ただの親友の妹』以上の感情のカケラが含まれているんじゃないかと、必死で目を凝らしてもいて……
「ふ~ん……そっか~」
――そうなのか……
長年に亘る私の初恋は、その瞬間にパチンと弾けて、消えていった。
兄が病気になったと知らされたのは、私がアメリカのボストンに留学中のことだった。
大学卒業後にすぐ働きたいと言った私に、語学留学を勧めたのは兄だ。
「これからは国際的な事案が増えてくるだろうから、英語ができればできるほどいい。俺の英語力では不十分だから、お前が本場のビジネス英語を身につけてくれたら嬉しい」
そう言われて決意した私は、大学を卒業するまでに秘書検定準一級、TOEFLスコア百点以上を取得して、ボストンのコミュニティーカレッジに入学を申請した。
――夢はもう目前!
もうすぐ兄のもとで働けると、あの頃の私は、期待に胸を膨らませていた。
そんな私の留学期間中、一度だけ兄がボストンまで遊びに来てくれたことがある。
水陸両用の観光バスで一緒に市内巡りをしたり、有名なシーフードのお店でオイスターやロブスターを堪能したりと、夢みたいに楽しい時間を過ごした。
そしてそれが、元気な兄と一緒に過ごせた最後の時間になる。
『大志が胃の手術をしたんだ』
冬馬さんから電話でそう聞かされたのは、年が明けた一月初めの寒い冬。アメリカ東海岸が記録的な寒波に襲われて、ボストンは大雪が降っていた。
けれど、私の背筋がゾクリと冷えたのは、寒さのせいだけではなかったはずだ。
すぐに帰国すると言った私を冬馬さんが止めた。
『もう手術は無事に終わったし、大志も桜子ちゃんには知らせるつもりがなかったのを、俺が手術の報告だけはさせてくれってお願いしたんだ。また改めて大志から連絡させる。お願いだから勉強は続けて』
その三日後に兄からも電話が掛かってきた。
『心配するなよ。ちょっと胃が荒れて手術したけど、もう大丈夫だしさ。冬馬にも知らせなくていいって言っておいたのに、アイツが心配性で……。桜子はあと二ヶ月の留学期間を全うしろ。帰ってきたらバリバリ働いてもらうから覚悟しとけよ!」
「分かった。秘書としてお兄ちゃんをバリバリ動かすから覚悟しておいて!」
そう言って電話越しに笑い合ったのを覚えている。
だけどそれは、兄が私のためについた、優しい嘘だった。
期待に胸を躍らせて帰国した私を待っていたのは、半年前にボストンで会った時とは比べものにならないほど痩せ衰え、変わり果てた兄。
そして病室で兄本人から告げられたのは、進行性のスキルス胃癌でもう手の施しようがないということ。電話で知らされた手術というのは癌を取り除く『根治手術』ではなく、食事が食べられるようにバイパスを作るだけの『緩和手術』と呼ばれるもの……という残酷な事実だった。
兄がボストンに来たのは、病名を告知された直後のことだったのだ。
ショックで泣き崩れた私に、兄は『桜子の笑顔が見たい』と言った。
『残された時間を桜子とゆっくり過ごしたい』と。
そのまま緩和ケア専門のホスピス病棟に転院した兄に私はずっと付き添い、残された時間を一緒に過ごす。
ホスピスでの兄は痛み止めの点滴でうつらうつらしていることが多かった。けれど意識のハッキリしている時には仕事の資料を開き、事務所での業務内容や手順を事細かくレクチャーしてくれた。
そして眠たくなると、『桜子、手を握っていて』と言って血管と骨の浮き出た手を差し出す。
私が言われた通り両手でその手を包み込むと、安心したようにゆっくり瞼を閉じるのだ。
たまに私がベッドサイドにうつ伏せで寝てしまった時は、ふと気づくと私の髪を兄の手が優しく撫でている。
「くっそ……死にたくねぇな……」
頭の上からそんな呟きが聞こえ、私は寝たフリをしながらも涙を止められず、肩を震わせ嗚咽を漏らした。
兄はそんな私に気づいて一旦手を止めるものの、黙ってまた私の髪を撫で続けるのだ。
そんな風に兄の命を刻々と削りながら、哀しくも穏やかな時間は過ぎていった。私は二十四歳の誕生日を兄と共に病室で迎える。
私の誕生日は五月五日の端午の節句だ。
小さい頃は、男の子のお祝いの日に生まれたというのが凄く嫌だった。だけど兄が、『桜子、五月五日は子供の健やかな成長を祝う日なんだぞ。そんな日に生まれたんだから、桜子はきっと健康で長生きする!』と言ってくれてからは、自分の誕生日が嫌いではなくなった。
――私の健康なんてどうでもいいから、兄に元気でいてほしい! お願いだから、長生きしてずっと一緒にいて!
