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1巻
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プロローグ
ドアを静かに開けて部屋に入ってきた夫が、ベッドの上に正座している私を見つけて足を止めた。
そのギョッとした表情から、彼が困惑していることがありありと伝わってくる。
それはそうだろう。
これは彼にとって、親友の遺言に従っただけの愛のない結婚。
だけど私は……
私はベッドの上で三つ指をついてゆっくりと頭を下げた。
「冬馬さん……どうか私を、本当のあなたの妻にしてください」
――どうか私を……抱いてください。
これはそんな風に始まった私達が、本当の夫婦になるまでの物語。
1 兄の遺言
兄、八神大志の葬儀が終わった直後の親族会議は酷い有様だった。
こちらは特に話すこともないのに、『今後の話し合いをしたい』とアパートまで押しかけてきた父方の叔父と叔母夫婦が、リビングのソファーを陣取っている。
「桜子だけじゃ、どうしようもないだろう?」
「大志くんがいないんじゃ事務所も潰すしかない。処分はどうするんだ?」
「桜子ちゃんはまだ若いし、財産の管理は任せてもらえないか?」
身内に不幸があると、ずっと疎遠だった親戚がここぞとばかりに擦り寄ってくるというのはよく聞く話。けれど、実際目の当たりにすると、あからさますぎて吐き気がした。
私、八神桜子は、二十四歳の誕生日の翌日に、たった一人の身内である兄を亡くした。
両親を事故で亡くしてからは親代わりとなって私の面倒を見てくれていた、八歳上の義理の兄。私は彼のことが大好きだった。
兄が生前に言っていた言葉を思い出す。
『俺達に頼れる親戚はいない。アイツらは父さん達の再婚にも文句をつけた挙句、さんざん借金を頼んできたから、付き合いを絶ってるんだ。絶対に信用しちゃいけないよ』
だから彼らに葬儀に参列してもらうつもりはなかったのに、兄の死の報告をしたら親族代表として出しゃばってきた。
葬儀中、この人達が聞こえよがしにぶつけてきた心ない会話は忘れられない。
『あの母娘が来てから不幸続き』
『血の繋がりもない子が全財産を丸儲け』
同時に、私の隣に立っていた男性、冬馬さんへの風当たりも強かった。
『アイツは一体何者なんだ』と言わんばかりの露骨な視線を向けていたのだ。
――冬馬さんは身内みたいなものなんだから! あなた達よりよっぽどお兄ちゃんの死を悼んでくれている!
私は唇を噛みながら、こんな人達の言いなりになるものかと、必死で顔を上げて前を見た。
そして、現在。葬儀を終えアパートに戻ってきた私は、ガラス製ローテーブルの横に正座したまま、膝の上で両手の拳を震わせる。
すると、隣に座っていた冬馬さんが私の手を上から包み込んで優しく微笑んだ。
「桜子ちゃん、大丈夫だ」
「えっ?」
私と目が合うと、彼は任せてとでも言うように頷いて立ち上がる。
「皆様、本日は八神大志くんの葬儀に参列いただきまして、誠にありがとうございました。私は大志くんが代表を務めておりました『八神法律事務所』の共同経営者であり弁護士の、日野冬馬と申します。これより大志くんの遺言をお伝えしたいと思います」
――遺言⁉
驚く私を見下ろしてまたふわっと微笑むと、動揺する親戚を尻目に遺言書を読み上げていく。
------------------------------
遺言書
私、八神大志は、次のように遺言する。
第一条、私、八神大志の全財産を、妹の八神桜子に譲ることとする。
第二条、八神桜子の後見人を日野冬馬とし、彼が桜子が相続した全財産を管理することとする。
第三条、八神法律事務所の経営権を、共同経営者である日野冬馬に譲ることとする。
第四条、
この遺言状の執行については、全てを日野冬馬に委託し、親戚を含め、その他の者の一切の口出しを禁ずる。
------------------------------
そこまで読むと、冬馬さんは「この後に不動産登記や株式などについても細かく記されていますが、これはあなた方には必要のない情報だと思います。質問がなければ、どうぞお引き取りください」と頭を下げた。
「なっ、なんだって⁉ その遺言書が本物だって証拠があるのか!」
「はい。大志くんの自筆証書遺言です。彼の署名と日付記載、押印がされています」
そう言うと、文面を叔父達に晒して確認を求める。
「異論があるようでしたら家庭裁判所にでも申し立ててください。こちらは一向に構いません」
「なっ、なんなんだ、貴様はっ! 大体お前に何の権利があって口出ししてるんだ!」
「私は大志くんの親友であり、事務所の共同経営者であり……そして、桜子さんの婚約者でもあります」
――えっ、婚約者⁉
「桜子さんのことは、私が彼女の夫として一生大切にし支えていく所存です。あなた達こそ、私達家族の問題に口を挟まないでいただきたい!」
そう強い口調で告げられた叔父と叔母達の矛先は、私に向かう。
「桜子、婚約って本当なの⁉」
「桜子、お前、騙されてるんじゃないのか?」
「こんな男に財産を管理させたら、いいように使われてしまうぞ!」
――なんなの、この人達は。お兄ちゃんの死を弔うどころか……
多重放送のように一斉に喚かれて、私の中の何かがプツリと切れた。
「……お引き取りください」
「はあ? 桜子、お前……」
私はスッと立ち上がり、冬馬さんの隣に寄り添う。
「冬馬さんが言った通りです。彼は私の婚約者で、夫になる人です。今後のことは彼が全てやってくれますので、心配はご無用です。どうぞ安心してお引き取りください」
