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13、桜子 (2)

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 兄のボストン旅行最後の夜。
 私たちはソファーに隣り合わせで座って、とりとめもない話をしていた。

 明日には離ればなれになってしまう。
 そう思うと『おやすみなさい』の言葉が口に出せなくて、兄から『もう寝るか』の言葉を聞きたくなくて……私はどうでもいい事をひたすら喋り続けていたような気がする。

 兄はそんな私の心中を察してか、穏やかな笑顔を浮かべてずっと相槌を打ってくれていた。

 無意識のうちに寂しさを誤魔化そうとしていたのだろう。そんなにアルコールに強くもないくせに、私は兄が買ってきてくれた甘口の赤ワインを結構なペースで口にしていた。

 既に病魔に侵されていた兄は、一口もワインを口にしなかった。
 愚かで鈍感だった私はそれさえも気付かずに、自分の寂しさを紛らわすことに必死だった。

 酔いに任せて兄にもたれかかり、甘えた声で明るい2人の未来を語っていたあの時の私を、兄はどんな想いで見つめていたのか……。

 だけど兄は辛そうな表情も悲観する様子も見せることなく、「あまり飲みすぎるなよ」と私の肩を抱き、ぴったりと寄り添ってくれていた。

 そして酔いの回った私は、知らないうちに眠ってしまっていたのだった。



 それは妙にリアルな夢だった。

 夢の中の私は、兄に軽々とお姫様抱っこされて何処かに向かっていた。お花畑を歩いているようにウキウキしていて、雲の上を歩くようにフワフワしている。天国に行こうとしているのかも知れない。

 ゆっくり下ろされたそこは、天国ではなくて寝室のベッドだった。

ーー夢なのにここだけは現実的なのね……。

 少し残念に思いながらも、アルコールで火照った身体に冷たいシーツが心地良くて、そのまま枕に頬を摺り寄せて眠ってしまうことにした。
 夢の中で寝てしまったら、今いるこの夢の世界はどうなるんだろう……まあいいか、とにかく眠ってしまいたい。

 柔らかいブランケットを肩まで掛けられ、子供を寝かしつけるように胸元をポンポンと優しいリズムで叩かれる。

ーー私は小さい子供じゃないのに……。

 そうか、夢の中の私は少女なのね。だからお兄ちゃんが寝かしつけてくれているんだ。

 幼い頃に兄のベッドに潜り込んで眠っていたのを思い出した。
 最初は悪夢が怖かったから。
 だけどそのうちに夢なんか関係なくなって、兄と一緒に寝たいがために「怖い夢を見た」と言ってはベッドに潜り込むようになっていた。

 兄に包まれて眠るのは心地よく、目の前にあるパジャマの胸元をギュッと掴んでしがみつけば、『大丈夫だ』、『兄ちゃんがいるからな』そう魔法の呪文のように、子守唄のように、繰り返し繰り返し囁いてくれる。

 耳元にかかる吐息と柔らかい声に安心して、私は身も心もポカポカになって眠りにつくのだ。



 あの頃はそんな風にして、毎日のように一緒に寝ていたのに。

ーーあれっ、どうして一緒に寝なくなったんだっけ?

 ぼんやりした頭で記憶の糸を手繰り寄せる。

 ああ、そうだ。小学校で友達に、兄と一緒に寝ていると話したら、『そんなの変だ』と言われたんだ。

『普通はお兄ちゃんとなんか寝ないよ』
 そう言われて、自分が当たり前のようにしていたことが、『変なことだ』、『普通じゃないことなんだ』と気付いてショックを受けたんだった。


 記憶の場面は小学校高学年に変わる。兄が高校生、そして大学に入った頃だ。

『ねえ桜子ちゃん、私と大志との時間を邪魔しないでくれるかな』

『桜子ちゃん、あまりお兄ちゃんを困らせちゃダメよ』

『お兄ちゃんベッタリなのもいい加減にしてちょうだい。彼の迷惑も考えてあげなきゃ』

 兄の彼女や家に来ていたゼミ仲間のお姉さんから、兄の目を盗んでは言われてきた言葉。
 いくつものそれらがおりのように重なって、私は自分の感情にストッパーを掛けた。

ーーそうか、私の気持ちはお兄ちゃんの邪魔になるんだ。


 私の気持ち……。

 初めて会ったあの日、王子様のようにキラキラ輝く笑顔にときめいた。
 優しい言葉に胸が暖かくなって、「ああ、この人が好きだなぁ……」と思った。

 兄が大学から帰って来るのが待ち遠しかった。
 沢山女の人がいる中で、私だけ特別扱いしてくれるのが嬉しかった。
 ずっとそばにいたいと思った。


 本当の意味で愛する男性ひとは冬馬さんだけだけど……ある時期まで兄に抱いていた、あのほんわりした淡い感情も、ある意味『恋』と呼ばれるものだったのでははないかと思うのだ。

 だとすれば、私の本当の初恋の相手は兄だったのかも知れない。

 私はお兄ちゃんにとって、ただの可愛い妹。
 兄にはもっと他に相応しい女性ひとがいる。
 絶対に報われない想いだと分かっていたから……自分の中で少しずつ、少しずつ気持ちに折り合いをつけて、『ただの妹』のポジションに徐々に落ち着いて行ったのだと思う。