あの二十四歳の誕生日ほど、そう強く願った日はない。
その日の夕方、冬馬さんが誕生日ケーキを持って病室に現れた。兄が呼んだのだという。
白い生クリームの上に、『桜子ちゃん、おたんじょうびおめでとう』と書かれたチョコプレートに、うさぎとクマのマジパン。
小さな子供が食べるような可愛らしいイチゴのケーキを三人で食べた。
その頃には殆ど何も食べられなくて点滴の栄養だけで命を繋いでいた兄も、生クリームを一口舐めて「甘っ!」と顔をしかめながらも、どうにか薄っぺらい一切れを口にする。
嬉しくて哀しくて、涙が止まらなかった。
ひとしきり泣いた後で、兄が私と冬馬さんの顔を交互に見ながら口をひらく。
「桜子……後のことは、全部冬馬に任せてある。相続のこと、事務所のこと、葬儀の手配……それと、お前のことも……だ。これからは何かあったら冬馬を頼れ。分かったな?」
「お兄ちゃん、そんなことを言わないで……」
またも泣き出す私の手をギュッと握り締めて、兄は冬馬さんを見上げる。
「冬馬、何度も言うようだけど……後のこと、桜子のことを……よろしく頼む」
「ああ、任せておけ。心配するな」
二人は目と目で合図を送り、頷き合った。
兄と冬馬さんの間では、もう何度も何度も話し合いがされてきたのだろう。
最後に兄はもう一度私の目をじっと見つめると、穏やかに微笑む。
「桜子、俺はお前を心から愛してる。幸せになってくれ。ずっと見守ってるからな」
「お兄ちゃん……私もお兄ちゃんが大好きだよ! 愛してるよ! だからどこにも行かないで! ずっとそばにいてよ!」
泣きながらすがりつくと、兄の痩せ細った腕が、それでも力強く私の背中を抱き締める。
消毒液のにおいに紛れて末期患者独特の死臭が漂ってきた気がしてギョッとした。
私はそれを兄から掻き消したくて、必死に涙で洗い流した。
その翌日に、兄は眠るように亡くなった。
今思えば、兄があの日に冬馬さんを呼んだのは、自分の最期を予期していたからなのだろう。
相当な痛みがあったはずなのに、最期まで弱音を吐かず、笑顔を見せてくれた。
強くて優しい、最愛の兄だった。
2 一人の寝室
葬儀の後は忙しくなると覚悟していたのだけど、思っていたよりも私にできることは少なかった。
生前に兄が全ての手配を済ませてくれていた上、冬馬さんが面倒な雑務を一手に引き受けてくれたお陰だ。相続や入籍に関する手続きも、全部冬馬さんが済ませてくれた。
兄の死で抜け殻のようになっていた私は、彼から次々と差し出される書類に黙って署名し印鑑を押すだけで良かったのだ。
その流れ作業に没頭している間は何も考えなくて済み、それに救われていたのかもしれない。それらの作業が終わって、アパートで荷物の整理を始めた途端に辛くなる。
兄は私の手間を考えたのか、自分の書斎は綺麗さっぱり片付けてあった。
兄の覚悟と愛情を見せつけられたようで、私の胸は余計に苦しくなる。
兄と二人で住んでいたアパートは、そこかしこに思い出が散らばりすぎている。
両親が亡くなった時も辛かったけれど、あの時は隣に兄がいた。
――今は私だけ……
とうとう一人ぼっちになってしまった。
あんなに優しくていい人ばかりの家族で、どうして最後に残ったのが私なのか。
兄はよく私のことを『幸福を呼ぶ座敷童子だ』なんて言っていたのに、幸福を呼ぶどころか不幸続き。
「これじゃ思いっきり疫病神……」
家族四人が笑顔で収まっている写真立てを抱き締め、床に座り込む。涙が頬を伝った。
そう言えば、兄が亡くなったあの日以来、ずっと泣いていなかった気がする。葬儀の時は親戚の声に耐えるのに精一杯だったから……
「お父さん、お母さん……お兄ちゃん……一人は辛いよ……」
写真立てを持つ手にギュッと力を込めて目を閉じる。生きるための希望がプツリと切れた音がした。
――もうどうでもいい。
父と兄の手伝いがしたくて英語も秘書検定も頑張ったのに……今はもう二人共いない。
留学なんかするんじゃなかった。お兄ちゃんから離れるんじゃなかった……
「桜子ちゃん……」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。振り向くと、部屋の入り口にスーツ姿の冬馬さんが立っていた。
何も言えずに頬を震わせていた私は、部屋にズンズンと入ってきた冬馬さんに抱きすくめられる。