私の言葉を引き継いで、冬馬さんが私の肩をグイッと抱き寄せる。
「その通りだ。さあ、今すぐ出ていってくれ!」
鋭い視線で彼に一蹴され、叔父達は苦虫を噛み潰したような顔で退散する。後には、私と冬馬さんだけが残された。
私はへなへなっと床にヘタり込むと、ガラステーブルに両腕をつく。その横に冬馬さんが座り、顔を覗き込んできた。
大きな手が、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
「桜子ちゃん、大丈夫かい? あんな大声でいろいろ言われて怖かっただろう」
「いえ、冬馬さんのお陰で助かりました。私ったら遺言書のこととか、何も知らなくて……」
「ああ、大志が自分の病名を知った直後にしたためたんだ。自分の死後、君が困ることのないよう、全ては桜子ちゃんのために……」
「そうだったんですか……。冬馬さんがいなければ、さっきもどうなっていたことか」
あの叔父達には、両親の葬儀の時も大騒ぎして場を乱した過去がある。
――確かあの時も、冬馬さんが助けてくれたんだった……
「ふふっ、それにしても……婚約者だなんて、上手い嘘をつきましたね。あの時の叔父達の顔ったら……」
「嘘じゃないよ」
「えっ?」
冬馬さんの言葉に笑みを引っ込めて見つめると、彼は真剣な表情でハッキリと告げた。
「婚約というのは嘘だけど、俺が君の夫として一生支えていくというのは本当だ。これも大志の遺言、アイツが最後に俺に遺した言葉だ。……桜子ちゃん、俺と結婚しよう。いいね?」
突然すぎて、何がなんだか分からない。
だけど、今日聞いた言葉の中でこの部分だけは、スッと頭に入ってきた。
『冬馬さんと私が結婚する』
断るはずがない。
だって私は……ずっと冬馬さんのことを好きだったんだから。
「……はい、よろしくお願いします」
彼のギリシャ彫刻のように整った顔を見つめながら、私はまるで魔法にでもかかったみたいにスルリとそう答えていた。
私の母と八神の父が再婚したのは、私が六歳の春、もうすぐ小学校に上がるという時だった。
初めて八神家に行ったのが、その前の年のクリスマス。だだっ広いリビングルームに天井までの高さのクリスマスツリーが飾ってあったのを覚えている。
色とりどりの電球がチカチカと点滅し、てっぺんにはお星様が飾ってあって……
いつか絵本で見たような光景だったから、自分が夢の国に迷い込んだのかと思った。
私は幼かったからあまり記憶にないけれど、私の実の父親はアルコール依存症で、たまに働きに行ってはクビになって、家でお酒を飲んでは暴れる……ということを繰り返していたらしい。母がパートと内職をして家計を支えていたものの、それはすぐに酒代に消えた。
母がどうしてそんな人と結婚したのかは知らない。
だけど、そのうち私にも手をあげるようになった父親に危機感を持った母は、『法テラス』という法的支援事務所の無料相談を利用して、父親との離婚を決めた。
その時にお世話になった弁護士さんが、後に母の再婚相手となった義父である八神だ。
義父には当時中学二年生の一人息子がいた。奥さんは息子さんが三歳の時に、病気で亡くなったという。
これから受験に差し掛かる、思春期の難しい時期。再婚なんて反対しそうなものなのに、クリスマスの日に初めて会った義兄――大志は、私の手を引いてクリスマスツリーの前まで連れていき、プレゼントの箱を手渡しながらこう言った。
「これは俺とお父さんからのプレゼントだよ。あっちの箱はサンタさんから。今年は俺が飾り付けをしちゃったけど、来年は一緒にツリーを飾ろうね」
王子様みたいな甘い笑顔で言われたその時から、大志お義兄ちゃんは私の優しい兄になり、八神家が私の居場所になった。
そして、両親が入籍したのは翌年の春。
兄は、「俺は母親の記憶がないから、お母さんと可愛い妹ができて嬉しいよ」――そう言ってニッコリ笑った。
そんな兄の友人である冬馬さんが初めて我が家に遊びに来たのは、私が小五で彼が大学一年の夏。
彼は兄の同級生で、二人は共に弁護士を目指して大学の法学部で学んでいた。
冬馬さんは母子家庭で育ち、そのお母様が過労で亡くなられてからは、お祖母様と二人で生活されていたそうだ。高校を出たら働くつもりだった冬馬さんに、お祖母様は、『絶対に大学に行って、何か資格を取りなさい。一人でも生きていける力を身につけなさい』と何度も繰り返し説いたと聞いている。その結果、彼は弁護士になろうと決めたという。
「母が過労で倒れた時に、仕事先の工場では何の補償もされなかったんだ。それが弁護士を目指すきっかけの一つになったのかもしれないな」
我が家で夕食を食べながら、冬馬さんがそう話していたのを覚えている。
冬馬さんは、お母様の生命保険やお祖母様の年金と貯金もあって生活に困窮することはなかったものの、お祖母様に負担を掛けたくないと高校時代にアルバイトをして進学費用を貯め、奨学金も得て無事に大学に入学したそうだ。入学式では入学生総代として挨拶も務めている。
でもその年の春、冬馬さんが大学に入学してすぐにお祖母様が亡くなり、彼は広すぎる家を引き払ってアパートで一人暮らしをしていた。
「だから俺は、こういう家族団欒に憧れてるんですよ」
そう言ってご飯をお代わりする冬馬さんを両親も気に入り、本当の息子のように可愛がった。
我が家から大学が近いこともあって、彼が家に夕飯を食べに来ては泊まっていくというのがお約束のパターンになる。
冬馬さんは私の初恋相手だ。
ハッキリ言って一目惚れだった。
彼と最初に会った日のことを、今でもよく覚えている。当時、小学五年生だった私がLDKのダイニングテーブルで席についていると、廊下から聞きなれた声がする。
――お兄ちゃんだ!