 そんな風に夢の中で過去の自分を眺めていたら、またしても場面がボストンに切り替わった。


 兄の手がスッとシルクのパジャマの肩を撫で、その心地良さとくすぐったさに思わず「んっ……」と声が出る。
 途端に兄の手が離れて残念に思う自分がいる。

 次は髪を掻き上げている。耳の後ろに掛けて、ついでに首筋をそっと撫でられた。ゾクッとする。
 額にキスされた。驚いたけど嫌じゃない。
 
ーーお兄ちゃん、好きだよ。大好き……。


「桜子……」

 すぐ顔の近くで名前を呼ばれた。

ーーなあに? お兄ちゃん。

 すぐそこに息遣いを感じるのに、それきり黙り込んだまま。

 お兄ちゃん、どうしたの? 私はここにいるよ。何か言って……!

 不意に唇に何かが触れた。指だ。細い指が唇の輪郭をゆっくりとなぞり、存在を確かめるようにフニフニともてあそぶ。

ーーあっ、気持ちいい……もっと触れてほしいな……。

 そう思った次の瞬間……

 唇に柔らかいものが押し当てられて、あっという間に離れていった。
 見てもいないのに、何故だかそれが、兄の唇だと思った。

「………愛してる」

 少し掠れた声で囁かれたその言葉を聞いた時……とてつもない胸の痛みと喜びと満足感が湧き上がって来た。

ーーお兄ちゃん、私もお兄ちゃんが大好きだよ。愛してるよ。ずっと一緒にいたいよ。帰らないで、離れないで。お願いだから、私のそばにいて……。

 だけど夢の中の私がどれだけ口を動かしても言葉にならなくて……唇の熱ともどかしさを感じながら、また深い眠りへと落ちて行ったのだった。




 翌朝は兄の顔を見るのが少し照れくさかった。あんな淫らな夢を見てしまったのは、きっと兄が日本に帰ってしまう寂しさからだったのだろう。
 朝食を食べながら、何度も兄の唇をチラチラと見てしまう。頬が火照っているのに気付かれないといいな……と思った。


 空港でお別れする時は本当に辛かった。
 半年後にはまた会えるのに、もう二度と会えないような気がして心臓が苦しくなった。

 チラリとこちらを見てからゲートを潜り、手を振って消えて行く細い後ろ姿を見送って……両手で顔を覆って号泣した。
 周囲の人には恋人との別れを悲しんでいるように見えていたかも知れない。

 ある意味恋人以上に大切な人。唯一無二の私の家族。

ーーお兄ちゃん、半年後には帰るから。そしたらお兄ちゃんが結婚するまでずっと一緒にいさせてね。

 結局兄は誰とも結婚することは無かったけれど……最期のその瞬間ときまで一緒にいることが出来て、私は幸せだったと思う。


 長い闘病生活、兄は死ぬよりも辛い痛みと苦しみ、絶望や恐怖に耐え続けていた。

 あの時は兄が私の前で精一杯強がっている姿や徐々に弱っていく姿を見ているのが辛かった。
 だけど見ていなくては駄目だと思った。
 この姿から目を逸らしてはならない。兄の息遣いも微笑みも溜め息も全て、逃すことなく目に焼き付けておかなくては。

 兄のことしか考えられなかったし、彼の痛みや苦しみを分かち合いたいと、少しでも引き受けたいと、そればかりを考えていた。


 何度か考えた事がある。
 もしもあの頃、兄が『一緒に逝ってくれ』と言っていたなら……
 私は迷わず兄の手を取り運命を共にすることを選んでいただろう……と。


 今の私には冬馬さんがいる。
 彼をのこして先に逝くなんて考えられないし、一分一秒でも長く一緒にいたいと思うから、そんなことは考えられないけれど……。

 ホスピスにいたあの頃の私が、目の前の2人のうちどちらかを選べと言われたならば……きっと兄の前まで真っ直ぐ進み、彼の細い身体を抱き締めていたのではないかと思うのだ。

ーーこんな事は口が裂けても冬馬さんには言えないけれど……。


 紛れもなく、兄は私の中で特別な存在で、かけがえのない人だった。

 あの日、夢の中で兄と交わした口づけは、これからも不意に私を揺さぶり、ひっそりと官能の火を灯し続けるのだろう。

 ボストンでの一週間と、病室で2人だけで過ごした短くて濃厚な日々は、今でも私の中で、喜びと痛みを伴って息づいている。





*・゜゚・*:.。..。.:*・' .。.:*・・*:.。. .。.:*・゜゚・*

あの夜を回想した前後編。冬馬ファンの方が読まれたら不快に思われるかも知れないな……と思いながら、それでも大志に少しでも報われて欲しくてこうなりました。

こういうのも潜在的浮気になるんでしょうかね?
でも桜子は冬馬を愛しているので許してあげて下さい。

『ボストン旅行記』は次のニューヨークで終了です。やっと甘々の新婚旅行です。
ニューヨークに移動した時点で『ニューヨーク旅行記』になってしまっているのですが(汗)、語呂がいいのでタイトルはボストン旅行記のままでいきます。
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