「こんなところで……一人で泣くな」
「冬馬さん……」
「俺がいる……俺が支えるから、自分が一人だなんて思うな! これからは俺の胸で泣いてくれ!」
「冬馬さん、私……」
「うん」
「冬馬さん……」
「うん」
優しく髪を撫でられて、感情が決壊した。
「わーーーーっ!」
私は冬馬さんの胸に顔を埋めると、子供のように泣きじゃくり、必死でしがみつく。
彼はスーツが汚れるのも構わず、背中をキツく抱き締め髪を撫で続けてくれた。
「……落ち着いた?」
何分経ったか分からない。だけど、胸に溜まっていた感情を爆発させて、いくぶん気持ちが和らいだ。
黙ってコクリと頷くと、「どれ、見せて?」と両頬を手で挟まれ、顔を覗かれる。
「いやっ! 泣いてたからみっともない」
慌ててバッと手から逃れた直後、ハハッと笑い声が降ってきた。
「見かけを気にする余裕があるなら大丈夫だ。ほら、立てるか?」
手を引かれ、二人でヨイショと立ち上がる。
ずっと座り込んでいたせいで足がフラついて、私はまたもや冬馬さんの胸に倒れ込む。
「あっ!」
「おっと、だいじょう……」
慌てて支えてくれた冬馬さんと至近距離で目が合い、ドキッとする。
私の潤んだ視界の中で彼の猫のような瞳が一つ瞬きして、そして細められた。
釣られて私も目を閉じる。次の瞬間には柔らかい唇が重なってきて……
――あっ。
それはほんの一瞬で、気づくと、熱と共に顔が離れていた。
冬馬さんはフイッと目を逸らし、私の手首を掴む。
「さあ、俺達の家に帰ろう」
「俺達?」
「そう。もう絶対に桜子ちゃんを一人にはしない。君と俺、二人の生活を始めるんだ」
そして私はコクンと頷き、手を引かれるままに思い出の場所を後にした。
私のファーストキスの相手は、初恋の人で……同情で私と結婚した人だった。
冬馬さんに連れてこられたのは、驚くことに、私と兄が住んでいたアパートから車でほんの五分の近距離にある、新築の白いマンションだった。
地下の駐車場に車を停めながら、彼は「君に相談もせずに悪かったけど、結婚を機にマンションを購入したんだ。前に住んでたところは二人で住むには狭かったから……。気に入ってくれたら嬉しいな」と言って、はにかむように微笑んだ。
エレベーターが停まったのは十二階建マンションの十階で、手を引かれて入った先は眺めの良い3LDKの角部屋。
「弁護士という仕事柄、書斎用の部屋があるのとセキュリティーがしっかりしているのが条件だったんだ。あと、見学に来た時に、『キッチンは最新式のドイツ製だから奥様が喜びますよ』……とか、『大理石のアイランドカウンターがあるからいいですよ』とか言われて……」
首の後ろに手をやり頬を紅く染めている冬馬さんに、私もなんだか気恥ずかしくなり俯いた。
『奥様』という言葉が、胸をソワソワさせる。
――冬馬さんは、兄の遺言で結婚した私を、それでも大事にしようと努力してくれているんだ……
私も冬馬さんに満足してもらえるよう、本当に愛してもらえるように、精一杯尽くそう。
「そして、君の部屋はこっち」
冬馬さんは次々と室内のドアを開けて私を案内した後、最後にウォークインクローゼット付きの八畳の洋間に入った。
大きな掃き出し窓の外にはベランダがあり、その先にはパノラマの景色が広がっている。
「わぁ、素敵!」
「うん、ここを桜子ちゃんの部屋として使って。女性は男よりも荷物が多いだろうし、洋服の収納場所だって必要だろう?」
「だけど……」
広い収納スペースといい、ベランダに面していることといい、この部屋は何というか……
「冬馬さん、この部屋は夫婦の寝室ですよね?」
「……うん、本来の使い方としてはそうだろうね」
「この部屋を私が一人で使うんですか?」
「うん、どうして?」
「いえ、夫婦の寝室なら……その……クローゼットは二人で一緒に使いませんか?」
すると冬馬さんは困ったように頬をポリポリと掻きながら、スッと目を逸らす。
「いや……基本的に、この部屋に俺は入らない」
「えっ?」
「ベッドはセミダブルを入れておいたけど、もっと大きいほうが良ければ好きなものを注文してもらって構わない。俺は向こうにあるもう一つの部屋を使うから、君はこの部屋を好きに使って」
「えっ、でも……」
「今日は疲れただろう? 夕食の準備は俺がするから、荷物の整理をしてていいよ」
そのまま目も合わせずに、部屋を出ていった。
――冬馬さん?