「お帰りなさい!」
大好きな兄の帰宅に喜んで振り向くと、兄の後ろに見知らぬ男の人が立っていた。
身長百七十八センチの兄よりも頭のてっぺんが飛び出している。百八十二、三センチはあるだろう。
その高身長の男の人が「こんばんは、お邪魔します」と挨拶し、母がキッチンから「いらっしゃい」と応じていた。
――お母さん、お客さんが来るって知ってたのなら、言っておいてくれれば良かったのに!
私はダボッとした白い長袖Tシャツにジーンズというラフな格好が恥ずかしくて仕方がなかった。
だって、目の前に現れたのは、くっきりした二重瞼の猫みたいな目に、長い睫毛をバサバサさせている綺麗な男の人。しかも私と同じようなジーンズに白Tシャツなのに、雑誌を抜け出したモデルみたいにサマになっていて……
「初めまして、桜子ちゃんだよね。大志にいつも聞かされてるよ、『俺の妹は世界一可愛い』って」
――なっ、なんてことを!
こんなカッコいい人に向かって兄馬鹿ぶりを発揮していたとは……
お兄ちゃんフィルターが掛かれば、平凡な私でも『絶世の美少女』になってしまうから困る。
「……いつもは座敷童子って言うくせに」
ボソッと呟くと、兄がハハッと笑って、「なっ、冬馬。俺の妹は座敷童子みたいで可愛いだろ」と臆面もなく言い放った。
当時の私は今のようなロングヘアーではなく、真っ直ぐな髪を肩で切り揃えていた。そこに白い肌と切れ長の目も相まって子供の妖怪に見えたらしい。
それを可愛いと言われても、ちょっと微妙だ。兄に話を聞いて『世界一可愛い子』を期待していたであろう冬馬さんに申し訳ない。項垂れていると、目の前にニュッと右手が差し出された。
――えっ?
「噂通り本当に可愛い子だった。よろしくね、桜子ちゃん」
チョロいと言われても仕方がない。
だけど、あんな風に柔らかく微笑まれて、甘い声で名前を呼ばれて……小五のいたいけなハートが鷲掴みにされないわけがない。
大きくてちょっと冷んやりした右手をそっと握ると、ギュッと力強く握り返されて、私の心臓がドクンと鳴った。
それから私は、ずっと冬馬さんに片想いをしたままだ。
兄と冬馬さんは性格が正反対なのに、ひどくウマが合って常に行動を共にしていた。
兄は天真爛漫というか、明るくて人懐っこく、誰とでもすぐ打ち解けてしまう社交的な人だった。そして、思いついたら即行動の猪突猛進型。
対して冬馬さんは、どちらかと言えば口数が少なくて、一歩引いたところで周囲のことをじっくり見ながら的確なアドバイスをくれる、慎重な頭脳派。自分から積極的に話しかけていくタイプではないけれど、一旦打ち解ければ面倒見が良くて、人の話を黙って聞いていてくれるような人だ。
あの頃、我が家にはしょっちゅう兄のゼミ仲間が集まって、リビングのガラステーブルの周りを陣取っては、勉強会や飲み会をしていた。
いつも輪の中心になって盛り上げているのは兄の大志で、冬馬さんはその隣でニコニコして話を聞いている。
髪の色を少し明るめにしていた兄と漆黒の髪の冬馬さんは、見かけの対比も相まって、皆に『二人は太陽と月だな』なんて言われていた。
兄達の勉強会がある日は、私は自分の部屋には行かずダイニングルームに残る。
大好きな兄と冬馬さんに近寄りたいけれど、知らない男の人や大人っぽいお姉さん達に気後れして、ちょっと離れたダイニングテーブルで頬杖をつき、その様子を眺めたものだ。
いつも兄がそれに気づいて、『桜子、こっちにおいで』と手招きしてくれて、『桜子ちゃん、俺の隣に座ってな』と冬馬さんがニッコリ微笑みながら少し場所をズレてくれる。
私は兄と冬馬さんに挟まれて座り、よく分かりもしないのに、民法とか法令の議論や模擬裁判の練習を見ているのが好きだった。
そのくせ私は昔から、男の人の大声や怒鳴り声が苦手だったため、議論が白熱しすぎて、誰かが『それは違うだろっ⁉』なんて声を張り上げると、首をビクッと竦めて固まってしまう。
そんな時は、何も言わずとも兄がすかさず肩を抱いてゆっくり摩ってくれて、冬馬さんがポンポンと頭を撫でてくれた。私は二人に触れられたところからゆっくり温まって解れ、漸く身体の力を抜くことができたのだ。
そうやって優しくされるのが嬉しくて、まるでお姫様にでもなれたような気がして胸がときめいて……ほんのちょっとの優越感を覚えていた。
そして二人から特別扱いされている私へは、綺麗なお姉さん達から羨望の眼差しが向けられる。
我が家に来るお姉さん達は、あからさまに敵対心を向けてくる人と、私を懐柔しようとする人の二パターンに分かれていた。
「あら、大志ってまさかシスコンなの?」
敵対心を向けてくるタイプのお姉さんが皮肉げに言うと、兄はニカッと白い歯を見せて、「そうなんだ、俺って妹に夢中だからさ、皆、俺の桜子に手を出さないでね」なんてあっけらかんと答える。
「えっ、俺ならいいだろう?」
「お前が一番駄目! モテすぎるから絶対に桜子を泣かせる」
冬馬さんと二人で悪ノリして、あっという間にその場を和ませてしまうのだった。
そんな風に、大好きな兄の放つ明るい太陽の光と、初恋の人のくれる穏やかな月明かりに照らされて、その頃の私は何不自由なく幸福な少女時代を過ごせていた。
今思えばこの頃が、一番穏やかで楽しい時間だったのだと思う。
――太陽と月……
お日様のように輝く笑顔で皆を楽しくさせる兄と、蒼黒の空に浮かんで静かに優しく皆を見守っている月のような冬馬さん。
私は今でも昼に夜に空を見上げるたび、二人の顔を思い浮かべる。