彼の考えていることが分からなくて、荷物を出すのもそこそこにキッチンに向かう。冬馬さんはパスタを茹でていた。
「お手伝いしてもいいですか?」
私の声にビクッとして振り向いた彼は、「いや……ソファーで休んでて」と素っ気なく言い、また鍋に向かう。
「私これでも、結構お料理はできるんですよ」
「うん、知ってるよ。お母さん譲りの優しい味だ。大志も褒めていた」
「そうですか、兄が……」
そこで沈黙が降りて、気まずい空気が二人を覆う。
キッチンカウンターに置かれているトマトを見つけ、「これはサラダ用ですよね? 切ればいいですか?」と私が手を伸ばすと、「いいからっ!」と撥ね除けられた。
コロンと床に転がったトマトを同時に見つめ、冬馬さんが片手で額を押さえる。
「くそっ……!」
しゃがんでトマトを手に取って、「ごめん、本当に大丈夫だから……向こうで座っていてほしい」、そう呻くような声で言われ、私は黙って従うしかない。
同居初日の夕食は、全く味が分からなかった。
――ああ、やっぱり……
冬馬さんは既に私を持て余しているのだろう。成り行きとはいえ、今まで妹のように接してきた相手といきなり結婚することになったんだ。
――もしかしたら、水口さんにまだ気持ちがあるのかな……
水口さんは、葬儀の時に受付をしてくれていた。……ずっと私の隣に立っていた冬馬さんを、彼女はどんな思いで見ていたのか。そして今は、どんな気持ちで冬馬さんと一緒に働いているんだろう……
――お兄ちゃん……どうしてお兄ちゃんは、あんな遺言を残したの? 冬馬さんはきっと……後悔しているよ。
そして宣言通り冬馬さんは、私の眠る寝室に入ってくることはなかった。
* * *
冬馬さんとの新生活は、坦々と、そしてぎこちなく始まった。
これを『新婚生活』と呼ぶのか、『同居生活』と呼ぶべきなのかは微妙なところだけど……
それでも入籍して夫婦になった以上、やはり『新婚生活』と呼ばせてほしい。たとえ殆ど顔を合わせることがなくても、夫婦の寝室がずっと別々であっても……だ。
「――おはようございます」
「うん、おはよう。朝食を作ってくれたんだ、悪いね」
「いえ、あの……奥さんなので、一応」
「あっ、ああ……そうだね。ありがとう」
一緒に住み始めて六日目。
今日は結婚してから初めての週末で、私と冬馬さんは久し振りに一緒の食卓を囲んでいる。
ここに来た初日の夜に冬馬さんが作ってくれたパスタを食べて以来、彼は家で食事をとっていない。
兄がいなくなった後、事務所が抱えている案件を一人でこなしている彼は、昼も夜もなく働いている。朝はコーヒーを一杯飲むだけで早い時間に家を出るし、帰りは深夜すぎが当たり前。
帰宅してからも書斎から明かりが漏れていることが多いから、睡眠時間もろくに取れていないに違いない。
私も事務所に行って、せめて雑務や電話番だけでもしようと思ったのに、冬馬さんにやんわりと断られていた。
『桜子ちゃんは引っ越したばかりなんだし、まだ向こうのアパートの片付けも途中だろ? 今週一杯は荷解きしながらのんびり過ごしていて。こういうのは落ち着いた頃にどっと疲れが出るものなんだよ』
だとしたら、これから疲れが出るのは冬馬さんのほうなんじゃないだろうか。
だって彼は私の留学中から病気の兄をずっと支えていてくれたんだから……
自分の無力さが歯痒くて、全く頼られないことが寂しくて……せめて週末の食事くらいは作りたいと思った。
「あの、冬馬さんの好みがよく分からなかったので、今日は簡単にトーストと目玉焼きとサラダだけにしたんですけど、冬馬さんって朝は洋食派ですか? それとも和食派なんですか?」
それさえ知らずに夫婦になったことが、今さらながら情けない。
「俺はどっちでも。祖母と住んでた時は味噌汁に納豆だったけど、一人になってからはコーヒーにトーストか、コーヒーだけだったり……」
――ああ、そうか……冬馬さんもお母様やお祖母様を亡くされてたんだった。そして今度は仕事のパートナーであり親友であった兄までも……
だからなのかもしれない。
大切な人を失う悲しみや喪失感を知っているからこそ、彼はこうやって一人になった私に寄り添ってくれるんだ。彼は本当に優しすぎる。
「土曜日なのに、今日もまたお仕事ですか?」
彼が着ている糊のきいた白いカッターシャツを見て尋ねる。
「ああ。でも今日は午前中にオフィスで一件相談を受けるだけだから、午後はフリーだ」
「そうですか。でしたら午後はのんびりできますね」
クライアントが来た時にサッと立ち上がって、イタリアブランドの細身のスーツの襟元をパッと整えるお約束の仕草が好きで、いつも見惚れていた。
そんな感じでどうにか三人で仕事を回し、半年もすると事務所は軌道に乗ってくる。兄の持ち前の社交性と愛想の良さに加え、頭が切れて仕事もできる冬馬さんの尽力もあり、徐々に顧客を増やしていったのだ。
そこで新たに事務員を一人雇うことになってやってきたのが、当時三十一歳の水口麻耶さんだ。
彼女は元中小企業の社長秘書という肩書を持つ、紅い口紅の似合う美しい女性だった。社長の息子からのセクハラで会社を辞め、以降は派遣で事務職をしていたという。
彼女が来たことで私はあっけなくお役ご免となる。たまに顔を出して手伝おうとしても、兄に「そんなことより勉強してろ」と言われ、水口さんには「私がいるから大丈夫よ」と笑顔でティーポットを取り上げられて、すっかり事務所での居場所を失ってしまった。
――冬馬さんのスーツ姿もあまり見られなくなるのか。水口さんが冬馬さんと並ぶと、美男美女でお似合いすぎて悔しいな……
「私ったら、何を言ってるんだろ」
今は兄と冬馬さんの努力が認められてきたことを喜ぶべきなんだ。水口さんが来てくれたことで、益々二人の仕事がはかどるに違いない。
私は余計なことを考えた自分を反省すると、両頬をペシッと叩いて気合を入れた。
けれど、そんなある日……
「気づいた? アイツら付き合ってるっぽいな」
兄がおもむろにこう切り出した。
「えっ⁉」
――付き合ってる? アイツら……って……
そんなの分かりきっていたのに、それでも私は聞き返す。
「それって……冬馬さんと水口さん? 本当に付き合ってるの?」
「多分な。俺にはハッキリ言わないけど、事務所にいる時もいい雰囲気だし、たまにアイコンタクトしてたり、給湯室に一緒に籠ってたりするんだ。それに元々冬馬は大人っぽい年上の女性が好みだから、タイプ的に彼女はドンピシャなんだよな~」
――年上の大人っぽい女性……
それじゃまるっきり私と正反対。
「へぇ~、そ、そうなんだ~」
「ああ、昔付き合ってた彼女も法学部の先輩だったし、アイツ、好みが分かりやすいんだよ」
いきなり目の前が真っ暗になったような気がした。
まさか自分が付き合えるなんて本気で考えていたわけじゃない。だけど、自分に向けてくれる笑顔や優しさに『ただの親友の妹』以上の感情のカケラが含まれているんじゃないかと、必死で目を凝らしてもいて……
「ふ~ん……そっか~」
――そうなのか……
長年に亘る私の初恋は、その瞬間にパチンと弾けて、消えていった。
兄が病気になったと知らされたのは、私がアメリカのボストンに留学中のことだった。
大学卒業後にすぐ働きたいと言った私に、語学留学を勧めたのは兄だ。
「これからは国際的な事案が増えてくるだろうから、英語ができればできるほどいい。俺の英語力では不十分だから、お前が本場のビジネス英語を身につけてくれたら嬉しい」
そう言われて決意した私は、大学を卒業するまでに秘書検定準一級、TOEFLスコア百点以上を取得して、ボストンのコミュニティーカレッジに入学を申請した。
――夢はもう目前!
もうすぐ兄のもとで働けると、あの頃の私は、期待に胸を膨らませていた。
そんな私の留学期間中、一度だけ兄がボストンまで遊びに来てくれたことがある。
水陸両用の観光バスで一緒に市内巡りをしたり、有名なシーフードのお店でオイスターやロブスターを堪能したりと、夢みたいに楽しい時間を過ごした。
そしてそれが、元気な兄と一緒に過ごせた最後の時間になる。
『大志が胃の手術をしたんだ』
冬馬さんから電話でそう聞かされたのは、年が明けた一月初めの寒い冬。アメリカ東海岸が記録的な寒波に襲われて、ボストンは大雪が降っていた。
けれど、私の背筋がゾクリと冷えたのは、寒さのせいだけではなかったはずだ。
すぐに帰国すると言った私を冬馬さんが止めた。
『もう手術は無事に終わったし、大志も桜子ちゃんには知らせるつもりがなかったのを、俺が手術の報告だけはさせてくれってお願いしたんだ。また改めて大志から連絡させる。お願いだから勉強は続けて』
その三日後に兄からも電話が掛かってきた。
『心配するなよ。ちょっと胃が荒れて手術したけど、もう大丈夫だしさ。冬馬にも知らせなくていいって言っておいたのに、アイツが心配性で……。桜子はあと二ヶ月の留学期間を全うしろ。帰ってきたらバリバリ働いてもらうから覚悟しとけよ!」
「分かった。秘書としてお兄ちゃんをバリバリ動かすから覚悟しておいて!」
そう言って電話越しに笑い合ったのを覚えている。
だけどそれは、兄が私のためについた、優しい嘘だった。
期待に胸を躍らせて帰国した私を待っていたのは、半年前にボストンで会った時とは比べものにならないほど痩せ衰え、変わり果てた兄。
そして病室で兄本人から告げられたのは、進行性のスキルス胃癌でもう手の施しようがないということ。電話で知らされた手術というのは癌を取り除く『根治手術』ではなく、食事が食べられるようにバイパスを作るだけの『緩和手術』と呼ばれるもの……という残酷な事実だった。
兄がボストンに来たのは、病名を告知された直後のことだったのだ。
ショックで泣き崩れた私に、兄は『桜子の笑顔が見たい』と言った。