両親が亡くなったのは、雪が散らついていた年の暮れ。私が二十歳、兄が二十八歳の時だ。
父が担当していた案件の資料を揃えるために一泊二日で遠出することになり、せっかくだからと観光も兼ねて母を連れて出掛けた帰り道。居眠り運転の三トントラックとの正面衝突で、二人共即死だったという。
葬儀の場は、私にとっては針のむしろだった。
「あんなバツイチの変な女に引っ掛かるから……」
「おおかた旅行に連れていけとでもせがまれたんだろう」
「あの子、どうするの? 大志くんとは血の繋がりがないし、この先邪魔になるんじゃない?」
こちらに聞こえるように交わされる会話に、私は黙って俯くのが精一杯で……隣に立っていた兄が、そんな私の手をギュッと強く握り、おもむろに口を開いた。
「他人が好き勝手言ってんじゃねえよ!」
喪主が発した突然の暴言に、その場が一瞬で静まり返り、そしてザワつく。
「大志くん、葬儀の場でなんてこと言うの⁉」
「俺達はお前の父親の弟妹だぞ! 他人とは失礼な!」
顔を赤くして激昂している叔父達に向かって、兄はさらに言葉を続ける。
「父からは生前、あんた達の事業の失敗の尻拭いや借金の肩代わりをさせられた苦労話を散々聞かされていたんだ! 俺は父親から、お前達とは絶対に関わるなって言われてるんだよ! ハイエナみたいに金の匂いがする時だけ寄ってくるんじゃねえよ!」
叔父達はますます顔を真っ赤にして「なんだ、失礼な!」とか、「躾がなってない!」とかブツブツ言い始める。
「桜子は俺の大事な妹で、唯一の家族だ! 俺はこいつを手放す気はないし、これからも全力で守る。一応は父の弟妹だと思って連絡したけれど、故人の家族を侮辱するような奴に見送ってほしくなんかない。今すぐ出てってくれ!」
親戚が尚もギャーギャー騒いでいたその時、椅子に座っていた冬馬さんがスッと出てきて彼らに名刺を差し出した。
「私は『あさひ法律事務所』の日野と申します。あなた達の行為は葬儀の妨害にあたり、刑法第百八十八条で、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処されます。今すぐ出ていかないようでしたら警察を呼びますよ」
そう言ってスマホの電話画面を目の前にかざすと、叔父達は慌てて帰った。
「冬馬さん……ありがとうございます」
私が深々と頭を下げると、冬馬さんは「辛かったね。君は正真正銘、八神ご夫妻が愛した大切な娘さんだ。堂々としていればいい」と、私の肩を優しく抱いてくれた。
「君は一人じゃない。大志がいるし、俺だって……俺にも頼ってほしい」
「はい」
肩に触れた手から、その言葉から、彼の優しさが全身に染み渡って……だから私は、両親の死を悲しみながらも、寂しさに打ちひしがれることなく、前を向くことができたんだと思う。
当時私は大学二年生で、英文学科で英語学について学んでいた。
将来は父や兄のもとで秘書として働きたいと思っていたので、そのために英語ができたほうがいいと考えたからだ。
兄が働いていた法律事務所が大手企業の海外部門も扱っていたので、兄が一人前になって父の事務所を継いだ後には、国際的な案件も引き受けるようになると見込んでのことだった。
だけどそうなる前に兄は勤務先を退職、急遽父の遺した弁護士事務所を引き継ぐ。できるなら、働いていた大手の事務所でもっと経験を積みたかったに違いない。二十代の若さでいきなり事務所を背負わされたプレッシャーは相当なものだったと思う。
弁護士という職業は、若いとなかなか信用してもらえない。
兄は私には何も言わなかったけれど、一時は事務所の経営も厳しかったのだろう。私達は家族で住んでいた家を売り払って、アパートで暮らし始めた。
「私、大学を辞めて働こうかな……」
そう言った私を、兄は鬼のような形相で叱りつけた。
「フザけんな! お前が大学を辞めたら、俺は父さんにも母さんにも顔向けできないよ! いいか? 父さんと母さんは俺達のために多額の貯金と保険金を遺していってくれたんだ。二人に恩返ししようと思うなら、そのお金で教養を身につけて、立派な社会人になれ。大学はそのための場だ! お前は何も心配せずに、とにかく学べ!」
その言葉にポロポロ涙を零しながら頷いた私は、沢山学んで、いつか絶対に兄の役に立とうと決めた。
兄の言葉を受けてからは、兄の右腕となって働くことが私の夢であり目標となる。
一方、驚いたことに、他の事務所で働いていた冬馬さんが兄の事務所に移ってきてくれた。
そして私も学生生活の傍ら、時間があれば事務所に寄ってお手伝いをするようになる。
事務所に所属していた弁護士さんが父の死をきっかけに独立し、パラリーガルも彼について出ていったため、兄と冬馬さんの二人だけで事務所の全てをこなさなくてはならなかったのだ。
兄は「こっちは大丈夫だから桜子は学業を優先させろ」と言ってくれたけど、家で食事を摂る間も惜しんで書斎に籠っているのを見ると、じっとしてはいられなかった。
『八神法律事務所』は都心の八階建ビルの四階に入っていて、私の通っていた大学とアパートのちょうど真ん中の位置にあったことも幸いした。
朝一番で事務所に行くと、窓を全開にして空気の入れ替えをする。窓とデスクを拭いてゴミ箱のゴミを集め、コピー機の電源を入れる。ここまでが私のルーティンワークで、後はその時によって、クライアントへのお茶出しをしたり、電話番をしたり。
ドアを静かに開けて部屋に入ってきた夫が、ベッドの上に正座している私を見つけて足を止めた。