『残された時間を桜子とゆっくり過ごしたい』と。
そのまま緩和ケア専門のホスピス病棟に転院した兄に私はずっと付き添い、残された時間を一緒に過ごす。
ホスピスでの兄は痛み止めの点滴でうつらうつらしていることが多かった。けれど意識のハッキリしている時には仕事の資料を開き、事務所での業務内容や手順を事細かくレクチャーしてくれた。
そして眠たくなると、『桜子、手を握っていて』と言って血管と骨の浮き出た手を差し出す。
私が言われた通り両手でその手を包み込むと、安心したようにゆっくり瞼を閉じるのだ。
たまに私がベッドサイドにうつ伏せで寝てしまった時は、ふと気づくと私の髪を兄の手が優しく撫でている。
「くっそ……死にたくねぇな……」
頭の上からそんな呟きが聞こえ、私は寝たフリをしながらも涙を止められず、肩を震わせ嗚咽を漏らした。
兄はそんな私に気づいて一旦手を止めるものの、黙ってまた私の髪を撫で続けるのだ。
そんな風に兄の命を刻々と削りながら、哀しくも穏やかな時間は過ぎていった。私は二十四歳の誕生日を兄と共に病室で迎える。
私の誕生日は五月五日の端午の節句だ。
小さい頃は、男の子のお祝いの日に生まれたというのが凄く嫌だった。だけど兄が、『桜子、五月五日は子供の健やかな成長を祝う日なんだぞ。そんな日に生まれたんだから、桜子はきっと健康で長生きする!』と言ってくれてからは、自分の誕生日が嫌いではなくなった。
――私の健康なんてどうでもいいから、兄に元気でいてほしい! お願いだから、長生きしてずっと一緒にいて!
あの二十四歳の誕生日ほど、そう強く願った日はない。
その日の夕方、冬馬さんが誕生日ケーキを持って病室に現れた。兄が呼んだのだという。
白い生クリームの上に、『桜子ちゃん、おたんじょうびおめでとう』と書かれたチョコプレートに、うさぎとクマのマジパン。
小さな子供が食べるような可愛らしいイチゴのケーキを三人で食べた。
その頃には殆ど何も食べられなくて点滴の栄養だけで命を繋いでいた兄も、生クリームを一口舐めて「甘っ!」と顔をしかめながらも、どうにか薄っぺらい一切れを口にする。
嬉しくて哀しくて、涙が止まらなかった。
ひとしきり泣いた後で、兄が私と冬馬さんの顔を交互に見ながら口をひらく。
「桜子……後のことは、全部冬馬に任せてある。相続のこと、事務所のこと、葬儀の手配……それと、お前のことも……だ。これからは何かあったら冬馬を頼れ。分かったな?」
「お兄ちゃん、そんなことを言わないで……」
またも泣き出す私の手をギュッと握り締めて、兄は冬馬さんを見上げる。
「冬馬、何度も言うようだけど……後のこと、桜子のことを……よろしく頼む」
「ああ、任せておけ。心配するな」
二人は目と目で合図を送り、頷き合った。
兄と冬馬さんの間では、もう何度も何度も話し合いがされてきたのだろう。
最後に兄はもう一度私の目をじっと見つめると、穏やかに微笑む。
「桜子、俺はお前を心から愛してる。幸せになってくれ。ずっと見守ってるからな」
「お兄ちゃん……私もお兄ちゃんが大好きだよ! 愛してるよ! だからどこにも行かないで! ずっとそばにいてよ!」
泣きながらすがりつくと、兄の痩せ細った腕が、それでも力強く私の背中を抱き締める。
消毒液のにおいに紛れて末期患者独特の死臭が漂ってきた気がしてギョッとした。
私はそれを兄から掻き消したくて、必死に涙で洗い流した。
その翌日に、兄は眠るように亡くなった。
今思えば、兄があの日に冬馬さんを呼んだのは、自分の最期を予期していたからなのだろう。
相当な痛みがあったはずなのに、最期まで弱音を吐かず、笑顔を見せてくれた。
強くて優しい、最愛の兄だった。
2 一人の寝室
葬儀の後は忙しくなると覚悟していたのだけど、思っていたよりも私にできることは少なかった。
生前に兄が全ての手配を済ませてくれていた上、冬馬さんが面倒な雑務を一手に引き受けてくれたお陰だ。相続や入籍に関する手続きも、全部冬馬さんが済ませてくれた。
兄の死で抜け殻のようになっていた私は、彼から次々と差し出される書類に黙って署名し印鑑を押すだけで良かったのだ。
その流れ作業に没頭している間は何も考えなくて済み、それに救われていたのかもしれない。それらの作業が終わって、アパートで荷物の整理を始めた途端に辛くなる。
兄は私の手間を考えたのか、自分の書斎は綺麗さっぱり片付けてあった。
兄の覚悟と愛情を見せつけられたようで、私の胸は余計に苦しくなる。
兄と二人で住んでいたアパートは、そこかしこに思い出が散らばりすぎている。
両親が亡くなった時も辛かったけれど、あの時は隣に兄がいた。
――今は私だけ……
とうとう一人ぼっちになってしまった。
あんなに優しくていい人ばかりの家族で、どうして最後に残ったのが私なのか。
兄はよく私のことを『幸福を呼ぶ座敷童子だ』なんて言っていたのに、幸福を呼ぶどころか不幸続き。
「これじゃ思いっきり疫病神……」
家族四人が笑顔で収まっている写真立てを抱き締め、床に座り込む。涙が頬を伝った。
そう言えば、兄が亡くなったあの日以来、ずっと泣いていなかった気がする。葬儀の時は親戚の声に耐えるのに精一杯だったから……
「お父さん、お母さん……お兄ちゃん……一人は辛いよ……」
写真立てを持つ手にギュッと力を込めて目を閉じる。生きるための希望がプツリと切れた音がした。
――もうどうでもいい。
父と兄の手伝いがしたくて英語も秘書検定も頑張ったのに……今はもう二人共いない。
留学なんかするんじゃなかった。お兄ちゃんから離れるんじゃなかった……
「桜子ちゃん……」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。振り向くと、部屋の入り口にスーツ姿の冬馬さんが立っていた。
何も言えずに頬を震わせていた私は、部屋にズンズンと入ってきた冬馬さんに抱きすくめられる。
「こんなところで……一人で泣くな」
「冬馬さん……」
「俺がいる……俺が支えるから、自分が一人だなんて思うな! これからは俺の胸で泣いてくれ!」
「冬馬さん、私……」
「うん」
「冬馬さん……」
「うん」
優しく髪を撫でられて、感情が決壊した。
「わーーーーっ!」
私は冬馬さんの胸に顔を埋めると、子供のように泣きじゃくり、必死でしがみつく。
彼はスーツが汚れるのも構わず、背中をキツく抱き締め髪を撫で続けてくれた。
「……落ち着いた?」
何分経ったか分からない。だけど、胸に溜まっていた感情を爆発させて、いくぶん気持ちが和らいだ。
黙ってコクリと頷くと、「どれ、見せて?」と両頬を手で挟まれ、顔を覗かれる。
「いやっ! 泣いてたからみっともない」
慌ててバッと手から逃れた直後、ハハッと笑い声が降ってきた。
「見かけを気にする余裕があるなら大丈夫だ。ほら、立てるか?」
手を引かれ、二人でヨイショと立ち上がる。
ずっと座り込んでいたせいで足がフラついて、私はまたもや冬馬さんの胸に倒れ込む。
「あっ!」
「おっと、だいじょう……」
慌てて支えてくれた冬馬さんと至近距離で目が合い、ドキッとする。
私の潤んだ視界の中で彼の猫のような瞳が一つ瞬きして、そして細められた。
釣られて私も目を閉じる。次の瞬間には柔らかい唇が重なってきて……
――あっ。
それはほんの一瞬で、気づくと、熱と共に顔が離れていた。
冬馬さんはフイッと目を逸らし、私の手首を掴む。
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「俺達?」
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エレベーターが停まったのは十二階建マンションの十階で、手を引かれて入った先は眺めの良い3LDKの角部屋。
「弁護士という仕事柄、書斎用の部屋があるのとセキュリティーがしっかりしているのが条件だったんだ。あと、見学に来た時に、『キッチンは最新式のドイツ製だから奥様が喜びますよ』……とか、『大理石のアイランドカウンターがあるからいいですよ』とか言われて……」
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――冬馬さんは、兄の遺言で結婚した私を、それでも大事にしようと努力してくれているんだ……
私も冬馬さんに満足してもらえるよう、本当に愛してもらえるように、精一杯尽くそう。
「そして、君の部屋はこっち」
冬馬さんは次々と室内のドアを開けて私を案内した後、最後にウォークインクローゼット付きの八畳の洋間に入った。
大きな掃き出し窓の外にはベランダがあり、その先にはパノラマの景色が広がっている。
「わぁ、素敵!」
「うん、ここを桜子ちゃんの部屋として使って。女性は男よりも荷物が多いだろうし、洋服の収納場所だって必要だろう?」
「だけど……」
広い収納スペースといい、ベランダに面していることといい、この部屋は何というか……
「冬馬さん、この部屋は夫婦の寝室ですよね?」
「……うん、本来の使い方としてはそうだろうね」
「この部屋を私が一人で使うんですか?」
「うん、どうして?」
「いえ、夫婦の寝室なら……その……クローゼットは二人で一緒に使いませんか?」
すると冬馬さんは困ったように頬をポリポリと掻きながら、スッと目を逸らす。
「いや……基本的に、この部屋に俺は入らない」
「えっ?」
「ベッドはセミダブルを入れておいたけど、もっと大きいほうが良ければ好きなものを注文してもらって構わない。俺は向こうにあるもう一つの部屋を使うから、君はこの部屋を好きに使って」
「えっ、でも……」
「今日は疲れただろう? 夕食の準備は俺がするから、荷物の整理をしてていいよ」
そのまま目も合わせずに、部屋を出ていった。
――冬馬さん?