そのギョッとした表情から、彼が困惑していることがありありと伝わってくる。
それはそうだろう。
これは彼にとって、親友の遺言に従っただけの愛のない結婚。
だけど私は……
私はベッドの上で三つ指をついてゆっくりと頭を下げた。
「冬馬さん……どうか私を、本当のあなたの妻にしてください」
――どうか私を……抱いてください。
これはそんな風に始まった私達が、本当の夫婦になるまでの物語。
1 兄の遺言
兄、八神大志の葬儀が終わった直後の親族会議は酷い有様だった。
こちらは特に話すこともないのに、『今後の話し合いをしたい』とアパートまで押しかけてきた父方の叔父と叔母夫婦が、リビングのソファーを陣取っている。
「桜子だけじゃ、どうしようもないだろう?」
「大志くんがいないんじゃ事務所も潰すしかない。処分はどうするんだ?」
「桜子ちゃんはまだ若いし、財産の管理は任せてもらえないか?」
身内に不幸があると、ずっと疎遠だった親戚がここぞとばかりに擦り寄ってくるというのはよく聞く話。けれど、実際目の当たりにすると、あからさますぎて吐き気がした。
私、八神桜子は、二十四歳の誕生日の翌日に、たった一人の身内である兄を亡くした。
両親を事故で亡くしてからは親代わりとなって私の面倒を見てくれていた、八歳上の義理の兄。私は彼のことが大好きだった。
兄が生前に言っていた言葉を思い出す。
『俺達に頼れる親戚はいない。アイツらは父さん達の再婚にも文句をつけた挙句、さんざん借金を頼んできたから、付き合いを絶ってるんだ。絶対に信用しちゃいけないよ』
だから彼らに葬儀に参列してもらうつもりはなかったのに、兄の死の報告をしたら親族代表として出しゃばってきた。
葬儀中、この人達が聞こえよがしにぶつけてきた心ない会話は忘れられない。
『あの母娘が来てから不幸続き』
『血の繋がりもない子が全財産を丸儲け』
同時に、私の隣に立っていた男性、冬馬さんへの風当たりも強かった。
『アイツは一体何者なんだ』と言わんばかりの露骨な視線を向けていたのだ。
――冬馬さんは身内みたいなものなんだから! あなた達よりよっぽどお兄ちゃんの死を悼んでくれている!
私は唇を噛みながら、こんな人達の言いなりになるものかと、必死で顔を上げて前を見た。
そして、現在。葬儀を終えアパートに戻ってきた私は、ガラス製ローテーブルの横に正座したまま、膝の上で両手の拳を震わせる。
すると、隣に座っていた冬馬さんが私の手を上から包み込んで優しく微笑んだ。
「桜子ちゃん、大丈夫だ」
「えっ?」
私と目が合うと、彼は任せてとでも言うように頷いて立ち上がる。
「皆様、本日は八神大志くんの葬儀に参列いただきまして、誠にありがとうございました。私は大志くんが代表を務めておりました『八神法律事務所』の共同経営者であり弁護士の、日野冬馬と申します。これより大志くんの遺言をお伝えしたいと思います」
――遺言⁉
驚く私を見下ろしてまたふわっと微笑むと、動揺する親戚を尻目に遺言書を読み上げていく。
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遺言書
私、八神大志は、次のように遺言する。
第一条、私、八神大志の全財産を、妹の八神桜子に譲ることとする。
第二条、八神桜子の後見人を日野冬馬とし、彼が桜子が相続した全財産を管理することとする。
第三条、八神法律事務所の経営権を、共同経営者である日野冬馬に譲ることとする。
第四条、
この遺言状の執行については、全てを日野冬馬に委託し、親戚を含め、その他の者の一切の口出しを禁ずる。
------------------------------
そこまで読むと、冬馬さんは「この後に不動産登記や株式などについても細かく記されていますが、これはあなた方には必要のない情報だと思います。質問がなければ、どうぞお引き取りください」と頭を下げた。
「なっ、なんだって⁉ その遺言書が本物だって証拠があるのか!」
「はい。大志くんの自筆証書遺言です。彼の署名と日付記載、押印がされています」
そう言うと、文面を叔父達に晒して確認を求める。
「異論があるようでしたら家庭裁判所にでも申し立ててください。こちらは一向に構いません」
「なっ、なんなんだ、貴様はっ! 大体お前に何の権利があって口出ししてるんだ!」
「私は大志くんの親友であり、事務所の共同経営者であり……そして、桜子さんの婚約者でもあります」
――えっ、婚約者⁉
「桜子さんのことは、私が彼女の夫として一生大切にし支えていく所存です。あなた達こそ、私達家族の問題に口を挟まないでいただきたい!」
そう強い口調で告げられた叔父と叔母達の矛先は、私に向かう。
「桜子、婚約って本当なの⁉」
「桜子、お前、騙されてるんじゃないのか?」
「こんな男に財産を管理させたら、いいように使われてしまうぞ!」
――なんなの、この人達は。お兄ちゃんの死を弔うどころか……
多重放送のように一斉に喚かれて、私の中の何かがプツリと切れた。
「……お引き取りください」
「はあ? 桜子、お前……」
私はスッと立ち上がり、冬馬さんの隣に寄り添う。
「冬馬さんが言った通りです。彼は私の婚約者で、夫になる人です。今後のことは彼が全てやってくれますので、心配はご無用です。どうぞ安心してお引き取りください」
私の言葉を引き継いで、冬馬さんが私の肩をグイッと抱き寄せる。
「その通りだ。さあ、今すぐ出ていってくれ!」
鋭い視線で彼に一蹴され、叔父達は苦虫を噛み潰したような顔で退散する。後には、私と冬馬さんだけが残された。
私はへなへなっと床にヘタり込むと、ガラステーブルに両腕をつく。その横に冬馬さんが座り、顔を覗き込んできた。
大きな手が、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
「桜子ちゃん、大丈夫かい? あんな大声でいろいろ言われて怖かっただろう」
「いえ、冬馬さんのお陰で助かりました。私ったら遺言書のこととか、何も知らなくて……」
「ああ、大志が自分の病名を知った直後にしたためたんだ。自分の死後、君が困ることのないよう、全ては桜子ちゃんのために……」
「そうだったんですか……。冬馬さんがいなければ、さっきもどうなっていたことか」
あの叔父達には、両親の葬儀の時も大騒ぎして場を乱した過去がある。
――確かあの時も、冬馬さんが助けてくれたんだった……
「ふふっ、それにしても……婚約者だなんて、上手い嘘をつきましたね。あの時の叔父達の顔ったら……」
「嘘じゃないよ」
「えっ?」
冬馬さんの言葉に笑みを引っ込めて見つめると、彼は真剣な表情でハッキリと告げた。
「婚約というのは嘘だけど、俺が君の夫として一生支えていくというのは本当だ。これも大志の遺言、アイツが最後に俺に遺した言葉だ。……桜子ちゃん、俺と結婚しよう。いいね?」
突然すぎて、何がなんだか分からない。
だけど、今日聞いた言葉の中でこの部分だけは、スッと頭に入ってきた。
『冬馬さんと私が結婚する』
断るはずがない。
だって私は……ずっと冬馬さんのことを好きだったんだから。
「……はい、よろしくお願いします」
彼のギリシャ彫刻のように整った顔を見つめながら、私はまるで魔法にでもかかったみたいにスルリとそう答えていた。
私の母と八神の父が再婚したのは、私が六歳の春、もうすぐ小学校に上がるという時だった。
初めて八神家に行ったのが、その前の年のクリスマス。だだっ広いリビングルームに天井までの高さのクリスマスツリーが飾ってあったのを覚えている。
色とりどりの電球がチカチカと点滅し、てっぺんにはお星様が飾ってあって……
いつか絵本で見たような光景だったから、自分が夢の国に迷い込んだのかと思った。
私は幼かったからあまり記憶にないけれど、私の実の父親はアルコール依存症で、たまに働きに行ってはクビになって、家でお酒を飲んでは暴れる……ということを繰り返していたらしい。母がパートと内職をして家計を支えていたものの、それはすぐに酒代に消えた。
母がどうしてそんな人と結婚したのかは知らない。
だけど、そのうち私にも手をあげるようになった父親に危機感を持った母は、『法テラス』という法的支援事務所の無料相談を利用して、父親との離婚を決めた。
その時にお世話になった弁護士さんが、後に母の再婚相手となった義父である八神だ。
義父には当時中学二年生の一人息子がいた。奥さんは息子さんが三歳の時に、病気で亡くなったという。
これから受験に差し掛かる、思春期の難しい時期。再婚なんて反対しそうなものなのに、クリスマスの日に初めて会った義兄――大志は、私の手を引いてクリスマスツリーの前まで連れていき、プレゼントの箱を手渡しながらこう言った。
「これは俺とお父さんからのプレゼントだよ。あっちの箱はサンタさんから。今年は俺が飾り付けをしちゃったけど、来年は一緒にツリーを飾ろうね」
王子様みたいな甘い笑顔で言われたその時から、大志お義兄ちゃんは私の優しい兄になり、八神家が私の居場所になった。
そして、両親が入籍したのは翌年の春。
兄は、「俺は母親の記憶がないから、お母さんと可愛い妹ができて嬉しいよ」――そう言ってニッコリ笑った。
そんな兄の友人である冬馬さんが初めて我が家に遊びに来たのは、私が小五で彼が大学一年の夏。
彼は兄の同級生で、二人は共に弁護士を目指して大学の法学部で学んでいた。
冬馬さんは母子家庭で育ち、そのお母様が過労で亡くなられてからは、お祖母様と二人で生活されていたそうだ。高校を出たら働くつもりだった冬馬さんに、お祖母様は、『絶対に大学に行って、何か資格を取りなさい。一人でも生きていける力を身につけなさい』と何度も繰り返し説いたと聞いている。その結果、彼は弁護士になろうと決めたという。
「母が過労で倒れた時に、仕事先の工場では何の補償もされなかったんだ。それが弁護士を目指すきっかけの一つになったのかもしれないな」
我が家で夕食を食べながら、冬馬さんがそう話していたのを覚えている。
冬馬さんは、お母様の生命保険やお祖母様の年金と貯金もあって生活に困窮することはなかったものの、お祖母様に負担を掛けたくないと高校時代にアルバイトをして進学費用を貯め、奨学金も得て無事に大学に入学したそうだ。入学式では入学生総代として挨拶も務めている。
でもその年の春、冬馬さんが大学に入学してすぐにお祖母様が亡くなり、彼は広すぎる家を引き払ってアパートで一人暮らしをしていた。
「だから俺は、こういう家族団欒に憧れてるんですよ」
そう言ってご飯をお代わりする冬馬さんを両親も気に入り、本当の息子のように可愛がった。
我が家から大学が近いこともあって、彼が家に夕飯を食べに来ては泊まっていくというのがお約束のパターンになる。
冬馬さんは私の初恋相手だ。
ハッキリ言って一目惚れだった。
彼と最初に会った日のことを、今でもよく覚えている。当時、小学五年生だった私がLDKのダイニングテーブルで席についていると、廊下から聞きなれた声がする。
――お兄ちゃんだ!