彼の考えていることが分からなくて、荷物を出すのもそこそこにキッチンに向かう。冬馬さんはパスタを茹でていた。
「お手伝いしてもいいですか?」
私の声にビクッとして振り向いた彼は、「いや……ソファーで休んでて」と素っ気なく言い、また鍋に向かう。
「私これでも、結構お料理はできるんですよ」
「うん、知ってるよ。お母さん譲りの優しい味だ。大志も褒めていた」
「そうですか、兄が……」
そこで沈黙が降りて、気まずい空気が二人を覆う。
キッチンカウンターに置かれているトマトを見つけ、「これはサラダ用ですよね? 切ればいいですか?」と私が手を伸ばすと、「いいからっ!」と撥ね除けられた。
コロンと床に転がったトマトを同時に見つめ、冬馬さんが片手で額を押さえる。
「くそっ……!」
しゃがんでトマトを手に取って、「ごめん、本当に大丈夫だから……向こうで座っていてほしい」、そう呻くような声で言われ、私は黙って従うしかない。
同居初日の夕食は、全く味が分からなかった。
――ああ、やっぱり……
冬馬さんは既に私を持て余しているのだろう。成り行きとはいえ、今まで妹のように接してきた相手といきなり結婚することになったんだ。
――もしかしたら、水口さんにまだ気持ちがあるのかな……
水口さんは、葬儀の時に受付をしてくれていた。……ずっと私の隣に立っていた冬馬さんを、彼女はどんな思いで見ていたのか。そして今は、どんな気持ちで冬馬さんと一緒に働いているんだろう……
――お兄ちゃん……どうしてお兄ちゃんは、あんな遺言を残したの? 冬馬さんはきっと……後悔しているよ。
そして宣言通り冬馬さんは、私の眠る寝室に入ってくることはなかった。
* * *
冬馬さんとの新生活は、坦々と、そしてぎこちなく始まった。
これを『新婚生活』と呼ぶのか、『同居生活』と呼ぶべきなのかは微妙なところだけど……
それでも入籍して夫婦になった以上、やはり『新婚生活』と呼ばせてほしい。たとえ殆ど顔を合わせることがなくても、夫婦の寝室がずっと別々であっても……だ。
「――おはようございます」
「うん、おはよう。朝食を作ってくれたんだ、悪いね」
「いえ、あの……奥さんなので、一応」
「あっ、ああ……そうだね。ありがとう」
一緒に住み始めて六日目。
今日は結婚してから初めての週末で、私と冬馬さんは久し振りに一緒の食卓を囲んでいる。
ここに来た初日の夜に冬馬さんが作ってくれたパスタを食べて以来、彼は家で食事をとっていない。
兄がいなくなった後、事務所が抱えている案件を一人でこなしている彼は、昼も夜もなく働いている。朝はコーヒーを一杯飲むだけで早い時間に家を出るし、帰りは深夜すぎが当たり前。
帰宅してからも書斎から明かりが漏れていることが多いから、睡眠時間もろくに取れていないに違いない。
私も事務所に行って、せめて雑務や電話番だけでもしようと思ったのに、冬馬さんにやんわりと断られていた。
『桜子ちゃんは引っ越したばかりなんだし、まだ向こうのアパートの片付けも途中だろ? 今週一杯は荷解きしながらのんびり過ごしていて。こういうのは落ち着いた頃にどっと疲れが出るものなんだよ』
だとしたら、これから疲れが出るのは冬馬さんのほうなんじゃないだろうか。
だって彼は私の留学中から病気の兄をずっと支えていてくれたんだから……
自分の無力さが歯痒くて、全く頼られないことが寂しくて……せめて週末の食事くらいは作りたいと思った。
「あの、冬馬さんの好みがよく分からなかったので、今日は簡単にトーストと目玉焼きとサラダだけにしたんですけど、冬馬さんって朝は洋食派ですか? それとも和食派なんですか?」
それさえ知らずに夫婦になったことが、今さらながら情けない。
「俺はどっちでも。祖母と住んでた時は味噌汁に納豆だったけど、一人になってからはコーヒーにトーストか、コーヒーだけだったり……」
――ああ、そうか……冬馬さんもお母様やお祖母様を亡くされてたんだった。そして今度は仕事のパートナーであり親友であった兄までも……
だからなのかもしれない。
大切な人を失う悲しみや喪失感を知っているからこそ、彼はこうやって一人になった私に寄り添ってくれるんだ。彼は本当に優しすぎる。
「土曜日なのに、今日もまたお仕事ですか?」
彼が着ている糊のきいた白いカッターシャツを見て尋ねる。
「ああ。でも今日は午前中にオフィスで一件相談を受けるだけだから、午後はフリーだ」
「そうですか。でしたら午後はのんびりできますね」
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