「お帰りなさい!」
大好きな兄の帰宅に喜んで振り向くと、兄の後ろに見知らぬ男の人が立っていた。
身長百七十八センチの兄よりも頭のてっぺんが飛び出している。百八十二、三センチはあるだろう。
その高身長の男の人が「こんばんは、お邪魔します」と挨拶し、母がキッチンから「いらっしゃい」と応じていた。
――お母さん、お客さんが来るって知ってたのなら、言っておいてくれれば良かったのに!
私はダボッとした白い長袖Tシャツにジーンズというラフな格好が恥ずかしくて仕方がなかった。
だって、目の前に現れたのは、くっきりした二重瞼の猫みたいな目に、長い睫毛をバサバサさせている綺麗な男の人。しかも私と同じようなジーンズに白Tシャツなのに、雑誌を抜け出したモデルみたいにサマになっていて……
「初めまして、桜子ちゃんだよね。大志にいつも聞かされてるよ、『俺の妹は世界一可愛い』って」
――なっ、なんてことを!
こんなカッコいい人に向かって兄馬鹿ぶりを発揮していたとは……
お兄ちゃんフィルターが掛かれば、平凡な私でも『絶世の美少女』になってしまうから困る。
「……いつもは座敷童子って言うくせに」
ボソッと呟くと、兄がハハッと笑って、「なっ、冬馬。俺の妹は座敷童子みたいで可愛いだろ」と臆面もなく言い放った。
当時の私は今のようなロングヘアーではなく、真っ直ぐな髪を肩で切り揃えていた。そこに白い肌と切れ長の目も相まって子供の妖怪に見えたらしい。
それを可愛いと言われても、ちょっと微妙だ。兄に話を聞いて『世界一可愛い子』を期待していたであろう冬馬さんに申し訳ない。項垂れていると、目の前にニュッと右手が差し出された。
――えっ?
「噂通り本当に可愛い子だった。よろしくね、桜子ちゃん」
チョロいと言われても仕方がない。
だけど、あんな風に柔らかく微笑まれて、甘い声で名前を呼ばれて……小五のいたいけなハートが鷲掴みにされないわけがない。
大きくてちょっと冷んやりした右手をそっと握ると、ギュッと力強く握り返されて、私の心臓がドクンと鳴った。
それから私は、ずっと冬馬さんに片想いをしたままだ。
兄と冬馬さんは性格が正反対なのに、ひどくウマが合って常に行動を共にしていた。
兄は天真爛漫というか、明るくて人懐っこく、誰とでもすぐ打ち解けてしまう社交的な人だった。そして、思いついたら即行動の猪突猛進型。
対して冬馬さんは、どちらかと言えば口数が少なくて、一歩引いたところで周囲のことをじっくり見ながら的確なアドバイスをくれる、慎重な頭脳派。自分から積極的に話しかけていくタイプではないけれど、一旦打ち解ければ面倒見が良くて、人の話を黙って聞いていてくれるような人だ。
あの頃、我が家にはしょっちゅう兄のゼミ仲間が集まって、リビングのガラステーブルの周りを陣取っては、勉強会や飲み会をしていた。
いつも輪の中心になって盛り上げているのは兄の大志で、冬馬さんはその隣でニコニコして話を聞いている。
髪の色を少し明るめにしていた兄と漆黒の髪の冬馬さんは、見かけの対比も相まって、皆に『二人は太陽と月だな』なんて言われていた。
兄達の勉強会がある日は、私は自分の部屋には行かずダイニングルームに残る。
大好きな兄と冬馬さんに近寄りたいけれど、知らない男の人や大人っぽいお姉さん達に気後れして、ちょっと離れたダイニングテーブルで頬杖をつき、その様子を眺めたものだ。
いつも兄がそれに気づいて、『桜子、こっちにおいで』と手招きしてくれて、『桜子ちゃん、俺の隣に座ってな』と冬馬さんがニッコリ微笑みながら少し場所をズレてくれる。
私は兄と冬馬さんに挟まれて座り、よく分かりもしないのに、民法とか法令の議論や模擬裁判の練習を見ているのが好きだった。
そのくせ私は昔から、男の人の大声や怒鳴り声が苦手だったため、議論が白熱しすぎて、誰かが『それは違うだろっ⁉』なんて声を張り上げると、首をビクッと竦めて固まってしまう。
そんな時は、何も言わずとも兄がすかさず肩を抱いてゆっくり摩ってくれて、冬馬さんがポンポンと頭を撫でてくれた。私は二人に触れられたところからゆっくり温まって解れ、漸く身体の力を抜くことができたのだ。
そうやって優しくされるのが嬉しくて、まるでお姫様にでもなれたような気がして胸がときめいて……ほんのちょっとの優越感を覚えていた。
そして二人から特別扱いされている私へは、綺麗なお姉さん達から羨望の眼差しが向けられる。
我が家に来るお姉さん達は、あからさまに敵対心を向けてくる人と、私を懐柔しようとする人の二パターンに分かれていた。
「あら、大志ってまさかシスコンなの?」
敵対心を向けてくるタイプのお姉さんが皮肉げに言うと、兄はニカッと白い歯を見せて、「そうなんだ、俺って妹に夢中だからさ、皆、俺の桜子に手を出さないでね」なんてあっけらかんと答える。
「えっ、俺ならいいだろう?」
「お前が一番駄目! モテすぎるから絶対に桜子を泣かせる」
冬馬さんと二人で悪ノリして、あっという間にその場を和ませてしまうのだった。
そんな風に、大好きな兄の放つ明るい太陽の光と、初恋の人のくれる穏やかな月明かりに照らされて、その頃の私は何不自由なく幸福な少女時代を過ごせていた。
今思えばこの頃が、一番穏やかで楽しい時間だったのだと思う。
――太陽と月……
お日様のように輝く笑顔で皆を楽しくさせる兄と、蒼黒の空に浮かんで静かに優しく皆を見守っている月のような冬馬さん。
私は今でも昼に夜に空を見上げるたび、二人の顔を思い浮かべる。
両親が亡くなったのは、雪が散らついていた年の暮れ。私が二十歳、兄が二十八歳の時だ。
父が担当していた案件の資料を揃えるために一泊二日で遠出することになり、せっかくだからと観光も兼ねて母を連れて出掛けた帰り道。居眠り運転の三トントラックとの正面衝突で、二人共即死だったという。
葬儀の場は、私にとっては針のむしろだった。
「あんなバツイチの変な女に引っ掛かるから……」
「おおかた旅行に連れていけとでもせがまれたんだろう」
「あの子、どうするの? 大志くんとは血の繋がりがないし、この先邪魔になるんじゃない?」
こちらに聞こえるように交わされる会話に、私は黙って俯くのが精一杯で……隣に立っていた兄が、そんな私の手をギュッと強く握り、おもむろに口を開いた。
「他人が好き勝手言ってんじゃねえよ!」
喪主が発した突然の暴言に、その場が一瞬で静まり返り、そしてザワつく。
「大志くん、葬儀の場でなんてこと言うの⁉」
「俺達はお前の父親の弟妹だぞ! 他人とは失礼な!」
顔を赤くして激昂している叔父達に向かって、兄はさらに言葉を続ける。
「父からは生前、あんた達の事業の失敗の尻拭いや借金の肩代わりをさせられた苦労話を散々聞かされていたんだ! 俺は父親から、お前達とは絶対に関わるなって言われてるんだよ! ハイエナみたいに金の匂いがする時だけ寄ってくるんじゃねえよ!」
叔父達はますます顔を真っ赤にして「なんだ、失礼な!」とか、「躾がなってない!」とかブツブツ言い始める。
「桜子は俺の大事な妹で、唯一の家族だ! 俺はこいつを手放す気はないし、これからも全力で守る。一応は父の弟妹だと思って連絡したけれど、故人の家族を侮辱するような奴に見送ってほしくなんかない。今すぐ出てってくれ!」
親戚が尚もギャーギャー騒いでいたその時、椅子に座っていた冬馬さんがスッと出てきて彼らに名刺を差し出した。
「私は『あさひ法律事務所』の日野と申します。あなた達の行為は葬儀の妨害にあたり、刑法第百八十八条で、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処されます。今すぐ出ていかないようでしたら警察を呼びますよ」
そう言ってスマホの電話画面を目の前にかざすと、叔父達は慌てて帰った。
「冬馬さん……ありがとうございます」
私が深々と頭を下げると、冬馬さんは「辛かったね。君は正真正銘、八神ご夫妻が愛した大切な娘さんだ。堂々としていればいい」と、私の肩を優しく抱いてくれた。
「君は一人じゃない。大志がいるし、俺だって……俺にも頼ってほしい」
「はい」
肩に触れた手から、その言葉から、彼の優しさが全身に染み渡って……だから私は、両親の死を悲しみながらも、寂しさに打ちひしがれることなく、前を向くことができたんだと思う。
当時私は大学二年生で、英文学科で英語学について学んでいた。
将来は父や兄のもとで秘書として働きたいと思っていたので、そのために英語ができたほうがいいと考えたからだ。
兄が働いていた法律事務所が大手企業の海外部門も扱っていたので、兄が一人前になって父の事務所を継いだ後には、国際的な案件も引き受けるようになると見込んでのことだった。
だけどそうなる前に兄は勤務先を退職、急遽父の遺した弁護士事務所を引き継ぐ。できるなら、働いていた大手の事務所でもっと経験を積みたかったに違いない。二十代の若さでいきなり事務所を背負わされたプレッシャーは相当なものだったと思う。
弁護士という職業は、若いとなかなか信用してもらえない。
兄は私には何も言わなかったけれど、一時は事務所の経営も厳しかったのだろう。私達は家族で住んでいた家を売り払って、アパートで暮らし始めた。
「私、大学を辞めて働こうかな……」
そう言った私を、兄は鬼のような形相で叱りつけた。
「フザけんな! お前が大学を辞めたら、俺は父さんにも母さんにも顔向けできないよ! いいか? 父さんと母さんは俺達のために多額の貯金と保険金を遺していってくれたんだ。二人に恩返ししようと思うなら、そのお金で教養を身につけて、立派な社会人になれ。大学はそのための場だ! お前は何も心配せずに、とにかく学べ!」
その言葉にポロポロ涙を零しながら頷いた私は、沢山学んで、いつか絶対に兄の役に立とうと決めた。
兄の言葉を受けてからは、兄の右腕となって働くことが私の夢であり目標となる。
一方、驚いたことに、他の事務所で働いていた冬馬さんが兄の事務所に移ってきてくれた。
そして私も学生生活の傍ら、時間があれば事務所に寄ってお手伝いをするようになる。
事務所に所属していた弁護士さんが父の死をきっかけに独立し、パラリーガルも彼について出ていったため、兄と冬馬さんの二人だけで事務所の全てをこなさなくてはならなかったのだ。
兄は「こっちは大丈夫だから桜子は学業を優先させろ」と言ってくれたけど、家で食事を摂る間も惜しんで書斎に籠っているのを見ると、じっとしてはいられなかった。
『八神法律事務所』は都心の八階建ビルの四階に入っていて、私の通っていた大学とアパートのちょうど真ん中の位置にあったことも幸いした。
朝一番で事務所に行くと、窓を全開にして空気の入れ替えをする。窓とデスクを拭いてゴミ箱のゴミを集め、コピー機の電源を入れる。ここまでが私のルーティンワークで、後はその時によって、クライアントへのお茶出しをしたり、電話番をしたり。
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